第13話:忘れる一日

 遮光カーテンは、朝も夜も教えてくれない。

 部屋には時計がないため時刻がわからないが、ヒカゲが天喰の元へおはようと告げるから、天喰はそれを朝だと認識していた。

 たまにヒカゲは、食料を買いにスーパーへと出かける。

 近所のスーパーの開店時間が朝十時で、閉店が夜八時だから、その間の時間であることだけがその時だけ確認できて、少し癒される。

 ヒカゲはマイバックを使っているため、スーパーの袋から店名は特定できないが、天喰とひと時も離れたくないと思っているヒカゲのことだ、遠くの店にはいくまい。悲しい結論だ。

 今日のヒカゲは朝から上機嫌だった。上機嫌なヒカゲは不気味だ。

 満面の笑みで傷口を嬲るのだろうか、それとも新たな苦痛を与える方法でもひらめいたのか、と顔には出さずに心だけ身構えたが、特に何もしてこなかった。

 何もないのはそれはそれで不気味だ。

 痛みがないのに越したことはないが、それ以上の何かがあるのではないかと勘繰る。

 そろそろ痛みも麻痺して感覚が鈍ってくれればいいのに。今なお、痛みは鮮烈に痛烈に、痛みだった。

 とはいえ、監禁された当初と比べればヒカゲが甚振ってくる頻度は減っている。飽きたとかではない。今なお飽きることなく爛々とした眼差しを向けてくる。

 それは、ヒカゲに訪れた緩やかな変化だ。


「天喰。これ食べて」


 ヒカゲが朝食に持ってきたのは、レタスやトマトが挟まったサンドイッチだった。拒否しても受け取って素直に食べても、どのみちとても食べにくそうだ。

 天喰が顔を顰めて受け取らないでいると、無理やり食べさせられた。

 いつものことなので、そろそろ諦めてもいいかとは思うが――痛みを与える目的ではなく、単に死なないための栄養なのだから――とはいえ、最初に抵抗した以上、今更素直に食べるつもりもなかった。ヒカゲの癖に、他人の嘔吐があったら流石に抵抗しないで食べたが、その趣味はないようで良かった。

 朝食の後片付けをした後、ヒカゲは部屋へと戻っていき、ほどなくして単行本を片手に、黒のロングコートをきた外出する恰好になっていた。


「天喰。僕がいない間、これで暇つぶしていて」


 外出するときや、彼が風呂に入っている間などの時間が空くときは、暇つぶしとして本を置いていくことが多い。最初に、暇つぶしに何がいいか聞かれた時に本と天喰が答えたからだろう。

 認めたくないことに、ヒカゲが用意する本は天喰の好みにあっていた。好みにあう本をヒカゲが用意しているのか、ヒカゲが好きなのかは知らない。本で話題を広げるつもりもない。

 ただ、好みの本なのに読んだことがある本が出てこないのが不気味だった。数が多くないから偶々か。それとも読書遍歴を知られているのか。前者であることを願いたいが、自殺マンションに天喰の自室もあるので鍵穴を壊せば私生活は簡単に知れるから、後者が正解だろう。


「……ねぇ」


 しかし、どうせ暇つぶしを用意するならテレビをつけて、映画でも流しておいてくれればいいのにと思う。

 ヒカゲが読みやすいように読書台に本を置き、ソファーの位置に合わせてくれる。ヒカゲが見ていない場面で天喰が痛みに呻かないための配慮だ。

 最近では、手首も傷つけられることが殆どない。手の動作に支障がないようにか、食事を率先して食べてもらうことを夢見ているのかは知らないが、どれだろうと気遣うところを確実に間違えている。


