小学校時代

 1987年4月以降生まれの人ならば1994年4月には小学校へ晴れて入学していたはずです。当時はまだ今と違ってカラフルなランドセルは珍しく、ほとんどが男子は黒、女子は赤のランドセルを背負って桜舞う校門をくぐったのではないでしょうか。因みに福岡では4月は桜がぎりぎり残っているかいないかくらいなのであまり桜のイメージはありませんが、僕も従兄弟の服を借りて入学式へ出席していたようです。因みに僕の通っていた小学校では僕達の学年からクラスが一つ減りました。それまでは1学年4クラスあったのが、僕達の学年から3クラスになったのです。運動会や学校行事の時は縦割りが基本で、低学年のうちはクラスの中で縦割りが振り分けられたので同じクラスの中でも「赤組」の人がいたり「青組」の人がいたり「黄色組」の人がいたり「緑組」の人がいたのですが、中学年の頃になると立場が逆転し、いつの間にか「緑組」が消えてしまっていました。こうして、僕達の頃から少子高齢化の影が大きくなってきていたことがこのことからでも分かります。

 小学校の頃の学校のお休みは毎週日曜日と第2、4土曜日で第1土曜日と第3土曜日は午前中だけ授業が行われていたと記憶しています。しかしその第2、4土曜日も学校で開かれていた「土曜広場」という自由参加型のイベントで学校へは行っていた気がします。この「土曜広場」とは、理科の実験のようなことを行ったり裁縫を習ったり、時にはグラウンドで近所のお年寄りを先生に昔の遊びを習ったり、図書室で読み聞かせがあったり、視聴覚室で映画を見たりお菓子や簡単な調理をしたりと自分の好きな場所に行って自分の好きなことを学ぶというもので、必ずしも強制参加ではなく参加したい人だけ学校へ行くというスタイルでした。大体ほとんどの生徒が来ていて、学年など関係なしにそれぞれが好きなことを学んでいました。僕自身も友達と誘い合わせてほぼ毎回参加していたのを覚えています。これが後の「総合学習」に繋がっていたのではないかと今考えたりもしていますが真意は僕にもわかりません。

 しかしそんな土曜日も気が付けば毎週お休みになり、「土曜広場」もやらなくなっていたような気もします。


「完全週休二日制」


この言葉を聞いた時は誰もが喜んだことでしょう。毎週土日がお休みなのだと。この言葉も大きくなるにつれて全く意味ないなと感じることになるのですが。


 小学校低学年の頃。つまりは1994年~1996年。記憶としては暗いニュースが多かったのかなと感じています。「阪神淡路大震災」や「松本サリン事件」が起こったのはこの頃だったのではないでしょうか。また「和歌山カレー事件」が起こったのもこの頃で、丁度事件が起こった時確か某局の24時間テレビで「地域のご当地カレー合戦」などという企画同時進行され、それに参加していた時そのニュースがカレーを作っていた会場のモニターで流れた瞬間スタッフさんが焦ってモニターを消していたのが強く印象に残っています。何せその企画自体が小学生の作ったご当地カレーを道行く人に食してもらって審査してもらうとか何とかという企画だったのでいろんな意味で緊迫した撮影になっていたような気がします。なぜそんな企画に僕が参加していたかは長くなるので割愛。

小学校中学年の頃には色々なものがはやっていました。例えばゲーム機。「スーパーファミコン」「64(ニンテンドー64)」「プレイステーション」「セガサターン」と、外で遊ぶよりゲームをたくさん持っている友達の家に行ってはテレビゲームに明け暮れていたのを覚えています。それでも僕達の頃にはまだ、夏の暑い日でも外で駆け回って蝉を捕まえたり、昔ながらの遊びをしたりしていろんな遊びをしていました。当時よく外で遊んでいた遊びといえば鬼ごっこ系の遊び。その中でも人気ナンバーワンの「ケイドロ」や「色つきおに」「高おに」「エスケン」などは定番で、よく友達と集まっては公園などでやっていました。ボールを使った遊びではこれまた大人気の「ドッヂボール」をはじめ「キックベース」などとこちらもグラウンドや公園で遊んでいました。しかしこの頃から外での遊びも変化し始め、外でも公園などで「ミニ四駆」や「ビーダマン」そして一番の大きな変化は外でもゲームができる「ゲームボーイ」の登場などで、外での遊びも変わってきていた気がします。特にこの「ゲームボーイ」の登場はあの大人気ゲーム「ポケットモンスター」の出現により、今では懐かしい「通信ケーブル」を使ってそれこそ公園など友達同士で遊んでいました。当時はこの「通信ケーブル」を持っている友人は皆から称えられていました。今では当たり前のように外で携帯ゲーム機やスマホで簡単に友達と対戦したりしてゲームを楽しんでいますが、当時は外でもゲームが、しかも友達と対戦できるなんていうのは画期的なものでした。あのごつくてでかいゲームボーイを外へ持っていっては落としたり濡らしたりして壊してしまい、親に怒られている人も少なくなかったみたいです。

 小学校高学年に近づくと遊びの他にも音楽やテレビ番組などにも興味を持ち始めます。特に音楽に関しては当時CDとカセットテープがまだまだ主流で、ラジオをカセットテープに録音したり友達にCDを借りてカセットテープに録音したりして、うちにあったウォークマンで聞いていたのを覚えています。


 そしてこの小学校時代には僕の通っていた学校に大きな変化が起こります。そう、なんと僕らの代でできた空き教室の一つが


「パソコンルーム」


として改装されることとなったのです。今では学校にパソコンルームがあるのは珍しくもなく、学校によっては教室に設置されていることも普通の光景としてあり得るのではないでしょうか。しかし僕が小学校へ入学する頃はまだ職員室や事務室など以外にはパソコンなどはなく、増して生徒が扱えるパソコンなどありませんでした。そんな中教室を大改装し数十台のパソコンを一気に入れ、そこで授業ができるようなシステムを組むというのですから学校にとってはその学校の歴史に刻まれるほどの一大イベントだったに違いありません。あの時はパソコンに詳しい先生達がバタバタと準備をしているのを野次馬のようにお披露目の日はまだかまだかと見ていたのを覚えています。

当時「パソコンルーム」ができた頃はまだ一昔前の大きな箱型のモニターに記憶媒体は「FD(フロッピーディスク)」。生徒一人一人に「FD」が配布され自分の名前を書いていたのを覚えています。

「パソコンルーム」の開設は僕が小学校中学年くらいだったので、初めは高学年が先によく授業で「パソコンルーム」を使っていました。それから順番にパソコンを習う授業が組み込まれたり、様々な教科の中でパソコンが使われたりし始めました。大体僕らの世代の多くはここで初めてパソコンと触れあうことになった人も少なくないのではないでしょうか。もちろん僕も実家にパソコンやインターネットがやって来るのはまだ先の話なのでパソコンに本格的に触れることになったのはここでした。その後は頻繁にパソコンルームが使われ、それまでよく昼休みに映像を流したりしていた「情報発信室」という名の「視聴覚室」の利用頻度は減り、何かと「パソコンルーム」へ足を運ぶことが多くなっていた気がします。また、クラブ活動では「パソコンクラブ」も新設され、それまで「野外活動クラブ」をやっていた僕もパソコンの魅力に取りつかれ「パソコンクラブ」へ行っていました。


そうして僕はなんだかんだあり、2000年春には無事6年間の小学校生活を終えることができたのです。

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