第2話:正解と不正解Ⅱ

「一番好みの人が犯人だったのですか?」

「好みの顔は関係なくない?」


 茶碗を洗い終えたイサナが尋ねてきた。

 ヒカゲは書類のファイルを隣に座ったイサナに手渡す。白魚のような指がページを捲っていくのをヒカゲは眺めながら、一通り読み終わるまで待つ。


「読み終わりましたけど、これでどうして水下が犯人に? 鉄砲玉じゃないんですよね?」

「うん、水下が直接殺した。簡単だよ。虎の威を借る狐の見本みたいな男が、どうして前日に殺されたのかを考えればいい」

「……? 就任されたら困るから、殺されたのでは」

「それは殺す側の視点だ。殺される側の視点で見てみなよ。就任前日とか当日なんて、一番殺される確率が高い。実際、警戒をして、昼間の来客を全て断っている」

「あ、それはそうですね」

「襲撃されたら腕っぷしも大して強くないから、返り討ちにもできない。なら、どうして他者を自宅へ招き入れた? 鍵も窓も壊された痕跡がないから、彼自身が、犯人が敷居を跨ぐのに同意したわけだ。殺されるかもと怯えているのに? おかしいだろ」


 布団にくるまって大人しく震えていればいいのに、人を招き入れたから殺された。中途半端な籠城に意味はない。


「……なら、敷居を跨げたのは彼にとって安全な人物」

「正解。実際は全く安全じゃなかったけどな。さて、ここで犯人が絞られる」

「幹部や家族、あとは恋人くらいですかね?」

「うん。恋人の記載がないから、恋人はいない。で、家族である父親は、息子に跡目を継がせたがっていたから、基本的には容疑者ではない。次に、笠間と土浦が除外される」

「何故ですか?」

「舘脇さんで例えるけど、イサナなら、就任の前夜に、舘脇さんが高級な酒を持参して家にやってきたとして、敷居を跨がせる?」

「いえ。怖いのでお断りします。あぁ……だから舘脇さん公認の武闘派である笠間も土浦も、怖いから敷居を跨がせてもらえないってわけですね」

「二人っきりになったら何されるかわからないからな」

「でも、だったら最初から大勢の護衛……いえ、それも駄目ですね。護衛を沢山用意するには信頼度が低いし、疑り深いなら極論、自分以外は誰も家になんて入れたくないはず。だから、一番怖くない水下が犯人だということですか?」

「まだあるよ。凶器が拳銃なことだ」

「殺傷能力が高くて良いことなのでは?」

「拳銃は殺意が高いし、凶器に使うリスクも高い。比較するとナイフは殺意が低い」


 ヒカゲは懐に入れてある、自前の黒いナイフを取り出してイサナへ見せる。


「――あぁ、わかりましたよ。舘脇さんたちならば、そもそもの話、拳銃を使うまでもないってことですね。ナイフで充分お釣りがくる」

「うん。なのに、拳銃を使った。そして、一発で仕留められていない。二発撃ってようやく殺せた。仮に舘脇さんたちが銃を使うなら、一撃で仕留める。抵抗の痕跡がなく、背後から撃っているということは、相手の警戒心がないタイミングだ。余計に急所以外を外したりしない。わざと外すなら、彼らにとってそれは情報を引き出すため――殺さないためだ。けれど、彼の死体は銃創以外には目立った外傷はない。なら、どうして外したか。外れてしまったんだ。拳銃を普段使わない人間の仕業だったから、一撃で仕留められなかった」