「何?」

「本を読むのに前髪が邪魔だ。ヘアピンが欲しい」


 端的に、言い訳のようにならないように言った。ヒカゲの手が伸びてきて、天喰の前髪に触れる。


「天喰、髪の毛長いもんねー」

「君程じゃないけど」

「でも前髪は僕より長いじゃん。とはいえ、僕はヘアピン持っていないな。家に帰ればあるけど……。帰りに買ってくるけど、それでいい?」

「いいよ。今日は我慢する」

「ん。わかった。いってらっしゃい」

「――! うん!」


 ヒカゲは上機嫌なまま、手袋をはめてリビングを後にした。

 外していた黒の手袋をわざわざ嵌め直して出ていく姿を見るたびに、どれだけ素手で触れたいのだよと、気持ち悪さを実感して天喰はため息をつく。

 天喰と一緒にいる時間は一分一秒とて無駄にできない、と不気味な言葉を連呼するヒカゲにしては珍しく、二時間以上たってから帰宅した――両手に、大量の買い物袋を提げて。


「ただいまー!」


 普段以上にテンションが高く、その明るい行動が物恐ろしく思いながらも天喰は無視する。読者への挑戦状の答えが、あっているかどうかの確かめたいので、読書に集中する。

 いつもならばそんな抵抗が可愛いと痛めつけてくるのに、今回ばかりはキッチンへすたすたと足を運んだ。

 普段から違うことが起こりすぎて、この後の展開に身構えてしまう。

 半分集中できずに読み終わったところで、視界を上げるとヒカゲはまだキッチンに籠っている。黒のワイシャツに黒のエプロンを身に着けているが、黒に黒を重ねすぎてどこからがエプロンとの境目が判然としない。

 恐らくは夜になったなと天喰が思っていると、エプロンを外したヒカゲが折り畳みテーブルを置き、フローリングの床にはクッションを二つ向かい合わせに並べた。


「……何しているの」

「見てのお楽しみさ」

「楽しみにしたくないな……」


 ヒカゲがキッチンから二人分のビーフシチューと、苺と生クリームが山のように載ったホールケーキを持ってきた。苺と生クリームに埋もれたそれはもはやスポンジが存在するのか怪しく、見た目だけであまったるさが漂ってきて、天喰は眉を顰めていると、カクテルグラスに黒褐色透明の液体の上に生クリームが注がれた飲み物が出てくる。

 その横にバースプーンが置かれ、さらに空のカクテルグラスが二つと、透明な瓶に白っぽさが強い淡茶褐色の液体が入ったものが置かれた。

 明らかに何かの祝い事だ。天喰の誕生日ではない。


「今日はクリスマスだよ、天喰」

「……そう」


 もうクリスマスか、と天喰は明後日の方向を向きたくなった。

 ヒカゲに監禁されてから一か月以上が経過している。

 日付の確認をする術がない日々を送ったので、曖昧な曜日感覚で過ごしてきたが、明確な日数を知るとため息がつきたくなると同時に、傷つけられる毎日を過ごしてよく生きているものだと自嘲したくなったが、何もせずに殺される気はない。

 彼にとって最悪な形で復讐するまでは生き抜き、どんな状況にだって屈しないと覚悟を決めている。


「天喰とクリスマスしようと思って準備したんだ!」


 幸せそうな笑顔をヒカゲは天喰へ向けてくる。雪のような肌と真っ黒な髪は、クリスマスに似合う夜のようだと思った。


「だから、酒を飲もう! 初めて飲むから楽しみ!」

「は……?」


 今、この男はなんといった? 天喰は口元が引き攣る。


「僕、酒、飲んだことないんだ」

「二十二だっけ?」


 マンション入居の時に記入してもらった書類の年齢を思い出し尋ねる。


「そ。天喰の二個下だね。成人の時も飲まなかったからさ、ずっと飲みたいと思っていたんだ」

「飲めばいいだろ」

「どうせなら誰かと飲みたかったんだ。天喰と一緒に酒を飲もうと決めたら楽しくて、クリスマスをずーっと待っていたんだ」


 酒を飲んだことがないことに加え、ヒカゲが酒を飲む姿を想像すると何が起きるかわからなくて弥立つ。


「那由多やイサナと飲めばいいだろ……」

「イサナは誘っても断られる。僕が酒を飲んだら面倒になるのが目に見えているからって。酷いよな」

「彼女の意見に全面同意だ」

「ひどい。で、那由多は駄目だ。絶対飲みたくない。那由多は成人式の日に酒飲もうぜってハイテンションで誘ってきたけど断った。あいつの魂胆は丸見えだ。僕を酔わせて酔った勢いで、人肉食べさせようと企んでいる」

