第8話:自殺マンションⅣ
ヒカゲが天喰に触れようと手を伸ばしてきたので、天喰は動ける範囲で暴れた。
「ちょっと、暴れないでよ、運びにくい!」
「黙って何もしないわけないだろ、馬鹿か?」
「僕が天喰を落として顔に傷ついたらどうするの! 僕、力はそんなにないから人を運ぶのしんどいんだよ。あ、イサナにも手伝わせればよかった……」
「どれだけ俺の顔が好みなんだよ」
「今まで出会った中で一番」
「気色悪い!」
顔を狙ってこないとわかった段階で、ナイフで自傷するべきだったが、その段階では負けるつもりは毛頭なかったので自らに痛みを与えるわけにはいかなかった。
自由が利かないのは両手だけなので、足を使ってヒカゲを蹴ろうとするが上手くいかない。
ヒカゲは呆れる様子もなく――というより可愛いものを愛でるような眼差しを向けてくるのが、天喰には心底気色悪かった。
ヒカゲの黒い手袋が天喰の首に触れた。
「ちょっと、じゃあ抵抗できない程度には弱って」
ヒカゲの指に力がこもり、天喰の首が締め付けられる。
息苦しくなって、顔が歪む。ヒカゲの手を掴みたかったが手錠をはめられていて自由にならない。息が苦しい。酸素が欲しい。手を――放してほしい。
「――かっはっ」
天喰の意識が遠いたところでヒカゲは手を離した。
呼吸を荒くしながら酸素を貪ろうとするとヒカゲがまた首を絞めてくる。息が続かない。苦しくて生理的な涙が零れると、首の圧迫感が薄くなり、頬を手袋がなぞって涙をすくわれた。
視界が歪んだ中でヒカゲを見ると、恍惚としている。苦しんでいる姿に興奮しているのが伝わってきて、自然と吐き捨てるような笑みが浮かんだ。
「このっ……サディ……スト、が」
「いい表情、大好き」
「うるさ……」
反論しようにも、言葉が出てこない。酸素を求めて口が言葉を拒否する。
「安心して。加減はしてあるから。この程度で死んだら僕が困る」
天喰は、徐々に抵抗する力も失せていく。抵抗しようにも思うように身体が動かない。それよりも酸素が欲しい。苦しい。
「……ほんとうに、ふざけている」
それでも抵抗を止めたくなくて、弱弱しい声を出す。
「ふふ。俎板の鯉みたいな状況になっても悪あがきするなんて、本当に僕好みだ」
「君の好みのために、やっている……わけじゃない、君の……おもいどおりになるのが、嫌な……だけ、だ」
「知っている。でもそれはつまり僕好みなんだよ。天喰」
「さいあく」
身体を動かす気力を奪われた天喰をヒカゲは抱きかかえた。自分より身長も体重もある男を抱きかかえるのは、自己申告通り得意ではないようだったが、それでも見た目よりも力はあるのだろう。
千〇〇五号室のリビングに到着したヒカゲは安堵の息を吐いた。ヒカゲにとって明瞭な天国であり、天喰とって明白な地獄だ。冷たいフローリングの上にヒカゲは丁重に天喰を置いた。
その瞬間を狙って抵抗したが、満足にはいかず払いのけられ、天喰は腹を蹴られせき込む。
「あは。やっぱ最高だね天喰。それとも痛いのが好きだったりする? 僕としては苦痛に興奮されても困るんだけど」
天喰は黙れ、と言おうとしてヒカゲが折り畳みナイフを取り出したのが見えた。
逃げようと身体を這わせるが、無駄な抵抗でしかないことは天喰にもわかっていた。それでも無抵抗だけはなりたくない。
途端、熱く燃えるような痛みが全身を駆け巡って、天喰は声の限り叫んだ。
「あははっ」
ヒカゲが笑う。足を抉るようにナイフが刺さったのだと数秒遅れて天喰は理解した。
突き刺さったナイフは、混ぜるように動かされる。
「つっああああ!」
天喰は目を見開き、足の痛みが身体を支配していく感覚に涙があふれる。
悲鳴を抑えようとしても、強烈な痛みが声となって逃げ道を探し飛び出してくる。
いっそ意識を失えばよかったのに。鮮烈な痛みは、意識を覚醒させる。
「想像通り、素敵な悲鳴だ。どんな
「っ……うあ、あぁ……」
ナイフが足首から容赦なく抜かれる。天喰が痛みに呻いていると、反対側の足首も同じようにナイフで貫かれた。
視界が暗転するのに、現実は消えない。
「ねぇ天喰。僕の失敗談を聞いてくれ」
