ジョニースペード物語

半沢 誠

第1話

この物語はわたくし、半沢が今も継続しているロックアパレルブランド「ジョニースペード」の話で7年前に自分のブログ「GOD SPEED YOU」で連載した物語です。



この物語はジョニースペードを始めて16年目に書きました。



現在はまた時代が進んでいるので色々と状況は変わっていますが・・ジョニースペードは今も健在で23年目に突入しました。



自分の「ロックンロール(転がる石)」な人生を皆さんが読んで、何かを感じてくれたら・・って思います。



ではどうぞ!


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最近、店に「ブランドをやりたいんだけど」と来てくれる若者が増えてきました。



アドバイスはするんだけど、みんな無職でお金がないし、なかなか簡単にはいかないみたいで・・・。



俺も気持ちは解るから最大限のアドバイスはしてるんだけどね。



俺はこのブランドを始めて16年だけど、最初の3年間はキツかった。



今もキツいけど(笑)。



相棒もいたんだけど、二人の給料は一ヶ月、三万円くらいだったなぁ~。



日々、生きる事で必死でした。大事な楽器、レコードやCDを売ったり、フリーマーケットに毎回出たり。



今みたいにネットオークションなんかもなかったし、自分のものを売って金を作るのに苦労はしてた。



ご飯は先輩や友達におごってもらったりして、そんなんで毎日、暮らしてた。



しかも、その前に仙台の国分町で洋服店を開いて二年で失敗してしまって借金もあったんで、毎月の支払いもあったから灰色の日々だったね。



それでも俺達は誰にも迷惑かけないように頑張ってた。



だけど、不安と絶望で毎日過ごしていたような気がします。ストレスで眠れない夜が続いて精神不安定だったしね。



たまに街で友達とあって、「今、何やってるの?大丈夫?」とか言われるのが辛かった。



「無職はいいね~、楽で!」なんて言われたりしてたけど、無職ほど辛いものはない。



俺からすると仕事は車みたいなもんで、免許があれば車は何の車種でも運転できるけど、俺は自分に合った車を運転したいわけで、何の車でもいいってもんじゃない。



自分に合った車を考えて探さないとどうせ売り飛ばしちゃうから。置き換えれば自分に合った仕事じゃないとすぐ辞めちゃうって事になっちゃうわけで。



車さえ決まってしまえばエンジンかけて走るだけわ。だから納得いく仕事さえ決まってしまえば一生懸命、働けばいい。



まぁ、自己中でワガママな考え方なんだけどね。



最初からジョニースペードは黒のTシャツしかリリースしてなくて、スペードやスカルがモチーフだったんだけど、その頃は古着全盛でミッキーマウスのTシャツなんかが売れていて、お店に営業をかけても「こんな黒いTシャツなんて売れないよ」と追い出されてた。



俺と相棒は「こんなにカッコイイのに何で買ってくれないんだろ?」って思ってたよ。



夜中の3時に誰かがTシャツを欲しいと電話が来れば、相棒と二人で車で配達に行ったね~。



そのTシャツ代は二人で分けて生活費に充てたりしてたわ。



今、思い出すと辛かったけど、楽しかった。若いから何とかやれてたね。



今だったら死ぬかもしれない(笑)。



俺と相棒は無職だったんで、とにかく何か仕事をしなくちゃいけなかったんだけど、二人ともこれまたダメ人間なもんでね。



人の言うことなんて聞きゃしない。働いたと思えば、上の奴らとぶつかって辞めてくるって感じで。



俺たちの合言葉は「人生1回だから」だったんだけど、都合の良い言葉だわ。



俺はロカビリー、パンク、チカーノ、ギャング、スケート、バイカー等のアウトサイドカルチャーの音楽やファッションスタイルスタイルが好きで日々、金も無いのに研究して買い捲っていて、毎日日替わりでそんな格好をしてた。



相棒はレゲエを愛していて、アグレッシブなサーフブランドを好んで着てたね。



今、考えると凄く服やカルチャーを「勉強」したと思う。何でも買って着てみないとわからないしね。



とにかく俺達は二人でいれば楽しかった。現実考えると二人でドーンと落ちてたけど。



今でも憶えてるジョニースペードの始まりのきっかけは



最近、閉店した仙台の若林区の長崎屋ってスーパーがあるんだけど・・・



いよいよ売るものも無くなってきた俺達は、そこの小さな飲食店で¥350のラーメンを二人で分けて食べていて・・・



俺が「俺、絵が得意だから画家にでもなろうかな~・・・道端で売るわ」って言ってたら相棒が「じゃあ・・前にプリント工場で働いてたから、それTシャツにして俺が儲けようっと」って笑いながら言っててね。



その時、俺が「それだ!」って思った。その時の俺達は普通のお店で売ってる洋服に不満ばかり感じていたんで、俺達が作ればいい!って思った。



相棒に「それだ!それ!」って俺が言って、相棒も「んじゃ、やろう!」なんて感じで。



が、しかし、お金なんかは無い。



でも俺達は光が見えたみたいで希望が湧いていた。



俺は後輩に車を買ってもらったり、身の周りの物は全部売っぱらってお金を作った。



ブランド名は「ジョニースペード」。



何かチームを作る時があればと思って決めていた名前。



俺の周りにバイカーの連中もいたし、自分もバンドをやってたし、洋服、音楽、バイクの総合のチーム名にしようと思っていた。



COOLSみたいになりたいって思ってたんでね。



俺達はとりあえずチーム「ジョニースペード」を結成した。



洋服屋を失敗したとはいえ、色んなルートを知っていた俺と過去にTシャツなどのプリント工場の仕事をしていた相棒の二人でブランドを立ち上げる事はそんなに難しくはなかった。



あの頃はサンタクルーズ、パウエル、クリスチャンフレッチャー、シンジケート、ドッグタウンなどスケート、ギャング、サーフブランドに俺達は夢中だったね。



パソコンなんて無かった時代なんで、俺は部屋に閉じこもって必死に絵を描いていて、スペードマーク、スカル、「13」モチーフ、ピストルモチーフの4点を発売することにした。



相棒はプリント工場でそれをTシャツにプリントする担当。



相棒には朝9:00に俺の家に来るように言ってあった。



何故かと言うと、俺達と同じ歳の連中が朝8:00には出社していて、17:00に終わる仕事をして給料16万をもらってる。不良で自由な俺達が16万の給料かそれ以上の給料を欲しいなら、朝9:00から夜中まで頑張らなきゃいけないと思っていたから。



二人だけなんだけど、なるべく本当の会社のようになるように心掛けていた。

俺は前の店が失敗してるんでね。もう失敗したくなかったんで自分にも厳しくして、気合を入れていた。



しかし、相棒は自由人だったんでね。



結局、朝9:00に来た事なんてなかったけどね。



個人商店の届出、印鑑等の用意もできて、取引銀行を決める段階に入った。



全然、金の無い俺達は銀行からの融資はどうしても受けたかった。



都市銀行や大きな地方銀行は初めから取引が無理と考えた俺は、信用金庫や信用組合が俺達のような個人商店に向いてると判断した。



で、地元の信用組合に「融資してください」って行ったら「無理です」って言われた。



そりゃそうだ、あの頃の俺は刈り込んだ金髪で黒ずくめで殺し屋みたいだし、相棒は身長185cmもあって長髪に髭で松田優作のような感じだったからね~。受付の女の子の笑顔がひきつってたもん。



