第5話:自殺マンション

「全てから解放される方法を教えてあげよう」


 甘美な声が、溶けるように脳を揺さぶり、思考が麻痺する。

 夜景を見下ろすと、幻想的な死が蠱惑してくる。

 木霊の祝福を求めて、彼女は足を踏み出した。


「あはは! 人が死ぬ様は、なんて甘美なんだろうか」


 祝福な世界に、亀裂がはしる。拍手と笑い声が、彼女の耳に届いた。

 けれど、事象を把握するよりも前に、闇に溶け落ちた。




「妹が自殺するはずなんてないんです!」 


 探偵事務所に殴りこむようにやってきた彼女は、甲高い叫びとともにガラステーブルへ手を叩きつけた。

 うるさく捲し立てる声や調度品を叩きつける感情的な行動は耳障りだが、欠点を容認できるほどに、ヒカゲから見て、彼女の相貌は整っていた。艶やかな黒髪は腰まで伸ばしており、白のワンピースに薄茶色のカーディガンを羽織った姿は、黙っていれば清楚な令嬢だ。

 この間、仕事帰りに見つけた美女は、好みの声で悲鳴を上げてくれなかったので、ちょうど良かった。


「妹が自殺か他殺かを調べてほしいということでいいかな?」

「ええ、そうよ」


 悲嘆と熾烈を秘めた目線が頷く。


「警察だって自殺か他殺かは調べたはずだよね?」


 この間は、妹のために殺人を犯そうとした姉がいた。

 今度は、死んだ妹のために自殺を覆したいと姉が願っている。

 色々な姉がいるものだと、兄であるヒカゲは思ったし、特に妹であるアゲハのために何かしてあげたいという感情はないなとも思った。


「えぇ。妹はマンションの屋上から飛び降り自殺をして死んだ。それが警察の見解です。屋上に争った痕跡はなく、遺書がありました」

「遺書?」

「妹の筆跡で『死にたくなったので。死にます』とだけ書かれていました」

「なのに、どうして自殺じゃないと思ったんだ?」

「自殺する理由がないからです」


 それ以外の答えはないとばかりの断定に、ヒカゲは少し辟易した。

 気が強そうなので、殺すときは楽しそうだが、それまではストレスが溜まる。


「どうしてそう言い切れる?」

「妹のことは何でも知っているからです」


 胸を張って依頼人が答えたので、ヒカゲは目を細めた。美人でなければ追い返している。

 ヒカゲの無言を、先を促しているのだと勘違いしたようで、妹のことを語れる嬉しさに頬を染めながら依頼人は語った。


「私はなんだって知っていますよ。私と妹は通じ合っているのですから。だから、順風満帆な生活を送っていた妹に死ぬ動機なんて蟻の隙間ほどもありません。なのに、無能な警察も、無能な探偵どもも、私にも打ち明けられない悩みがあるから自殺した、なんてお笑い種の回答しかなかったのです」


 警察が自殺と判定したら自殺だろうし、探偵も十人十色だが、十人が十人、自殺と判定しているなら自殺だろう。

 彼女が求めている答えは他殺の一つで、どれだけ確固たる自殺の根拠を並べても受け入れないことが明白だ。

 だが、ヒカゲは他の探偵のように自殺を告げて喚かれる心配はないし、無能だと罵られることもない。何せ、彼女は、美人だから。


「依頼は受けるよ」

「有難うございます。期待しています。これを参考資料としてあげます」


 鞄の中から依頼人が取り出したのは、ラミネート加工された一枚のチラシだった。


「マンション?」


 異様に家賃の安い、マンションの入居者募集中のチラシだ。


「妹は、来年の春に大学を卒業します。大手企業に就職も決まり、婚約者もいます。けれど、そんな妹の――唯一の欠点が、それです」


 マンションは普通、人の欠点として扱われない。依頼人は視線を彼方へ向けて涙を零した。

 情緒が不安定な依頼人には帰宅を願いたいが、マンションがなぜ欠点なのかはヒカゲも気になる。


「そのマンションは『自殺マンション』と呼ばれています」

「なんだそれ?」


 初めて耳にする言葉だった。ヒカゲはさりげなくイサナの方を見るが、イサナも首を横に振る。


「その名前の通り、入居者が次々と自殺するいわくつきのマンションです。集団自殺、練炭自殺、首つり自殺、飛び降り自殺、飛び込み自殺、リストカット、二酸化炭素中毒死、水死、焼死、あらゆる方法で死にます。驚くほどの死亡率を誇っていますよ。死ななかった人は、自殺者に恐れおののて夜逃げにも等しく出て行った者たちだけ」

「事故物件も拍手喝采の死亡率はなんだ?」


 依頼人の言葉が正しいのならば、誇張なくまさしく『自殺マンション』だった。


「普通、マンションで自殺者が出る確率なんて、そこまで高くはありません。せいぜい、一人や二人でしょう? けれど、自殺マンションは異様な程、自殺者が出るのです。まるで、何かに呪われているように、まるで――」

「人の悪意が紛れているように、か」

「そうです。明らかに異常です。警察だって異様であることは把握していますが、自殺以外の余地が発見できず全て自殺で片づけられているのです」


 明らかにおかしな物件。

 けれど死の回答が自殺であるのならば、それ以上の捜査は見込めない。


「どうして、最愛の妹が自殺マンションに住むことを許容した?」

「妹から事故物件であることは聞いていました。私は反対しましたが、現実主義な妹は幽霊が出るわけはないのだから大丈夫だと主張しました。立地面でも設備面でも、事故物件であることを除けば素晴らしい条件を兼ね揃えていたので、妹も譲る気はなかったのです。私は自殺マンションだと知りませんでしたから、最終的には折れました。そして妹は、自殺マンションで一人暮らしを始めたのです。知っていたら、私は絶対に許容しませんでしたよ」


 事故物件の内容を詳しく調べなかったことを、依頼人は激しく後悔しているようで、膝に置いた拳が震えていた。

 事故物件が『自殺マンション』だったと予想できるものは誰もいないだろうから、仕方がないともいえる。さりとて、妹が大好きな姉としては、全てを知らなかった傲慢な怠惰をせめているのかもしれない。ヒカゲには興味のないことだが。

 だが、一つわかることがある。


「成程ね。ところで、お前は今どこに住んでいるんだ?」

「勿論、自殺マンションですよ」


 彼女が、微笑んだ。確認する必要もないことだった。

 チラシには、入居者募集中のマークが一面記事のように書かれているのだから。

 自殺マンションは、都心の駅から徒歩五分圏内で、交通の利便性も高い場所が最寄り駅だった。当然ながら駅周辺には買い物に困らないだけの施設がある。

 十階建ての高層マンションで、築年数もまだ新しく、チラシに映る外見は綺麗だ。

 駐車場も完備しており、部屋は一人暮らしを推奨しているのか1LDKの作りが多いが、2LDKや3LDkも少しながらある。

 トイレ、風呂は別で、エアコン完備。必要な情報を端的に、そして綺麗にまとめていた。

 ヒカゲはチラシのある一点に惹かれた。その文字は防音完備だ。

 異様に安い月三万の家賃は、普通ならばあり得ない価格設定だし、何か裏があるのではと勘繰らせるのに十分だ。


「……相場狂いすぎだろ」

「当初は家賃も、立地相応だったそうですよ。けれど、人が死にすぎて、人が住まなくなったので家賃も破格になったそうです。人が住まない部屋は、朽ちていくのが早いですからね。とはいっても、それでも自殺マンションの異名? 悪名が高すぎて、新しい人が入居してもすぐに退去するか、それか」

「自殺するか」

「そうです。お蔭で今、このマンションに住んでいるのは私と管理人だけになりました」


 管理人と依頼人しか住んでいない十階建ての防音完備のマンションは、ヒカゲの興味を惹くのに十分すぎる材料だった。

 廃ビルで人を殺すより十分に心が躍る。

 そもそもあのビルは人殺しを楽しむには最適だが、万が一不法侵入があったときに備えて、綺麗に整えた状態で置いておけないのが難点だった。見た目を廃ビルにしているせいで、中身も廃ビルに偽装しなければいけない。

 けれど、このマンションであれば、自殺マンションとしての異名があり、周辺住民も近づかない上に、ひとけもなく防音も完備している。これほど人を殺すのに適した物件もそうはない。

 何より、自殺マンションはヒカゲが用意した物件ではないので、探られて痛い腹はないし、間に誰かをかませる必要性もない。

 このマンションを借りよう、とヒカゲは決めた。

 調査した結果を後日伝えることにして、依頼人に帰ってもらった。ヒカゲは楽しい気分で置いていってもらったチラシを指先でなぞる。


「自殺マンションに興味津々ですね」

「うん。あの女を殺すちょうどいい物件だ」

「せめてちゃんと依頼を達成してからにしてくださいよ?」

「自殺マンションに入居したらすぐにって思ったんだが」

「駄目です。舘脇さんの報酬だってちゃんと依頼を完了してからでしょう。食後のデザートはちゃんと仕事をした人に与えられるべきです」

「じゃあ自殺マンションに行こうか。イサナもくるでしょう? 面白そうだし」

「そうですね。少々興味を惹かれます」


 ヒカゲの興味の対象は自殺マンションへ大分移っていたが、それも依頼人の女性が美しいからだ。自殺マンションに自殺の由来があったとして――おそらく自殺である事実だけは揺るがないのだから、調査にはさして時間がかからないだろう。

 事務所を後にする。自殺マンションの広告が出ている場所までは、事務所から電車で二駅の場所にある。

 駅に到着し、改札を降りると、オフィスビルが立ち並び、交差点の前では信号待ちの人が集まっている。

 周辺を軽く眺めても、駅ビルが並び、車通りが多い。人の多さにヒカゲは辟易としながらも、青信号の流れに従って歩く。

 冬の訪れが近く、コートのポケットに手を入れた。黒の手袋は常にしているから、指先は冷えないが、耳が冷たい。

 徒歩五分とチラシに広告されていた通り、写真と同じ外装の清潔感溢れる十階建てのマンションが姿を現した。

 エントランスはガラス張りで、お洒落な雰囲気を醸し出している。


「いい外見ですね」

「そうだな。まさに、いいところだ」


 エントランスはひとまず無視して、駐車増を確認する。広々とした駐車場に車は一台しか止まっていない。


「空しい駐車場ですね」

「まぁあの女しか入居者がいないのだから仕方ないだろう」

「あの車は彼女のものでしょうか?」

「違うだろ。あの女なら軽自動車で愛らしいのを選ぶ。水色の車とかが好きそうだ」

「それはそうですね」


 ヒカゲは楽しくマンションを眺める。駐車場を完備しているお陰で、隣のマンションまでの距離が伸びている。駅から徒歩五分だが、住宅地に近いので喧噪は少ない。静寂な環境は、都会の廃墟のようだ。

 その時、丁寧な足音が聞こえてきた。依頼人のヒールの音ではない。

 自殺マンションを見物にきた物好きという音でもないから、恐らくは管理人だろうとあたりを付けてからヒカゲは振り返り、一瞬、硬直した。


「どちら様ですか?」


 玲瓏な声をかけられて、ヒカゲは咄嗟にイサナの背後に隠れた。

 背中越しにイサナの困惑が伝わってくるが、ヒカゲはイサナのカーディガンをぎゅっと掴むことしかできなかった。


「えっと……?」

「あぁ、すみません。私はこのマンションの管理人です」

「勝手にすみません。物件のチラシを拝見しまして、どのような場所か実際に伺ってみようと思ったのです」

「なるほど。構いませんよ。どうぞ、好きにみてください」

 

 感情に起伏を持たせて、イサナは礼儀正しい女を演じて対応している。

 ヒカゲは深呼吸をしてから、もう一度声をかけてきた管理人を見ようと、イサナの左側から顔を出した。管理人と視線が合い、イサナの背後へ隠れた。

 心臓の鼓動が早いのが、わかる。やけに緊張をして、呼吸に戸惑う。

 その管理人は、青天の霹靂のごとく――ヒカゲの好みだった。

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