中学校時代ー3

 さて、ここから中学校時代を学年ごとに思い出せるだけまだ書いてみます。まずは中学校1年生。僕達が入学したころは確か全部で6~7クラス合ったように思えます。中学校では毎年クラス替えがあり、1年生の時は確か5組辺りじゃなかったでしょうか。今はっきりとは思い出せません。担任は理科の先生で記憶の中ではあの有名な「でんじろう先生」に似ていた気がします。前述の通り入学してすぐに野球部へ入部し、何かと積極的だった僕は新しいクラスで学級委員を自ら引き受けていました。その甲斐もあってか友達はすぐに増えていったことも覚えています。しかし勉強の面ではさっぱりで、なんとか付いていっているといった感じでした。この頃からでしょうか、授業中に居眠りをするようになったのは。小学校時代は授業中になるなんて考えられなかったのですが、中学校へ上がると居眠りを覚えてしまったようでした。初めはこんなに眠いなんてきっと病気なんだと思ったほどですが、これ以降現在に至るまで居眠りは当たり前の行動になってしまいました。今でも仕事中によくやってしまいますしね。まあこの頃から野球部という日々厳しい練習と更には朝練習もあり、にもかかわらず前述した通りテレビゲームで夜更かしするなどしていたのが大きな原因かとも思いますが。(今でもこうして明日仕事なのに遅くまで書いてたりしていますしね。)中学校までは小学校の頃のようにまだ遠足がありましたね。中学校では「鍛練遠足」と名前が変わりましたが、行く場所は小学校の時とあまり変わらなかった気がします。小学校時代では記述しませんでしたが、この遠足という行事は一体何の意味があったのだろうかと感じます。しかもそんなに離れていない公園にわざわざ遠回りのコースを歩いて行くのです。もちろん安全性も考えられたコースなのでしょうが、ああやってずらずらと生徒が歩いて行くこと自体がかなり迷惑なのでは、と思ったこともあります。しかも大体目的地になる運動公園が自宅から近く、普段なら普通に友達と遊びに行っているのになぜわざわざ学校へ行って自宅近くを通って公園に活き、また自宅を通り越して学校へ戻り、学校から自宅へ行かなければならないのかと、いつも自宅近くまで来た時このまま帰れたらいいのに、と思いながら帰っていました。まあ自宅自体がほぼ隣の学区との境目に近いほど学区の外れだったので特にそれを感じていたのですが。この時 僕は人生で初めて人間関係の難しさを実感し始めます。小学校時代は平和そのもので人間関係に関するトラブルはほとんどありませんでした。あったにしても大事になることはなく、いわゆる「いじめ」のような暗い問題はありませんでした。しかし中学校に上がってクラスで不登校のクラスメートがいたのです。この生徒は入学式から学校へ来ていなく、この後も一度も学校へ現れることはなかったのですが、僕にとってクラスでそういう生徒がいるということは初めてだったので、それまではテレビや映画の中だけの話だと思っていたことが急に身近に感じられ何かが心の中で芽生えていることに気が付き始めていました。更には小学校時代にあまり感じられなかったあの自然発生する「グループ」というものを実感したり、何処のグループにも入れない人が一人ぼっちになっていたり、その人がよくいじられていたり、少人数グループの人たちが白い目で見られていたりという光景が見られました。僕は学級委員の立場というのもあってか、仲良しグループはいた者の割といろんな人たちと付き合っていた気がします。苦手だったやんちゃなグループ(いわゆる不良っぽい生徒)とはあまり関わりを持たなかったのですが、それでも僕自身があまりグループを気にせずにいろんな友達を作っていた気がします。綺麗事を言う訳ではありませんが、本当に受け付けない人以外はたいてい話しかけていました。もちろんどうしてもこの人は嫌という人もいましたし、そういう人とはほとんど関わりを持ちませんでした。それは今でも同じで、特に今就いている仕事柄どんな人にも話しかけ、繋がりを持つように心がけています。そして中学校1年生の3月、僕の人生を大きく左右することになるきっかけに出会います。たいていこの頃になると3年生を送る為の予餞会が行われます。その中で各学年出し物を行うのですが、学級委員をやっていた関係で僕はこの出し物に参加することになりました。それが「演劇」だったのです。それまではもちろん「演劇」なんていうものに関わったことはありませんでした。しかしこの「演劇」」というものを作り上げていく過程に面白いと感じ、興味を持ち始めたのです。当時一緒にやっていた仲間もそういうことが好きな人たちだったらしく、脚本を決めて小道具や大道具、衣装も自分たちで作り、それぞれ部活もある中で舞台を作っていくというのは楽しく、特に本番の緊張感は今でも忘れられません。ここから先徐々に「演劇」に関わっていくことになるのですが、その全ての第一歩がここにあります。恐らくここで「演劇」を知らなければ全く別の人生を歩んでいたに違いありません。そうして春には学年が一つ上がることになります。