でも、その信用組合の融資の人がとても良い人で「ウチとの口座も無く、実績も無いのにお金を融資してくれなんて無理な話だ。お前らみたいなのがちゃんと一年間、ウチと付き合いが出来たら融資を考える」って言ってくれた。



俺達はその言葉を信じて、ほとんど毎日、その信用組合に通った。



友達に一枚売れたら、そのお金を持って融資の人に入金票と共に持っていった。¥1000でも¥800でも、毎日持っていった。



次第に取引店舗も少しは増えて、取扱店から振込も通帳に入ってくるようになっていた。



・・・一年目



本当、一年ピッタリで俺は融資の人に呼び出された。



「よく頑張りました。最初はあんた見て無理だと思ったよ。ハイ、約束どおり融資するよ」



って言われた。



俺は他の支払いなどもあったから状況を考慮してもらって100万の融資をしてもらった。



もう泣きそうだったね、俺は。



一生懸命頑張っても、どうせ銀行には認められないと思ってたから。



体育会系で口は悪かったけど、今もその人には感謝してる。




1993年、ジョニースペード初めての4作品がとりあえずリリースできた。



俺も相棒も凄く嬉しくて、俺の部屋に4作品をハンガーで吊るして、ラムコークで乾杯して眺めてた。



俺は喜ぶ反面、すぐ現実を考えていて「誰に買ってもらおう?」「どこのお店に取り扱ってもらおう?」なんて考えを頭の中で巡らせていた。



その頃は手持ちのCDを1日1枚売って、カップラーメンを二人で半分にして食べていたような状態で。



早くこの生活から抜け出したいって思ってた。



俺と相棒はその頃に遊んでいた友達に電話をかけて「できたぜ!」なんて言って買ってもらいに行ってた。



Tシャツができたら買ってくれるって言ってた連中が沢山居たし、みんなが盛り上がってくれると思ってた。



だけど・・・現実は俺達の理想とは正反対だったよ。



俺達がTシャツを持って、欲しいって言ってくれた奴の家に行くと



「何を売りつけに来たの?」




「お前らから買わないと何されるかわからない」




「仙台でブランドなんかやったって上手くいくはずないじゃん」




「いつまで遊んでんの?」




「しょうがないから買ってやるよ」




仲間だと思ってた連中に、売りに行くとこんな言葉を浴びせられてた。



殴るのは簡単。昔の俺みたいにやればいい。



でも、もう個人商店として登録した会社の代表なわけで傷害でパクられるなんてゴメンだ。



しかも理由が「俺の商品をこいつが買ってくれないので殴りました」なんて意味がわからない。



俺は歯を食いしばって「そんなこと言わずにさぁ~買ってくれよ~」なんて言葉を口にした。



プライドはあったからね・・・・辛いよ。



そういう事があった帰りの車の中では俺は無言だった。人を当てにして甘えていた自分にも腹が立って自己嫌悪に陥っていた。相棒は苛つく俺をなだめようと必死だったね。



もちろん、喜んで買ってくれた仲間や先輩、後輩もいてくれて「頑張れ!」って俺達にメシを奢ってくれたり、全種類買ってくれたり、友達を紹介してくれた人達だっていてくれた。



あの時の仲間の恩は忘れないよ。



俺達は現実を突きつけられ、段々と夢みたいな理想から覚めていった。



そんな状態だから、予測していた販売数なんかは売れるはずもなく、在庫の山に囲まれ、俺は絶望感で溜息をついていた。相棒はその横で無言だった。



一部の支持してくれていた仲間もすでに全員購入済みで、同じTシャツを何枚も買ってもらうわけにはいかない。



俺と相棒は毎日やることがなくなって、朝から海に行ってボーっとしたり、美術館を散歩したり、街中をブラブラしたりする日々が続いていた。



トンネルが続く毎日。光が見えたかと思うとまた暗いトンネルが続き・・・どんどんトンネルが長くなる。



光なんかは見えなくなっていた。



真夏に海岸で楽しそうに泳ぐ人達を眺めていて、自分を照らし合わせたりして・・そのギャップに絶望的になっていたのを憶えてるよ。



俺も相棒も毎日、どうしようもない毎日を送っていた。



ローンの支払日の月末が近づく度に胃が痛くなってた。



あの頃の俺達の収入源はフリーマーケットだった。



仙台にはKHBフリーマーケットっていう年1回、大きなフリマのイベントがあって、2~3回出店させてもらった。



今みたいに中古買取やヤフーオークションなんてなかったからね~。



あの頃のフリーマーケットは盛り上がっていた。



俺と相棒の古着は凄く売れた。俺は前のつぶしてしまった店の在庫があったんで、洋服だけは沢山あったからね。



50’sの古着やパンク、スケート等のTシャツ、ヴィンテージのデニム・・・etc



ヴィンテージのデニムなんかも高く売れる時代で、二日で60万稼いだ事もあった。



だけど、俺と相棒は意地でもフリーマーケットにはジョニースペードは出さなかったよ。



安売りだけはしたくなかったしね。



フリマで稼いだ金で溜まっていた支払いを何とかして、結局また服やCD買って・・・まぁ、その場しのぎの日々だったね。



前回書いたとおり、俺は周りの仲間達にジョニースペードを買ってもらったりもしていたんだけど、やはりブランドとして成立したかったんで取扱店を同時に探していた。



俺は仙台には取扱店はいらないって思ってた。



仙台の洋服屋にも営業に行っても、断られてたし。



「普通はブランドは東京だよ。仙台のブランドじゃ売れないよ。さっさと辞めたら?」なんて営業先に言われた事があった。



そんなこともあって、俺はジョニースペードが仙台のブランドだという事を隠したかった気持ちも正直あった。



その頃、アパレルのインディーズブランドを掲載していた「CUTIE」をよく読んでいた。


今はファッション誌は沢山あるけど、この時代は今みたいに多くなかったと思う。



何せ、まだ携帯電話がない時代だもの。



あの時期の「CUTIE」は基本的にレディースなんだけど、メンズのインディーズも掲載してくれていた。



「これに掲載してもらえば、俺が仙台であっても取扱店ができるかもしれないなぁ・・」なんていつも思っていた。



16年前のあの頃はメンズのインディーズブランドはまだ少なくて、特にこういうスタイルでプリントなどに重点を置くブランドは仙台ではSAM'S以外はいなかったと思う。



俺は「CUTIE」の宝島社に思い切って電話をかけてみた。



あっさり担当の人に電話をつなげてもらった。



「あの・・・俺、仙台でジョニースペードってブランドをやってるんですけど・・掲載とかやっぱ、お金がかかるんですよね?」



俺は門前払い覚悟で聞いてみた。



「ファッションニュースのコーナーは基本的に無料です。東京に来られる時があれば、一度会いましょうよ」



担当者の人が凄く良い人でこんな感じに言ってくれた。



「じゃあ来週に仕事で東京行きますんで、そちらに顔を出させてもらいますよ。」



俺はそう言った。



本当は東京に仕事で行く用事なんてないけどね。



担当者の人と東京で会う約束をして、電話を切った。



俺は雑誌に掲載されるかもしれない!という期待で俄然やる気が起きてきた。



が、しかし・・当然、東京に行く金なんかはない。



貯めていたフリマや、CDを売った金で何とか東京行きの夜間バスのチケットを買った。



翌週には俺と相棒は商品を持って、そのバスに乗っていた。



そして、何故か仙台のお米「ササニシキ」10kgを持っていた。



今、考えてみても・・何でおみやげでお米持っていちゃったんだろうね?



