第08話:■■■は近づく目覚めに歓喜する
「つっかれたー……」
ドッと押し寄せる疲労感に、フレイは堪らずその場で座り込んだ。
滴り落ちるほどの汗で全身濡れているが、気分は悪くない。無事に試練を果たせたことへの安堵と達成感は、どこか懐かしくもあった。
「なんとか勝てたな……。ま、主人公の戦いぶりじゃなかったけど」
これが物語の主人公なら、汗一つかかず華麗に敵を瞬殺しているところだ。
あまりに程遠い、自分の泥臭い戦いぶりを振り返って苦々しい気持ちになる。
わかり切っていたことだが、自分に主人公の素養はないらしい。
「って、ボケッとしてないで解体しなくちゃな。ここの気温じゃ、すぐに痛んじまう」
仕留めた獲物はその証拠に首を落として持ち帰り、肉は村の人々への贈り物にする決まり。婿入りの持参金代わりというわけである。
幸い解体しやすいよう、あらかじめ罠を張ったここは川辺のすぐ近くだ。
手順も頭ではしっかり覚えているので、後は身体の方がついてこれるかの問題か。
狩りの手応えからして大丈夫だとは思うのだが。
「つーか、本当に俺が狩ったんだよな? こいつ」
ヒグマと鬼を悪魔合体させたような――名前もまさにそんな感じなのだが、森に棲むモンスターの名称については未だ教わっていない――巨熊が息絶えているのを確認しつつ、フレイは我ながら信じられない気持ちだった。
傭兵まがいの稼業で多くの人でなしな人間を斬ってきたし、《魔物》と戦った経験もある。
しかし今回のように魔物と違って全うな猛獣と戦ったのは、少なくともこちらの世界では初めてのことだ。汚染が広がりつつある今の人間領には、豚や牛といった家畜ばかりで野生動物はほぼ一匹も残っていない。
初めての環境と屈強な獲物。決着の瞬間、不思議と力が湧き上がる感覚こそあったものの、バルゴスのときのように「ブツン」が起きたわけでもない。
それでもこうして無事に討伐できたのは、きっと……。
(きっと、じいちゃんの教えが今も俺の中に息づいてるおかげだ)
フレイの胸を締めつける思い出に浮かぶのは、今世の祖父ではない。そもそもこちらでの父と母の顔も知らなかった。物心つく前に、流行り病で亡くなったと聞いている。引き取って育てた隣家族は、二本足で立ち始めるなりフレイを奴隷のように扱った。
そんなフレイにとって家族と呼べる人は、前世の祖父だけだった。
前世の地球で、生まれたばかりのフレイは母に育児放棄を起こされた。夫を事故で亡くしたショックのためだと祖父に聞かされたのは、五歳の頃だったか。フレイはその幼少期を、狩人を営む祖父の下で過ごした。
田舎に暮らす祖父は私有の山を持っていて、そこは森に覆われて熊や鹿といった動物も多く生息する、今日日珍しいくらい自然豊かな土地。祖父は森の生態系を壊さない範囲で動物を狩ったり、山菜採りをしたりして生計を立てていた。また夏には都会の子供たちを相手に、自然体験教室を開いたりもしたものだ。
動植物についての豊富な知識。そして自然や生命の偉大さ、尊さを厳かに語る祖父の姿が、当時のフレイの目には最高にカッコ良く映った。
自分も大きくなったら祖父の後を継いで、多くの生命が暮らすこの自然を守っていくのだと、子供ながらに誓ったものだ。
しかし――
「…………っ!」
気づくとフレイは、巨熊の口から引き抜いた片手半剣を、濁った亡骸の眼球に突き立てようとしていた。歯を食い縛って自制しなければ、そのまま巨熊の頭が原形を失うまで剣を振り下ろし続けたことだろう。
(馬鹿か、俺は。試練の達成を証明する大事なものだぞ? そうでなくても、こんなのただの八つ当たりだろうが)
蓋をしてもガタガタと震えるかのように歯の根が噛み合わず、黒い感情は今にも溢れ返りそうだった。
