異類婚姻譚  神様と人の恋物語

瀬古刀桜

第1話 海神の龍 その一

青い。見渡す限り、透き通る青しか、存在していなかった。

 これが、私にとっての原初の記憶である。

 それにしても、此処は何処だろうか?海?



――静ちゃん、起きろ。起きてくれ、静ちゃん!!

 必死で私の名を呼ぶ声が聞こえる。

 私を呼ぶ貴方は誰?もう少しで、思い出せるのに。



「静ちゃん!!」

 名を呼ぶ声に、私は目を覚ました。視線の先にいたのは、北条邦明。

 四十歳間近でありながら、背はすらりと高く、若々しい印象である。ただ、この叔父……邦明さんは、若い頃、やんちゃをしすぎて、左目を怪我で失い、黒の眼帯をしていた。

「魘されていたよ。怖い夢でも見たのかい?」 

 私は邦明さんの言葉に頷いた。

 夢のなかで感じた感覚は、今はない。

「怖いと言うよりも、何故なのかな。悲しいのに懐かしい夢をみたの。」

 邦明さんは何も言わず私を引き寄せ、抱きしめてきた。ふわりと、彼が使う香水の香り……ベルガモットの優しい香りと、抱きしめる邦明さんの身体の熱さで、私は自分が生きていることを実感できた。



 私こと三嶋静には、全生活史健忘――すなわち記憶喪失であるという診断が、医者より下されている。

 今から三か月前の新婚旅行で、海難事故にあい、頭部を負傷、海に投げ出されたことが原因だそうだ。

 他人事のように聞こえるかもしれないが、その時の記憶がまるっきりないので、実感が沸かないのだ。

海難事故での生存者は、わずか三名。結婚したばかりの夫も、その事故で死亡したと聞く。

だが。

――覚えていない。何もかも。愛した男の声も姿も。叔父とであるという北条邦明さんのことも、死んだとされる家族のことも何もかも。

思い出すことができるのは、見渡す限りの透き通るような青。おそらく、海の中のことだけなのだ。




「邦明さん」

 私は抱きしめてくれた邦明さんを呼んだ。

 病院から退院後、私はずっと彼の看病を受けていたのだ。

 邦明さんは、宥めるように背を撫でていたが、手を止め、私に視線を合わせてきた。

「私、事故現場に行きたい」

「駄目だ」

 即座に邦明さんは否定した。私は彼を見つめた。邦明さんのその表情は厳しい。

「どうして?」

「……答えられない。だが、それは君のためだ。どうか俺のいう事を聞いてくれ。静ちゃん」

 再び邦明さんは私を抱きしめてきた。力強く。まるで、私をこの世界に縛り付けるかのごとく。

 不意に、耳の中で懐かしい声が聞こえた。

――帰っておいで。ともに暮らしたあの海へ……帰っておいで。

 この声。遠い昔に聞いた記憶がある。誰だろうか?聞こえてきた声に、私は言葉を返すことができなかった。

私はペンダントヘッドとして首にかけている「音が出ない鈴」を首元から引き寄せた。邦明さんによると、海難事故にあった時から、ずっとこの鈴を握っていたと聞く。

 私は鈴を振った。

 音は、鳴らなかった。





 翌日。

 しとしとと雨が降り続く中、私は仕事のためにでかけた。

 場所は私が邦明さんとともに暮らす家の近くにある図書館で、目的は資料探しであった。

 私の仕事は、どうやら邦明さんと同じ執筆業だったらしい。海外の恋愛小説の翻訳がメインだったと聞く。

 先日も、邦明さんから紹介された出版社から、海外の恋愛小説の翻訳を緊急で引き受け、その仕事内容が高く評価されたことから、再度の依頼があったのだ。

 出版社の話を聞いた内容から考えると、その小説の時代背景を調べる必要があると考えた私は、図書館で資料探しと相成った。

 何気なく手元の本をめくっている時だった。

 とさり。

 一冊の本が、戸棚から落ちた。どうやら日本の歴史資料のようであった。私は何気なくその本を拾い、パラパラとページを捲った。

 ある甲冑の写真が掲載されているページを見た時、私は言葉を失った。見覚えがあったからだ。

「重要文化財・紺糸裾素懸威胴丸……」

 私はその甲冑の来歴に目を通した。

 この甲冑は、瀬戸内海大三島の大山祇神社の所蔵する甲冑の一つであり、女性が着用していたのではないかとの来歴がある。

「鶴姫……大祝鶴」

 資料によるとこの甲冑は、戦国時代の大山祇神社の大祝職、現代でいう大宮司・大祝安用の娘・大祝鶴こと鶴姫が来ていた代物であると記載があった。

「瀬戸内海大三島の大山祇神社……」

 その時だった。

 私の頭に奇妙な映像が思い浮かんだ。

 ある時は、大山祇神社で、神官姿の男と話している巫女姿。

 ある時は、写真と同じ紺糸裾素懸威胴丸を来て、大薙刀を手にし、馬に乗り、戦っている女武者。

 巫女姫も女武者も、どちらも私だと思った。

「鶴姫様……」

 そして、穏やかに笑う一人の若武者の笑顔の映像が思い浮かんだ。

ーー行かなければ。大三島の大山祇神社へ。多分そこに、記憶の手がかりがある。

 私は甲冑が写っている資料をじっと見つめながら、そう思っていた。

 ゴロゴロゴロゴロ。

 ざあああああああああああああああ。

 部屋が一瞬の光とともに、明るくなり、外から雷鳴と雨が振り注ぐ音が聞こえてきた

 私は図書館の窓から、外の様子を眺めた。

 雨はまだ降り続き、止む気配はなかった。

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