重いんだ、これが。



俺は「CUTIE」の担当の人にわざと忙しいフリをして、約束の時間を二転三転させてしまったんだけどね。



俺には色々と行きたいところがあった。



東京に着いて、原宿に最初に行った。



俺はロンドンドリーミングってお店が好きで、そこに営業するのが目的だった。あの頃のロンドリはいち早くギャングカルチャーを取り入れていて、ギャング、ヒップホップ、ローライダーetc・・・の品揃えで異色だったと思う。俺はロンドリでジョニースペードを扱ってほしかった。



ロンドリに行ったらタイミングよく社長が居てくれて、俺は雑誌の取材で東京に来たって話をして、商品を見せた。ロンドリの社長はジョニースペードを一発で気に入って、取り扱いたい!って言ってくれて、雑誌で取扱店として名前を出してもいいって言ってくれた。



俺と相棒は大喜びだよ。



とりあえず、ロンドリを後にして「CUTIE」の取材に向かった。



相棒と麹町を三時間くらい、うろうろしていた。疲れると座り込んで缶コーヒーを飲んでいた。



ササニシキを抱えながら。



夕方、やっと「CUTIE」の担当の人と会った。とても良い人だった。



長めの髪をグリースでオールバックにして真っ黒なジョニースペードのTシャツにサングラスの俺達に担当者は興味深々だった。



俺は色々と話をした・・・LAにいる友達が白人のラッパーみたいな子を連れてきていて、いつもつるんで遊んでた話やLAでジョニースペードを広めたいなんて言ってくれてた話



ロックバンドはずっと続けていて、今もINNSANITYってバンドもやってるって話



様々なアウトサイドカルチャーを日本人の俺達が消化した商品を発売していくという話



色々と話したと思う。



担当者は俺達の言ってる意味がいまいち理解できてなかったような気はしたけど、俺はちゃんと伝えた。



ササニシキもプレゼントした(笑)。



そして俺達が掲載されてる「CUTIE」の発売日がやってきた。



見出しを見て、俺達は愕然としたよ。



「西海岸のラッパーの間で大人気 ジョニースペード」



(やっぱり、勘違いして俺の話を聞いてたんだ・・・)って内容になっていて、相棒と本屋で頭を抱えたのを思い出したよ。



だけど、嬉しくて俺と相棒は発売された「CUTIE」を購入して、何回も読んだ。



大袈裟には書いてあるけども掲載されたことに俺達は大喜びだった。



でも、その時の俺達は生活に疲れきっていて喜んではいたものの期待はしないようにしていた。



期待していてダメだと精神的ダメージが大きいのを俺達は知っていたし、そのダメージにも慣れていた。



俺達はなけなしの金でハンバーガーを買って、いつも通りに夕方まで海を見に行って・・・夕方に事務所を兼ねた俺の家に戻った。



戻ったら、電話の留守電の調子がおかしかった。



中古の電話機だったしね。



「あらら、せっかく雑誌に掲載されたのに・・・俺達はつくづく運がないんだなぁ・・・」と相棒と笑っていた。



いや、違う!留守電のテープがいっぱいになってる!



俺は慌てて再生を押してみたら、新規取扱店、通信販売などの36件の問合せがあった。



俺達は期待しないようにしていた心のガードが取れて、今度こそ本当に喜んだ。



ここからジョニースペードは勢いづいた。



東京、福岡の取扱店も増え、在庫の山だったダンボールが消えていった。



俺達に興味を持ってくれたお店はやはりロカビリー、ロッカーズ、バイカー、ギャング系のお店が多くて、ロカビリーのお店もレーヨンシャツにスラックス、ラバーソウルというロカビリースタイルとはまた違う新しいストリートスタイルを推奨するお店が多かった。



パンク、ハードコア、ロカビリーなんかがミクスチャーになってきた時代でもあったし、ギャング、スケートなどもそこに混在していた時代だった。サイコビリーってジャンルも確立されてきた辺りだったしね。



前回、話したような俺達を否定していた友達までもが「ジョニースペード欲しいんですけど!」と言ってくれるようになった。



その時の俺は「あんな言葉を浴びせられた、お前らには売らないよ」なんて、ガキみたいな真似はしなかった。



「ありがとう!」って言って買ってもらったよ。



昔の俺なら「ふざけんな!」なんて言ってたけどね。



その時あたりから俺は精神的にも変わっていった。



苦労っつーのは人間を成長させるよ。

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そんな感じで・・何とか軌道に乗ったジョニースペードではありました。



在庫もなくなってきて、取扱店も増えて、俺と相棒も暇をつぶす事がなくなってきた。



しかし・・・何かが上手くいっていなかった。



前回、書いたように信用組合にも、口座を作って日々の売上を持っていってたんだけど、通帳の中は支払いなどでお金が残らない状態になっていた。



俺は原価計算を見直しをしてみた。



やはり原価が高く、利益率が低かった。



そりゃそうだ、素人同然で始めたわけで・・・ちゃんとしたアパレルのようなルートを使って製造してないんだから、一枚単価は上がって当然だった。



ジョニースペードはアメリカのスケート、サーフ、ストリート系ブランドが使用していたTシャツを同じように使用していた。俺はそこにはこだわった。



Tシャツを輸入するにも、ルートがなかったので輸入業者から卸してもらっている業者に頼んでいた。その業者にマージンを搾取されていたので、Tシャツの単価が高いのは仕方がない。マージンを搾取されるのは商売だから当たり前なんだけどね。



そのうえ俺も相棒も生活や支払いに追われていたので、せっかくの売上は俺達の生活費や支払いにまわってしまって、売上は上がってもいつまでもお金は貯まらない悪循環。



それと反比例で周りの人達や通信販売の人達が注文をくれたり・・取扱店さんが追加注文を頼んでくれたり・・・とジョニースペードへの周りの反応は上がっていってた。



そして・・・やはりお金が尽きて、注文の商品を作る事ができなくなった。



俺のミスだ。



甘かった。



そして、またいつもの生活に逆戻り。



そんな複雑な状況の中、俺はジョニースペード結成記念で「ROCK-A-REBEL TRAIN」というイベントを開催した。



今も仲良くしてもらってる仙台のバードランドというライブハウスで。



俺のバンドのINNSANITY、マジェスティックトエルブ、RED ROCKERS・・etcでロカビリー、パンク、サイコビリー系のバンドが揃ってくれた。



開けてみたら・・・人が階段まで溢れて、凄い状態。自分で企画してビックリした。



相棒と後輩はそこでビールなんかを売っていて・・・バイカーの仲間達もライブハウスの横にズラッとバイクを並べて・・・古いアメ車のオープンカーで来てくれた仲間もいた。



グレートインベーダーズのメンバーも全員遊びに来てくれていて、そのまま演奏してもらったりしたなぁ。



そんな感じで周りは「凄い盛り上がりじゃないですか、半沢さん!」、「定期的にイベントをやりましょうよ!」、「ジョニースペードのTシャツ売ってください!」・・・etc。



