第14話:この邪悪は逃れようのない己の一部


 ――生意気にも感覚があるようだが、却って都合が良い。

 そう胸中で呟く声が己のものか、同居する別の誰かのものか、上手く区別がつかなかった。

 なんだか、とても心地が良い。あらゆる枷や楔から解放されたような気分だ。

 ディノガーを惨殺したときは邪悪なソウルの、巨大な激流にも似た破壊衝動に成す術なく振り回されるようだった。しかし今は、穏やかな水面に揺られる心地で、炎の異形と化した身体も自分の意思でしっかり動く。


 ……しかし、それはフレイが邪悪なソウルを御している証ではなかった。

 むしろ、その逆。

 フレイの意識が邪悪なソウルと同化し、赫炎の一部となりつつあることの証左だった。


 半身が変異した赫炎の熱も、胸の内に渦巻く業火の熱も最早認識できない。

 他のあらゆる余分な感情が焼き尽くされ、心を満たすのは嵐のように荒れ狂う憤怒と破壊衝動のみ。目の前のモノを壊し、殺し、踏み躙ることだけしか考えられない。

 ――それがこんなにも安らかで気持ちのいいことだと、フレイは

 汚い悲鳴を上げるバルゴスを、フレイは亀裂が走った右の眼で睨む。


「【少しばかり馬鹿力があっただけで、随分と思い上がったもんだ。自分より弱い者を見下して、踏み躙って……そんな優越感に浸りたいだけのみみっちい欲望に溺れて、どれだけのモノを奪ってきた。どれだけのモノを踏み躙ってきた。このクソ野郎が】」

「な、に、知った風なクチを――!」

「【知ってるよ】【覚えてるよ】」


 応じた声は、一つではなかった。

 フレイの口から発されたのは明らかに本人のものでない、それも男女の声。


「【お前に殴られた痛みを】【君に泥を食わされた惨めさを】」

「【モンスターの囮にされた怒りを】【恋人の前で犯された絶望を】」

「【お前に殺された怒りを】【お前に踏み躙られた憎しみを】」

「【知っているぞ、お前の罪を】【覚えているぞ、お前が僕たちにしたことを】」

「【許さない】【許さない】【許さない】【許さない】【許さない】【許さない】」


 男女の違いだけでなく、一言一言全く別人の声がいくつも零れる。

 それらに共通するのは深淵から響くような、怒りに満ちた呪詛だということ。

 左の眼窩から一層激しく炎が迸り、顔の左半分を覆った赫炎が、またいくつもの人間の面相を形作る。怒りと、憎しみと、怨みの顔を。


「その声、ソノ顔は……!? 嘘だろ、オイ。だって……だって、お前らは死んだ! シンダじゃねえかよ! なに死んだヤツがしゃしゃり出てきてんだヨオオオオ!」


 炎に浮かび上がる複数の顔を目にしたバルゴスが、無様に裏返った声で喚く。

 醜い巨体を後退りさせるが、その叫びは開き直ったような哄笑に変わった。


「は、ハハハハ! ふざけんなよ! お前らが死んだのなんて、お前らが弱いのがワルイんじゃねえか! お前らが役立たずのゴミなのが悪いんじゃねえか! そんなゴミどものせいで、なんでこの俺がこんな目に――ガアアアア!」

「【黙れ。お前が口にしていいのは苦痛と断末魔の叫びだけだ】」


 フレイが右手をかざしたと同時、血色の火球が次々と生じてバルゴスの身体を削り取る。

 抉られた箇所はすぐに塞がるが、全身の体積は見る見るうちに減っていく。


「が、ヒッ、ひぃぃ……」


 とうとうバルゴスは、フレイと目線の高さが合うほどのサイズにまで縮んでしまった。

 死肉と土塊の醜い姿は健在だが、虚勢を張る気力も失い恐怖で身を震わす様は、酷くちっぽけに見える。

 フレイの口から、クツクツと陰鬱な響きの笑い声が零れた。


「【……でもな、俺は嬉しいよ? お前が同情の湧きようがないクズでさ……。お前みたいに胸糞悪いヤツをぶっ殺すのは、本当にスカッとするからよおおおお!】」


 右の拳を握り、バルゴスを殴り倒す。

 肘から炎の噴射を乗せた右フックは、人面が張り付く頭部に深々とめり込み、バルゴスの顔から左眼球を飛び出させた。

 千切れ損なった神経でプラプラぶら下がる眼球ごと、バルゴスの顔面を踏みつける。


「【そうさ! お前が弱い者いじめ大好きなみたいに、俺はお前みたいなクソ野郎をいたぶり殺すのが大好きなんだよ! お前みたいに弱い者をいじめて! 踏み躙って! そいつらの大事なモノを奪って壊して嘲笑う! そのくせ自分が痛い目を見るとは欠片も思ってねえ、ヘラヘラ笑う馬鹿面をグチャグチャにしてやるのがよおおおお!】」