「……あぁ、それは……断るな……」

「しかも那由多はザルのように酒が飲めるほど強いからな。僕と酒のみ勝負しても勝てる気満々なんだろ。僕だって負ける気はないけど、でも那由多より先に落ちたら困る。人を食う趣味はないし食べたくもない、考えただけで吐き気がするよ」


 那由多と酒を飲むことを拒んだことは納得できたが、だからといって自分を最初に選ばなくてもいいだろと天喰は深い深いため息をつく。


「ふふ。でも那由多やイサナに断られたお陰で、天喰と一緒に酒を飲めると思ったら、嬉しいね」


 無邪気に笑うヒカゲに対して、顔を引きつらせながら天喰は恐る恐る問うことにした。


「因みにさ……この酒は何」

「ホワイト・ルシアンとカルーアミルク! 一度飲んでみたかったんだよな。せっかくだし、生クリームは少し多めにしてみた」


 天喰は頭を抱えた。


「君は、馬鹿か!? カルーアミルクは百歩譲っていいとしても、ルシアンって! 度数いくつか知っている!?」

「三十くらいだよね」


 あっけらかんとヒカゲが度数を答えた。


「初めて飲む奴が飲む酒じゃないから。三パーセントくらいにしておけよ……」

「大丈夫! 周りから僕は酒強そうって言われているし」

「……心配要素しかない」

「ホワイト・ルシアン美味しそうでずっと飲みたかったんだ。美味しかったらお代わり作るから天喰も遠慮せずに言ってよ。今日のためにシェイカーも用意したし、酒も沢山買ってきた! カルーアミルクはいつでも飲めるように作って瓶に移しといたし」


