第3話:探偵事務所
毛布がない。手と足を動かして探すが見当たらない。寒さに身震いしながら、重たい瞼を開けて身体を起こすと、向かい側のソファーでイサナが毛布にくるまっていた。
イサナの手にはエアコンのリモコンが握られており、冷たい風がヒカゲの身体にあたる。
「僕に風邪を引かせるつもりか!」
「上司がソファーで寝ていたのでつい。早く着替えてきてください。寝癖も酷いですよ」
イサナが冷房を切った。
「ん……眠いんだけど……」
黒い手袋をはめた手で瞼をこする。
昨夜、美人を殺して満足したヒカゲは、那由多に連絡して死体を引き取らせた後、自宅へ帰るのが面倒になり事務所のリビングにあるソファーで寝た。
「寝不足になる程、お楽しみだったのですか?」
「うん。やっぱ美人の泣き顔は最高だよ」
悲鳴を思い出してヒカゲは心が温まった。
着替えのためクローゼットから黒一式のスーツを取り出して、洗面台へ向かう。鏡を見ると、部屋着の胸元にあるリボンは折れた跡が残り、髪は四方に跳ねていた。手で梳かすが戻るので、寝癖直しを使う。顔を洗うと少し目が覚めた。
再度、鏡を見る。寝癖直しでは戻せないアホ毛だけが元気だった。眠くて気力が足りないので、ヒカゲはブラシを手に戻った。
「イサナ、梳かして……」
「仕方ないですね」
イサナは呆れながらも手招きをしてくれたので、ヒカゲは隣に座って背中を向けた。
「相変わらず髪の毛綺麗ですね」
「イサナも伸ばせばいいのに」
「お断りです。何なら坊主にしてもいいですよ」
「それは僕が嫌だ」
「どれくらい遊んだのですか?」
「んー。三十分くらいかな」
「寝不足になるほどではなくないですか?」
「那由多が残業していたから、後片付けに時間がかかったんだ」
心地よい刺激を受けながらヒカゲはイサナと会話を続ける。
「残業……あぁ飲食店でしたね、那由多さんの勤め先」
殺人の相方である那由多は、趣味と仕事を両立させて、飲食店に料理人として勤めている。
「そう。創作料理をコンセプトにして売りにしているところ」
「残業のあとでよく呼び出されてくれましたね。私なら無視して帰ります」
「そりゃ、那由多にとってはスーパーで買えない食材だからね。ああ、あとちょっとトラブルがあった」
「警察が来るような案件です?」
「来たら困るよ。那由多の職場のマネージャーから電話があったんだ。僕はもう眠くて帰りたかったから気づかなくて」
「それは危ないところでしたね」
「ほんとだよ。那由多は職場の人が死ぬのは嫌がるし。那由多に殴られそうにもなってさー。そもそも電話出た那由多が悪いのに」
「職場からだったのですし、急用だったのでは?」
「青木って人が体調不良で最近休んでて、明日も休むことになったから、那由多が一時間早めに出勤できないかって相談の電話だったんだ」
「那由多さんって、職場で結構頼りにされていますよね」
ヒカゲには納得できないことだが、お湯が沸騰するのより早くキレる短気な那由多は、なんと職場では頼りがいのある兄さんとして扱われているのだった。
「信じられないよな。だから、今日はホールにも出ているんじゃないかな。あそこ創作料理を売りにしているからか、赤髪に染めているのとか、インナーカラー入れているのもいるみたいで、金髪がホールに立っても問題ないらしい」
「自由な職場ですね」
「那由多もそこが気に入っているんだよ」
「マネージャーさんも銀髪とかなんでしょうか」
「いや、黒髪眼鏡の胃痛が似合う生真面目顔」
「知っているんですか?」
「うっかり僕が殺さないようにって、職場の人間の顔と名前は全員覚えさせられたからな」
「那由多さんって、そういうところ常識ありますよね」
「僕にはないみたいな口調で言うなよ」
「え、ないじゃないですかヒカゲには」
「酷い。……そんなこんなで寝不足なんだ」
事務所と自宅の距離はある程度離れており、殺人を楽しむビルは事務所に距離が近い。
深夜を回って眠たいときなどは、事務所を寝床としている。だから着替えの道具一式が揃っているし、毛布もある。
とはいえ、生活空間を完全に確立してしまうと自宅へ帰る頻度が減りそうなので、ベッドだけは設置していない。寝る場所はソファーだ。
「自分でやれば待たなくて済んだのでは?」
「面倒。人間って重たいし。埋めた死体が万が一見つかったら警察が動く。死体がなければただの失踪で済むんだから、那由多に食材として丁寧に処理してもらった方が効率的だ。だから、舘脇さんも僕を利用する。あ、三つ編みだ」