 死体の状況から判断するに、荒事にたけている舘脇たちが行うには不自然だ。

 故に、該当するのは水下しかいない。荒事に長けていないことは舘脇も証明している。


「ボスの息子は自分より弱い奴を見下すタイプで、水下は見下されていた側だ」

「いざというときは、水下ならば殺せる自信があったんですね」

「正解。だから高級な酒を用意して就任の祝だとでもいえば、水下は屋敷に上がり込める自信があった。昼間に断られた有象無象や物騒な人たちとも違う、見下されてかつ、地位のある人物。金にも目がないみたいだから、経理として話があるとでもいえば、馬鹿な男はホイホイと飛びついたんだろう。いや、もしかしたら息子自身が呼び出した可能性もあるけど。水下だけが殺せるチャンスがあった。それに、水下なら拳銃を使ってナイフを使わなかった理由もわかる」

「ナイフだと弱いから。いくらボスの息子が舘脇さんたちから見て弱かったとしても、水下から見れば、充分に強い相手だった。その相手に至近距離でナイフを刺しても返り討ちに会うかもしれないし、殺せないかもしれない。逃げられたら終わりの状況だから、より殺傷能力の高い凶器が必要だった」

「それでも、心臓か頭を一発で仕留められなかったんだから、どうしようもないね」


 ヒカゲは笑う。せめて一撃で仕留められていれば、他の人たちも容疑者として浮上したのに、と。


「金目のものが盗まれていたのは、強盗に見せかけるため?」

「窓ガラスでも割って外部犯説を用意すればいいのにねー。殺人で頭が回らなかったか、金目のものに目がくらんだか、高跳び資金にするためかはわからないけど。そんなところだろ」

「ですね」

「状況的に、屋敷に入れたのは幹部の中でも、水下のような、ボスの息子から見ても弱い――用心する必要のない相手であった。そうでなければ、部屋に入れなかった。そして、幹部の中で、ボスの息子よりも弱いのは水下だけであった。以上のことから、犯人は水下である。物的証拠はないし、動機も知らないけど、そんなもの舘脇さんたちが勝手に見つけ出すし、自白でも引き出すでしょ」

「ヒカゲならその場面を一緒にみたいのでは?」

「むさくるしい男たちの中に混ざって拷問を観賞したってなー。それに、僕は舘脇さんが連れてきた報酬の子の方が、断然好みだ。ナイフで抉ったら、彼はいい絶望の表情を浮かべてくれるよ」

「でも、ヒカゲは反抗的な方が好みだったのでは?」

「そうだけど。でも水下も別に反抗的じゃなさそうじゃない? 彼、痛みに弱くてすぐに自白するタイプだよ」

「なるほど。ヒカゲがいうなら間違いないですね」

「直接会いに行くっていう手間も省けた。警戒されないようにイサナにおめかししてもらうのも悪くなかったけど」

「え、私が行くのですか。ヒカゲが女装すれば充分じゃないですか」


 イサナが面倒なことはしたくないとばかりに首を振った。


「舘脇さんもイサナも僕を何だと思っているんだ? 大体、僕が女装するよりイサナの方いいじゃん」

「ロリコンならヒカゲの方が好まれますよ」

「成人している男が女装した姿をロリって扱うのおかしくない!? というか流石に無理があるんだが!?」

「私より身長が低いので、つい」


 イサナが立ち上がり、身長をアピールしてきた。百八十㎝近くあるイサナは、男性の平均身長よりも高い。栗色の髪は肩で切りそろえられ、やや内側にカールしている。蠱惑的な黒い瞳に、スタイルの良い体形が目を引く。

 女性的な仕草も相まって魅了に溢れているが、美女の二文字が相応しく、美少女が好みならば確かに範疇から外れるかもしれない。それにしても自分をロリ扱いするのは絶対に間違っているとヒカゲは思う。