 踵がしっかり突き刺さるように角度をつけて、ところかまわず全身を蹴り飛ばす。

 その度に血肉と汚染された土塊が飛び散るが、赫炎に燃やされてフレイには塵ほども届かなかった。バルゴスは痙攣と言葉の形を成さないうめき声を繰り返すばかりで、最早抵抗の素振りも見せない。

 しかしフレイは手を緩めず、むしろ一層熱狂するように炎の手足を叩きつけた。


「【痛い目見ないままにさせてやるものかよ! 報いを受けないまま終わらせてやるものかよ! お前らに罰を下す神様がいないなら、俺がお前らをぶっ殺してやる! オラ、泣けよ! 喚けよ! お前らが踏み躙った人たちの何万倍も何億倍も苦しみながら死ね! そんでもって死んでからも永遠に苦しみ続けろ! このクソ野郎がああああアアアアアアアア!】」


 赫炎が燃える。鈍い音が響く。黒く湿った塊が飛び散る。

 今の自分が他者からどう見えるかなど、考えもしなかった。

 ただ湧き上がる衝動と暴力に全てを委ねる。それが気持ちよくて楽しくて堪らない。


「【助けて欲しいか? 許して欲しいか? 誰が許すかよ、このボケ! 忌々しいクソッタレの下衆が! ドブ臭いゲロ袋が! もっともっとグシャグシャにしてやるよ! ギギ。ギヒャッ。ギヒャハハハハハハハハ!】

「――そこまでにして置きなさい、フレイ」


 しかし暴虐と快楽の時間は、静かな呼びかけによって終わりを告げる。


「もう十分です。……もう、死にましたよ」


 自分でも驚くほど、すんなりと拳は止まった。

 気づけば、バルゴスはもう跡形も残っていない。フレイの足元には焼け焦げた地面があるばかりで、宣言通りグチャグチャに潰した死骸も、赫炎が肉片一つ残さず焼き尽くしてしまったようだ。


(――ああ、結局やっちまったな)


 一切合切焼き尽くさんとフレイを突き動かしていた熱が、ほんの弱火ほどにまで引いていく。黒殻は崩れ、赫炎は何事もなかったように生身の肉体に戻った。

 それでも、消えたわけではない。

 この炎は転生するよりずっとずっと以前から、変わらず胸の奥で燃えていた。


「…………いつから、そこに?」

「あの馬鹿な男が、くだらない過去を思い返して悦に浸った辺りからですかね」


 つまり、見られたくないところは最初も最初から見られていたらしい。

 茂みから姿を現したミクスの方へ、フレイは振り返ることができなかった。

 背を向けたまま、その場に胡坐をかいて座り込む。


「リオは?」

「魔物とバルゴスのことで村へ報告に向かってもらいました。……あまり、他人に見られたくない姿になるのは予想できたので」

「そうか。…………ま、見ての通り、聞いての通りだよ。ビーストソウルなんて関係ない。俺は元々人間なんだ。人殺しが楽しくてしょうがない。そんな自分の凶暴さ、邪悪さを抑えることもできない人でなしなんだよ」


 思ったより、動揺はしていなかった。

 遅かれ早かれバレていたことだ。本当に結婚する前に知られて良かったとも思う。

 ただ、身体の熱が残らず零れ落ちていくかのような虚脱感は、あの日の絶望によく似ていた。


「最初に殺したのは、両親だった。薄々気づいてたかもだけど、あまり親との仲は良くなくてな。小さい頃、どうしても許せないことがあって怒ったとき、父親に顔中が腫れ上がって目が見えなくなるまで殴られた。母親は俺を邪魔臭そうに冷たい目で見下ろすだけだった。それ以来ずっと俺は両親に怯えて、なにがあっても蹲って耳を塞いで、感情を押し殺してきた」


 黒コゲの大地から炭化した石ころを一つ拾い、握って砕く。

 幼き日に刻み込まれた痛みと恐怖は、この手のひらと同じで煤けた痕跡だけを残した、既に遠い過去だ。

 それを苗床に育った感情……怒りと憎しみが真っ黒に心の傷を塗り潰していた。


「ある日、とうとう押し殺してきた感情が爆発するようなことが起きて、俺は父親と口論になった。間の悪いことに、そのとき父親は高い酒で悪酔いしててな。俺の言葉にキレた父親が、灰皿を手にして殴りかかってきた。殺される――そう思ったら、なぜかじいちゃんに教わった狩りのことを思い出した」