 2年生ではやはり僕は5組だったような気がします。学級委員には中学生時代1年生以来就かず、担任は涙もろい音楽の女性の先生。どんなクラスメートがいたか覚えていませんが、この2年生の時にまた親友と呼べる友達が出来たのは覚えています。陸上部のイケメンな野郎なのですが、なかなかの変な奴で僕とはかなり気が合っていました。その友人、後に社会人になった時たまたま福岡とは真逆の札幌で再開するという奇跡が起こります。会社は全く違うのですが、どちらもたまたま転勤で札幌が勤務地となったそうで、再び札幌で飲み明かしたのは言うまでもありません(僕は酒に負けましたけどね。)そんな腐れ縁な親友が出来た2年生は部活でも後輩が出来、僕達も先輩となりました。さてこの頃僕達の一つ上、3年生の先輩が猛威を振ってきました。僕達が1年生の時の3年生の先輩方はかなり優しい先輩たちだったのですが、その先輩方が卒業した途端に化けの皮が剥がれた一つ上の先輩。「しごき」という名の「後輩いじめ」が始まります。もちろん嫌なことばかりでしたが今現在そのことが心の傷になっているとかそういうことはありません。中には心に傷を負った人もいるかもしれませんが。部活動中は顧問の目があるのであまり目立ちませんでしたが、下校時が一番酷かったのを覚えています。最後の挨拶をして解散するなり後輩達を捕まえてはなんだかんだされていました。今思えばばかばかしいことばかりですが、当時皆それが嫌で挨拶と同時に先輩達から逃げるようにダッシュで反対方向の道を行ったり、校内にいったん隠れたりととにかく捕まらないようにしようと必死でした。先輩のカバン持ちは当たり前、雨が降れば水たまりに正座させられ「これはしごきだ」とかさや野球バックで殴られ、ピンポンダッシュをしろと命令されたり、自動販売機でジュースを買えと脅されたり、終いにはアパートのごみ置き場のフェンスの中に閉じ込められて鍵をかけられたりと、これに耐えきれず涙している人もいたのではないでしょうか。こういった「しごき」の問題はこの頃少し全国的にも問題になっていた気がします。「しごき」という名のいじめを受けて自殺する人や致命的大けがを負う人など全国ではもっと酷い先輩いじめがテレビなどでも細々と取り上げられていたような気がします。今でも運動部やなんかではこの「しごき」の文化は残っているのでしょうか。そんな中でも2年生の時僕はある一つの大きな目標が出来ます。「しごき」があったとはいえ皆が皆怖い先輩ばかりではありません。僕に大きな目標と人生の大きな機転を築かせてくれたのはある先輩との会話でした。それは確か先輩達の最後の試合も近い初夏の頃だったように思えます。いつもとは違う同じ方向の先輩と帰っている時。


