第05話:逆鱗の在処は少年も未だ自覚がない
「バルゴス……貴方はドアがノックするものか壊すものかも区別できないんですか?」
「ああ!? ドアの一つや二つくらいでいちいちうるせえぞ!」
ミクスにバルゴスと呼ばれた、二本角が生えた熊の毛皮を被った大男が怒鳴り返す。
獣人化した族長たちよりも頭一つ分ほど高い体躯は、毛皮を被るまでもなく熊と見間違えそうだった。相手を威圧するゴツゴツした岩のような赤銅の筋肉といい、内面の粗暴さが滲み出ている強面といい、狩人というか山賊の方が余程しっくりくる。
こちらがいる広間のテーブルまで上がり込み、バルゴスはジロリとフレイを一瞥した。
そして額に青筋を浮かべると、噛みつかんばかりの勢いでミクスに食ってかかる。
「てめえ、このバルゴス様の誘いを蹴った挙句、こんなヒョロヒョロな王国の犬に股を開いたってのか! 誰がそんな勝手を許した!?」
「少なくとも貴方の許可は必要ないでしょう。それと言い方がいちいち下品です。私にだって自分の伴侶は自分で選ぶ権利がありますよ」
「ふざけんな! こんな踏めば潰れる虫けら野郎に、俺のなにが劣ってるってんだ!」
おや? と今にも血管が千切れそうなバルゴスの剣幕に、腰が引けつつもフレイの頭を憶測がよぎる。
口はかなり悪いが、もしやバルゴスはミクスに懸想しているのではあるまいか。
だとすれば、どこの馬の骨とも知れぬ輩がいきなり花婿などと言われて、納得いかないのも当然だ。犬だの虫けらだのという言いようにはカチンと来るが、自分でもわけがわからぬ間に花婿の座へ収まった身としては、申し訳ない気もしてくる。
しかし、そんなフレイの懸念は即座に打ち砕かれた。
「なんでもかんでも腕力と暴力だけで推し量ろうとするのが貴方の悪い癖ですよ、バルゴス。それに、あまり虫さんを馬鹿にするものではありません。ハチミツ、クモ糸、防具の素材として有用な甲殻……虫さんたちからも、私たちは多くの恩恵を与えられているのですから」
「女がガタガタと生意気に口答えしてんじゃねえ! 強いオスの子を産むのがてめえらメスの役目だろうが! キマイラ族一の狩人であるこの俺様が、てめえみたいな顔と肉付き以外に取り柄のねえ、半端者の出来損ない女に子種をくれてやると言ってるんだぞ! てめえは黙って俺に組み敷かれてりゃあいいんだよ!」
なんと頭の悪い発言だろうか。三文小説に出てくる悪徳貴族だって、もう少しマシな台詞を口にするだろう。
しかしバルゴスは、本気も本気の大真面目で言っているようだ。
馬鹿みたいな話だが、こういった手合いが実は世の中にたくさんいることを、フレイはよく知っていた。
自分の力に滑稽なほど絶対の自信を持ち、今まで実際にそれで世の中を渡れてきたから、今後も永遠にそれがまかり通ると欠片も疑っていない。そして自分を世界の中心、世界が自分の思い通りに動くのが当然と思っている。
賞金首の山賊や傭兵くずれ、金や地位に置き換えれば商人や貴族まで。
立場や思想が変わっても、こういう輩の顔は皆似たり寄ったりだ。
バルゴスとてそれは大差ない。――女を欲望のはけ口くらいにしか思っていない、ミクスの肢体を下卑た目で舐め回す醜い笑みも含めて。
(ああ、マズイなぁ……!)