 祖父のことを思い返して、初めてフレイの胸は痛みを覚える。

 それを郷愁の念と呼ぶには、あまりにこの手は汚れてしまっていた。


「野生の獣と命のやり取りをするときの、狩人の勘が俺を反射的に突き動かした。気づけば近くにあったナイフを咄嗟に掴んで、それを父親の首に突き刺していた」


 継父と口論したのは休日の昼食時。凶器に使ったステーキナイフはダマスカス鋼の最高級品で、その切れ味は人間の肉でも遺憾なく発揮された。


「仕留めた獣に血抜きをするのと同じ感覚で、頸動脈を切り裂いた。勢いよく噴き出る自分の血を見ても、なにが起きたのかまるでわかってない父親の間抜けな顔に……俺は、腹の底から笑いが込み上げて止まらなかった。こんな簡単に殺せる、取るに足らない生き物に俺はなにを怯えていたのかと」


 生まれつきか、あるいは耐え続け、失い続ける日々がそういう風にフレイを歪めたのか。

 いずれにせよフレイの心に眠っていた異常性・邪悪性はこのとき目を覚ました。


「失禁して涙ながらに命乞いをする母親には、もっと手間をかけた。ひとしきりイスで滅多打ちにした後、手足の指先から時間をかけて切り刻んでやった。じいちゃんが自殺したのを『老害が死んで万々歳』って笑いやがったあの女が、醜い絶叫を上げながら死んでいく様は最高に痛快だったよ」


 今でもあの日を振り返れば、暗い愉悦の笑みで口元が歪む。

 積もりに積もった恨み辛みを解消する瞬間の快感は、今でも甘美に蘇った。

 それが、人としてあってはならない悪徳と知りつつも。


「我に返った後も、後悔なんてまるでなかった。今だって少しもしちゃいない」


 なにせ『逃亡生活をするなら、情報を仕入れられた方がいいだろう』とスマートフォンの携帯充電器を買い込みに行く余裕すらあったほどだ。勇者召喚の巻き添えになったのは、丁度その帰りのことだった。


「ただ……大好きなじいちゃんに教わった狩りの技を、俺は人殺しに使っちまった。こんな俺じゃあ、もう死んで生まれ変わっても、じいちゃんに合わせる顔がない」


 それだけが、ただそれだけが悲しくて、あのときフレイは泣いた。

 無残な屍を晒す両親には目もくれず、二度と帰れない祖父の山を思ってわんわん泣いた。


「それから色々あって、ある人に剣を教わって色んな場所を一人旅した。その中で俺は、同じようなことを何度も繰り返した。人を食いものにする山賊や野盗の噂を聞けば、賞金がかかっていようといなかろうと構わず殺しに行った。金を稼ぐためでも、ましてや正義感なんて綺麗なモンじゃない。そういう連中を、グチャグチャにぶっ殺すのが心底楽しかったからだ」


 殺しても犯罪になるどころか賞金の出る輩が存在することは、フレイにとってこの世界に転生して最大の幸運だった。とても人に明かせない残虐な欲求を、生きるための稼業と自分に言い訳することができたのだから。

 それでも「ブツン」のせいで、人から追われるような状況に陥った回数は数え切れないが。


「いつだって誰かを理不尽な目に遭わせてるヤツがいないかと……理不尽な目に遭ってる誰かがいないかと、心のどこかで期待している。そうさ、最初からわかってた。このどうしようもなく歪んだ邪悪こそが、俺の本質であり本性なんだ」


 午後の優しい日差しの下では、殊更その醜さが黒々と己の影に映り込むように思えた。

 言うべきことはあらかた言い切って、フレイは身体を丸ごと空っぽにするように長いため息を吐き出す。


「騙してごめん。俺は、ミクスのお婿さんにしてもらえるような人間じゃない。この森にいる資格もない人でなしだ。もう二度と、ミクスの前には現れないから…………」


 今すぐにでもここを去るべく、フレイは立ち上がろうとした。

 落胆か、失望か、義憤か、とにかく自分の正体を知ったミクスの反応を見るのが怖くて、ただ逃げ出したい一心だった。

 しかしそれを、あまりに予想外すぎる言葉が引き止めた。




「――は? なぜ?」




 お前なに馬鹿発言かましてんのよ、というくらいの軽い口調。

 思わず振り返れば、ミクスは呆れ返った表情でも雄弁にそう語っていた。

 いやお前こそなに言ってんだとあっけにとられる。


「なぜって……あの、俺の話ちゃんと聞いてた?」

「ええ。とんだ下衆でクズだった両親に復讐して、やったぜ、いい気味だぜ、ヒャッハー! という話でしょう?」


 冷たい微笑を浮かべ、まるで他愛ない世間話のように言い切るミクスの眼を見て、フレイはぞっとした。

 そこには見覚えがあり過ぎる、黒い炎が燃えていた。

 山賊や野盗の殺戮を終えた後、鏡や水溜まりを通して自身の瞳に見たのと同じ。

 闇色に燃える、悪意と殺意の炎が。


「……貴方にばかり傷を晒させるのは不公平ですね。だから私も見せましょう。――私の暗闇を。私の心に巣食う邪悪を」


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