これはいけない。こんな、こんな気持ちになってはいけない。
なにか、なにか楽しいことを考えなければ。
そうだ。試練を達成したのだから、自分はミクスをお嫁さんにできるではないか。
お嫁さんということは奥さんであり妻であり、子宝なんかも期待されているわけで――
(……………………ふへ)
「ってアカンアカン! 俺、今とっても気色悪い顔になってた絶対!」
想像がピンク色の妄想に染まって、鏡を見るまでもなく酷い笑い方をしたのがわかる。
こんな顔を見られでもしたら、婿入りの話など一瞬にしてご破算だ。ただでさえ、次のチャンスがやってくるかどうかも怪しいというのに。
自分で言ってて悲しくなってきた。軽く死にたい。
「……馬鹿やってないで解体するか」
ようやく冷静さを取り戻したフレイは、巨熊をどう川辺まで運んだものかと思案する。
(つーか、こいつで大丈夫かな? 一応、俺より重い獲物なら合格のはずだけど)
なお、フレイはモンスターの序列についても教えられていない――それを見極めるのも試練のうちだからだ――ため、自分が成し遂げた快挙についてまるで自覚がなかった。
バルゴスがこの巨熊の毛皮を被っていたのは覚えているが、彼がキマイラ族一の戦士という話も本気にしていなかったのだ。
「――っ!?」
と、そのとき。骨の芯が凍りつくような寒気がフレイの身体を駆け巡った。
反射的に盾とベルトを拾い上げ、装着し直す。
巨熊を発見する直前にも感じたこれは、生存本能が脅威を察知したときの感覚。祖父と過ごした山の暮らしで、猛獣から生き延びるために培った狩人の第六感だ。
しかも今、脳裏で打ち鳴らされる警鐘の大きさは、巨熊のときを遥かに上回っている。
フレイが身構える視線の先、木々の葉に日差しが遮られた薄暗闇の向こうからなにかが飛び出した。
思いの外小さいそれは宙に放物線を描き、フレイの足元に落ちて砕けてしまう。
「たま、ご?」
大型犬も軽く収まりそうなサイズの、しかし紛うことなき卵。
割れた殻の隙間から、トロリと零れる黄身と白身に思わず涎が出た。これでホットケーキを作ったら、クッションサイズの三枚重ねくらいはいけそうだ。
(いや、でもなぜに卵が?)
困惑と疑問に目を白黒させるが、それは次の瞬間に起こった爆発音で吹き飛ばされた。
卵の飛んできた方角の木々が砕け、へし折れ、飛来した破片が砲弾じみて地面を抉る。
冗談のような勢いで森を踏み倒しながら、「ソレ」は姿を現した。
――突然だが、フレイはミクスからモンスターについて、「ある種族」と普通の爬虫類系モンスターの顕著な違いを教わった。
それは甲殻の存在。普通の爬虫類系モンスターが全身を鱗で覆われているのに対し、その種族は鎧のような甲殻を纏っているのだ。鱗は人間で言う鎖帷子と同じく、甲殻で覆うことのできない関節部などを守るのみ。
フレイの前世、地球でも高名な、最強の称号を冠するに相応しい王者の血統。
その種族の名は――
「ドラゴン……!?」
「ギィィィィアアアアアアアアッッッ!」
怒りの咆哮が大地を揺るがす。
体躯は並の恐竜をも上回る体長二十メートル強。翼を持たず、骨格とフォルムはトカゲよりむしろ虎に近い。甲殻も黄色と黒の縦縞模様で、頭から尻尾まで無数に突き出た鋭角が、持ち主の気性の荒さを表している。特に筋力の発達した、岩や鉄の樹皮を持つ木々を容易に砕く前足は、大鬼が振り回す金棒の如しだ。
見るのが初めてでも一目で悟った。このドラゴンこそがミクスにきつく忠告された『危険領域』の主、森の頂点に君臨するモンスターなのだと。
(危険領域……ドラゴンの縄張りはずっと離れているはずなのに、なんでこんなところに?)