ギチチ、と硬い弦の弓を引き絞るような音が、自分の内側から響くのをフレイは感じた。
これはフレイの悪癖「ブツン」が起きる予兆だ。
そしてこの予兆が外れたためしは、過去に一度としてない。
「てめえもなんとか言ったらどうなんだ、オイ? ビビッてるのかよ!」
ミクスとの間に割って入るようにして、バルゴスがフレイに怒鳴りつけてきた。
テーブルを拳で叩いて大きな音を鳴らす動作は、見かけに違わず恫喝慣れしている。
背を曲げて俯いたフレイの姿が、怯えているようにでも映ったか。バルゴスは溜飲を下げて満足げに唇を歪めつつ、蔑んだ目で床に唾を吐き捨てた。
「けっ。話にならねえな、腰抜けが。いいか? この世は弱肉強食、てめえら弱いヤツは強いヤツに食われるためだけにするんだよ。弱いオスは俺らの奴隷として、メスは俺らの玩具としてな! よってこいつは俺の……いや、こいつ『も』俺の女なんだ。てめえに突っ込ませてやる穴は一つもねえよ。ヘタレ雑魚野郎はどこへなりと消えちまいな!」
なんなのだろう。
なんなのだろう、この不愉快な生き物は。
どうしてこんなゴミに、自分が見下されなければならないのか。
なんでこのゴミがゲラゲラ嗤って、自分が不快な思いをさせられている。
ありえない。間違っている。そんなことは許されない。
地を這いずって見下ろされるべき者が本当はどちらか、思い知らせてやらなければ。
――どうやって? そんなことは愚問だ。いちいち思考すること自体が愚かしい。
だって、
「聞こえねえのか!? こいつは俺の所有物だって言ってんだ!」
【お前はもう、その答えを知っているはずだ】
ブツン。
「とっとと消え失せねえとぶっ殺すぞ、クソガキャアアアア!」
フレイの無反応に苛立ったバルゴスが拳を繰り出す。
まともに当たれば人間の頭蓋も卵のように砕きかねない豪腕は、しかし空を切った。
イスに座った状態から突如、フレイが曲芸じみた動きで身を躱したのだ。
背もたれを掴んだ両腕で身体を押し上げ、宙へと躍らせる。
そしてクルリ、と危なげもない身のこなしで空振りしたバルゴスの腕に着地。
両足と左手で、いわゆる三点着地を決めたフレイの形相は、表情の起伏が少ないミクスも息を呑むほどの変貌を遂げていた。
逆立つ黒髪。大きく開いた瞳孔。牙を剥いて歪む口。
変異せずともそれは、まぎれもなく獰猛な獣の顔だった。
人の形をした獣となり、フレイは拳を振りかぶる。
「――ッ」
しかし、そこで奇妙な「間」が生じた。
実際の時間では一秒にも満たない、されど一定の実力者が見れば致命的と言っていい逡巡。
理性が飛んでいるとしか思えない今のフレイから、確かになにかを迷う気配が感じられた。
フレイはバルゴスの腕を踏み台に二度目の跳躍を行い、頭上を取る。
どの道、自信満々に放った拳を避けられ、唖然とするバルゴスに立ち直る余裕はなかった。
固く握ったフレイの拳が音を立てて軋み、そして真っ黒に発火する。
「【グオオオオアアアアアアアア!】」
冷たく燃える《闇》を纏った拳が、遅れてフレイを目で追うバルゴスの横っ面を撃ち抜く。
踏ん張りが利かない空中からの一撃。にも関わらず、熊のような巨体は上下逆さまにひっくり返り、頭が床を突き破った。
床下の頭があると思しき角度で人差し指を突きつけ、フレイは叫ぶ。
「なぁにが所有物だ、この脳ミソ下半身野郎ぉぉぉぉ! 俺の可愛い嫁さんに、なにドブみたいな汚い色目使ってやがる!? 解体して畑の肥やしにするぞ、下衆がああああああああ!」
沈黙。痛いほどの沈黙。
族長たち三人は言葉を失い、口をあんぐりと半開きにする。
ミクスは目をパチクリさせて、上品に手で口元を覆う。