嬉しい言葉と仲間のありがたさを肌で感じた1日で・・・だけど俺は憂鬱だったのを憶えてる。



イベントが終わり、お客さんやバンドのみんなも帰って・・・相棒とバードランドの階段に座って・・・「明日はどうしようか・・・」って二人でうなだれてた。



ジョニースペードも良い調子になってきて、イベントも成功したのに・・・俺達は次に進めなかった。


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最初のリリースした商品も在庫がなくなり、お金も残らなかった俺達はまたいつもの生活に戻りつつあった。



生活費に充てていた俺のCDやレコード、本も尽きていて、服もフリーマーケットで売りさばいてしまって何も無くなっていた。



唯一の救いはジョニースペードを欲しいと言ってくれる友達や取扱店の存在だった。



その人達は俺達がこんなに困窮していたなんて知るはずもない。



「次の新作は何ですか?」




「ジョニースペード売れてますよ!在庫はもう無いんですか?」




その言葉達が俺を焦らせた。



俺はその人達の期待に応えたい!という気持ちと、ここで終わってたまるかという意志があった。



・・・自分のやりたい仕事に就ける人は少ないよね。



俺はジョニースペードを始める前にある仕事を一年間やっていて・・・好きでもない仕事で生活の為にやっていた。



給料は良かったんで、あのままあの仕事をやっててもよかった。



でも・・その会社は人間関係がドロドロしていて、派閥があって、みんなずるくて薄汚い自己顕示欲の塊で、言葉と腹の中が違うのは当たり前の人達だったよ。



そこにいる人達はそれが全てだと思っていたと思う。その中でしか権力を発揮できない人達やプライベートもそれが中心の人達だった。



当然、俺はそこに合うはずがない。



もちろん、俺を理解してくれる人達もいたんだけど、その会社のしがらみや人間関係にがんじがらめでそこから出られない人達だった。



俺は一年間その仕事を頑張ってみて、「貧乏でも自由でいたい!」って心から思った。



それと同時に「頑張れば何の仕事でもできる!」みたいな俺の小学生みたいな理論はぶっつぶれた。



自分の人生をあきらめていたら、そのままそこで我慢する人生でもよかったんだけど・・基本的にわがままなんだね、俺は。



ドラマや漫画じゃないんでね。



夢なんて誰でも叶うもんじゃない。



でも俺は自分の人生にはまだ先があると思っていた。



俺は夢見がちなんでね。



その会社を辞める時に上司に言われたよ



「社会人不適応のお前は何やってもダメだ。ロック?か何だか知らないけど勝手にやってろ。社会はそんなに甘くないんだよ」って。



・・・・まあね・・・そうだよ。



俺みたいなのはどうしようもない。



だけど今、そんな俺の商品を欲しがってくれてる人達がいる・・ここで何とかしなければせっかくのチャンスを不意にしてしまう。



俺はそんな自分の過去を振り返りながら、これからどうするかを考えていたと思う。



俺は次のジョニースペードの新作はガキの頃からこだわり続けてきたパンクロックをテーマにしようとしていた。ハードコアではなくパンクを表現したいと思っていた。



前回がピストル、スカル、スペードと俺なりのハードボイルドなモチーフでロカビリーテイストにしていたつもりだったんで、パンクロックを取り入れれば次のジョニースペード商品の雰囲気が変わってしまうのも承知だった。



「ANARCHY」・・・「DESTROY」・・・「DEAD」・・安全ピン・・・パンクロックモチーフをを思い浮かべてデザインを考えていたね。



その頃、アメリカのスケート、サーフ系ブランドからはメッセージ色の強いデザインがリリースされていて、俺はそのスタイルにこのパンクロックを当てはめた。



必死で手書きで作ったデザインは自分でも気に入っていた。



誰もこんなの作ってないし、早くリリースしたい!という気持ちとこれがダメならもうあきらめようという気持ちでいたと思う。



俺は何とかこれを製作するお金が必要だった。



当然、誰も貸してくれないし、信用組合もまだ無理とのことだった。



最後の手段で、おばあちゃんに頼み込んだ。



おふくろやおじいちゃんに内緒でおばあちゃんが30万貸してくれた。



「もうこれでダメならちゃんと働きなさいよ」って。



俺もこれでダメなら、ジョニースペードはあきらめようと思ったね。


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とにかく、俺はおばあちゃんからのお金で何とか新作を作れるようになった。



ちゃんとその後に、お金は利子付けて全額おばあちゃんに返済しましたのでご安心を。



・・・俺は小学生の頃、両親が離婚してしまって・・俺と弟はお袋に引き取られたんだけどお袋も自営業で大変だったね。



だから、学生の頃はほとんどおばあちゃんに育てられたといっても過言じゃない。



俺も弟もおばあちゃんに俺達の事で負担をかけるのが申し訳なくてね・・・最初は自分達で何とかお金を作ってコーラとポテトチップスでご飯代わりにしていた時もあったよ。



明るい人でね、何でもケラケラと笑うおばあちゃんで・・・俺がどんな派手な格好をしようが何をしようが笑ってたよ。



昨年、おばあちゃんが倒れてしまって・・・俺は店を急遽閉めて病院に行ったんだけど、とりあえず血圧があがっていて・・・。



おばあちゃんは俺の顔を見た途端、「まだ死にたくない」って真顔で呟いて俺の手を握ってた。



俺は医者じゃないし、何もできない。病気の前では無力だ。



悔しいって思ったよ。



・・・おばあちゃんはとりあえず容態は快方に向かって、今は元気でいるみたいで良かった。



・・・・まぁ、そんな俺のセンチメンタルな話はどーでもいいとして。



ジョニースペードは何とか次の新作を発売した。



パンクロックアイコンを多用したメッセージ色の強いフーデットパーカーとラバーリストバンド。



俺はその頃、ニルヴァーナにも夢中で、カートコバーンのネガティブで自己破壊的な思想に傾倒していた。



ラバーリストバンドは福居ショージン監督の「ピノキオ√964」&70’Sパンクロックをイメージした、よりフェイクでボンデージチックなラバーリストバンドを作成してくれるように製作してくれる人に頼んでいた。



そして、ジョニースペードは前回のハードボイルドでギャング調スタイルから、パンクロックスタイルに変わった。



俺の中には最新のスタイルや流行を自分のフィルターを通して表現する「ローリングストーンズ理論」というものがある。



これは長くなるんで、またの機会に説明します。


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ジョニースペードはパンクロックスタイルで商品を発売した。



