今更世界が終わる訳も無く

浅縹ろゐか

屋上とビールと煙草

 屋上から見る空が好きだ。いつだったかそう言ったあの人は夜空の下、星空を見上げてここで缶ビールを空けた。屋上についている柵に肘をついてぼんやりと町の灯りを見ながら、その言葉を聞いていた。あの人は自分の家に来ては月見酒でもしようと、コンビニの袋に缶ビールと僅かなつまみを携えて来るのだ。何度となくその月見酒とやらに付き合っているうちに自分の中にもすっかりそれが習慣として定着しつつあった。慣れというものは音を立てずに忍び寄り、浸食していくものだ。その月見酒が自分の習慣になっていたと気が付いたのは、あの人が居なくなってから七日後のことだった。

 あの人の住んでいる場所は、所謂閑静な住宅街というやつだった。何回か訪ねたことはあったが広い部屋に、僅かな物と冷蔵庫の中のビールしか記憶にはない。一方自分が住んでいる場所は駅からも近く便利な場所だが、常に町のざわめきが聞こえる所だった。安いアパートの一室で暮らす自分とあの人とでは、あまりにも生活格差があった。一度自分の家で月見酒をしないのか聞いたことがある。その答えは、お前が居ないとつまらなくて飲む気がしないのだよというものだった。答えになっているのかどうかよく分からない回答で、自分は黙っていたがあの人は満足そうに笑っていた。生活も思想も女の好みも、あの人のことは分かるようで分からなかったと思う。説得力があるように言ってみせるのだけれど、よくよく考えてみればあの人の言葉には矛盾も多くあった。それに気付いてあの野郎と思うのだが、次に会う時には都合よく忘れてしまっていた。自分の脳みその忘れっぽさには、ほとほと困っていたがこういうことにはなかなかの威力を発揮してくれる。

 あの人がこの世界からぷっつりと消えてしまってから自分の生活が、酷く味気なくなってしまった。毎日同じ時間に起き、仕事をこなして、家に帰ってから屋上で月が出ていなくても酒を飲む。教えられた訳でもないのにそうしなくてはいけないような気がして、いつも缶ビールはあの人の分も用意している。自分が飲む前にあの人の分のビールを開けて、缶を傾けていつも座っていた場所にビールを少しずつ零す。安い酒の匂いと、じわりとコンクリを染めるそのビールは床を伝い排水溝に流れ込む。そうやって一本空けたら今度は自分の分のビールを飲む。どうしてもあの人より先に飲む気にはなれないので、自分はビールで濡れたコンクリの横に座って少しずつ飲むのだった。

 「あなたが居ないと飲んでもつまらないな。」

 飲み終えた缶ビールの空き缶に煙草の灰を落としながら、誰にともなくそう呟く。あの人のタチが悪い所は、忘れさせてくれないことだと思う。未だこうして習慣として残った、月見酒をやめることはいつだって出来た。それが出来なかったのはこの場所でのあの人の記憶が、鮮明に残り過ぎている所為だ。


 お前はその頭だからすぐ忘れるだろうよ、と笑っていたあの人はこの状況も予想していた。

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今更世界が終わる訳も無く 浅縹ろゐか @roika_works

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