そして、我に返ったフレイはお通夜のような顔で冷や汗を一滴流した。
(やっべー。またやっちゃった)
これこそがフレイの悪癖「ブツン」だ。
誰しもカッとなる、怒りに我を忘れるという経験が一度くらいあるだろう。
悪い意味で「考えるより先に身体が動いていた」、そういうことが。
フレイが普通と違うのは、その頻度が異様に多いことと、「ブツン」した瞬間“だけ”尋常でないパワーアップが発揮されることだ。その威力たるや一番顕著な例を上げれば、対物理防御を施された魔導鎧を素手で粉々にするほど。
頭に血が昇った瞬間『だけ』というのがミソで、相手を殴り飛ばして我に返ったときには、謎の力はどこかへ行ってしまう。
そして後には、悪化した状況にポツンと取り残された間抜け顔の自分……そんな事態に何度も陥った末、フレイは今この場に立たされていた。
「えーと、その、ごめんなさい?」
主に床に穴を空けたことへの謝罪を口にすると、なぜか族長たちは声を上げて笑い出した。
「アッハッハッハ! なに、今のはバルゴスに非がある。君が謝る必要はない」
「しかし見事な一撃だったのう。これでもバルゴスは村一番の戦士なんじゃが」
「え。村一番って、これが?」
床から生える肉のオブジェを指差しながら尋ねると、ミクスが心底不本意そうに頷く。
「狩りで多くの獲物を仕留め、村に貢献しているという意味では本当ですよ。直に戦えばこの三人の足元にも及びませんが、狩りではまあ、寄る年波にはというヤツです」
「これは手厳しいな。ま、事実なんだが」
「年季はともかく体力となると、流石に若いのには敵わんでな。これでも昔はブイブイ言わせたモンじゃが、今となってはお肌もアソコもカラカラでのう! そこは若いモンが頼りじゃし、しっかり励んでおくれよ! カッカッカ!」
「流石に言い方が露骨すぎるでしょ……。でもミクスは悪がしこ――もとい頭のいい子だし、婿殿も優れた才能の持ち主のようだ。本当、今から子供が楽しみだよ」
「は、はあ」
「全く……」
随分と気の早い話に、ミクス共々なんとも言えない顔になる。
というか、才能云々はまさか「ブツン」のことを指して言っているのだろうか。
もしこれがいわゆるチート的な異世界転生の特典だというなら、心底女神を訴えてやりたい。王国の女神信仰からして自分が死刑になるだけだろうし、それも異端認定されている時点で今更な話だが。
「て、め……この、よくも……!」
おかげで、またしてもフレイは窮地に陥った。
床から頭を引き抜いたバルゴスが、地響きのような声を上げる。
ヨロヨロと足取りが微妙に揺れており、ダメージは少なからずある様子だ。
しかし、それだけ。ノックアウトには程遠い。
「踏めば潰れる虫けらの分際で、よくもこの俺様にぃぃぃぃ!」
口に入った床板の破片を吐き捨て、屈辱と怒りに全身を震わせて吠えるバルゴス。
《闇》を纏って熊の半獣半人に変異し、今度は獣毛と鋭い爪で武装した巨腕がフレイを襲う。
(ま、ずい! これは避けられない――!)
振るうだけで室内に強風を巻き起こす巨腕の速度は、この至近距離の間合いでフレイが回避できる域を超えていた。
防ごうにも盾と剣は、最初跳躍した際に立てかけていたイスごと床に転がっている。
ただ立ち尽くすことしかできずにフレイが挽き肉にされる、寸前。
「そこまでです」
フレイを庇うようにして、ミクスが間に割って入った。
止める間もなく、巨熊の凶爪がミクスを捉える。
しかし、
「ぎああああ!」
どういうわけか、苦悶の声を上げたのはバルゴスの方だった。
爪が五本全て切り落とされ、獣毛に覆われた腕も血飛沫を散らす。
(な、なんだ? 一体ミクスはなにをした?)
