第16話:名前
月は照らさない。イサナが事務所へ足を運ぶと、ヒカゲが死体のようにソファーで倒れていた。
「……ヒカゲ」
ヒカゲが一度だけ連絡を入れてきたが、電話に出ても無言のまま通話が終わり、折り返しても一切通じなかったので、不信に思い、イサナは面倒ながらも事務所へ足を運んだのであった。
結果としては正解だったが、面倒ごとを引き当てたと嘆息する。
「どうしたのですか」
今やっとイサナに気づいた、という風にヒカゲが顔を上げた。瞼が赤くなっている。
「……天喰に、自殺……された」
泣き出しそうな声で、いや、泣きはらした声でヒカゲが答えた。
「天喰さんに、自殺をする隙を与えたのですか?」
愛に狂った表現が的確な程、ヒカゲは天喰に入れ込んでいた。
だからこそ、天喰に自殺する隙や機会を与えるとは思えない。
なのに、天喰はヒカゲの手から逃れて自ら命を絶ったというのは信じられなかった。
「僕がシャワー入っている間に逃げられた……」
「……鎖が、ありましたよね?」
「本読むのに前髪邪魔って言われてあげたヘアピン使っていた……と思う、床に落ちてたから……」
「なんでそんな、ありきたりなものを与えたのですか? 脱走の手段とは考えなかったのです?」
「全く考えなかった……本読みたいんだなって……実際、天喰はよく本を、読んだし」
天喰の監禁空間は確かにイサナが足を運ぶほどに改良されていた。
ヒカゲは天喰がこの本読みたいんだって、と嬉しそうに要らない情報をイサナに教えてもいた。だが、だからといって脱出の定番道具すら与えているとは思わなかった。
狂った愛は盲目だった。
普段ならば、ヒカゲが脱走の手段とする可能性を危惧しないわけがないし、渡すわけもない。
天喰に異様で異常なほどの夢中だったからこそ、言葉のまま裏の意味を考えず他にも渡した甘い数々と同様に、ヘアピンを渡した。
恐らく、天喰はヒカゲの出会った頃とは違う行動に、今ならば脱出のための手段を手に入れることができると目論見、見事正答したのだろう。
ヒカゲに復讐を諦めず虎視眈々と狙っていた天喰が上手だった。
「天喰が……僕の、手から零れ落ちた。ねぇ、天喰は、もうどこにもいないんだ……天喰どこ……僕の天喰……僕の……遥……なんで、いないの。どうして」
満身創痍で、ヒカゲは天喰の名前を繰り返す。満たされていた心に、突如として訪れた空虚を、ヒカゲは埋められていない。
――あれ?
イサナはおかしなことに気づいた。
「ちょっと待ってください! もしかして……天喰の名前を憶えているのですか」
「どうして僕が天喰のことを忘れるのさ」
「ヒカゲは! 殺した人間の名前も顔も覚えないじゃないですか! 何度も探偵と依頼人の関係をつづけた舘脇のことも忘れた! 殺し損ねた相手のことすら、覚えていない貴方が、どうして死んだ天喰のことを覚えているのですか」
イサナが知る限り――ヒカゲは今まで誰のことも覚えなかった。
不要なメモリーは残す必要がないと、消去した。残骸が転がっているだけだ。
なのに、ヒカゲは天喰のことを明確に覚えている。
「忘れられるわけないだろ」
ぎゅっとヒカゲは自身の身体を弱弱しく抱きしめた。
「そこまで、天喰のことが特別だったのですか。ほかの誰よりも。どんな人たちよりも」
「うん」
「……わかりました。ところで、天喰の死体はどうされたのですか」
追い打ちをかけないでよ、と黒い瞳が潤んだ。
ヒカゲのありようがイサナには理解できなかった。
この男は死んだ人間に興味を抱かない。どれだけ綺麗な顔をしていようとも、好きなだけ嬲って遊んでそれで終わりだ。次への持ち越しはしないはずだった。少なくとも、イサナの知るヒカゲはそうだった。
「……天喰を、僕は殺したくなかった」
「な、何を言って」
イサナの動揺には気づいた様子もなく、ヒカゲは言葉を続けた。