この商品は大ヒットした。



俺は自分のセンスと勘に自信を持ったし、相棒もそれを信じてくれていた。



取引先も何件か増えて、俺達も何とか給料5万は取れるようになった。



作れば完売・・・また追加で作る・・・その商品の製作の流れも把握できて、相棒はプリント、俺は代表としてデザインと納品&営業みたいな役割になっていた。



・・・弟の剛(INNSANITY Dr)はその頃、ブラストってバンドを組んでいた。



仙台のハードコアシーンに参加していて、その周りのバンドやお客さん達もこぞってジョニースペードを着てくれた。



そして、仙台でも取り扱ってくれるショップができた。



俺が今でも兄貴と慕う社長のショップやマニアックな品揃えのサーフ&スケートショップ・・・そして後輩のハードコアショップ「BEHIND THE SUN」。



俺はこの「BEHIND THE SUN」で取り扱っていた商品に影響を受けていたねー。



特にPUSHEADデザインのZORLACは衝撃だった。



品揃えは東京のバイオレントグラインド直系で、俺が今もTシャツを大事に持ってる「ZORLAC」や「CRIME」、「スカルスケート」、「バットステイン」、PUSHEADの「マインドスクラッチ」や「ミュージアム」まで揃っていた。フィギアやラットフィンクグッズも並んでいて、圧倒的にカッコよかった。



「BUTSCREAM」ってバンドを率いて仙台ハードコアシーンを作っていた後輩のオサム君は男気と繊細さが同居する男で・・俺はオサム君と仲が良くてね。



よくBEHINDに行って、いつも二人で近くのトンカツ食べてた(笑)。



仙台のパンクスやバイカーにジョニースペードを広めてくれたのはオサム君だと思ってる。



・・・・あの時代の俺はあえて仙台のショップさん達にはジョニースペードを委託という形でやらせてもらった。



委託というのはショップに商品を買い取ってもらわないで、その月に売れた分だけ支払ってもらうというシステムなんだけど、あえてそこをやりたかった。



10万円の商品をショップに委託して、1ヶ月1枚も売れなければ・・こちらの売上はゼロ。とてもリスクがあるし、自転車操業の俺にはかなり厳しいスタイルでもある。



でもネームバリューのない新規のブランドが全商品をショップに取り扱ってもらうには、一番早いやり方でもあった。お店の方も買取のリスクがないからね。



だからジョニースペードにとっては委託は実力勝負だった。そのショップのお客さん達がジョニースペードをカッコ悪いと思えば買わないし、カッコイイと認めてくれれば購入してくれる。



俺にもメリットがあって、本当の自分達の売上がハッキリするし、どのデザインが売れているかリサーチできる。



ジョニースペードが欲しいと言ってくれる知り合いや友達には取り扱ってるショップに行って買ってもらった。自分達で売れば利益率は高いんだけどね、俺はショップで買ってもらうようにシフトした。



取り扱ってもらってるショップの売上を上げるのは当たり前。



俺の中ではショップ>ブランドの方程式がある。



ショップは現場で戦って売ってくれてるわけで、ブランドなんて何も偉くもなければ高貴なもんでもない。俺はショップの売上につながるような商品をリリースする努力をしなくては・・・といつも思ってた。



俺と相棒はショップにジョニースペードを納品する時、そこで扱ってる違うブランドの商品を度々購入させてもらった。少しでもそのお店の売上に貢献しなくては!と思ってたしね。




そして・・・お金も無いのにそんな感じで浪費する俺達は、またもや頭を抱えていたのだった(笑)。


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パンクロックラインが成功したジョニースペードは何とかまた軌道に乗れた。



この頃、BEHINDのオサム君からバイオレントグラインドにいた越山さんを紹介してもらった。



越山さんはストリートカルチャーに造詣が深くて、ファンククリブというお店を下北沢でやっていた。ジョニースペードをかなり面倒看てくれた人でもある。



オサム君と俺で企画したライブで越山さんのバンド「AIR GOLLIRA」に仙台に来てもらった事もあった。その後、ジョニースペードから「AIR GOLLIRA」のTシャツを発売もした。



越山さんのイベントに招待されて六本木のRホールでジョニースペードを展示させてもらったりして・・本当にありがたかった。



あの頃はサーフ&スケート雑誌「FINE」が最新のハードコアのウエアや音楽の情報をいち早く紹介していた。



ミクスチャーというか・・ハードコアとパンクとサーフとスケートが混ざり合った時代でもあったと思う。



ハードコアバンドとラップのコラボのサントラ「ジャッジメントナイト」なんかもこの頃に発売されたりしてた。



そんな中、越山さんの情報で「FINE」が仙台に取材に来るという事がわかった。



でも、店舗のない俺達は取材してもらえる可能性は極めて低かった。



俺は姑息な男なんでね・・・「FINE」にどうしてもジョニースペードを取材してもらいたいと思い、今だから話せる「長靴をはいた猫作戦」という作戦を考えた。



・・・今、考えるとセコイ(笑)。セコすぎる。



まぁ、早い話、「長靴をはいた猫作戦」とは何もない貧乏な俺達が色んな策を使って「FINE」に取材してもらうってことなんだけどね。



運が良かったのは、越山さんから仙台に来る「FINE」の担当者を紹介してもらっていたことで、すでに仙台に来る前に俺は担当者と電話で話をして・・・仙台には何回か来てるけど、初めてこのコーナーの担当になるという話だった。



これは俺達にはラッキーだった。



担当者が仙台に来た時に俺と相棒は車を用意していた。東京からの雑誌の取材というのは時間が限られていて取材するショップを迅速に回らなければいけない。



だから地元に詳しい俺達が車で案内するということは、とても担当者にとっては助かることでもあった。



俺達は次から次に・・・担当者を乗せてショップを案内した。



しかし・・ジョニースペード取扱店のみ(笑)。



担当者の人は「凄いんですね~、ジョニースペードは!どこのお店に行ってもあるじゃないですか!」と感動してくれてた。



そりゃそうだ、ジョニースペード取扱店しか紹介してないもんね。



取扱店でもジョニースペードを全面に押し出してくれていた事も手伝って、担当者に凄く勢いのあるブランドだというイメージをつけることに成功した。



担当者がストリートスナップをするということで・・・俺達と担当者は車から降りて仙台の中心でもあるアーケードを歩きはじめた。



「FINE」はいつも決まった公園に時間を決めてストリートスナップをする。そこまで歩いて行きたいってことだった。



が、しかし!そこにも俺の作戦は用意してあった。



「FINE」がストリートスナップをする公園、アーケードには俺と相棒が用意した仲間達がジョニースペードを着て歩いてるという・・・総勢15人の刺客(笑)。



・・・俺達と担当者がアーケードから公園に行くまでに沢山のジョニースペードクルーが歩いていた。



皆、すれ違うたびに俺に合図してたよ。



「本当に・・・仙台はジョニースペードだらけじゃないですか!あとであらためて取材させてもらっていいですか!」



「FINE」の担当者はそう言ってくれた。



俺の作戦は大成功。



まぁ、15年前の話だから時効ということで勘弁しておくれ。



今、これを書きながらあの時の自分のセコさ加減にめまいがするわ。


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前回の話の通り、俺の卑怯極まりない作戦が成功し、ジョニースペードは「FINE」に掲載された。