「仕方ないじゃん。成長期に伸びなかったんだから」

「牛乳ちゃんと飲みました? 私は沢山飲みましたよ」

「それ関係ある? 殺すのに女装した方が都合がいいときとかは全然するし、女装も別に抵抗ないけど」

「その見た目ですしね」

「なんかそういわれると釈然としない」

「そういえば、女装はしていなくても赤いリボンはいつもつけていますよね? シャツから手袋まで黒いヒカゲの唯一の色の」

「あぁ。妹がつけているから」

「妹さんがいたのですか?」


 ヒカゲに血の繋がった家族がいるのが信じられないような驚きの色をイサナはしていた。


「うん。名前はアゲハ。見た目はまんま僕の年齢を下げたような容姿さ。街で見かけたらよくわかるよ」


 赤いリボンの垂れている部分を摘まんで指に絡ませる。


「仲良しなんですね」

「まさか、仲が悪い証拠だよ。先に外したら負けだとお互いに思っているんだ」

「成人男性が赤いリボンをしている方が負けだと思いますけど」

「そんなことないよ」


 赤いリボンはヒカゲが小学校の時からつけていた。昔は妹と仲良しだったので、お揃いが嫌ではなかった。

 いつからか、仲が悪くなりお互いにお揃いを外したら負けな気持ちが芽生えていた。周囲からは、いつもお揃いのリボンをつけて仲良しねと微笑ましく思われていたから、今としては外す時期を完全に見誤ったと思っているが、意地で外していない。


「そだ、仕事終わった祝いと報酬が届くまでの時間潰しにご飯でもどう? たまにはイサナの好きな店にするよ」

「やった! 高級なステーキがいいです。お肉食べましょう!」


 両手を合わせてイサナが微笑んだ。表情の変化が薄く、いつも淡々としているイサナだが、好物を前にしたときは笑顔になる。貴重な笑顔を見られるのは悪くない。整ったイサナの顔立ちは、ヒカゲ好みだから。


「ケーキバイキングとか好きそうなお姉さまって見かけに反して、肉が好きだよね」

「偏見です。鉄板の上で肉汁を溢れさせながら香ばしく焼け焦げるお肉は絶品ですよ。ヒカゲも甘いものばかり食べていないで、お肉を食べましょう。油は健康にいいんです」

「いや、健康には悪いだろ」

「さあ、早く行きましょう。私のお肉が待っています! 予約もしました!」

「予約済ませるの早すぎない!? いつしたの! 忍者!?」


 ヒカゲが呆れている間に、イサナはロングカーディガンを手に取り、素早く外出の準備を済ませていた。イサナが手招きで無邪気に早く早く、と急かしてくるので、ヒカゲも黒いコートを羽織る。探偵事務所の――外見を黒一色で統一したようなビルを出て外に出る。まだ太陽は完全に沈み切ってはおらず、日差しが眩しい。

 そうだ、とヒカゲは思い立ち、イサナの腕に、腕を絡ませた。


「人で暖を取るにはまだ早いですよ。まだ暦の上では秋です」

「旧暦なら冬だ。これからディナーを食べる恋人同士みたいな演出をしてみようかと思って」

「別に構いませんけど、私とヒカゲが理想的な恋人を演じるなら、性別逆にした方がさまになりません? ヒールありますし。今から男装しましょうか? さらしで胸潰せば結構いけると思うんですけど」