「僕の自宅で監禁したかった。手元に、おいておきたかった。そうしようと思ったところで、天喰が、この手をすり抜けた。天喰は、僕に見せたことのないような満面の笑顔を、僕に見せて死んだ。僕は……天喰と一緒に……」
「……ヒカゲ。天喰の死体は処理してきたのですか?」
先ほどの質問への返答がなかったので再度尋ねると、ヒカゲは顔を伏した。長い黒髪が、顔を覆い隠す。
「……覚えてない」
「死体はどうしたのですか?」
「天喰の綺麗な顔が傷ついた姿をみたくなんてない!」
「処理していないのですね。では、借りた部屋の痕跡は抹消してきたのですか?」
「……記憶がない」
「さっさと処理をしてきなさい」
「……天喰……」
「ほら、さっさといきなさい!」
イサナの感情がのった声に、ヒカゲは身体をびくつかせた。
「イサナ?」
イサナは感情をあらわにしたことを舌打ちしてから、深呼吸をする。
「貴方は、これで人生を終わらせたいのですか。このまま死体を放っておけば、明日にでも警察がここに来ますよ」
「天喰は自殺だ。僕は殺していない」
「馬鹿ですか!? 天喰の身体の痕跡を警察が自殺で片づけると? 自殺は事実だとしても、人を傷つけ監禁しているヒカゲが無罪放免だと思うのですか? 貴方の周囲を、過去を、経歴を探られたら終わりですよ」
「……でも」
「でも、じゃありません。此処で拗ねていたってどうしようもないでしょう、ヒカゲ。貴方がこれからも警察に捕まる気がなく、快楽を楽しみ続けようと思うのならば、後始末するしかない。今、天喰を失った失意のままに人生を終わらせたいのですか」
「……わかったよ。でも、イサナはどうして珍しくそんな怒った顔をしたの?」
ヒカゲの視線にイサナは目をそらさずに答えた。
「……貴方が捕まったら困りますから。大体、私だって黙認していた以上、無傷ではいられない。仮に警察が私を疑わなかったとして。ヒカゲが逮捕されたら、私は再就職先見つけないといけないのですよ? 嫌ですメンドクサイ」
「あはは、冷酷だなぁ」
「当たり前でしょう。私は人殺しには興味ありません。ヒカゲが誰を嬲ろうとも興味ありません。けれどヒカゲが警察に捕まることは困ります。ここ、お給料いいのですよ? 知っていました?」
「もちろん。だってイサナはそれだけの働きをしてくれるもの。ねぇ、イサナも手伝って」
「いいでしょう。ここでヒカゲに任せたら、ドジを踏みそうです」
本来ならば死体処理や証拠隠滅に手を貸したくなかったが、しかし、今のヒカゲでは普段通りの綺麗な状態にはできないだろう。ましてや死体処理のお手本である那由多をヒカゲは呼ばない。
天喰の死体をヒカゲは那由多に渡さないことが分かっている。
ならば、イサナが手伝うよりほかなかった。
自殺マンションに到着する。万が一警察車両があればすぐさま引き返すつもりだったが、住民のいない自殺マンションは、その飛び降り自殺を目撃した人間も、発見した人間もいないようでいつもと変わりない閑散としていた。
人目につかないよう、自殺マンション内へ入り、駐車場を目指す。
初めて天喰と出会ったときのように、ヒカゲはイサナの背後に隠れながら進む。
「天喰の死体はどうするのですか?」
「火葬する」
「……どうやって」
那由多に食料として提供しないのならば、土に埋める程度だとイサナは思っていた。死体を埋める程度ならばできるが、火葬を人知れず行う技術も施設もない。
「そんなもの、
天喰のために死体が増える未来が確定したが、別にそれでヒカゲが捕まるわけではないので、イサナとしては構わなかった。
おぼつかない足取りのヒカゲは何度か地面の小石に躓いてこけそうになったのか、わっと声を上げて前を歩いているイサナの背中に倒れ掛かってきた。
「……いくらヒカゲが小柄で軽くても、米より重いものが突然乗ってきたら耐えられる体幹していませんからね?」
「うん」
おとなしいヒカゲは面倒だとイサナはため息をつく。
駐車場のコンクリートに天喰の死体はあった。無残の一言が似合うありさまだったが、両手を翼のように広げて仰向けに死んでいる姿は、楽しそうだった。