反響は凄く、池袋のサーフ&スケートショップなどの取扱店も増えて、全国にジョニースペードを展開するという俺の夢は現実に一歩近づいた。



その頃に俺は初めてちゃんと営業をしてみようとカタログを作る事を考えた。



俺の高校の同級生に一匹狼のプロのカメラマンがいて・・今もたまに店に来てくれる。



彼はその頃、写真館を任されていて・・いつも忙しそうにしてた。



あの時代はデジカメもなかったし、もちろんパソコンもない。



カタログを作ろうにも、インスタントカメラではピントがボケてしまって綺麗には写らない。



俺は何とか安く、カラーでカタログを作りたかった。



考えた挙句、俺は思い切って写真館に彼を訪ねてみた。



同級生でもある彼は凄くフレンドリーに接してくれて、俺達に優しくしてくれた。



しかし、普通に写真を撮る価格を聞いたときに、「ゲッ!」と思うほどの金額だった。



まぁ、プロカメラマンですから当たり前ですな。



俺がうつむいてると・・笑顔で「この金額でいいよ」と俺が出せる金額を提示してくれた。



彼からOKをもらった俺達は、商品を写真館に持ち込んでジョニースペードの全商品を撮影してもらった。



俺は撮影というものを簡単に考えていたんだけど、本当に大変だと思った。



露出、色、バランス、ウエアのしわ・・・一枚一枚気をつけて撮らなければならないという事がその時に分かったね。



そんな大変な撮影の様子を見て、彼に安易に頼んだ俺は申し訳ない気持ちで一杯だったんだけど・・・彼は意外に楽しく撮影してくれていて・・俺と相棒の写真まで撮影してくれてた。



今もその写真は大事にとってある。



俺達は彼のおかげでカラーコピーのカタログを作れた(あの頃はカラーコピーが一枚250円だった)。



普通のブランドなら、印刷で豪華なカタログを作るんだけどね。



ほら、俺達は金無いじゃん(笑)。



仕方ない。



そのカタログを200枚作って、俺は手当たり次第に雑誌に掲載されてるショップに発送した。



しかも、ショップに届いた日あたりに電話を入れた。



「どーも、ジョニースペードです。カタログ届いたでしょうか?宜しかったら検討してみてください!」



・・・ショップ200件、全部に電話して検討してもらうようにお願いした。



そして結果、3件OK。



3件でもありがたい。



本当は全国に出張して取扱店を足で探すのが普通の時代だったからね。



出張費もない俺達にはこのやり方しかなかった。



その頃はジョニースペードの黒主体のウエアは本当に評判が悪かった。もっと青とか赤のボディで作ってくれ!と散々言われてたわ。



相棒にも「半沢の声は低音でドスが効いてるしさぁ・・・そりゃ、無理だわ!ワハハ」と大笑いされた。



俺も大笑いしてたけど、大笑いしてる場合じゃない。197件はダメだったんだから。



まぁ・・・振り返ってもちゃんとした営業みたいなものはこれっきりだったんじゃないかなぁ・・・。



ジョニースペードは今も展示会は出店しないし、ショップに電話をかけて営業もしないし。



こんな仕事のスタイルはありえないね。



でもジョニースペードを取扱たい!ってショップがあれば一枚だって取引する気持ちでいる。



まぁ、JOSPスタイルってことで。


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そんな感じで・・・ジョニースペードは相変わらず極貧だったけど、取扱店は少しづつ増えて何とかやっていけるようになっていた。



俺と相棒は相変わらずで・・仙台の取扱店に納品したり、欲しいと言ってくれるお客さんに配達をしたりの毎日で日々は過ぎていた。



俺は次の新作デザインに取り掛かることにした。



ファッションや音楽には周期があって、時代時代でひと回りしてるんじゃないか?という俺の自論があった。



俺の夢中になっていたファッションや音楽を戻って当てはめていけば、流行にハマる場合が多かった。



15歳でロックンロール、16歳でパンク、ハードコア、17歳でニューロマンティックやゴシック、18歳でネオロカビリー、19~22歳でハードアメカジやバイカースタイル、その次はハードコアスケート、サーフ、ギャング、チカーノ・・・と俺はその時々で、そのスタイルに徹底的にのめり込む性質を持っていると思う。



そのことに自分で理屈がつかなかったんだけど、最近は親友が俺を分析して教えてくれた「ローリングストーンズ理論」というもので自分に納得できるようになった。



・・・あの時は「パンク」の次をテーマにしようとしていたから、パンク色を残しつつ、「デカダンス」を表現していこうと思ってた。



「破壊」の次は「退廃」、「パンク」の次は「デカダンス」という俺の理論だった。



セックスピストルズ、クラッシュ、ダムドなどの70’sパンクやディスチャージ、GBHなどの80’sハードコアをテーマにした「パンク」の次にデビットボウイ、ヴェルベットアンダーグラウンド、イギーポップなどの文学的で退廃的な「デカダンス」をジョニースペードに持ち込んだ。



最初はピカソの「青の時代」や「ゲルニカ」をイメージしようとしたり、エゴンシーレの絶望的且つ悲しみに溢れる感じにしたかったんだけど・・ジョニースペードはストリートのアウトサイドカルチャーをテーマにしてるんで、アート的アプローチは難しかったし・・・たとえ表現できたとしてもシリアス過ぎる感じの商品では売れないと思った。



アンディウォーホールやデビッドホックニーのようなポップアートをぶっ壊した方がまだ売れそうだと俺は思った。



俺の勝手な解釈だけど、アンディウォーホールは既存の物を壊したり、付け加えたりというカスタムアートだと思っている。



それと同じようにジョニースペードでそれをまた壊せばいいと思った。



「時計じかけのオレンジ」で使われる「超暴力(ウルトラバイオレンス)」をテーマにしたその時のシリーズをジョニースペードは1994年にリリースした。



パンキッシュって言葉を使い始めたのも、この辺りで・・・担当者に「パンキッシュ」って何ですか?と言われたりした。



「NO FUN」、 「CASH FROM CHAOS」・・というパンクアイコンをスケート&サーフスタイルに料理した。



面白かったのが、このヴェルベットアンダーグラウンドを意識したバナナデザイン。



これは本当のバナナを買ってきてコンビニのコピー機でコピーしたんだけど・・・立体的なバナナをちゃんとコピーでするのが一苦労でね。



最終的にはコピー機はバナナ果汁でビシャビシャになってしまって・・・俺と相棒はまたそこに呆然と立ち尽くしてた。



まぁ、何とかコピーできたんだけどね。



コンビニの人は大迷惑だよね(笑)。



その次は五寸釘をコピー。これも立体的なんでコピーに苦労したけど、バナナよりは楽だった。



そのバナナと五寸釘のコピーを切り抜いて、コラージュして・・ペンで書き加えて原稿を作った。



アンディウォーホールのアートを俺なりに解釈して壊したたつもりだったんだけどね。



このシリーズもヒットして、俺達は何とか生活できていた。



俺と相棒はこの頃は何とか8万円の給料が取れるようになってきたのを憶えてるよ。



俺達は調子に乗って洋服買いまくってたね。



そして・・・・やっぱ極貧(笑)。



いつでも300円で安くてボリュームのある仙台の名物店「はんだや」で腹一杯にしてた。



塩辛とご飯どんぶりのみのメニューの毎日はなかなか厳しかったね。


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「超暴力(ウルトラバイオレンス)」シリーズも強烈なインパクトで何とか売れていた。