ヒカゲが髪の毛に触れると、イサナが三つ編みに纏めていてくれていた。妹のアゲハとお揃いの赤いリボンは結び目のところでとめられている。
「さて、朝食でも食べますか? 食べていないのでしょう?」
「宜しく。フレンチトーストがいいな」
「わかりました。ではブラシを片付けてきてください」
ブラシをしまってから、リビングに戻り、デスクで昨日舘脇が用意した書類をファイルから取り出して全てシュレッダーにかけた。もう使うことはない。
フレンチトーストが出来上がるのを待ちながら、ソファーに座る。程なくして、柔らかな黄色にハチミツがかかったフレンチトーストを皿によそったイサナが向い合せに並べて座った。
「イサナも朝まだだったの?」
「えぇ。まとめました」
「いつもイサナの料理は美味しくて好きだ。イサナならお嫁に引くて数多だろうに、恋愛の類聞かないな。そういえば」
「恋と無縁そうな男から、恋愛の話題を振られるとは思いませんでした。そういうヒカゲこそ、恋あるのですか?」
ヒカゲは記憶をたどるが、恋と呼べるものはなかった。
美男美女が好きなのは昔からだが、それは美しい顔が苦痛に歪んで悲鳴を上げるのに興奮するからだ。
「ないな。イサナが僕の恋人になってくれる?」
「お断りします。浮気性の男に興味がありません」
「恋と快楽は別だ。美人を殺すのが好きなだけだから、浮気性じゃない」
「でも美人を見たら目を奪われるでしょう?」
「当たり前だ」
「やっぱり浮気性じゃないですか。よその男か女に目移りする恋人なんていりません。昨日だって目移りしていましたしね……彼のこと覚えています?」
「男。美人。は、覚えている。確か名前を聞いた気もするけど忘れた」
「いつも通りですねぇ」
「仕方ない。殺した後に興味がないのだから」
ヒカゲにとって美人を殺すことが快楽だが、殺した後の死体には興味がない。ゆえに、相手の名前も顔も忘れる。
その人物がどんな存在だったかすら、あやふやになっていく。
イサナに教えたとき、信じられないと驚かれたのは記憶に残っているが、その時殺した相手が男か女かは忘れた。
食事を終えて、くつろいでいると眠くなってきた。
探偵事務所の看板は掲げているが、わざと目立たない場所に置いてあるので、普通の依頼は滅多にない。
基本的に依頼は舘脇のような警察に頼れない人たちが大多数を占める。
だからと言って、彼らからの依頼だけに生計を委ねるわけにはいない。
そのため、折衷案として看板を目立たなくしている。知る人ぞ知る、といったところだ。
探偵事務所の名前に拘りはないので、苗字の黒月を取って、そのまま黒月探偵事務所だ。さらにそのまま、マークは黒と月をモチーフにした。
本を手に取り読書をしているとインターホンが鳴った。舘脇のように無断で入ってこない。
イサナが応じて、入室を促す。
部屋に入ってきたのは、二十代後半の人当たりのよさそうな笑顔と憔悴を張り付けた男だった。
整いすぎていない顔立ちのお蔭で人から愛着を持たれそうな塩梅。
スーツは仕立てがよく、オーダーメイドだろう。綺麗にアイロンがかけられており、皺が殆どない。
眼鏡をかけた男は、安堵の笑みを浮かべて頭を深々と下げた。
「私の最愛の妻を見つけ出してくれませんか!」
今にも土下座しそうな勢いで男は叫んだ。イサナがソファーに座るようにうながした。男は落ち着きなく身体を揺すっている。イサナが出した紅茶を一口飲んでから深呼吸をして男は話し始めた。
「私の妻が、三日前から帰ってきていないんです」
視線が伏し、手を組んだ指先が落ち着きなく動く。
「途方に暮れていたところ、探偵事務所の文字が目に入り……藁にも縋る思いでここに来ました。あ、ええと、私の名前は阪原といいます。妻の名前は、香苗です」
スーツの内ポケットから名刺を男は取り出そうとして、固まった。名刺を切らしていましたすみません、と男は謝る。
一瞬だけ名刺ケースに隣町の探偵事務所の名刺が入っているのが見えた。おんぼろな見た目とは裏腹に従業員を多く雇っているところだ。どうやら、最後の一枚はそこに渡したようだとヒカゲは判断する。
「他の探偵事務所に依頼はしなかったのか?」
ヒカゲが尋ねると、あははと男は誤魔化そうとして失敗した。
「いったのですが、断られました。そこで名刺を渡してしまったので、すみません」
「……警察には?」
念のための確認、といった感じでイサナが尋ねた。