「お前、行きたい高校とかあるん?」


僕はまだまだ高校なんぞ先の話で高校のこと、ましてや受験のことなど全く考えていませんでした。


「あ…特に…。」


その時少し無言で歩いていたその先輩の後ろ姿は今でも鮮明に思い出せます。あの時先輩はなにを考えていたのだろうと今でも思うのですが、今なら少しわかる気がします。


「○○は××高校に行きたいって言いよったぞ。○○も…。」


と数名の同級生の名前を上げていました。僕はそれが一体何を意味するのか分かりませんでした。


「お前は、何処行きたいとかないん?」


僕はやはり答えられませんでした。その時もやはり勉強が出来なかったので自分が頭のいい高校に行けるとも思わなかったし、第一何処の高校が自分のレベルに合っているかなんて分かりませんでした。そうやって僕が黙っていると、先輩が話し始めました。


「俺もさ、全く考えとらんかったっちゃん。でも結構もう皆行きたい高校とか決めとってさ、ずっと部活ばっかりやったけん今になって焦っとるんよね。やっぱり志望する高校がないと部活引退してからが怖いっちゃん。」


僕はずっとその話をよく理解せずに聞いていました。しかしその時見せていた先輩の悲しそうな顔は今でも覚えています。しかし一つ理解できたのは志望校を決めておかなければならないんだということ。僕はこの時頭に「福岡中央高校」という公立高校の学校名が浮かんでいました。それを引き金に大きな理由もなしに何故か僕は「絶対福岡中央に言ってやる。」という熱が出てきたのです。そうしてその時先輩にも言っていました。


「福岡中央です!」


そういうとその先輩は俺の顔をじっと見て肩をガシッと掴んできました。そして、


「なんで中央なん?」


先輩はじっと顔を見たままそう聞いてきました。


「なんか…中央ってかっこよくないっすか?福岡の中央っすよ!なんかその中央って言うのに憧れます。」


なんかこんなことを言った気がします。その時先輩も呆れたのだか可笑しかったのかは分かりませんが、表情を緩ませ、背中をバシッと叩かれ、


「がんばれよ!」


と言われました。それからはなにを話したのかは覚えていませんが、おおよそこういう会話をして、それから周りの友人にも家族にも、「福岡中央」に絶対行くと言いふらしていた気がします。もちろんこれが後にいい方向へ導くことになるのです。この時のこの先輩の言葉があったことを今でも感謝しています。部活ではこの年ほぼ地区大会止まりだったのを覚えています。そしてこの年の冬、僕は謎の頭痛に悩まされることになります。酷い頭痛と倦怠感で部活はもちろん、学校も休まなければならないことがしばしば出てきて、ついには大学病院へ行くことになりました。原因は生まれつき持っていた逃避近くの腫瘍が炎症を起こしているのであろうということで、それの摘出手術をしなければならなくなりました。命にかかわることではないのでと冬休みを使って1週間ほど入院しました。九州の冬休みは短いので、年明けすぐに入院し、冬休みの半分は病院暮らしとなりました。初めての入院暮らしに初めての手術。頭ということで全身麻酔をかけられ手術に臨みました。全身麻酔とはすごいもので、本当に一瞬で意識が飛ぶんですよね。目がさめれば手術は終わっていて、瞬間酷い吐き気に襲われすぐにトイレに籠ったのを覚えています。もちろん何も食べていないので出るものはありませんが、ひたすら胃液のようなものだけあまりの苦しさに涙しながら30分ほど出し続けていました。そんなこんなで学校へ戻ってもしばらくは体育などが出来ず、野球部も辞めなければならなくなりました。そんなに野球大好きという訳でもなかったのですんなり受け入れはしたのですが、やはりいざ辞めるとなると急に寂しさが込み上げてくるもので、それでも激しい運動が出来ないということで顧問に退部届を提出しに行きました。正当な理由があるとはいえやはり強面の先生に退部届を出しに行くのは緊張しました。それでもしっかり提出しなければ自分の気持ちにも踏ん切りがつかないと思い、いつも通り深々と挨拶をし、事情を話して退部届を提出しました。すると。