拳を握りしめて必死に痛みを我慢しようとする天喰に、能天気な声でヒカゲは語り掛ける。
「昔ね、好みの多分男がいたんだ。だから、甚振って遊んだ。けど、予想外のことが起きた。もう指も動かせないくらい衰弱しきっていたはずなのに、男は反撃してきたんだ。想定外のことに僕は反応が遅れた。その隙を突かれて男は逃げた。逃げられるなんて、人生で初めてだった」
「っ――ぐ、あ、はぁ……はぁ……」
「追いかけたけど、姿は発見できなかった。あの傷で僕から逃げ出せるなんて思わなくて、どうしようかと思った。警察に捕まるのは困るから逃亡も視野に入れていたんだけど、結局警察は来なかった。のたれ死んだのかな? まぁその辺はどうでもいい、名前も顔も覚えていないから調べることはできないしね」
「どう……して、おぼえて……い、ない?」
掠れた声で天喰は訪ねる。名前は知らなくとも、甚振っていた男の顔を覚えていない事実が疑問だった――いや、ヒカゲは多分男と、普通ならば入らない曖昧な語が装飾されていた。好みの顔を甚振って、曖昧になることがあるか? 天喰は理解できない。
「僕は、殺した人間の名前と顔は覚えないんだよ。殺し損ねた人間も同様だ。僕の玩具が目の前からいなくなればそれまで、記憶から消去される。だってそうだろう? 僕の玩具じゃなくなった肉塊に興味なんてない」
「……この、殺人鬼が……、一体、何人ころしたんだ……」
「日記なんてつけてないよ」
「……何も覚えていないのかよ」
「んーいや、僕も覚えていることはあるよ」
「何をだ」
「僕が最初に殺した人間」
「……それ、は……」
「高校の頃。僕は初めて人を殺した。受験前じゃなかった気がするから多分、二年生くらい?」
首を傾げるあたり、最初に殺した人間に関して覚えていることも怪しいものだな、と痛みの中で天喰は思う。苦痛は断続的に襲ってくる。
泣き叫んでやめろとは、プライドが許さなかった。
何より、許しを請うた所で、この男が止めるとは到底思えない。
「高校の時は、将来公務員とか一般企業の社員になりたかったんだよ」
「信じられないな……。どうしてなら、人なんて……いや、殺してみたら、楽しかったのか」
足の痛みで言葉を忘れそうになりながら、続ける。苦悶の表情にヒカゲは極上の幸せだ、とばかりに表情を緩めているのが、業腹だった。
「正解。元々、人の悲鳴とかに興奮する性質だったからさー、殴っちゃったりすると歯止めがきかなくなるんだよね。けど、法を犯すことはいけない。危ない橋を渡らないように気を付けて生きてきたんだ。でも、ダメだ、一度殺してしまったら戻れない。あの時の快感が、快楽が忘れられないのさ、そこからはもう転げ落ちたよ。一度崖から落ちれば登れない。でも、今はそれで良かったと思う。普通の生活を送るなんてつまらなくて退屈だっただろうから」
「そのまま、一生を終えれば、よかったものを……」
「最初に、殺した人間は僕の――親友だ。危ない出来事は避けていたんだけど、妹の親友を殺した黒髪フェチの殺人鬼がいてね? そいつが長髪を狙っていたもので」
「……君、高校から長髪だったわけ?」
「妹が短髪だったから」
意味がわからなかったが、尋ねる気力はなかった。
「妹は復讐に燃えていたんだけど、短髪は犯人の性癖に引っかからなくて。で、僕に囮を依頼してきたんだ。危ないことに首を突っ込みたくなかったのに酷いよね。見事に僕は狙われて、さ。反撃したら快感が凄くて。他人の血とか見ていたら自分の欲望を我慢できなくなって、偶々いた親友? を殺した。あの時の絶望に満ちた瞳はたまらなかったね」
言葉の所々に正確さがない。曖昧な記憶を引き出して言葉にしているだけだ。外部装置で後付けされた記憶の可能性すらある。
「……なぁ」
天喰は痛みの中、笑う。
「君さ、その親友の名前覚えているのか」
「そりゃ最初の人なんだから、ん? 覚えて……誰だっけ?」
「どこが……親友なんだ」
「親友だよ。僕は記憶力は悪くない。そいつが、僕たちは親友だねって言ったのを覚えている」
「……それは、君からも親友だったのか?」
