第17話:黒猫

 白く滑らかな肌。黒い髪。瞳をナイフで抉れば、虫の息だった悲鳴が生き返る。喉にナイフを刺すと、口から血が零れた。


「おいおい、どうしたんだよヒカゲ」


 那由多の怪訝な声がして、ヒカゲは背後を振り返る。薄暗い廃ビルの中で、その金髪と赤いパーカーは目立つ。


「何が?」


 こびりついた血が不快で、手袋を取り換える。


「ここ最近の死体、顔に全部傷がある。どういうことなんだよ? いい加減おかしいだろ」

「……わかんない」


 ヒカゲは死んだ女性を見る。頬は皮を剥がれ、瞳はえぐられ転がっている。生前どれほどの美人であったのか、想像するのが難しい有様だ。


「他人の悲鳴に興奮するお前が、喉を潰すのだっておかしいだろ。声が出なきゃ、悲鳴は上げられない」

「……うるさかったから。耳障りで」


 甲高い叫び声も、野太い悲鳴も、やめてと懇願する泣き声も、全てが途中で煩わしくなる。


「何か、違うんだ。最初は楽しい。でも、途中でうるさくなる。僕が殺したいのはこれじゃないと思うと、うっとおしくなる。声も、顔も。苛立つ」

「はぁ?」

「那由多はわかる? どうして、楽しくないんだろう。足りない。違うんだ、何かが。僕の求めているものじゃない」


 人を殺しても、嬲っても、悲鳴を聞いても、快楽がなかった。興奮があっても瞬きする間に消えてしまう。続かなくてもどかしい。

 ヒカゲはその答えがわからなくて、すがるように那由多を見た。



「知るかよ馬鹿」


 那由多は乱暴に答える。


「どうして……僕は、楽しくないんだ? なんで?」


 天喰がヒカゲの手を逃れ自殺してから――ヒカゲの様子がおかしい。

 端的に言えば落ち込んでいる。

 たかだか美人が一人死んだ程度で、今まで美人の顔を傷つけなかったヒカゲは、美人の顔を傷つけ、今まで悲鳴を上げるための喉を潰さなかったヒカゲが、うるさいとその音を塞ぎ、今まで悲鳴と絶望を堪能するために丁寧に嬲っていたヒカゲが、短時間で人を殺すようになった。