 初めての酒に付加価値をつけすぎている。

 酒に酔っても面倒な展開が見えるし、酒に強すぎてもどのみち面倒な展開が待っていると思うと、クリスマスを呪いたい気持ちになる。


「さて、と。酒は最後の楽しみにして、先にビーフシチューとケーキを食べよう」


 手を合わせてパンとヒカゲが鳴らしてから、ソファーに座っている天喰を座椅子へ移動させる。傷口に触れて、天喰は唇をかみしめた。

 喜々としてヒカゲが食事を始めたが、天喰は料理に手を付けない。いつもの無意味な抵抗だ。

 ヒカゲが丹精込めて作った料理を食べない天喰に、寂しそうな顔をする。人を監禁しておいて喜んでもらえると思っているのか、と天喰は呆れる。

 ヒカゲがビーフシチューを完食してから、向い合せから横並びに位置を移動して、手つかずのビーフシチューをスプーンですくい、天喰の口の中へ無理やり入れる。

 柔らかく煮込んである肉や野菜を咀嚼してスプーンの圧迫感の中、嚥下する。スプーンが離れる。呼吸が満足にできないまま次のビーフシチューが口の中へ入ってくる。


「もう諦めて食べればいいのになー」


 一通りビーフシチューが食べ終わると、天喰は荒い呼吸を整えようとしている間に、ヒカゲはホールケーキをナイフで切り分けていた。


「はい、ケーキ」

「…………」


 口の中にフォークと生クリームが入る。生クリームが解けて、口の中に広がる濃厚な甘さと、苺の甘さが重なって、気持ち悪いほどに甘かった。

 せめて苺がすっぱければまだ緩和できたのに、と天喰は辟易しながら思う。


「あまっすぎ……」

「沢山生クリームがたくさんって嬉しくない?」

「俺は……甘すぎるのは好きじゃない」

「知ってる」


 つくづく、ヒカゲと食の好みが合わない。天喰の好物一面でも目を輝かせて食べるつもりは一ミリもないが。

 天喰に食べさせた量の三倍は軽くありそうなケーキの山を、ヒカゲは幸せそうに頬張りながら減らしていくのが信じられなかった。

 あれだけ糖分を取る不健康さなのに、ヒカゲの顔にはニキビがないし、身体も華奢なのも信じられなかった。カロリーのバランスがおかしい。

 食事が終わったところで、ヒカゲがカクテルグラスを掲げる。


「じゃあ、かんぱーい」


 天喰は乾杯をしないが、ヒカゲは気にせず約二年間待ちわびたホワイト・ルシアンを口に運んだ。


「なにこれ、美味しい。生クリームの味がまたたまらない」


 無邪気に目を輝かせて、一気にホワイト・ルシアンを飲み干した。期待が上がりすぎた酒は、どうやら期待通り喜びをヒカゲへもたらしたようだ。


「早く、天喰も飲みなよ、美味しいよー!」


 空になったグラスをテーブルに置き、ヒカゲはカクテルグラスを片手に天喰へ近づく。

 顔を背けるが、開いている右手が天喰の頬へ触れてきた。


「美味しいよ」

「……いらなっ! っ――」


 指が口の隙間に侵入してきて舌に触れる。カクテルグラスが傾きホワイト・ルシアンが天喰の口の中へ流れていく。

 生クリームの量が多く、甘い味は、アルコール度数を覆い隠してしまう。

 一気に飲まされ、空えずきする。


「あははっ、天喰かわいー」


 天喰は呼吸が整ったところで、ヒカゲの顔を見ると、ほんのり赤いし身体が揺れている。嘘だろ。


「……君、酒……弱いんじゃん……」


 どこからどう見てもヒカゲは酔っぱらっていた。


「そんなことないってー。ホワイト・ルシアン美味しかった、もう一杯飲もう! ねー!」


 普段よりもより一層、その顔は童顔に見えた。


「……だから、ルシアンは……アルコール度数がって聞いてないよな……この酔っ払い……が」


 早々に酔いつぶれて寝ることを天喰は祈るだけだった。

 二杯目を用意したヒカゲが、楽しそうに酒を飲み干す。


「天喰と、いっしょに、飲めるお酒は……幸せだ」

「こっちは最悪だ!」

「かわいー」


 今度こそ飲んでたまるかと、口を頑なに閉じているとヒカゲがおもむろにナイフを取り出し天喰の身体を傷つけた。

 辛うじて悲鳴を抑えたが、痛みを我慢した表情がヒカゲの感情を煽ることになり、ナイフが傷口を楽しむようにゆっくりと深く突き刺してくる。

 痛みがじわじわと襲ってくる感覚に声を抑えきれず口を開くと、待っていましたとばかりにホワイト・ルシアンが流れてきて、入りきらなかった酒が口から溢れて零れる。濡れた服が気持ち悪い。


