第9話:矜持
*
ヒカゲが借りた自殺マンションの部屋に、イサナが鍵を使って足を踏み入れると、悲鳴が聞こえてきた。
――ん?
悲鳴? とイサナは不思議に思いながらも、リビングへ踏み入れると、ヒカゲが天喰を甚振っていた。
イサナに気づいたヒカゲが振り返り、その夢現に浸っているような表情を見せてきた。白い頬に伝う返り血以外は、幸か不幸か黒い服でよく見えない。
「ん? どうした、イサナ」
不思議そうに小首を傾げるヒカゲの姿はあどけないが、行っていることは残虐だ。
「どうしたの、ではありませんよ。三日も帰ってこないからどうしたものかと思って様子を見に来たのです」
天喰は力なく横たわっていた。不思議なことに生きている。
死んでいると思っていたから、悲鳴が聞こえてきたのが不可解だったのだ。
眼鏡は外され虹彩異色症は、憎悪の色に染まっている。結んであった髪の毛は解けて糸のように流れている。
顔だけは無傷だが、それ以外はいたるところを怪我している。痛々しい姿をさらけ出している。生きていることが――いや、精神を崩壊させていないことがイサナには驚愕だった。
ヒカゲは情け容赦なく甚振る。
懇願も生命を諦める発言すらも、ヒカゲは耳を貸さない。ただ、ヒカゲの赴くままに他者を傷つけていく。
なのに、天喰は未だにちゃんと生きていた。
百歩譲って、生きていることには納得しよう。顔がいいから。けれど、三日も嬲られてもその眼光に絶望がないのは理解できない。
「三日? 嘘、本当?」
「気付かなかったのですか?」
「楽しすぎて気付かなかった」
遮光性の高いカーテンに太陽の光は遮られ、朝も昼も、夜の感覚すら無くしているからますますもって気付けなかったのだろう。
「休息は取っていたけど、時計は見なかったから、わからなかったよ。カーテンも閉めっぱなしだしね」
確かにもう窓は開けられない。十階とは言え、窓の外の視線を全く気にしなくていいわけではない。高層ビルはいくつも近場に並んでいる。
「天喰の悲鳴がさ、ホント好みで嬉しくてたまらないんだよ、やめられなくて」
てへへと舌をペロリと出すが、血塗れの男がやっても可愛くもなんともない。そもそもイサナはヒカゲを可愛いと思ったことはないが。
「で、死なないように手当をしながら遊んでいるわけですか」
本来であれば、三日も嬲られていれば死んでいる。果たして三日も死なせてもらえない苦痛はいかほどのものか、想像したくもない。
「うん。だって死んだらもったいない。とはいえ三日は予想外だ……まだ殺したくないな。僕はもっと天喰といたい」
「……そうですか」
ヒカゲはゆったりとした動作で立ち上がった。
「イサナが来てくれて丁度良かった、ちょっとシャワー浴びてくる。天喰が逃げないように見張っていて」
「この状況で見張りが必要とは思えませんが」
逃走防止のため、重点的に足は痛めつけられている。包帯の上からでも判別できるほど赤黒く変色している。
右手には鎖が手錠のように嵌められ、鎖の先端は手すりに取りつけられている。それだけでなく、首輪もつけられており二重の鎖が天喰をとらえている。
長さは天喰が横たわって多少余裕がある程度だ。
逃亡するにしても鎖が邪魔だし、仮に鎖を外しても怪我だらけの身体ではヒカゲの手から逃れることなど夢のまた夢。
イサナが血まみれの天喰を見張る必要があるとは到底思えない。
「僕は逃がした前科があるからね、万全を期したい。逃がさないで。殺しもしないでね」
「逃がしませんし、別に私は殺しもしませんよ。人殺しにも興味ありませんしね」
「他人を助けることにも興味ないよな」
「えぇ」
他人に同情も憐憫も抱かない。
ヒカゲにどれだけ弄ばれている人間がいても、イサナは淡々とした眼差しだけを向けることが出来る。
だから、イサナはヒカゲの隣にいることができる。
ヒカゲがシャワーを浴びにリビングを後にしたので、イサナは血が付着していないソファーに座って足を組む。
フローリングに横たわっている天喰は、少しでも痛みがない場所を探しているのか、先刻より体の位置が若干ずれている。
死なないように手当をされているとはいえ、今にも死んでしまいそうなほど呼吸が弱弱しい。
「ははっ」
けれど、そんな天喰から笑い声が聞こえてきたので、イサナは思わず視線を合わせてしまった。
「君も、ヒカゲに負けず劣らず……くるって、いるな」
「ヒカゲと同一扱いは業腹ですね」
眉一つ変えず、淡々と返す。本を持ってくれば良かったと思った。暇つぶしには最適だったのに。電子書籍でも今後は持ち歩くべきかとイサナは天喰と会話しながら考える。