だけど・・相変わらずお金にならないし、生活は苦しかった。



自由でやりたい事はやっているという意識はあったんだけど・・・正直、周りの友達の収入と自分の収入を比べてしまったりすると焦りと劣等感はあった。



だから何となく周りの友達とも疎遠になっていってた。



ビルから落ちる夢を見たり・・・眠れない夜が続いていて・・・ストレスで吹き出物も次から次にできていた。



この辺りから俺の精神はどんどん悪い方に傾いていった。



救いだったのは相棒で・・そんな俺をいつも励ましてくれてた。



相棒も同じ状況なのにね。



相棒は俺に内緒でバイトもしてた。知ってたけど、俺も相棒には何も言わなかった。多分、俺に気を使っていたと思う。



・・・・俺が不甲斐無いからだ。



もっと頑張らなきゃ二人とも終わってしまう。



俺はいつもそんなことばかり考えていた。



「退廃」をテーマにしたジョニースペードを作る為に俺は自分の精神も其処に持っていかないとイメージが湧かなかった。



聴く音楽も荒れ果てたダークな感じが多くなり、心理学や犯罪者の本を読み耽るようになり、部屋に篭るようになっていた。



徹底したニヒリズム(刹那主義)を体現しようと言動や行動も病んでいってたと思う。今、考えると非常に俺らしくないんだけど・・その頃はそんな感じだった。



今のジョニースペードにもそんな退廃的な雰囲気がどこか感じられる場合があると思うけどね。



そしてジョニースペードはどんどん退廃したパンキッシュな方に向かっていった。




蝶を全部黒塗りにして死を連想させる「DEATH BUTTERFLY」




白黒の荒れ果てた耳のフォトでディスチャージインスパイアの「EROS」




ヨーロッパ中世のブロンズの少女をパンク的にフューチャーした「BABY」




裸の女性に沢山のドアが付いていて、腰に鍵がプリントされた「ANGEL POLLUTION」




沢山のマネキンの手が光と影のコントラストでプリントされた「PARADICE」




錆びた血まみれの釘が十字架になっている「JESUS」




手が背中に大きくプリントされて、中にパンク風切り文字の「I HATE MY SELF AND I WANT TO DIE」



タイプライター文字を使用した「BLOOD」と「IDIOT」




この頃は原宿や下北沢に取扱店があったんだけど、スタイリストの人達がTVに出演するタレントの衣装を探しに来ていて、取扱店がジョニースペードを貸し出ししてくれていた。



関口宏のフレンドパークやSMAPの番組で自分の商品を見たときにはビックリした。



相棒と電話しながら、そのTVを観てたのを憶えてる。



二人とも喜んでたんだけど・・だからといって俺達の生活が変わらないのもよく理解してた。



ジョニースペードも俺の退廃した感覚でイメージが固まってしまって、テイストの合わないデザインはリリースできなくなっていたし・・ある意味、行き止まりを感じていたと思う。



俺は色々考えた挙句、もう一つブランドを作ろうという事を相棒に提案した。



もっとアメリカンコミック的でホラーテイストなブランドを俺は考えていた。ジョニースペードのようにシリアスではなく、もっとブラックユーモアがあるブランド。



そして「METAL SLAP」というホラーテイストのブランドをリリースした。



背中に半漁人のトレードマーク、墓地にコウモリのロゴデザイン、ハンバーガーに挟まれた人間、三匹のネズミ・・etcとブラックユーモア満載のブランドだった。財布やキャップなんかもリリースしたと思う。



昨年、STINK GASPERSのイズミ君と話したら「俺、持ってましたよ~」なんて言ってくれた。あの頃はサイコビリー連中にMETAL SLAPは人気があった。



あの頃はイズミ君とANGERのリュージ君、LANDSCAPEのケンジ君でLOWHEADS LOBOTOMYというサイコビリー&ハードコアスタイルなバンドを組んでいて、仙台では絶大な人気があった。


  

ライブでジョニースペード×LOWHEADSのTシャツを販売しよう!という話になって50枚位製作した。



ジョニースペードでバンドのTシャツを別注されたのも初めてだったと思う。



鉄の鎖の中にLOWHHEADS LOBOTOMYのロゴ。



ライブが始まってTシャツは即、完売した。



俺はあまりのバンドの人気に唖然としたのを憶えてる。



イズミ君の圧倒的なステージング、リュージ君の狂気的な雰囲気&スピードのあるギター、ケンジ君のバイオレンスな雰囲気のウッドべース・・・カッコよかったね。



それから仙台のパンクバンドのダブルネームリリースが増えていくことになるんだけどね。



METAL SLAPはリリースした分は売れたんだけど・・結局、ジョニースペードの予算がなくなってしまうという事で一度きりのリリースで終了してしまった。



だけど、自分の感覚やイメージを欲しがってくれる人達がいるという自信には繋がったので無駄ではなかったと思う。

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ジョニースペードはどんどん壊れた狂気を追求していった。



音楽的にもグランジといわれるムーブメントが起きていて、ニルヴァーナが大ブレイクだった。



俺もその破滅的でヘヴィーなサウンドのグランジやオルタナのバンド達にどっぷり浸かっていた。



ジョニースペードもおかしな狂気を表現する”マッドヒューマン(頭が渦巻きで体が枯れた木”をマークにしていたと思う。



時代だったのか、何故かそれもヒットしていた。



METALSLAPでジョニースペード以外のもう一つのブランドをやる事を考えられるようになった俺は次に「DIP」というブランドを構想していた。



ジョニースペードやMETAL SLAPはマイノリティなお客さんしか反応しないのは認知できていたので、もっと一般の人達をターゲットにしたブランドを作りたかった。



自分の感覚がインディーズだけではなく、メジャーに通じるかどうかを試してみたかった。



四角の枠にDIPのロゴマーク、星をちりばめたロマンティックなデザイン・・・DIPは音楽にするとネオアコーステックかスウェーデンポップな雰囲気がするブランドだったよ。