 天喰にヒカゲが入れ込んでいるのは知っていたが、死んだ後も亡霊のように付きまとっている。

 天喰は死してのちも、勝利している。

 すばらしい執念だ、と殴りたい。

 別に那由多としては、顔を傷つけようが、喉を潰そうが、食材が手に入るならそれで構わない。

 だが、無い知恵を絞りだして、人殺しを罪だと忌避していた高校生のヒカゲを、後戻りできない快楽の谷に落として、相棒を手に入れたのだ。人を殺さなくなっては困る。

 それはそれとして、ヒカゲが楽しくない理由を教えてやるのは癪だ。

 自分より頭のいい人間が、自分の感情を理解できずに右往左往しているのは滑稽だなと嘲笑する。


「オレは食材を小分けにするから、どっかその辺で暇でも潰してろ」

「ちょっと! 僕の疑問には答えないのか」

「知らねぇよバーカ。つーか殺す頻度を考えろ!」


 天喰を監禁していた時は、食材をヒカゲ好みではない男四人程度の死体しか寄越さなかったのに、天喰が死んでからは殺害の頻度が以前よりも高い。

 食べきれない食料は、職場の調理に混ぜて提供するから問題はないが、それはそれだ。

 冷凍保存しやすいよう、普段以上に小分けに食材を分解し終えると周囲にヒカゲの姿が見当たらない。

 あたりを見渡すと暗がりの隅っこで、闇に埋もれるように蹲って何かをしていた。

 天喰のことを思い出して悲嘆しているのかと思ったが、手を動かして何かを撫でているようだと近づく。


「おい、ヒカゲ。何してんだよ」

「猫がいた」

「猫? こんな場所にいるってことは野良猫か?」

「うん。野良猫」


 近づいて野良猫を見ようとしたが、ヒカゲが野良猫を抱きかかえて那由多に見せたくないとばかりに守る。

 ヒカゲに埋もれるほど、真っ黒な猫なことだけは隙間から判明した。


「いや、オレ、猫を食う趣味はねぇよ」

「ひっかいたら殴りそう」

「動物相手で殴ることはねぇよ」

「那由多の言葉は信用できないな」

「うるせぇ。お前だって野良猫そんな抱きしめてたらひっかかれても知らないぞ」

「この猫になら猫ひっかき病になっても許すさ」

「は?」

「僕が飼うことにした」

「へ?」

「見て、この猫」


 ヒカゲが猫を抱きながらその瞳を見せた。


虹彩異色症ヘテロクロミアだ。大切にしなきゃ」


 黒猫は、片方が青、片方が黄色で異なる瞳を持っていた。


「……オッドアイは珍しいな……いや、猫は人間よりオッドアイの確率が高いんだっけか?」

「白猫はね。白毛の猫に多いんだ。だから黒猫の虹彩異色症ヘテロクロミアは珍しいよ」

「そうか。とりあえずヘテなんちゃらとか言わねぇでオッドアイでいいだろうが、めんどくせぇ」

「この猫、とってもかわいい」

「話聞けよ」


 慈しむ表情を見せるヒカゲに、猫を抱いていなければ那由多は手にした鉈でヒカゲを切り刻んで生ごみとして捨てたかった。

 しかし猫がいるから那由多は暴力の衝動を抑えた。


「つーか、黒猫でオッドアイ……」


 色合いは異なるが、どこかの遥さんが脳裏をよぎった。



 ヒカゲが人殺しをしているだろう時間帯。

 イサナは新調したソファーに座って読書をしていた。ガラステーブルや絨毯も新調した。

 笠間の死体があった痕跡を潔癖なヒカゲは嫌がるからだ。イサナはまあ洗えば別に構わないのだが。だからヒカゲが乗らない車も洗車はしたが新車にはしていない。

 暇だ、と思ったら来客があった。暇、最高だから帰ってこないかな、なんて思いながらイサナは目を丸くした。

 二人組のうち一人に見覚えがあった。

 会ったことは一度もない。だが、彼女の正体は、この上なくわかりやすかった。


「ヒカゲの妹さんですか」


 ヒカゲの顔をそのまま数年幼くして、髪を切っただけの少女がそこにはいた。

 カラスのような髪は、肩で切り揃えられており、イサナより若干長い。

 彼女の動きに合わせて赤い布がちらりと見えるから、恐らくヒカゲとお揃いの赤いリボンを彼女は後ろで止めている。光を灯さない黒い瞳に、色白の肌。セーラー服のような黒い服を着ており、タイツまで黒。ヒカゲと同じく赤いリボン以外の色を拒絶している。だが、こちらはヒカゲとは違い手袋はしていなかった。


「えぇ。わたしの名前はアゲハ。くそ兄貴はいる?」

「今は外出中です」

「探偵のくせに仕事もしていないね」


 断定されてしまった。依頼中かもしれないのに。まあ事実だが。


「アゲハさんはどうしてここに?」


 ヒカゲの話では兄妹仲は悪かったはずだ。

 実際、イサナがヒカゲに雇われてから今まで、アゲハが探偵事務所を訪れたことはないし、ヒカゲに妹がいると知ったのも比較的最近だ。


「兄貴に死んでもらおうと思って」

「ではお茶でも出しますから、ソファーでお待ちください」

「自分で言っておいてなんだけど、おまえの雇い主、殺害宣言されてお茶出さないでよ」

「いえ、実はこれが初めてではないので慣れているのです」

「どんな探偵事務所よ!」


 少女らしい声でアゲハが困惑しながらツッコミを入れてきた。正直可愛かった。


「というかおまえ……兄貴の趣味を知っているわけね?」

「えぇまぁ。妹さんもお兄さんの趣味を知っているのですね」

「そりゃ兄妹だもの」


 警察に通報すれば大嫌いな兄は一瞬で終わるのに、それはしないのだなとイサナは不思議に思った。

 嫌いだが、情がないわけではないのか。短い会話からは判断できない。

 だが、一つわかったことがある。

 イサナにヒカゲの趣味と言葉を濁して訪ねてきたということは、最近の黒月探偵事務所を調査した結果ではないようだ。

 それにしては、用件を正直に答えすぎているが。少しずれたところがまたヒカゲと血筋を感じる。


「ところで彼は?」


 イサナは、部屋に入ってきたときに一礼をしてから一度も口を挟んでいない青年へ視線を向ける。

 二十代中ごろで端正な顔立ちをした青年だ。天喰のような中性的さはないが、顔のパーツ一つ一つが整っている。黒の髪は短く、長髪の男ばかりを見ているイサナには新鮮な長さだった。左耳には赤のピアスをつけていて、灰白色の瞳は油断なく警戒し、竹刀袋を握りしめている。竹刀ではなく真剣が中に入っているのだろうな、推測する。つまり、ヒカゲを殺したいのは彼というわけか。