「かはっ……」


 咽ながらも辛うじて飲み込むと、ヒカゲが幸福な表情を浮かべる。


「ねぇ、天喰もっとのもうー!」


 天喰は二杯もホワイト・ルシアンを飲まされ意識がぼんやりとしてきた。

 眼前にカルーアミルクが差し出される。

 いらないと首を横に振っても、嫌がる顔を見るのが好きなヒカゲがとまるはずもない。何より今は酔っぱらっていて普段以上に理性がない。

 足掻いたところで自由を奪われている天喰に出来る抵抗は限られているので、同様の手段で無理やり飲まされた。傷口が絶え間なく痛みの信号を送ってきて悶える。

 どんどん酒が回ってくる。

 ヒカゲはカルーアミルクにはまったのか、お茶をお代わりするかのように飲んでいるが、未だ眠る気配はない。


「あーまーじきー」


 ヒカゲはナイフで傷つけた天喰の肩に、指で触れる。傷口の隙間を縫うようにして指を侵入させ、動かす。

 鮮烈な、激しい痛み。普段より傷口をえぐる指が深い。


「っ――! 痛いっ! やめろっ、やめろ!」


 普段ならば抑える痛みの感情に、酔いが回った天喰は逆らえない。


「あは! 天喰可愛い!」


 ぱぁとひまわりが咲くようにヒカゲの表情が明るくなり、抱き着きながらその傷口に舌を這わせてきた。生ぬるい暖かさ。


「やめろヒカゲ、やめてくれ!」


 思い通りにならない身体で、ヒカゲを退けようとするが叶わない。

 感情の制御がうまくできず、涙があふれてくる


「ヒカゲ! もう酔っぱらっているから、酒を飲むのやめろ!」

「別に僕は、よっぱらってないよー」

「くそ、話が通じない! 俺もアルコールが回ってきたんだ、もう酒はいらない」


 天喰の懇願も空しく、ヒカゲは明るい声で返事をしながら、カクテルを貪っている。


「かるーあみるく、美味しくてたまらないねー。いくらでも飲めるよ。天喰ももっとのみなよーおいしいよー」


 語尾を伸ばしながら、カクテルグラスには注がず、瓶に残ったカルーアミルクをそのまま天喰の口に近づけ、飲ませる。

 口からカルーアミルクが零れ、傷口に入り染みる。

 悲鳴を上げようにも、瓶が口をふさいでいて叶わない。

 痛みで身体が抵抗すると、また零れてさらに傷口に滴り、さらなる痛みを誘発する。


「つっーあ」


 瓶が口から離れると、天喰は声を上げる。呼吸は苦しく、身体は痛みを訴え、思考は酔いで回らない。普段ならば抑えられる感情が抑えられなくてつらい。嫌だ、と涙が零れる。


「可愛い、僕の遙はとっても可愛くて、もっと泣き叫ぶ姿が見たい」


 