「野球部にいたいか?」


と優しい声で聞いてくるのです。僕はすぐには答えられませんでした。しばらく答えられない僕に苛立ったのか今度は少し荒い口調で、


「居たいんか居たくないんか!」


というので僕は咄嗟に。


「居たいです!」


と答えていた。恐らく何も考えずに出た言葉だったので本音だったのでしょう。すると先生はまた穏やかな口調で話を続けます。


「練習が出来んならマネージャーやらんか?」


僕は意外な言葉に戸惑いました。マネージャーになるなんて考えたこともなかったからでしょう。


「マネージャー…ですか?」


当時は確かにどの部活にもマネージャーがついていた気がしますが、野球部には居なかったのです。


「うちは俺が怖いのかマネージャー希望者がおらん。それやったらマネージャーやってくれんか?」


と顧問は続けます。僕ははっきりとはしませんでしたが、


「はい…ありがとうございます。よろしくお願いします。」


と言って引き受けていました。それからは自分でマネージャーのするべき仕事を勉強し、特に何かを教えてもらったわけでもなく自分から様々なことをし、また練習をしっかり見て皆にアドバイスが出来るようにしていきました。更には試合の時のスコアを書くスコアラーを命ぜられたのです。スコア自体は少しやったことがありましたが、本格的に書いたことはありませんでした。スコアがしっかり書けるようになるまで、顧問から課題が与えられ続けました。様々な試合のビデオテープを渡され、その試合のスコアを書いて添削してもらうという形でした。この時も厳しく、一つ漬け間違えれば


「お前は何処を見てるんだ!」


とすぐに怒鳴られていましたが、僕は真剣に取り組んでいた為嫌だと感じたことはありませんでした。その甲斐あってか恐らくスコアは部員一、当時は中学生一スコアを正確に記入できる自信がありましたね。それがどんなに複雑な試合でもどんなに展開が早くてもついていけたのです。もちろん今では記号一つも忘れてしまってもう書けませんが。そんな時何処で噂を聞きつけたのか、珍しいマネージャーがいるということでスポーツ紙が取材に来たこともありました。そんなわけで僕のことが雑誌の記事になったこともあるんです。しかしそれがきっかけで他の学校にもそのことが知られてしまい、他校に試合に行ったりすると変な目で見られることも出てきました。時には他校の部員から


「男子マネージャーさん呼ばれてますよ!」


などと笑いながら言われることもあり、そういうことがだんだんと耐えきれなくなったのと体調がなかなかすぐらないことが続き、学年が上がる頃にはやはり退部してしまっていました。もちろん自分の気持ちの中でもマネージャーで居続けることに何か引っ掻かるものがあった気もしますがもうはっきりとは思い出せません。そしてこの年もやはり予選会では「演劇を行います。もう舞台を作ることの楽しさにのめり込んでいたのでしょう。やはり楽しくやっていた記憶はあります。この年に「修学旅行」も行われました。僕達の学校では「修学旅行」ではなく「スキー研修」でした。福岡から遠く鳥取までバスで行き、3日間みっちりスキー教室を受けてまたバスで福岡まで戻るだけという僕にとってはあまり面白くない修学旅行でした。スキー何ぞやりたいわけじゃないし雪なんて一生見ないだろうと思っていたら、ところがどっこい今雪だらけの北海道民となり、冬にはスノーボードに興じているなんて当時は考えもしなかったことでしょう。そんな感じの2年生でした。