「……俺は、出利葉いでりはだ」


 やや戸惑いながら彼は答えた。落ち着いた低音はヒカゲ好みだろう。

 無意識のうちにヒカゲの好みかどうかの判断基準をしていたことに気づき、イサナは内心で舌打ちをする。


「出利葉さんですか。ヒカゲに復讐をしたいのですか?」

「そうだ」


 正解のようだ。出利葉の瞳が揺れた。

 アゲハが一歩前に近づいてきたと思ったら、袖口からナイフを取り出し先端を向けてきた。滑らかな指先と無骨なナイフの組み合わせは似合わない。


「ヒカゲと同じようなナイフ捌きですね」

「兄貴と一緒にされるのは業腹ね。とはいえ、教わった人が同じだから仕方ないか。癖は抜けないものね」

「師匠が同じで?」

「……無駄口をたたいてしまったわ。父親よ。兄貴は父を嫌っているから、話をしたりはしないでしょうけれど」

「では貴方は嫌いではないのですね」

「えぇ。元々、わたしと兄貴の仲が悪い発端は、兄貴が父を嫌って、わたしが父を好きだからからよ。そこからこじれたわ。まあそんなことはどうでもいいのだけれど。おまえを人質にしたら、兄貴は、素直になってくれるかしら?」


 不敵に微笑む姿は、ヒカゲとそっくりで、まるで年齢の違う双子だ。


「ヒカゲに人質がきくとは思いませんよ。そんなこと、貴方ならご存じなのではありませんか」


 微笑み返しながらイサナは返答する。

 もしも、ヒカゲに人質の存在価値を見つけるのならば、愛に狂わせた天喰だけだろう。

 そして天喰はこの世に存在しない。今のヒカゲは抜け殻のようだ。殺す価値すらないのかもしれない。


「普通ならわたしもそう思う。けれど、おまえは美人なのに、兄貴に殺されず、この事務所で働いている。それだけで価値があるはずよ」

「替えのきく消耗品ですよ」

「そうは思わないわ。兄貴は、快楽殺人鬼なのだから。美人のおまえがどうやって兄貴と知り合い、事務所にいる?」


 何故生きているの? とアゲハは問いかけてきている。理由は簡単だ。


「求人広告が出ていたの、知っていますか?」

「は?」

「給料が良かったので応募しました。見知らぬ他人の命より、日々のお金の方が大事なので、黙認しました。今だって、アゲハさんたちが来る前は読書をしていたのです。仕事に関係のないことをしていても口座に給料が振り込まれるって最高なので」

「通報しなさいよ!」


 ヒカゲとは違い常識は多少あるようだ。


「就活面倒だったので。いえ、それ以前に通報した場合は殺されていたと思いますし……そもそも、アゲハさんこそ通報という手段があったのでは? 社会的に抹殺できますよ」


 殺人鬼の妹、というレッテルが張られるだろうが、そこを彼女は怯えているわけではないだろう。


「それは……そうだけど。そうじゃなくて、こう!」


 言語化が難しいようで、彼女は顔を歪めた。


「まあ、私が助手として雇われた経緯はどうでもいいですね。人質の話に戻しましょう。出利葉さんは人質に賛成ですか?」


 イサナの問いかけに、出利葉ではなくアゲハが苦虫をつぶした表情に変化した。正面から出利葉は恐らく復讐を求めた。闇討ちを選んでいない時点で、人質といった行為に賛成とは思えない。