疑問の答えは考えるまでもなく、フレイの足元にあった。
この砕けた卵は、おそらくドラゴンのものなのだろう。盗まれた卵を追って、ドラゴンはこんなところまでやってきたのだ。
だからドラゴンは怒っている。我が子を無残な姿にされた悲しみと憎しみが、今のフレイには不思議とハッキリ伝わってきた。それこそ、胸が痛みを訴えるほどの明確さで。
不可解で突発的な情動の変化に気を取られた、その一瞬があまりにも致命的だった。
「アアアアアアアア!」
衝撃。瞼の裏で飛び散る火花。天地の感覚の喪失。
風を切る感触。潰れた左半分の視界。同じく左半身に走る熱。
再度の衝撃。体内でなにかが砕ける音。込み上げる嘔吐感。
「が、ばっ」
粘度の高い血の塊を吐いて、フレイは地面に倒れる。
防御、回避という以前に反応することもままならず、ドラゴンが振るった爪の直撃を喰らい、吹き飛ばされた先の木に激突した。
そう自分の身に起きたことを認識したときには、フレイの身体はボロキレのようになっていた。両手足があらぬ方向に折れ曲がり、左目も潰れたのか視界の左側がやけに暗い。木に叩きつけられた際に背骨も砕けたらしく、下半身の感覚が完全に麻痺していた。
残った右半分の視界に、盾と剣だったと思しき金属片が転がっている。盾を構えた左から爪がきたため、ギリギリ命を繋ぎ止めたようだが、それだけだ。
この身体ではもう、戦うことも逃げることもできやしない。
(死ぬ、のか? 俺、このまま死ぬのか?)
死神の息吹がすぐ耳元で聞こえてくる。
それほど間近に「死」を感じながらも、フレイの心はどこか穏やかだった。
ようやく死ねるのかと、奥深くに潜んでいた死にたがりが顔を出す。
(別に、どうでもいいか……。なんとなく、ロクな死に方なんてできないとは思ってたし)
自然の摂理に従い、このドラゴンに食われて生命の糧となれるなら、むしろ上等に過ぎる最期だとさえ思えた。少なくともあのまま王国で捕まり、異端審問とは名ばかりの拷問で嬲り殺しにされるよりは何万倍もマシだろう。
かろうじて動く右の眼球で視線を巡らせば、ドラゴンの爪に巻き込まれたようで、巨熊の上半身が跡形もなく削ぎ取られていた。これでは試練を果たした証明もできない。
それでも、フレイは概ね満足だった。
久しぶりに狩りができて、祖父との思い出をまた振り返ることができたから。
ここまで連れてきてくれたミクスには、感謝の気持ちで一杯だ。
(それにどんなワケアリにせよ、俺のお嫁さんになるなんて言ってくれたしな……。一生分の運を使い切った結果がこれでも、十分すぎる役得だったさ)
満足のまま人生に幕を閉じようと、フレイは目をつぶる。
……ところが。
突如フレイの意に反した、不自然な動きで右目が零れ落ちんばかりに大きく開かれた。
なにかを探すかのごとくギョロギョロと蠢いた眼球は、やがてある一点を捉える。
そこはこちらを見下ろせる、遠方の背が高い木の上。
その枝に乗って言い争う男女には、見覚えがあった。
一人は森へ入る際に軽い挨拶だけ交わした、ミクスの親友だという少女リオ。
そしてもう一人は、元いた部族から追放されるほどの暴れ者バルゴス。
バルゴスは笑っていた。
瀕死のフレイを見下し、その様を嘲り嗤っていた。
――祖父から山を奪った継父と、同じ顔で。
【その腐った頭蓋をすり潰してやると心の底で誓った、不愉快極まりないあの顔で!】
ブツン。ブツン。ブツン。
ベキャッ。
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