 そして3年生。3年生では1組、これはなぜだかはっきりと覚えています。担任は技術の先生。とても優しい先生だった記憶があります。僕は3年生の初めから部活を辞めていたこともあってかほぼ受験のことばかりを考えるようになっていました。部活を辞めた分絶対に行きたい高校へ行く。もちろん志望校は「福岡中央高校」のまま。目標を決めても無理だと思ったら諦めてしまったり、飽きやすい性格の僕がこの時ばかりはなぜだかずっと燃えていました。塾に行っては予習復習を繰り返し、先生の元へ行って質問攻めをし、少しでも内申点を上げようと定期テストは必死でやり、その点数もぐいぐい伸ばしました。この時は某教材の勧誘マンガ並に順調に成績を伸ばしていました。もちろん某教材は取っていませんでした。勉強の大嫌いな僕が学校では友達と点数を競ったり、塾では習熟度別にクラスが分かれていたので少しでも上のクラスに入ってやろうと躍起になっていたり、とにかく成績が伸びるのが楽しくて仕方ありませんでした。そんな年に世界では「アメリカ同時多発テロ」が起こり、そのニュースに世界中がそのニュースに注目していました。社会の先生も教室にテレビを持ちこんでその行方を見守って僕達にもしっかり見て置くように言っていました。当時の僕達はたかだかビルに飛行機が突っ込んだだけで何をそんなに騒いでいるんだろう程度にしか思っていなかったのですが、この出来事の重大性を先生が解説していました。そんな中で唯一の楽しい思い出は合唱コンクールでしょうか。もちろん1年生の時からやっていて、毎年楽しんでいましたが、この年は少し違いました。誰が言い出したのだか、僕は指揮者をやることになっていたのです。誰だから僕を推薦したらしく、自由曲の指揮者をやらせて頂きました。しかしまあこの男子の指揮者というポジションは当時女子に対する高感度アップの場でもあったようで、指揮者をやる人はたいていのイケメン。運動部の主将だったりいかにも御坊っちゃんみたいな個だったりモデルみたいな体系の子だったり、特に3年生は最後の合唱コンクールで男子は特に力が入っていて、これまた当日見に来る保護者も目の保養のようにしていた部分もあるようで、まるで東京コレクションみたいなイベントを見に来るようなそんな雰囲気もありました。そんな中に僕の存在など関係ないと思っていたのに、気が付けばなっていた指揮者。なんとなく申し訳ない気持ちでいっぱいでした。もちろんクラスには僕よりイケメンは沢山いたのですよ。それなのに、と言いながらも引き受けたからには最後までやりきる性なのでこれまたお綺麗な伴走者の女子と毎日毎日練習をしていました。因みに男子が伴走者をやると指揮者の100倍くらいは女子の高感度が上がっていたのではないでしょうか。男子の僕からしても男子の伴走者はかっこいいと感じましたしね。そんな努力もあって僕のクラスは銀賞を取り、いい思い出になりました。因みに合唱コンクールで歌われる曲なんかは僕達の代は大体共通してくるらしく、全国どこでも話が通じるみたいです。皆さんはどんな曲を歌ったのでしょうか。そして迎える受験追い込み期。もう受験に良さそうなことは何でもしました。毎日夜遅くまで勉強をしていたのも覚えています。時には明け方3時4時くらいまで勉強をしていてかなりきつかった記憶はあります。親も今では完全に定着した御利益のありそうな御菓子や食べ物をよく買ってきてくれました。机の中に常に「キットカット」を入れていたのは思い出です。あの縁起がいいシリーズも僕達の頃に多く出だした気がします。特に御利益のありそうなものは本当に受験前日などにゆっくり味わったりとそれはそれで楽しみにしていました。そんな甲斐もあってか、受験は私立も某有名高校の「特進コース」に受かり心に余裕もでき、本命の「福岡中央高校」の為にぎりぎりまで勉強をし、臨みました。私立の時は合否は郵送だったのですが、本命の時は合格発表を自分の足で見に行ったのでその時のことはなんとなく覚えています。校門を入ってすぐの玄関前広場に多くの生徒が押し掛け、その時を今か今かと待っていました。時間になり合否の書かれたパネルがやって来ると、生徒達はざわめきだし、やがて歓喜の声、泣き声が聞こえてきます。僕も必死で自分の番号を探します。その中に自分の番号を見つけ、その瞬間どうしたのかは覚えていません。確かこの時幼稚園時代から腐れ縁の親友もいたのですが、一緒に合格していて「また一緒かよ。」とか言いながら笑っていた気もします。もちろん落ちてしまった仲間もいますが、とにかくまずは入学金の手続きなどもあるからとすぐに携帯電話で親に連絡しました。因みにこの時僕は既に自分専用の携帯電話を与えてもらっていました。というと当たり前のように聞こえるかもしれませんが、当時はまだ携帯電話を持っている人の方が少ない時代でした。高校言進学をきっかけに持つ人も多く、携帯電話自体はまだ半分持っているかいないかでした。とにかく僕も親に頼みこんで中学卒業前になんとか持たせてもらえることになったのです。当時はパケット通信料が高く、僕らぐらいの人はよくインターネットを使い過ぎて凄い金額を請求されてしまうという事態が多くありました。それこそ何十万円の請求が来るといった事態も起こっていたようです。なので親も子供に携帯電話を持たせるということにはまだ抵抗があったようで、「携帯電話が欲しい」といったところでなかなか首を縦には降ってくれないのが現状でした。僕も携帯電話を持てるとなった時はかなり嬉しかったのを覚えています。なんとか中学時代の友人たちともメールアドレスを交換し、連絡を取り合っていました。当時は今のようにアプリがあるわけでもなく、このアドレスを一文字でも間違えると送れないといった事態もあり、せっかく教えてもらったのに送れなかった友人も居ましたね。