「通報していません。大袈裟にしたくないんです……でも、ここでもダメでしたら通報します。事件に巻き込まれているなら、早い方がいいですし……けど、ただの家出とかでしたら警察は……と」
憔悴した面持ちで、男は頭を垂れた。
「奥さんが家出した原因は思い当たりますか?」
「わかりません……。オシドリ夫婦って周りから呼ばれるくらい、私たちは仲良しだったんです」
見てください、と言って定期入れに入れた写真を見せてきた。ヒカゲが見ると、どちらもぎこちない笑顔を浮かべている。顔立ちは今より数年若いから、おそらく付き合いたて当初の写真だ。
「いつも、定期入れに彼女が入っていると、心が安らぐんです。私たち、本当に仲が良くて。ただ、彼女のお義姉さんには私たちの結婚はずっとよく思われていなかったんです。だから、妻は義姉の場所にいると思っています。義姉が妻を無理やり連れ去ったんじゃないかって!」
「え?」
話の流れが変わった、とイサナとヒカゲは顔を見合わせる。
「あ、いえ。その……心当たりは全部回って見つからなかったんです。妻は遠くに行くはずもないですし、頼れる友達の家なんてない。だから、義姉の家にいると私は思っているんですけど、蛇蝎のごとく嫌われておりまして、私じゃ敷居を跨がせてもらえないので……」
「わかりました。では調査は妻の姉の家に行って所在を確認する、でいいですか?」
イサナが依頼内容を確認すると、男は頷いた。
書類にサインを貰う。男は丁寧なお辞儀を繰り返し、何度も宜しくお願いしますと言ってから立ち去った。
「珍しい普通の依頼ですね」
「ここどこだと思っているの。探偵事務所なんだけど」
「快楽殺人鬼が片手間でやる仕事の場所かと」
「イサナ、知っている? 殺人って給料出ないんだよ」
「財布の中、盗めばいいじゃないですか」
「殺人はしないくせに、イサナはちょくちょく倫理観おかしいよね」
「心外です」
「まあいいや、お姉さんのところへ行くが、イサナはどうする?」
「今日は書類整理をしようと思います。もし人手が必要になったら呼んでください。私が必要な場面なんてないでしょうけど」
「ん。わかったよ」
ヒカゲはコートを羽織り、外に出る。今日の天気は昨日と打って変わって曇りだった。眩しくなくてちょうどいい。
外を歩いてから、そういえば髪の毛はイサナに結んでもらった三つ編みのままだなと思った。お団子ヘアーに拘りがあるわけではないので、そのままにする。
男から貰った情報を頼りに、妻の姉の家へ到着すると、日本家屋だった。
築年数はかなり言っており、全体的に古い。木造建築の中にあるインターホンだけが最新で場違いだった。
インターホンを鳴らすと、暫く反応がない。カメラがついているから、見知らぬ男がやってきたことに対して警戒しているのだろう。
もう一度鳴らすと、「どちら様ですか」と女性の声が聞こえてきた。
ヒカゲが素直に探偵だと名乗る。自分の容姿をヒカゲは把握しているので、下手に保険とかセールスマンを装ったところで余計に怪しまれるだけだとわかっている。
探偵? と怪訝な声が返ってくる。
素直に職業を名乗っても怪しまれることは変わらないが。
「妹の夫が、妹が行方不明だから探してほしいと僕に依頼をしてきた。まずは姉である君に話がしたい」
敬語は使えるが、見た目で舐められることが多いので、基本的にヒカゲは使わない。
上から目線な物言いに、女性は吟味の沈黙をしてから、少しお待ちくださいといって会話を切った。表札を見る。青木、と書かれていた。
「…………」
「ここに妹の香苗はいませんよ」
しばらくたってから玄関から顔を出したのは、吊り目で勝気な女性だった。黒髪はポニーテールで束ねられており、表情には警戒心がにじみ出ている。黒のゆったりとしたニットは、サイズが合っていないようだった。
「夫に敷居は跨がせなかったって聞いたけど」
「勿論です。塩をまいてもあの男が来た事実だけで虫唾がはしりますから」
怒りを滲ませた声で姉は言う。余程、男のことが嫌いなのだろう。ヒカゲは玄関先へ視線を向ける。
「じゃあ。お前が匿っている可能性を否定するために、部屋に案内してほしいな」
姉は無言で、ヒカゲの意味の裏を読み取ろうとしていた。
「……わかりました。構いませんよ」
ヒカゲの見るからにひ弱そうな外見は、相手の警戒心を下げるのに役立ったようだ。
不審者として家に招いて問題が発生したとしても、この見た目ならばなんとかできる、と算段もつけたのだろう。