「アゲハ。人質なんて真似、俺はしたくない」

「甘いわよ。有効な手段があるのならば、余すところなく行使するべきだわ」

「そうだったとしてもその人は、俺の復讐には何も関係ない。関係ない人を巻き込むわけにはいかない」

「この探偵事務所に勤めている限り、無関係とは思わないけれど……わかったわ。出利葉の意思を尊重する」


 アゲハがナイフをイサナの首元から回転させながら離し、気づいたときにはナイフが消えていた。手品のようだとイサナは感心する。


「ヒカゲはいつ戻ってくる」


 淡々と感情を抑えた声で出利葉が訪ねるので、イサナは顎へ手を当てて思案する。


「……そうですね、今日中には帰ってくると思いますが、何時ごろとは、明確な時間はわかりませんね」

「どこか人気のない場所はあるか? そこでヒカゲと会いたい」


 自分が捕まることを危惧してではなく周囲の無関係の人を巻き込みたくないという意思が、灰白色の瞳から読み取れた。

 人殺しには向かない人格だ。

 復讐をしない、という選択肢を外したのは隣にいるアゲハか。


「ありますよ」


 イサナはヒカゲがいつも殺害に使う建設途中で意図的に放棄させた建物の場所を教える。


「わかった。じゃあ夜の十時に、そこの場所で会おうとヒカゲに伝えてくれ」

「わかりました。では、ちょっと失礼しますね」


 イサナがテーブルに置いてある白の携帯を手に取り、カメラを起動して素早く出利葉の写真を撮った。シャッター音に、出利葉は一驚する。


「何を?」

「貴方が、ヒカゲ好みの顔をしていましたから。言葉で殺したいから来てほしいと告げるよりも、写真を見せたほうがヒカゲも喜々として駆け込むでしょう」

「アゲハにも言われたんだが、本当に好みの顔なのか?」


 半信半疑で出利葉は頬を撫でた。


「えぇ。ヒカゲではありませんが、私が保障します。気に入って待ち受けにするかもしれませんよ」

「それはやめてくれ」

「冗談ですよ」


 待ち受けにするなら天喰の写真を待ち受けにするだろう――もしかしたら既にしているかもしれない。

 強固な意志を持つ瞳が歪む姿を、殺したいと歯向かう心を泣かせたいと悪魔の微笑みをヒカゲが浮かべることはたやすく想像できた。

 この男を殺したら、ヒカゲは元気になるだろうか。


「……兄貴が待ち受けにするなんて、出利葉に失礼だからその写真を送っちゃだめよ」

「貴方には送りましょうか?」

「待ち受けにするなら、ちゃんと出利葉にポーズを決めてもらうから大丈夫よ」


 どうやら妹も出利葉の顔は好みのようだ。


「では邪魔したな。すまない」


 出利葉は軽くお辞儀してから探偵事務所を後にする。アゲハもそれに続いた。背中を見せた彼女の頭には、ヒカゲのお揃いの赤いリボンがよく見えた。



 四時過ぎにヒカゲは猫を連れて戻ってきた。


「猫?」

「そ、野良猫。僕が拾って飼うことにした」


 野良猫は気持ちよさそうに撫でられている。


「……野良猫とは思えないほど人になついていますね」

「うん。僕の腕の中で大人しくしていて可愛いんだ」

「猫好きだったのですか?」

「この猫、黒猫の虹彩異色症ヘテロクロミアなんだ」


 そう告げた途端、猫が好きだから拾ってきた可能性がイサナの脳内から消えた。


「……名前は何にするんですか」


 出来るだけ感情を抑えて訪ねる。


「名前……どうしようかな?」


 ヒカゲが小首を傾げながら、思案している。やがて顔が明るくなる。


「決めた、アルカにしよう」

「ドン引きです」


 普通に引いた。

 黒猫。オッドアイ。アルカ。全てが天喰遥の幻影を追っている。あまじきはるか。頭の文字と最後の二文字を取った黒猫アルカ。恐らく首輪は桜模様だな、と思い嘆息する。そんなことで名探偵になりたくはなかった。

 とはいえ、例え猫が虹彩異色症で天喰を彷彿させるから拾ってきたのだとしても、猫に罪はなく可愛らしいからいいかと、イサナは考えを改める。

 猫は可愛いが、撫でようとは思わなかった。ヒカゲが、この猫は僕の物だと威嚇してきても面倒だ。


「お前の名前はアルカだよ。可愛いなぁ。ふふ、今日からうちの子だ」


 猫に話しかけるヒカゲは、幸せそうで天喰を失った悲しみを無意識のうちに猫で埋めようとしているかのように映る。


「ブラッシングとか、一通りしてもらってきたんだ」


 野良猫という割には毛並みが整っていると思ったが、そういうことだったかとイサナは納得した。

 ヒカゲはスーツのポケットから首輪を取り出し、アルカに着けた。紫色の装飾品がついた黒の首輪だ。首輪の柄にうっすら桜模様が入っている。手際がいい。ということは床に置かれた大きい紙袋は猫用品一式だ。

 仄々とした空間は、まるでヒカゲが快楽殺人鬼である事実を忘却されるかのようだ――と思ったところで、イサナは、アゲハと出利葉が訪ねて来た用件を伝えていないことを思い出した。


「そうだ。美人の男性がヒカゲを殺したいとアゲハさんと共に現れました」

「先にいってよ! というか僕、最近、命狙われすぎじゃない!?」


 前半は正論だが、後半はヒカゲの自業自得だ。

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