天喰は本当に一矢報いた。ヒカゲの心に傷を負わせた。その根性に、精神にイサナは黙礼を捧げた。
ヒカゲがよろよろと天喰の前にしゃがみ、血の海と化したコンクリートに髪の毛がつくのも構わずに、素手を伸ばして天喰の顔をいとおしそうに撫でた。
「遥……」
ヒカゲの感傷に浸らせている時間は惜しい、というかめんどくさい。
いくらここがホラースポットのように、人が来ない自殺マンションの駐車場だとしても、市街地の中にあるマンションの敷地内だ。
室内ならばいざ知らず、外に死体を放置しておくわけにはいかない。イサナは寝袋を取り出す。
「ひとまず天喰をこちらへしまいますよ」
血と、死体だけは先に片づける必要がある。
「頭を持ってください。私は足を持ちますので」
血で濡れた地面に軽く手を伸ばすと、まだ乾ききっていなかったので、血がない場所に寝袋を広げた。
「遥の顔、隠しちゃうの?」
「……後で好きなだけ眺めても構いませんが、ここで誰かに目撃されるわけにもいきません」
「今は夜だし」
「深夜でもありません。大体この時間ならばサラリーマンの帰りの時間です。人は多いですよ」
「わかった」
天喰の死体を寝袋へとしまう。血も早く隠してしまいたかったが、夜に紛れてさほど目立たない。濡れているのが見えても、水が零れたのかと思う程度だろう。コンクリートなのも幸いした。
だが、太陽が昇るのは待っていられない。
寝袋に移した死体をそのまま車の後部座席へ寝かせる。
「私はここを片づけますから、ヒカゲは先に千〇〇五号室で後片付けを始めておいてください」
面倒なことだが、面倒なことを率先しなければ、余計な面倒が増える。
車の運転免許をとっておいてよかったなとイサナは思ってから嘆息する。
死体処理のために運転免許を取ったわけではない。ヒカゲは自家用車を所持していないので、車もイサナのだ。流石に車をレンタルするわけにもいかない。
トランクからバケツとモップ、そのほか洗剤や懐中電灯などを手にして戻る。
「さすがに痕跡が全部消えたかどうかは……朝にならないとわからないですね。まったく、面倒なことをしてくれたものです」
イサナが一通りの大掃除を終えて千〇〇五号室に戻ると、ヒカゲは何もしていなかった。気力が尽きたのか、天喰に与えたソファーに座っている。モップを手にしていたら真っ二つに折っているところだった。
「ちょっと、全部私にやらせるつもりですか?」
「天喰がいない……ことを思い出したら、何もできなくなった……」
「まあ、ここはヒカゲと天喰が一緒に過ごした場所ですからね」
「……天喰」
天喰と、壊れた時計のように繰り返すヒカゲを使うよりも、一人でやった方が早いとイサナは判断した。どのみち、自殺マンションにほかの住民はいない。外から見えない室内であれば一日で片づける必要はないし、髪の毛や指紋などを徹底的に掃除すれば家具家電は放置していても問題ない。現金で払ったものだし、足がつくことはないだろう。
そのうち、マンションの管理人の天喰が失踪した、ということで、このマンションは終わるはずだ。
そこで天喰の犯罪の証拠が出てきたところで問題はない。ヒカゲと天喰を直接つなぐものはない。マンションの契約の書類の破棄はすでに天喰が監禁された日に終わっている。
「そういえば、土足可にはしなかったのですね。最終的にヒカゲが自殺マンションの主の如く、居住していましたのに」
ふと思ったことをイサナは訪ねる。
「天喰が寝泊まりする場所に、土足で踏み入れたくない。汚れるだろ」
「……そうですか」
ヒカゲが邪魔になったので外に追い出した。
大体の作業が終わったので、イサナが廊下に出ると、うずくまっていたヒカゲが、少しだけ生気を取り戻した瞳で言った。
「天喰の骨で、遺骨リングを作る」
「は? ドン引きです」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます