第4話:探偵事務所Ⅱ
行方不明の妻を見つけたい夫は、妻の姉の家を調べてくれと、ヒカゲに依頼をしてきた。
男は、憔悴と切迫した顔で、おしどり夫婦で仲の良さを主張してきたが、実際には、束縛心が強く、妻を所有物だと思っている。
だから、姉はそんな男から妹を救おうと、男が雇った探偵であるヒカゲを殺そうとした。
そうなる可能性をヒカゲは読めてはいたが、本当に殺してくるとは思わなかった。
「やめておけ。お前じゃ、僕は殺せない。大体、僕を殺したら――あの男の思い通りになるぞ?」
「え? どういうこと」
憤怒の形相だった姉の、包丁を握る手が震えた。
「あの男が、何故、僕のような探偵に依頼したのか。答えは簡単だ。お前が僕を殺してくれたら嬉しいと思っているからだ。さて、もう一度尋ねるが、その筋書き通りになりたいのか?」
男は、ヒカゲの探偵事務所を訪ねる前に、隣町の探偵事務所を訪ねている。
隣町の探偵事務所は人手が多く、義姉の家に妹がいるか確認してほしい程度の依頼を断るとは思えない。
だから、断ったのは男の方だ。
名刺の一番上がたまたまその探偵事務所だっただけで、恐らくは他の探偵事務所をいくつも回っている。
根拠は簡単だ。男はヒカゲとイサナの姿を見て安堵したからだ。
その安堵は、探偵事務所を見つけたからではない。
殺しやすそうな探偵をようやく見つけたからだ。
あの段階では、ヒカゲかイサナのどちらが探偵か不明だろうとも、両方殺しやすい見た目に変わりない。
「それと、押入れの中に妹を匿っていたところで、さしたる意味はないぞ」
「――! どうしてそれを!」
「いや、流石にわからない方がおかしいだろう。整理整頓をしっかりしているお前が、どうして布団を、押し入れの中にしまわないんだ。人を隠していたからしまえなかっただけだろう?」
ヒカゲの言葉に、姉はどうするのが正解か必死に頭を悩ませているようだったが、姉を制止させる切実な声が響いた。
ヒカゲがそちらへ視線を向けると、姉と似た顔立ちだが、気の弱そうな暗く沈んだ顔をした女性が、縁側の柱に手をつきながら立っていた。
「あんた、なんで出てきて!」
「だって姉さんが人を殺そうとするから!」
「黙って!」
「ちょっと、姉妹喧嘩は後にしてくれない? 喧嘩眺める趣味はないんだ」
姉はヒカゲを親の仇のように睨みつけてから、包丁を井戸の方へ転がして捨てた。
「わかったわ。リビングで話しましょう」
覚悟を決めた声は、驚くほど真っすぐだ。
姉はすたすたと歩き、妹と合流して、妹を庇うように背中に手を当てて姉はリビングへ消えた。
ヒカゲは最後に井戸を一瞥してからリビングへ向かう。常緑樹で囲まれた庭は、中で起きた出来事を外へ漏らさない。
洋風に改装されたリビングの椅子に座るように勧められ、ヒカゲは妹と姉と向き合う形でテーブルに肘をつく。勝気な姉はヒカゲを睨みつけ、弱気な妹は視線を伏している。妹は疲れた顔のせいか、姉の方が年下に見えた。
「どうして?」
全てに対して姉は答えを求める言葉を発した。
「まず第一に、妹の夫はこういった。妻は友達がいない、遠くには行けないと。つまり、妹は自由な状況じゃなかった」
「そうよ。妹の友達は、あの男に騙されて妹から離れていった。財布を管理されているから、妹には自由に使えるお金はなかった。日に日にやつれていく妹を、放っておけるわけないじゃない。妹には幸せになってもらいたいの。あんな結婚認めるんじゃなかったわ……」
「結論として、お前が妹を取り返しに行ったとなる。自殺とかを除外すればね」
孤立させられた人間に、頼れる先は少ない。そして、姉は最後の蜘蛛の糸だ。
「ごめんなさい姉さん……私のせいで」
「あんたが謝ることなんてない! すべてはあのくそ野郎が悪いのだから」
だからこそ、行方不明になった妻の行き先が夫にはわかった。
わかっていたから三日間行方不明で憔悴した顔をしながらも、演技をしない場面では綺麗な男に見せるためにスーツには皺ひとつなかった。巧妙に顔を男は使い分けた。
「妹の場所が分かったのは、簡単すぎるので除外」
妹が足を怪我しているのは、見れば一目瞭然だ。布団をすべて出していたのも、怪我が原因で窮屈な体制をとれないからだ。足の怪我が、夫の暴力かは興味ない。
「次に、どうしてお前が僕を殺そうとしていたのかが、わかったかだけど」
「背中に目がついてなかったら、気づいていたってことだものね」
姉は開き直ったようで、口調がフランクだ。
「井戸だよ。子供が万が一落ちたら危ないとわかっているのに、蓋を開けたままにするわけない。観光地なんだろ?」
「あぁ、それで。確かに普段は子供が危ないことをしないように井戸をふさいでいるわ」
「インターホンにお前が応じてから、姿を見せるまでに時間があったのは、もろもろの工作を大急ぎでしたからだ。僕を刺してそのまま井戸へ突き落とす算段だったのだろ? だから井戸は開いていた。包丁はサイズのあっていない服に隠した」
姉は露骨に舌打ちをした。その心は妹を守ろうとする気概が伝わってくる。
「さて、妹は義姉の家にいると確信している夫が、どうして探偵を雇ったりしたのか。なんでだと思う?」
「そうよ。なんで? わからないわ」
「雇ったのは、お前が邪魔だったからだよ。妹の友人は排除し、金銭的に管理して自由を奪った。けれど、妹の姉だけは排除できなかった」
「なら、私を殺せばいいじゃないの」
「姉さん!」
悲痛な声を妹は上げた。姉はそれを手で制する。まっすぐな瞳が歪むことなく、ヒカゲを見据える。
「そんな、自分が捕まるようなリスクを犯す必要はない。それ以外にも妹からお前を奪う方法がある」
「あ……殺人犯として逮捕されること?」
「正解」
「けど、ふざけているわね。だってそうでしょう? そんなこと普通しない方の確率が高いわ。計画というには杜撰。見ず知らずの他人の人生を奪うような短絡的な行動に出ると思っていたの?」
「それは本当にそうだし、僕も短絡的過ぎてびっくりするくらいだ」
「……ごめんなさい」
姉は素直に謝った。
男の計画の全容は早い段階からわかっていたが、低確率の殺人を姉が選んできたのは、さすがにヒカゲも予想外だった。
井戸を勧められたから、刺してくるなと気づいたが、その時ばかりは「えー」と思わずにはいられなかった。
「実際には、杜撰で構わないんだよ。殺さなくても、あの男に困るものはない。ああ、いや、懐からお金は少し消えるな」
「困らないってなんでよ」
「お前たちは追い詰められていた。いつ夫が殴りこんでくるかもわからない心理的な負担が大きいところに、探偵がやってきた。このままでは、妹があの男の元へ連れていかれてしまう――何とかして助けたいと思っている姉がとる行動として、探偵を殺してしまう、そんな短慮な方法に至ったとしても、不思議ではない。そうなってくれたら嬉しいな、的な要素だったんだよ。殺した先をどうするか考えていない。それもまた、追い詰められた人間の精神だろ?」
姉の顔色が青白くなった。実際、姉は、男の手のひらで踊らされていたのだ。
本当に殺してくれるとは思っていない。思っていないけれど、殺してくれたら嬉しいからその筋道を作る。
「とはいえ、男も殺してくれたら嬉しいから、確率は上げる手段をとっていた」
「は?」