 イサナが足元を指差す。彼女はヒールのある靴を履いているので、ヒカゲより頭一つ分でかい。

 ミドルヘアーのイサナに対して、ヒカゲはお団子で纏めて残りを垂らしている状態で腰まであるロングヘア―だ。

 男装と女装で理想的な恋人を演出は難しくないだろうが、首を横に振る。


「ちょっと興味沸くけど、いいよ。そのままで。イサナは綺麗だから。僕の目の保養だ」

「面食いの殺人鬼に言われても、あまり嬉しくないですねぇ」

「那由多もちゃんとイサナのことは美人だって認識しているよ」

「人食いの殺人鬼に言われても、嬉しくないです」

「舘脇さんだって、美女だって言ってたよ」

「あの人に言われても嬉しくないです」

「我儘だなー」

「まあでも、ヒカゲに言われるなら私の美貌も、間違いないですね」


 イサナがそこそこ満足げに笑った。

 人気のない道を選んで歩き、周辺に誰もいなくなるとヒカゲはスーツのポケットから携帯を取り出し舘脇へ電話をかける。


「舘脇さーん、もしもーし」

『あ? なんだよ。てめぇの声をきいたら折角の誕生日、気分が悪くなるだろ』

「誰の誕生日? 舘脇さんって七月だったよね? っていうか僕の家にきたあとに誕生日会いっているの?」

『てめぇ俺の誕生日把握してんのか? 気持ち悪い。誕生日は……姪っ子だ』

「あはは。酷い人だ。ボスの息子が殺されて組織はてんやわんやしている中、舘脇さんは誕生日会ときた! 呑気だな」

『姪の誕生日の前日に死ぬ方が悪い』

「流石にボスの息子が哀れでは。というか僕に依頼しているんだから、普通、答えが待ち遠しくなって部屋の中をぐるぐる回るものじゃないのか」

『早いな。もう突き止めたのか? まだだと思っていた』

「犯人は水下だよ」

『水下の命令を唯々諾々と従うような部下がいた記憶はあまりないが』

「水下みたいな頭の周る人間は、いつ裏切るかもわからない部下なんて使わないよ」

『どうやって殺した』

「簡単だ。水下だけが侮られていたから、隙をつくことが用意だった。証拠はないけど、舘脇さんが持ち込んできた情報上では水下が犯人になる。後は、舘脇さんが確証をとればいい」

『なるほどな』

「自白取らせるのは得意でしょ。水下の後任には、頭のいい人間を自分の配下に雇って新しい経理につかせるといい」

『俺の頭が悪いと馬鹿にしたのか?』

「餅は餅屋だよ」

『……報酬はいつもの場所へ置いておく』


 ヒカゲの返答も待たず、舘脇は雑に電話を切った。

 舘脇の声に喜びの割合が低かったのは、土浦か笠間が犯人だったほうが利益率が高かったからだろうが、ヒカゲには関係のないことだ。

 路地裏から表通りへと移動し、周囲へ自慢するように偽りのカップルを演じながら電車を乗り継ぎ、一等地にある建物の最上階窓際の席で、A5ランクの肉を贅沢に使った高級なステーキに舌鼓をうたせる。

 イサナは上機嫌で頬が蕩けるとばかりに美味しく食べていた。

 夜景が綺麗なのでワインも飲もうとヒカゲは提案したが、イサナに、にべもなく拒否された。


「つまんないのー」

「性質の悪そうな酔っ払いとは、アルコールを共にしないと決めているので」

「酒飲んだことないから、酔っ払ったことだってないんだが」

「いえ、私の百%当たる直感が言っています。ヒカゲは酔うとめんどくさいと」


 ヒカゲは不貞腐れながら、ぶどうジュースを飲み干した。ジュース一つとっても値段が一桁違うから、味もその分芳醇で美味しかった。

 窓の外を眺める。

 夜空を照らす人工光は、夜の始まりも終わりも告げない。ヒカゲにとって楽しみの時間はこれから待っている。それにしても、お肉を食べるのに飽きてきた。というかヒカゲにはお肉の量が普通に多かった。ペロリと平らげるイサナが信じられない。