何より、妹は匿っていないと証明できた方が、都合がいいと考えている。
「でも、本当に妹はいませんよ。どうしてあの男は探偵まで使ったんです?」
「愛しているから、だそうだけど?」
探るような視線を受けて、ヒカゲは靴を脱いでスリッパに履き替えながら答える。靴は一足分しかない。
「嘘を。ただの妹を自分の所有物だと思っているだけでしょう。愛している? 嘘もたいがいにしてほしいものね」
吐き捨てるような言葉には、真実と裏。そして鉄の味が混ざっている。
「蛇蝎のごとく嫌われていると言っていたのは、真実なようだな」
「当たり前でしょう。あんな見せかけだけの男に、私が騙されるわけないじゃない。あんたも他の皆と同じで、私の言葉なんて信じないでしょうけれどね、あの男には関わらない方がいいわよ。ただの屑だから」
「まさか、僕が篭絡されたとでも?」
心外だった。あの男の顔には一ミリも興味を抱いていない。
「だって、皆あの男が好きでしょう? イケメンってわけじゃないけど、爽やかでユーモラスもあって、周囲を笑顔にするのが得意なの。反吐が出るわね。実際の内面は、他人は自分を飾るための所有物としか見ていないのに」
素直に、姉は答えた。真実だろう。
あの男は好青年を演じるのが上手だった。だが、一ミリも興味のない顔の男に、好感度が高いから、依頼を受けたと思われているのは納得がヒカゲにはいかなかった。
先導する姉の背後で、ヒカゲはメールを一通送信した。
姉の案内で一軒家の部屋を見て回るが、誰もいない。
台所は綺麗に片付いていた。洗い物かごにはプラスチック製のお椀とコップがあり、包丁差しに包丁は一本もなく、シンクにはコップが一つだけあった。食器棚の前にはカーテンがかかっている。
「一人で住んでいるのか? 家族は」
「両親はなくなりました。この家は相続です。売却も視野に入れていますが、今はまだ保留ですね」
「職業は?」
「……何故」
「個人的な興味だよ」
「何それ。口説いてでもいるつもりですか」
「まさか」
「ウェイターですよ。今日はお休みです」
「転職は考えている?」
「……? おかしな人ですね。考えていませんよ。大変な時もありますけど、楽しいですし、今の職場に不満もありません」
「そうか、それはよかったな」
ヒカゲの言葉に、姉は不思議そうに首を傾げた。彼女がこのやり取りを理解する必要はない。
風呂場は目ぼしいものはなく、洗面所は、うがい用のコップが一つあるが、歯ブラシは目につくところにはなかった。
妹の夫が無理やり乗り込んでくる可能性を否定できない以上、匿っていたとしてもわかりやすい印は残さないだろう。
姉の私室は簡素だった。本棚は大きく、小説が作者の名前順で並んでいる。
「本を読むのが好きなんですよ」
その時だけは、少し照れくさそうな顔で姉が言った。
リビングだけが洋室に改装されており、姉の私室は和室で、押し入れの手前に布団が丁寧に畳まれていた。それ以外は綺麗に整理整頓されており、余計な物はない。
「綺麗好き? どこの部屋も整理整頓がされているみたいだが」
「えぇ、まぁ。でもあんたも綺麗好きでは?」
姉の視線がヒカゲの黒い手袋へ向けられた。
「まぁ、そうかもね」
ヒカゲが手袋をしているのは、人の体温が苦手だからだ。
とはいえ、那由多やイサナから潔癖な面を度々指摘されているので、周囲から見れば潔癖なのだろう。
一通りの部屋を案内されてから、最後に庭に出る。
綺麗に掃除が行き届いていた室内同様に、庭も手入れがされており、雑草はほとんど生えていない。盆栽がいくつか飾られている。
何より目立つのは井戸があることだ。
「本当に古い家だな……」
「ええ。まあ、さすがに今はただの枯れ井戸ですよ。見ていきます? 珍しいから偶に近所の悪ガキが井戸の周りにきますよ。危ないから注意しているのに。観光地だとでも思っているのですかね?」
「……そうだね。滅多にみられるものじゃないし、見るか」
ヒカゲは井戸に近づく。蓋が外れており、井戸の横に立てかけるように置いてある。水をくみ上げるための縄はすでに切られており、バケツの類もない。
そしてヒカゲは――背後から襲ってきた姉を軽くいなして交わす。
「あはは。いきなり探偵を殺そうとするなんてびっくりだな」
驚くことなくヒカゲは、姉を見る。勢い余って地面に倒れた彼女の手には、包丁が握られていた。
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