本と人
店をあとにすると、あたりは薄暗かった。結局店を出るまで、黒沢アカネの兄に会う事は無かった。あのスタッフルームを行き来していたのは江頭さんのみだった。黒沢アカネもスタッフルームへ入ろうともしていなかった。兄に会いに来たのでは無かったのだろうか。そのことを彼女に尋ねてみると、妙な答えが返ってきた。
「わたし、もう二年以上兄と会っていないわ。声も聞いていない」
「え?」
どういうことだろう。
「いつからか、兄はあのブックカフェの奥の部屋に引きこもるようになったの。どうしてかは知らないわ。従業員には多分顔を見せてるとは思うけど、わたしには会ってくれないの。だから原稿用紙に近況報告を書いて、テーブルのあの穴に投函するの。読んではくれているのよ。投函した翌日に、江頭さんが兄からの返事が書かれた原稿用紙を見せてくれるから。でも返事はいつもありきたりなものだった。『そうか』とか『よかったな』とかの一言だけ。最近の兄はどんな顔をしているのか、どんな思考を持っているのか、まるでわからないわ。何かを相談しても、『それは自分自身で決めるべきことだ』で終わるの。逆に、頼みごとをされることはあるわ。飲み物を買ってきてくれだとか雑用のね。兄にとって、今のわたしはただの便利屋なのかしら。買い物なら従業員に頼めばいいのに」
別に特別仲が悪かったわけではないらしい。しかしあんなブックカフェを経営するくらいだ。普通の思考を持った人間ではないのだろう。僕の勝手な偏見かもしれないが。
「そういえば、あのブックカフェ、本棚が無かったみたいだけど、何でなの?」
「ああ、あそこはそういう所なのよ。あそこは自分で本棚から本を選ぶのではなく、本が客を選ぶの」
僕には、彼女の言っていることがあまり理解できなかった。それはどういうことなのか、僕は彼女に尋ねた。
「本と人との相性ってあるでしょ?本屋で目に入った本を買ってみて、いざ読んでみると難しかったりつまらなくなったりして、読むのを途中でやめることがある。すると買ったのを後悔するし、それに費やした時間が勿体無いじゃない。だから、本が客を選ぶの」
「まるで本が生きてるみたいな言い方をするね」
「そうよ、本は生きているの。生きている人間が、自分の中にある思い、経験、人に伝えたいことを、身を削る思いで文章として綴るのよ。そうしてできた本から、わたしたちは力を貰うの。本は読み手に何かを与える力を持っているのよ。生きているといっても過言ではないでしょう?もちろん、さっき言ったように相性はあるわ。あのブックカフェに新規で行った場合、まずはどんな本が読みたいかを質問されるの。そしてお客さんの希望を参考にして、従業員がその客に合いそうな本を選ぶのよ。ブックソムリエと言ってもいいわね」
「でも僕が『特に読みたい本は無い』って言ったら、それっきりどの本も持ってこなかったな」
「そりゃそうでしょ。本を読む気のない人間に、いい本との出会いはないわ」
そういえば、黒沢アカネと筆談していた老婆も、原稿用紙に何かを綴っていたあの赤い着物の女性も本を読んではいなかった。僕はそのことも彼女に尋ねてみた。
「あの二人は本を読みに来たのではないわ。本を書きにきたのよ」
彼女が言うには、あの二人は原稿用紙に小説を書いていたらしい。老婆も赤い着物の女性も、どちらも実は小説家らしい。あの老婆は末永弱音という名前で、赤い着物の女性は志摩冷華というらしい。それがペンネームか本名かはわからない。小説を書くには、あの静かなブックカフェがちょうどいいようだ。そして黒沢アカネ自身も、小説を書いているという。一見、あの老婆と筆談しているように見えたが、実はあのとき小説も書いていたらしい。唯一、本を読んでいたあの学ランの少年については、黒沢アカネも詳しく知らないらしい。
「今日いたあの客以外に、あの店の会員になった客はいるの?」
「いるわよ、何人か。たまたま今日は来店しなかったけどね。もちろんみんな、誰かに紹介されて入った客だけどね」
咲谷さんに返してもらったスマホのライトを照らし、薄暗い森の中を僕と黒沢アカネは歩いた。
「ねえ安藤くん、明日もあのブックカフェに行きたい?」
「いや、いいよ。僕は本に興味が無いし」
「…そう」
黒沢アカネは残念そうな顔をした。しかし、本を読むわけでも、小説を書くわけでもないのにあの店に入って、席料千円を払えるほど僕の懐に余裕はない。今日の席料は彼女が払ってくれたが、明日以降もそういう風にはいかないだろう。僕は遠慮した。
しかし、いずれまた僕は、あのブックカフェに自ら足を運ぶことになるかもしれない。なんの根拠もない。なんとなくではあるがそのとき、そんな予感がした。
本は人に何かを与える力をもっている。家に帰ってきて夕食後、僕は自室のベッドに寝そべりながら、黒沢アカネが言ったその言葉を思い出し、一人でつぶやいていた。僕は漫画は人並みに読むが、小説は全然読まない。読むとすれば現代文の教科書くらいだ。小説を読もうとする気が起きない。活字が苦手で、内容が頭に入ってこないだろう。おそらく読み始めても二ページも読まないうちに睡魔がおそってくるだろう。
翌朝高校へ行くと、行方不明になっていた氷川喜与味の姿があった。
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