 食事を満喫してから、会計を済ませてエレベーターで一階へ降る。

 外はすっかり冷え込んでおり、夜風と共にカーディガンを羽織っているだけのイサナは寒そうに両腕をこする。


「昼間は良くても夜は寒いですね。コートをそろそろ出した方がよさそうです。ヒカゲ、上着くれませんか?」

「やだよ。僕はこれからデザートを堪能するんだから、日付変わったらもっと寒い。イサナはついてくるなら服でも買ったら?」

「いいえ、帰りますよ。寝不足はお肌の天敵ですので。それに終電は逃したくないですし」

「タクシーで帰ればいいのに」

「ヒカゲ知ってます? 夜道の一人歩きって危険なんですよ。どうやら私は顔がいいみたいですし」

「知っているよ。わかった、じゃあ、おやすみ」

「ええ。おやすみなさい」


 イサナの背中を見送りながら、ヒカゲは背伸びをする。お肉を食べて満腹だ。どうせならパンケーキが欲しかったが、イサナの希望の店に行ったのだから仕方ない。

 タクシーを使い、事務所のある最寄り駅まで移動する。一瞬タクシーの運転手がヒカゲの姿を見て訝しまれたのがミラー越しに分かった。

 ヒカゲを未成年だと勘違いしたようだが、面倒事に率先して関わるつもりもないようで、すぐに営業スマイルへと切り替わった。

 ヒカゲも童顔なのは自覚しているので、今更気にする必要もない。

 タクシーを降りて、夜の街を歩く。クリスマスプレゼントを貰う夜のように、表情が自然と綻ぶ。



 事務所を通り過ぎ、オフィスビルが立ち並ぶ場所から、徐々に人気のない場所へと移動していく。

 寒いのは苦手だが、夜の冷たい空気は好きだ。

 建設途中で放置させた、ビルのなりそこないに到着する。申し訳程度に張られている関係者以外立ち入り禁止のテープをくぐって、敷地内へ足を踏み入れる。

 ビルのなりそこないとはいえ、大まかな形は完成しており骨組みもしっかりしているので、爆発でもしない限り滅多なことでは倒壊の心配はないし、風が吹き込み寒くなることはない。防音も施してある。

 趣味を満喫するにはうってつけの場所で、別の人間を通してその人間名義でビルは那由多と一緒に購入した。初期投資は高かったが、お陰で安全な場所で殺しが楽しめる。

 ビル内部へ扉を開けて入り、闇の空間から壁に着けてある電気をつけると、部屋は明るくなる。

 一階に窓はないので、入り口以外から光が漏れることはない。

 まだデザートは到着していないようだ、と若干落胆しながらも、無造作に置かれている風を装ったパイク椅子を引っ張り出して座った。

 本当は清潔で綺麗な空間に内装を弄りたかったが、コンセプトがビルのなりそこないである以上、不法侵入者に中を見られても大丈夫なように、外側と中を一致させる必要があった。

 整った美人であった青年の顔を思い出すと、興奮して眠気もない。早く来ないかなと足を揺らして待っていると、室内へ足を踏み入れる音がした。足音は不規則で、困惑しているのが伝わってくる。


「ええっとヒカゲさん……?」


 声をかけてきたのは、舘脇が昼間連れてきた部下の青年だ。

 狼狽した表情を見るのはとても心地が良かった。何も知らない愚かさが、可愛かった。


「やあ。そうそ、舘脇さんからお前の名前聞いていないんだよね。どうせ忘れるんだけど教えてくれる?」

「オレは、日立ひたちですけど」


 どうせ忘れる、の部分に対する疑問よりも、ヒカゲがこの場にいることに対しての戸惑いが大きいようだ。舘脇の顧客である以上、無下にするわけにもいかないが、状況もわからず判断に困っているのが目に見えてわかる。