「……? なんで僕から親友だと思わなければならない? 相手がそういっていただけだ。ああ、そうだ、高校の卒業アルバムでも見れば思い出せるかもしれない、卒業アルバムで死んでいる奴がいたら、それが最初に殺したやつだよ」
名案が浮かんだ、と手を合わせるヒカゲだが、天喰は思う。
果たして、その高校で死んだのは――殺されたのは、親友だけだったのか。
「っ――この、
「あははっ。あぁでも、天喰のことは忘れない気がする。此処まで僕の好みに合致した人は初めてだからね」
「……きしょく、わるい、あと狂ってる……。そもそも、他人の顔と名前を覚えられないやつが、俺のことを覚えていられるわけがない……だろ。どうせ、そのうち俺のことも殺したら、忘れるよ。今だけだ。いま、だけ。たまたま特別に思えているだけだ」
殺してきた相手との出来事を曖昧にしか記憶できなのであれば、例えどれだけ好みだといっても一過性だ。天喰と出会うより以前に殺した相手にも、天喰にかけた言葉と同じようなことを言って、忘れている可能性だって大いにある。
「酷いなー。まぁ狂っているとはよく言われる。でも、狂っているつもりはない。欲望に忠実なだけださ。だからね、僕は殺し損ねたやつの、顔も名前も覚えていないけど逃げられた事実だけは脳裏にはっきりと残っている。同じ轍を踏まないようにそれ以降、殺す相手はまずは足を使い物にならなくすることにしたんだ」
この男は悪魔として生を受けるはずが、手違いで人間になってしまったのだと天喰は思った。
「足を切り落としたり、抉ったり折ったり、串刺しにしたり、まぁ方法はさまざまだけど、とりあえず逃げ出すことはされないようにするんだ。天喰の場合は、僕の好みだから切り落としたりはしないよ、安心して。全ての
どこに安心材料があるのだろうと天喰は失笑する。
「天喰が強かったのは意外。知識人だと思ったから武力行使は長けてないと思った。しかも反抗的で未だ僕の手から逃げるのを諦めていない」
ぐっとヒカゲは天喰の前髪を掴んできた。白い雪の肌と、光のない黒が嫌でも映る。
「だから、普段以上に逃亡防止策を取ろうとは思うよ」
前髪から手を放し、ヒカゲが一旦リビングに放置されたままの段ボールの元へ移動して封を切った。中から取り出したのは、鎖だった。天喰へ見せびらかすように両手をヒカゲは広げた。
「ちょ! も、もしかして……」
「鎖つけたら、簡単には逃げられないだろ? こんなにも好みの顔は久々なんだ、楽しませてよ」
にっこりと微笑んだ様子に、天喰は吐き捨てるように言った。
「……はっ、予想外って……なに、言ってんだ……。俺がっナイフを、向ける前から……拘束する気……まんまん、だったんだっろうが!」
痛みで言葉が途切れ途切れになりながらも、罵声する。
「だって、外見だけでも天喰は僕の好みだったし。だから、普段以上に楽しもうと思っていたから、準備だけはしていた。けど、使わない可能性もあった。天喰が外見だけ僕の好みであったのならば、ね」
鎖が天喰の行動を制限すると、ヒカゲは手錠の鍵を取り出し、天喰の手と手を拘束していた手錠を外す。
「手錠の跡、残ったら嫌だしね」
「ナイフで足を抉ったやつが、何を……というか、首輪も手錠も似たようなものだろ……」
あまりにも身勝手な言葉に、現実から離れたような感覚に、天喰は顔を歪ませる。
「可愛いな。天喰」
「かわいくなくて、結構」
ヒカゲが続いて取り出したのは医療キットだった。
「足首からの出血多量で死なれたら困るからね。止血だけはしてあげる。特別サービスだよ、普段の僕ならそんなことはしない。遊んでそのまま殺しちゃうからね。でも、天喰とはそいつらよりも長く遊びたい気分。そんな簡単に死んだら、僕は悲しい。一日くらいは持ってね」
ヒカゲが笑う。
手慣れた動作で止血をしていくヒカゲは、消毒液が傷口に染みる天喰の顔に興奮して、止血を放り投げて甚振りたいような顔をしていた。天喰は顔を引きつらせる。
猛烈でやむことのない足首の痛み等――まだ序章なのだということを思い知らされた。
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