「何を言っているんだ……俺のつっ……、この、現状を見て、眉一つ歪ませず、気に留めない……君の、どこが、普通だというのさ」
言葉が傷に響いて苦悶の声を天喰は上げたが、イサナはヒカゲではないので興奮しない。
「否定はしませんよ。けれど、ヒカゲのやることにいちいち感情を露わにしていたらヒカゲの元で働けると思いますか? あぁ、ヒカゲのことは殺人鬼としてしか認識していませんかね? 普段は、探偵として働いているのですよ、やる気はない探偵ですけど。私はそこで助手として働いています」
「……そう」
「土日祝日は休みで、平日は朝の九時から夕方の五時までが営業時間です。残業手当や休日出勤はもちろん、ボーナスも支給されます。文字だけみればホワイト企業ですね。あ、有給もありますよ」
「殺人鬼の、ホワイト企業って……笑えないだろ」
「でしょうね。あ、そうだ。一つ、思っていることがあるのですけれど、貴方が最後に自殺させた女性の妹、彼女は死を望んでいたのですか?」
「……俺が、自殺へ誘導できるのは……心の奥底で、でも……死を望んでいる人だけだ……死をっ……微塵にも、願わない人を、追い込むことは、できないよ」
イサナの脳裏に、妹が自殺するはずがないと断言していた女性の顔が浮かぶ。
結局、それは女性の思い込みで勘違いだ。恐らく妹の本当のことは何も知らない。
自殺へ追いやった天喰の方が詳しいだろう。
そして自殺した姉もまた、自殺する感情が存在した。天喰がつけ入れる空洞があったのだ。
「俺を、殺して……といったら、君は、俺を……殺す?」
暇つぶしのように、天喰は訪ねてきた。
「いいえ、殺しません。
「そう……まぁ、殺されたい、とは思っていないけど」
「でしょうね。ヒカゲに甚振られながらも、貴方は、諦めていない。死を望んでいない。どうしてですか?」
純粋な疑問だった。三日も嬲られれば、願う願い等一刻も早く死にたいだけだろうに。この男には絶望がない。
「当たり前だ……一矢報いずして……死ぬのは、ごめんだ。ヒカゲの、思い通りになんて、なって……やるものか。あいつの希望のまま、俺は死ぬつもりはない」
「……そんな意思を持っているからこそ、今もヒカゲに遊ばれている自覚はおありで?」
「あるさ。でも、泣いてやめてくれと懇願しろと? ふざける、な。……わかって、いるさ……そうした方が、あの男の趣味から、外れることくらい……でも、だからといって、俺を曲げるつもりはない。あいつごときに、俺の矜持は奪わせない」
「……理解できませんね」
「そうか? 俺は絶対に、あいつの思い通りになんて、なってやらない……こんな状況に、させられてただ屈しろとでも?」
「プライドが高い」
「そうかもね」
イサナは話題を打ち切ることにした。天喰の一矢報いると決めた覚悟を見続けるつもりはなかった。
暇つぶしの道具は天喰しかないが、暇つぶしにこの男は向かない。
ヒカゲはシャワーが長い。長風呂を楽しむ、というよりも髪が長いからだ。しかも手入れを怠らない。シャワーからは程なくして上がったようでドライヤーの音がしている。イサナならば面倒でバッサリと髪を切るのに、といつも思う。
四〇分が経過した頃合いに、ヒカゲが戻ってきた。
黒のシャツにズボンに手袋、お団子に纏めきれなかった髪は垂らし赤いリボンでくくっていて、スーツの上着とベストを着ていないだけの、いつもの姿だ。温まっているからか、心なし血色が普段より良いくらいの違いしかない。
「ただいま」
「おかえりなさい。では、私はこれから旅行会社に行ってきますね」
「は? なんで?」
「ハワイへ旅行します」
「なんで!?」
「だって、ヒカゲは当分、天喰さんで満喫するのでしょう? ならば、探偵事務所は休業日です。仕事する気皆目なさそうですし。長期休暇が取れるチャンスなので、旅行にでもと思ったのですよ。ほら、有給は消化しないといけないでしょう?」
「なるほど。確かにまだ当分、此処に住み着いて天喰と楽しみたいところだ。いってらっしゃい」
「いってきます。適当に戻ってきますね。ヒカゲが天喰さんを今度こそ殺しそうなころ合いを見計らって」
「よろしくー」
イサナの目の前で、休憩時間は終わりだとばかりにヒカゲが天喰の前にしゃがみ込み、汚れを落としたばかりなのに、天喰の傷口に黒の手袋をはめた指を突き入れた。
悲鳴が上がる。けれどイサナは気にせず、旅行会社へ向かうため廊下へ出る――ハワイといったが、海外は面倒だから、熱海にでもしようかと考えながら。
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