中学校時代ー1

  さてさて、僕ら1987年生まれが中学校へ入学したのは年表上2000年となっているのですがそうだったかな。

僕にとっての中学校入学というのは、小学校の私服の通学から真新しい詰襟の制服に変わったことが人生で大きな変化の一つでした。しかし中学校時代は僕にとって最も印象に薄い期間でした。なぜと聞かれてもそんなことは本人にもよく分かりませんが、記憶にも薄く、思い出せることが少ないのです。僕の通った中学は、周辺のいくつかの小学校が一つに集まっただけのようなもので、私立の中学や転校した人以外はほとんど同じ顔ぶれで、そこに新しい仲間が加わっていった感じでした(といっても大体の中学校時代ってそういうものなのでしょう)。僕の中学校はごく普通の住宅地の真ん中に存在する学校で、僕達より一世代前は大荒れの模様だったらしいのですが僕達が入学する頃には荒れている様子もなく平和な学校でした。部活動はほとんど体育会系の部活動しかなく、なぜだか学校全体が体育会系の雰囲気で、中でも特に当時は野球部が大人気で僕もその流れに身を任せ野球部に所属していました。僕らの学年は全部で250名程度いたのですが、その年の野球部の新入部員は50名ほどだったのでかなり多くの男子が野球部に入っていたことが分かります。というのもこの中学校、前の年に中体連で全国優勝していたわけですから、地元では一大ニュースとなっていて、野球部に憧れる男子が僕達の地域限定で急増していたのです。僕自身も野球に憧れ、プロ野球や高校野球を見るのが好きでした。今でも見るのは好きですが、やる方はかなりご無沙汰になっていて今はもう出来る気がしません。そんな野球部ですから、所属しているだけで保護者の方も熱が入っていたようで、試合やイベントの時にはかなり保護者のバックアップがありました。当時の顧問は、今ではあまり見かけなくなったバリバリの体育教師で、決して楽でもないかなり厳しい野球部でした。そんな中僕もなんとかかんとかやっていた感じです。

そう言えば学校での「体罰」なんていうのも僕達の頃には既に敏感になっていたような気もしますが、僕たち自身先生方からの「体罰」は当たり前だと思っていました。悪いことをしたら叱られて叩かれたり殴られたりするのは先生方の教えだと思っていましたので、よく野球部の先輩方が先生に押し倒されたり、僕自身何度も失敗をしてビンタを食らった覚えもあります。そう言う時は「痛い」という感情と「言われたことを守らなければならない、今やったことは悪いことなんだ。」ということを思い知らされました。僕達の時代にはそうやって「体罰」はあったものの、その先生を恐れる人はたくさんいても恨んだり嫌ったりする人はほとんどいませんでした。部活以外でも誰もがその先生の元へ行くことを恐れていたような先生ですから、雰囲気自体は相当に恐い先生だったに違いありません。実際僕自身報告をしに行ったりする時は心臓がバクバクして憂鬱になっていたのを覚えています。しかし、僕が中学2年になる頃体調を崩してしまい、入院しなければならないほどの大事になってしまって、野球部の練習についていくことが不可能となってしまった時、意を決してその先生に退部届を出したところ、「マネージャーとして残ってくれないか」と言われた時は正直嬉しくて泣いていたのを覚えています。「そうか、僕は野球部を辞めなくても済むのか、皆と一緒に居られるのか。」と嬉しさとその先生への感謝の気持ちが込み上げてきたのだと思います。それからは普段のマネージャーのやるべき事と、試合の時のスコアラーとして続けさせて頂きました。この時もはじめてやるスコアの書き方をマンツーマンでその先生に教えてもらいました。その先生の教え方はかなり厳しかったですが、今思えばその先生は言葉に関してかなり気を使っていたように思えます。言い方は怖くても多くの人が使うような軽率な罵倒する言葉を使うことはほとんどありませんでした。つまり、「バカ、阿呆」などのような言葉はほとんど無く、何が悪かったのかを的確に言ってくれていました。あのような上司が今いたならばキツイかもしれませんがきっといい上司なんだろうと思うほどです。きっと生徒と本気でぶつかる先生っていうのはこういう人のことなんだと今になって感じています。残念ながら卒業してからお会いする機会がなく、今現在その先生がどうなっているのかは分かりません。元々病気持ちだったというのもあって心配ではありますが、元気であるならそろそろ退職される時期なのではなかったでしょうか。

話題は変わりますが、更にはこの中学、某超有名アーティストの出身校でもあり(実は小学校もそう)、記念行事にはよくわけのわからないものや自身の「ミュージックビデオ」など寄贈していましたが今でもあの学校にあるのでしょうか。その学校へ行けば確かでかでかと名前付きでそれが見られるはず。

それはそうと、中学校ではそんな厳しい部活に入ってしまったものだから部活と勉強と、塾にも行かされていたので遊びに行ったりした覚えはあまりありません。本当に野球と授業の思い出ばかり。それはそれでよかったのかとも思いますが、きっとそういう理由で思い出が少ないのかもしれません。その中で覚えている僕の唯一の楽しみがテレビゲームでした。今でもまだまだ現役の「プレイステーション(今はかなり進化していますが)」にはまって自分の部屋で宿題が終わった後真夜中までこっそりと毎日のようにゲームをしていたことを思い出します。毎日どのくらいしていたのか分かりませんが、暗闇の中毎日やっていたわけですからあの頃は視力が急激に落ちていただろうなと感じます。

そしてこの中学時代、何を思ったのか僕は自分専用のノートパソコンを手に入れていました。どういう経緯でなぜ手に入れたのかよく覚えてはいないのですが、確か電気屋さんでなぜだか買う流れになってその場で買ったということだけは覚えています。もちろん当時は家庭にインターネットを引くなんて言うのは大変なことだったのでインターネットはなく、パソコンはあるけれどもインターネットには繋いでいないという状況で、ひたすらワードやエクセルやタイピングを独学でやっていました。その甲斐あってか後々ワードやエクセルの取り扱いには困らないのですが。

当時学校ではやはり「プレイステーション」が流行っていてその話はよくしていましたし、テレビ番組の「学校へ行こう!」は見ていない人はいないのではないかというくらい皆が見ていて、社会現象にもなったくらいじゃないでしょうか。番組内でやっていたゲームは翌日には教室内で繰り広げられ、学校のイベントなどでは「未成年の主張」なんていうのもやった学校あるのではないでしょうか。あの番組を見ていなければ話についていけないというほど当時の学生達に大きな影響を与えていた気はします。

しかしやはり中学校でもお昼休みはグラウンドでサッカーやバスケをして遊び、当時は中学生とはかなり大人だと感じていましたが、今思えばまだまだ子供だったのだと感じます。ただ、前にも書いたようにどうにも僕の中学校は体育会系の学校だったので特に学校全体が活発で、毎日毎日何かに燃え尽きて日々を過ごしていた一番勢いのある時期ではありました。今の自分からすれば絶対についていけないなと思う時期ですが。


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