「お前は、僕に対してどういう感想を抱く?」
「探偵と名乗っているから未成年ではないわよね? と思う程度の童顔。美人よね。真っ黒で不審者だけど……探偵っぽくはないわね。トレンチコートを着たおっさんじゃないし……。女とみるには声は低めだけど、十分通じそう……あぁ、わかった」
虚に姉は、夫がヒカゲを選んだ理由に合点がいったようだ。
「あんた、殺しやすそうなんだわ。おっさんとか数人だと私も馬鹿な行動は起こさなかった。けど、あんたなら、男でもひ弱そう出し殺せそうって思ったんだ。ハードルが、下がってしまったってことね?」
「当たり。そして、別にお前が僕を殺さなかったとしても、僕が妹を見つけ出せばいい。見つけられなくても居所はわかっているから、二の矢、三の矢を打てばいい。焦る必要なんてどこにもない。のんびり家でお茶を飲んでいればいいわけだ」
「あぁ本当にあいつに損なんてなかったんだ」
「そーいうこと」
「で、でも!」
妹が割り込んで口を開いた。
声が震えている。姉が殺人未遂罪で逮捕される未来を恐れているのだ。
結果としてヒカゲは生きているが、姉が包丁を向けて殺そうとしたことは事実だ。警察に通報すれば、それで姉は男の思い通りの結末を迎える。姉妹の命運をヒカゲは握っていた。
「どうして姉さんが、私のために人を殺そうとする筋書きをあの人は作ったのですか。普通、私が殺すとは思わないのですか!」
「妹を守りたい姉ということを、わかっているからだろ? あとお前は単純に手札が少ない」
「手札ってどういう」
「例えば、今回。仮に僕を殺せていたとしよう。その場合、殺人が可能なのは姉ということになる。何故だと思う? 姉が妹に嫌疑が向かないように包丁を凶器にして、井戸に突き落とそうとしたからだ」
「え?」
「お前が叫んだ時、姉は包丁を茂みに放り投げたのを覚えているか? 普通、包丁は台所へ戻すだろ。わざわざ捨てる必要はない。つまり包丁は投げなければならないものだった。人も殺していないのにどうして? 簡単だ。妹は先端恐怖症だろ? 部屋の隅々もそれを示唆していたし。そして、井戸へ僕を落とした後に蓋をする、隠ぺい行為は怪我をしている身体じゃ難しい」
「そ、それはでも関係なくないですか?」
「関係あるよ。妹のために姉はそうする。妹が殺すには手札が少ないから確率として低い」
先端恐怖症も怪我も、夫は事実として知っていた。
そして姉は妹を救うためならばどんな手段も辞さないことを知っていた。
人を殺すなら姉だと確信があったから、殺してくれたら嬉しいなを実行したのだ。
「そんな……」
「男にとって、別に危ない橋を渡っているわけじゃないからな」
「……お願いです。探偵さん。警察に、通報しないでいただけますか。図々しいのはわかっています。でも、姉は私のために。私なんかのために、人生を棒に振ってほしくないのです」
妹がテーブルに額をつけて懇願した。
「別にいいよ」
「え、いいの、ですか?」
懇願しながらも、無理な願いだと思っていたのだろう。妹が逆に当惑していた。
「怪我一つしていないからな。あぁ、でもそうだな。何もないというのもあれだし、金一封で手を打とう」
「わかったわ。その方が私も罪悪感を抱かなくて済む」
実際には、ヒカゲが警察と仲良くなりたくないからが理由だが、手を打ちやすい状態に持っていくのは有効な手段だ。
まさか姉も、ヒカゲが実は探偵である以前に殺人鬼であるとは露ほども思っていないだろう。思っていたら流石に殺すしかなくなる。
「そうだ。老婆心ながら? 一つだけアドバイスを教えよう」
「何?」
「妹を救うため、男の愚行の証拠はちゃんととってあるか? あるなら大切にしろ。ないならちゃんと用意しておけ」