 こうして僕は2003年春に進学先も決まり、無事中学校を卒業するのですが、最後の最後に未だに忘れられない悔しい思い出があります。中学校の卒業式の朝、僕と友人数名はある友人の家に居ました。彼はもう家を出なければならない時間なのに布団から出てきません。実は彼、中学校2年生辺りから引きこもりとなってしまい、学校へ来られなくなっていたのです。小学校では一緒のグループで、家も近所だったのでよく遊んでいました、中学校では同じ野球部に入り、楽しくやっていましたが中学2年になって彼は学校を休みがちになり、ついには来なくなってしまいました。僕は彼がいじめられている姿などを直接見たことはありませんが、恐らくは前述にもあった先輩からの「しごき」を最も受けていたのではないかと考えています。僕達はその後何度か彼の家に訪れ、修学旅行には来ていましたがその後は学校に現れず、3年でようやく同じクラスになったものの時すでに遅しで、何度彼の家へ行っても学校へ来ることはありませんでした。しかし僕達は何としてでも一緒に卒業したかったのです。布団の周りで一生懸命説得するも顔を見せてくれず、ようやく少し起き上がってくれて皆でなんとか制服を着せようとするも振り払われ、集合時間に間に合わない時間になってもぎりぎりまで説得を続けました。しかし世の中ドラマのようにはいかず、その子の親も心配してくれて


「もう大丈夫だから、気持ちはきっと喜んでくれると思うから。それよりも皆が卒業式に出れないことの方が悲しむと思うから、この子の分までしっかり卒業式に出てきてやって。」


その言葉に僕達はその場を後にすることにし、


「卒業証書、皆で持ってくるから!」


と言って学校までダッシュをしました。学校へ着くと既に皆入場の準備をしていて、僕達は担任に、


「すいません…連れて来れませんでした。」


と言って担任からは。


「ありがとう。」


と言われ、卒業式が行われました。今彼はどうしているのだろうかとも思いますが、そう言えばあれからあっていないなと思うとそんな僕自身も酷い人間かな、とも感じたりしています。こうして僕の中学校時代は幕を閉じました。

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