 翌日。

 天喰が目を覚ますと、頭が割れるように痛かった。原因を探るまでもなく二日酔いだ。急性アルコール中毒にならなかっただけ、ましか。

 身体を少しでも動かそうとすると、昨晩傷つけられた全身が悲鳴を上げる。

 痛みのない場所を探そうとするが見当たらない。

 苦痛に呻きながら、酔わせた張本人であるヒカゲを探すと、ソファーでぐーすーと寝息を立てて満足な表情で眠っていた。猛烈に殴りたかった。

 視界に、空の瓶が目につくと、昨日の出来事が鮮明に思い出されて、気分は最悪だ。

 喉が渇いている。水が欲しい。だが、身体が痛くて動けない。鎖が台所まで伸びていても、自力で移動するだけの力がない。

 横たわること以外できない状況がしばらく続いたところで、ヒカゲがむくりと起床した。


「……おはよう、天喰……」

「……あぁ……」

「天喰、体調悪そう。どうしたの?」


 覇気がない天喰の姿を疑問に思ったヒカゲが寝起きで微睡んだまま訪ねてきた。


「二日酔いだ……君が、俺にあんだけ酒を飲ませたんだから……当然だろ」

「……?」


 こてん、とヒカゲは首を傾げる。


「え……もしかして、覚えていないのか?」


 昨日の悪夢を、何も記憶していないのかと天喰が恐る恐る訪ねる。


「酒を天喰と飲みたいなって思って用意して、乾杯をしたところまでは覚えている」

「乾杯はしてないけどな」


 酒を口にしてからの記憶が飛んでいることは確かなようで、天喰は頭を抱える。

 記憶があるのは、自分だけか、と。どうせならば、自分も酔ったせいで記憶が飛べばよかったと切実に思うが、記憶がない翌日に満身創痍なのもそれはそれで嫌だ。


「天喰とのお酒を忘れているとか信じられない!」


 ヒカゲが嘆くが、その声が頭に響いて耳障りだった。


「……ちょっと黙って……頭に響く」

「つらそう。大丈夫か、天喰?」

「誰のせいだと思っているんだ……」

「えーと、鎮痛剤、飲む?」

「欲しい」

「わかった」

「え」


 飲む? と聞かれたので、欲しいと即答したが、実際にもらえるとは思わず天喰は目を見開く。

 するとヒカゲは不思議な顔をして、天喰の顔を覗き込んできた。


「なんで、えっ、て疑問の声出した」

「……君が、鎮痛剤をくれるとは思わなかったから」


 怪我の手当てをするときに、痛み止めはくれない。痛みに歪む顔が好きだからと理不尽なことを言うのだ。

 そして苦悶の表情に気分が向上したヒカゲは手当している傷口を痛めつけて悪化させる。


「頭痛とか風邪とかは、薬上げるに決まっているだろ」


 あっさり言われて、天喰は笑うしかなかった。笑ったせいで痛みが襲ってきて呻く。

 何か言い返そうと思ったが、割れる様な痛みのせいで億劫になりやめた。鎮痛剤がもらえるのならば、それに越したことはない。

 鎮痛剤を天喰が飲んだあと、ヒカゲも実は二日酔いなのか冷蔵庫から水を取り出しグラスに注ぎ、鎮痛剤を口にしてから、しばらく休むとソファーで横になった。

 天喰も寝たかったが、頭痛は緩和されても散々痛めつけられた身体が痛くて眠れなかった。呻くことしかできない。

 しばらくしてヒカゲが起きた。

 寝起きの顔で周囲を見渡している。折り畳みテーブルの上に散乱した食器や、絨毯に転がった瓶を見て、悲しそうに顔をゆがめた。


「どうして天喰とのお酒を覚えていなんだ……。天喰もう一回酒を飲もう」

「えっ……」


 酒の言葉に、天喰は青ざめる。


「記憶がないとかヤダ。今度は度数と量を考えるから、飲もうよ。天喰の、酔った顔も、酔っぱらった姿も、悲鳴も苦悶の表情も、何も覚えてない……素敵な夜だっただろうに!」

「……君は、酒に弱いみたいだから飲まない方がいい」

「大丈夫。羽目を外さないようにするから!」

「最初の一杯で潰れた奴が何をいう……」

「あの時は度数が高かっただけだって」


 ガキか、と天喰は内心思いながらもヒカゲと酒を飲むのは二度とごめんだったので、何か回避する方法はないかと、思考する。


「……ヒカゲ。急性アルコール中毒って知っているか? 下手したら俺はそれで死ぬよ。今回はたまたま運がよかっただけだ……。それに酔った君は俺を際限なく痛めつけたし……」


 痛めた、の言葉にヒカゲが反応をする。横たわったままの天喰へ駆け寄り、ワイシャツを脱がせた。天喰が恐る恐る上半身を見ると、数多らしい傷が無残なほどについている。よく死ななかったものだと思うほどに、傷跡が多い。


「手当、されていない……!? 嘘だろ……!?」


 顔面蒼白になったヒカゲが慌てて医療キットを取りに走る途中で、足をテーブルに引っ掛けて転んだ。馬鹿か、と何度目かの嘆息を天喰はする。


「全く覚えていないのか? 本当に?」


 ヒカゲが、天喰の身体へ包帯を巻いている時に問う。手当をしていなかった事実がヒカゲの心を傷つけたのか、珍しくヒカゲは天喰に傷をつけないばかりか、壊れ物のように扱った。


「全然、覚えてない……。どうして天喰とのクリスマスを記憶していないんだ僕の馬鹿……」

「……ヒカゲ」

「何?」


 天喰は確かめたいことがあった。


「昨日の君は、加減を間違えて俺を殺しても不思議じゃなかった。また酒を飲んで酔ったら、君は今度こそ俺を殺すかもしれないな」

「――っ! それは駄目だ!」


 速攻否定したヒカゲの、日に日に殺す気が失せていっている事実を天喰は確信する。

 ――ヒカゲに、復讐する方法が決まった。

 あとは、万全の日を見極めて実行に移すだけだ、と天喰が不敵に微笑む。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る