 何せ、一見すると廃ビルの中で、ヒカゲが待っていたのである。

 舘脇からは恐らく、失敗を帳消しにしたくば此処へ行けと命令されたのだろう。


「待っていたよ。日立。お前の頭にある疑問符に答えてあげよう。お前は、舘脇さんが僕に渡した依頼の報酬だよ」

「え――? どういう? 報酬?」

「お前は、ミスが大嫌いな舘脇さんの前でミスをした」

「えぇ、はい」

「で、僕の元に来れば許されるという話だっただろ? 何故許されるかというと、お前が死体になるからだ」


 満面の笑みをうけて、日立は金縛りが溶けたように逃げ出した。

 ヒカゲは笑う。この瞬間が、鬼ごっこの用で好きだった。昼間、舘脇がわざわざ探偵事務所へ日立を連れてきたのは、ヒカゲの好みの顔であるかどうかを判断させるためだ。

 もしあそこでヒカゲが顔に興味を示さなければ、日立の寿命はもう少し早く――そして幸福に終わっていた。

 窓がない空間。二階へ上がる階段は日立の目では見つけられない。入口から外へ逃げるしかないと、背を向けて日立は全力疾走している。

 足がもつれそうになりながら、走っているのを、ヒカゲはナイフを取り出して投擲した。

 日立がドアノブへ希望を見出した瞬間、その脇をナイフが通り過ぎる。一瞬、日立は驚いて手を止める。硬直した身体。例え左腕に刺さったとしても、そのまま扉を開けていれば、まだ逃げられた可能性があったのにと、ヒカゲは笑いながら日立の肩を叩いた。

 振り向いた日立の顔は絶望に彩られ、顔面が蒼白だった。ヒカゲはその整った顔にうっとりとしながら、もう一本のナイフで太ももを切り裂いた。

 悲鳴が上がり、日立は片膝をついた。


「どうして、どうしてオレがっ! 助けてくれよ! オレは死にたくない!」

「あはは。そんなに死にたくなかったなら、舘脇さんのところで失敗した時に、死に物狂いで逃げれば良かったんだよ。そうしたら十パーセントくらいの確率で成功していたさ」

「あ……も、もしかして、今まで舘脇さんの前からいなくなっていた人は」

「僕が殺したのもいるよ。舘脇さんが殺したのもいるな。あと十パーセントで脱出成功もいる。僕は美人を殺すのが好きなんだ、それ以外は興味ないからな。報酬として合格した子たちだけがこの場にいる。見目麗しい美人が、僕は好きなのさ。男女問わず。僕と舘脇さんがなんで探偵と依頼人って関係を続けていると思う?」


 日立から答えはない。肩に刺したナイフを押し込むと、絶叫が上がった。


「答えは簡単だ。舘脇さんからすれば死体処分の手間が減らせるからだ。殺人は簡単でも、死体処理には労力がいるからね」


 日立の目から涙があふれ出したのを、指先で救う。恐怖で震える美人が歪んだ顔は興奮をそそる。

 だが、折角ならばもっと抵抗してくれればいいのに、と思う。日立の顔からは既に生きる希望が抜け落ちていた。

 日立の胸倉をつかみ、地面へ押し倒す。逃げられないように馬乗りになりながら、ナイフの鈍い輝きを日立の眼下に見せびらかすように翳した。


「お前の最善は自害だよ。それはもう敵わない。そうそ、今日の夕飯お肉だったんだ」


 恐怖に歪んだ顔が、ヒカゲが次に何を言うのか見当もつかなくて当惑している。


「だから、お腹いっぱいで、あんまり動きたくないんだ」


 ヒカゲはそういって手元をみないまま日立の足にナイフを突き刺した。

 耳をつんざくばかりの悲鳴を、恍惚としながら聞き入る。日立の目に生きたい色が宿り、じたばたと身体が暴れる。

 人の悲鳴は、えもいわれぬ快感がある。心臓が、身体が興奮する。もっと甘美に酔いしれたい。血がとめどなく溢れる切り口に指を突き入れる。絶叫があがる。楽しくて爪で身体の内部を傷つけるように掻いてみる。

 もう片方の足首も抉る。万が一にも逃げられることがないように、念入りに。傷をつけていく。

 日立の身体が上下に大きく揺れる。無残に足掻き、嘆き、絶望の淵に浸るその顔が見たくて、髪の毛を引っ張る。

 その顔は既に死にたいと告げていた。

 生命の輝きは失せているのに、死んでいないことに絶望している。


「た、たすけて……いた、い。いや、だ。く、狂ってる……もう殺して。痛いのは、いやだ」

「それは無理だ。安楽死ユーサネイジアなんてつまらないこと、僕はしない。僕が満足したら殺してあげる。だから、それまで付き合ってね?」


 日立の顔が歪んで、ヒカゲは微笑んだ。

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