「準備しているけど……そうするとどうなるの」
「幸運の女神が微笑む」
「どういうことよ? 私が殺そうとしたことも金一封で手をうつし、最後にはアドバイスまで。あの男が依頼した探偵じゃないの?」
「お前たちの運がよかった。それだけだよ」
姉と妹は揃って同じ方向へ小首を傾げた。彼女らが意味を理解する必要はない。
ヒカゲは古めかしい日本家屋から外に出てから、時計を見る。那由多の今日のシフトは早番だから残業でなければ仕事終わりだ。電話をかけた。
『おい、ちゃんと生きているんだろうな?』
電話に出た那由多の声に、珍しく心配の色が滲んでいる。らしくもなくて、少しだけ困らせればよかったとヒカゲは思った。
「せっかくメールで、那由多の同僚の姉が追い詰められているって教えてあげたのに、感謝の言葉から始まらないわけか?」
『助かった。まさか最近体調不良で休んでいると思ったら、仮病だったとはな』
妹の姉――苗字は青木。彼女は、那由多の職場の同僚だった。
「自分が仕事に行っている間に、妹の夫が取り戻しに来たら困ると思ったんだろうね。僕は、あの男には、妹は見つからなかったって報告するけどいい?」
『いや、妹は見つかった。明日には戻るから今日一日は姉と一緒にいたいと懇願されたから承諾した、と返事をしてくれ。外面よくしているなら、要求を受け入れざるを得ないだろ?』
「ん。わかった」
『そうしたら、オレがあとは何とかする』
幸運の女神――とは那由多のことだ。男だから女神の表現はやや違うかもしれないが些細なことだ。
「そうだな。あとは那由多のお好きにどうぞ。僕は別にどっちでもよかったし」
どちらもヒカゲの好みの顔ではなかった。他人の家庭事情の悲劇にも興味はない。
依頼をしてきた男が、束縛芯の強い屑野郎だったとしても、ヒカゲが困ることはない。妹が連れ戻されて結果、自殺しても痛むような心はない。
ヒカゲを殺そうとしてきた姉を生かしておく必要もなかったし、ヒカゲに死んでくれたら嬉しいと思った男を生かしておく必要もなかった。
ただ、姉を殺すと友人の那由多が嫌がるから、天秤を姉に傾けたに過ぎない。
『ああ、オレの好きにする』
「あはは。あの姉妹も、あの男も思ってもみないだろうな。まさか、姉が那由多と同じ店で働いていていなくなったら困るって理由で、助かるなんて」
偶然とはかくも面白いものだ、とヒカゲは笑う。
『オレにとっては重要なことだ。寿退社ならまだしも、それ以外の理由で辞められたら困る。オレも残業しないといけなくなるし、新人を雇うのだって簡単じゃねーんだからな。そもそも、青木が誰かを殺してしまったら、殺人犯が務めていた店って扱われて風評被害でマネージャーの胃に穴があく』
生真面目なインテリ眼鏡のマネージャーならば、確かに胃に穴が開くだろう。だが、
那由多が逮捕された時は、マネージャーの胃に穴が開くだけでなく自殺さえあり得る。
何せ、那由多の人間を食材とした料理は、食事に提供されるだけでなく、まかないにも使われているのだ。知らずに食べた人間が、平然と生きられるとヒカゲは思っていない。
『じゃーな。今回は助かった。今度、飯奢ってやるよ』
「やった。パンケーキがいい。新しくできたお店の生クリームが猫の形していて可愛いんだ」
後のことは全て那由多が、那由多の都合のいいように動く。
もしそこで人手が必要になったら連絡をしてくるだろう。
「さて、と。仕事したことだし美女を探して帰ろう」
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