フレイにはバルゴスの攻撃を、その細腕で軽く払ったようにしか見えなかった。
右腕を押さえて呻くバルゴスに、ミクスが余裕たっぷりの冷笑を浮かべる。
「相変わらずの雑な力任せですね。そんな馬鹿力だけに任せた攻撃では、私の鮫肌に傷一つ付けられませんよ」
鮫肌、という言葉でフレイも悟った。
漆黒のオーラを帯び、変異したミクスの右腕。その肌を覆うのは、鱗は鱗でも爬虫類でなく魚類のモノだったのだ。つまり平たい三角形の突起は魚のヒレ。そしてサメの鱗は皮歯とも呼ばれ、触れ方によっては肉を削るような形状をしていると聞く。
しかし、それだけではどうにもフレイは腑に落ちなかった。
バルゴスが受けたのはもっと鋭利な、刃物かなにかで斬りつけられたような傷なのだ。
「このクソアマがぁぁ……! 『混ざり物』の出来損ないが、くだらねえ小細工で俺に一矢報いたつもりかあ!?」
「一矢報いる? そういう台詞は、格上が格下に対して言うものですよ? 貴方が口にしたところで、ねえ?」
挑発的に鼻を鳴らして見せるミクスに、バルゴスの顔はいよいよ爆発寸前。
肉体ごと破裂しそうな勢いで殺気が膨れ上がり――突如、フレイは不吉な悪寒に襲われた。
バルゴスを包む《闇》が殺気に呼応して膨張し、その漆黒が色合いを変えようとする。
「【そのくらいにして置け】」
しかし、静かな一喝が対峙する両者の《闇》を吹き散らした。
特別大きい声だったわけでもないのに、まるで魂を鷲掴みにされるような重圧。
フレイは危うく心臓が止まるところだった。そして戦意を砕かれたためか、ミクスとバルゴスの変異が解けている。
いつの間にか自身も変異を解いた族長たちが、諭すように言う。
「バルゴスよ。お前は確かに、狩りで最も村に貢献している一番の戦士だ。だからお前の粗暴な振る舞いも、ある程度は大目に見てきた。しかし祝福されるべき婚礼に、暴力で横槍を入れようというなら我々も黙ってはいない」
「それに、お主も我らダークの民の教えを忘れたわけではあるまい?」
「欲に溺れるがままでは、お前も最後は畜生以下に成り果てるぞ」
「ぐ、ぎ、ぎ……!」
今にも三人へ噛みつくか、自らの舌を噛み切らんばかりの形相でバルゴスが唸る。
怒りと屈辱で顔をしわくちゃに歪めながらも強く逆らえないのは、それだけ三人の強さが身に沁みているためなのか。血走った目で睨むことしかできないバルゴスを三人は無感情な瞳で見返し、それに一層の屈辱を覚えた様子でバルゴスが歯ぎしりする。
しかし不意になにか閃いたような顔をすると、バルゴスはこう申し立てた。
「な、なら儀式だ! そいつにも《戦士の試練》を受けさせろ! アレは成人を迎えた民の男子全員が受ける、ダークの戦士に足る資格を証明する習わしのはずだろうが!」
「ふむ。それについてはお前に言われるまでもない」
「今では外の人間が一族の戦士に加わるための通過儀礼でもあるからのう」
「明日にも試練は開始する予定だ。納得がいったなら大人しく帰るんだ」
バルゴスは到底納得した顔に見えないものの、大人しく拳を引っ込めた。
「ハッ! こんな貧弱野郎に、試練なんか乗り越えられるわけがねえ! せいぜいイヌの餌にならねえよう、必死こいて逃げ回るんだな!」
最後にそう言い捨て、入ってきたときより五割増しの荒い足取りで去っていく。
結局どう話がまとまったのか、フレイにはなにがなにやらサッパリだ。
呆然と風通しの良くなった玄関を見つめていると、ミクスに肩を叩かれる。
「そういうわけですから、頑張ってくださいね」
「いや、あの、具体的になにを?」
ニッコリ微笑まれても、他に答えようがなかった。
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