俺はジョニースペードで利益が出たら・・・新しいブランドを立ち上げて、もっと仕事を忙しくして利益を倍にしていこうという考え方だった。



給料を上げたりするのは、それが成功してからだと思っていた。



「DIP」が成功したら、相棒を担当にして「DIP」をそのまま譲るつもりだった。



・・・・そんな時に相棒が倒れた。



プリント工場でプリントをしていたら、血を吐いて倒れたとのことだった。



俺は工場からの電話で気が動転したんだけど、相棒は意識もあって普通の状態に戻ってるとのことだったから、とりあえず安心した。



しかし、入院を要するとのことだった。



そこでまずは病院のお金を考えなければならなかった。



通帳を見ても・・ジョニースペードとDIPの製作費の支払いを引くと三万円しか残金がない状態。



それを銀行から引き出して、朝一で相棒が入院した病院に行った。



ベッドに座ってる相棒は俺の気も知らず、にこやかに隣りのおじさんと漫才みたいな会話をかましてた(笑)。



「ごめんな~、半沢~」っていつもの調子で言ってた。とりあえず、俺も安心した。



しかし、俺達はこれからの仕事の段取りを考えなければならなかった。



ジョニースペードがちゃんとした軌道に乗るかどうかの瀬戸際の時期で、大事な時だった。



ジョニースペードのプリントは工場の方でやってくれるとのことだったので、これはOK。



配達は相棒の車を借りて、俺がやるということでOK。



まぁ、俺が二人分の仕事をやる、相棒は病院で療養するってことで。



入院は1ヶ月くらいだとのことだったんで、俺も相棒もそれまで頑張ればいいと思ってた。



しかし、俺の方はやってみると大変でね。



朝から相棒の家に地下鉄に行って、車を借りる→事務所に戻って商品を積む→何件か配達をして→また相棒の家に車を置く→地下鉄に乗って事務所に帰るという感じで。



それだけで1日が終わってしまっていた。



事務所を兼ねた俺の家には駐車場がなく、車が駐車できないから相棒の家にいちいち行かなければならなかった。



その間、俺にはおふくろの仕事の手伝いや単発の仕事が入ってきたりするので、スケジュールが狂いまくる。



だけど、それはバイト料をもらえるので断るわけにはいかなかった。



そんな状態で日々、疲れきっていた俺がジョニースペードやDIPの新しいデザインなんかできるわけもなかった。



相棒の入院も1ヶ月のはずが・・・2ヶ月になり・・・最終的には3ヶ月かかったと思う。



ジョニースペードもあまり良い状態ではなく、支払をしてしまうといつもより給料が出ない状態だった。



相棒に申し訳ないと思いながら、とりあえずそれをまた二人で割って相棒に給料を出した。



相棒も俺に申し訳ないなんて言っていて・・二人で病院の待合室に座って無言になっていたのを憶えてる。



相棒は三ヵ月後に退院した。



だけど、昔の相棒とは変わっていた。



「外に出るのが恐い」



「人と会いたくない」



あのタフで明るい相棒がそんなセリフを口にしてた。



相棒は咳をすると、すぐ手を口にあてた。



「血がついてるかも」という恐怖感でそんな癖がついていた。



相棒は病気が再発するのを気にしていた。



そして大好きだったタバコも吸わなくなっていた。



だけど、俺はすぐに相棒は昔に戻るだろうって楽観していた。



何ヵ月後・・・・相棒はサーフィンを始めて、音楽もレゲエなんかが多くなっていた。



海や自然を愛し、よりナチュラルな方向に行きはじめていた。



俺は相変わらず全てにおいてBAD系で・・街や真夜中を愛し、デザインや音楽もよりバイオレンスな方向を好んだ。



相棒は入院を期にどんどん自分を見つめなおしていってた。そして自分が本当に好きなものを探し当てた。



相棒は絵も描くようになっていて、それは俺の絵なんかより素晴らしく、変化した相棒の心が爆発したような芸術だった。細かい樹木、自由を思わせる雲、流木を思わせる字体・・・相棒は才能があった。



相棒はもう俺のジョニースペードの方向性とは真逆のスタイルになっていた。



・・・俺はそれがはっきり分かった時、相棒にジョニースペードを辞めて独立をするように言った。



それは相棒の為にも良い事だと思った。相棒が自分のブランドを自分でやれる時期に来たと思った。



ジョニースペードは池袋のサンシャインで行なわれたアクティブコレクションというスノーボード、スケート、サーフの展示会に出店する予定だった。展示会に出たのはこれが最初で最後だと思う。



俺はDIPをやめて、その予算で相棒の新ブランドの立ち上げを考えた。それを相棒の退職金代わりにしようと思っていた。



コレクションは日本全国からショップの人達が来るし、相棒の新ブランドをここでデビューさせるのはタイミングもバッチリだと思った。



だけど、相棒は猛反発で怒ってた。



「何で一緒に居ちゃいけねーの!?今まで通り一緒でダメなのかよ!」って。



初めて相棒と怒鳴りあった。



ずっと一緒でも喧嘩なんかしたことなかった俺達が。



俺には俺達の将来を見据えて、良い方向に行かせなきゃいけない責任があった。



だから俺は意見を譲らなかった。



しぶしぶ相棒は自分のブランドを立ち上げる事に決定した。


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1995年2月のアクティヴコレクションに俺達は出店した。



時期的にジョニースペードを始めて2年後ってことになる。



相棒は「GARDEN」というブランドを作って独立することになった。



それは相棒らしい自然、自由、魂、水・・とナチュラルなテーマを題材にしたウエアだった。



そのコレクションの前に相棒のおばあちゃんが亡くなってしまって・・・相棒は実家に行ったきりで、俺に連絡が一切ない状態だった。



俺は相棒は3日くらいで戻ると思っていた。



相棒と連絡がつかない俺はコレクションの準備ができなくて焦っていた。



やっと相棒と連絡がついて・・また電話で喧嘩が始まった。



「亡くなったおばあちゃんの側にいたい!」という相棒の気持ちもよく理解してはいたけれど、相棒のこれからの未来を考える俺は「早く帰ってきて準備をしないとコレクションに間に合わないぞ!」と怒鳴った。



相棒は「満足いくまで亡くなったばあちゃんの側にいることの何が悪いんだ?!」と怒鳴って話は一方通行だった。



・・・あの頃の俺はいつでも金や仕事優先の男で、相棒の人間らしい優しい気持ちを理解さえしなかった。



結局、相棒はその次の日に帰ってきてコレクションの準備はギリギリ間に合わせた。



俺は俺で、お袋が入院してしまい・・・お袋の事も気がかりでとてもヘヴィーで灰色な気持ちだったのを憶えてる。

   


病院からお袋に何かあれば至急戻ってきてほしいと言われてた俺は、その時初めて携帯電話を買った。今と違って大きな携帯電話だったよ。



俺と相棒はそんな感じだったんで、お互い精神的に疲れきっていて、2人の関係もギスギスした冷戦状態でコレクションに挑むことになってしまった。



相変わらず貧乏な俺達はホテルなんかに泊まるお金は無く・・・後輩の緒方君の家に泊まらせてもらった。



あの時は俺が機嫌が悪くて・・相棒と緒方君が築地にラーメンを食べに行きたいって言いはじまって・・俺はブツブツ文句を言いながら面倒臭そうに2人について行って・・・食べたらメチャクチャ美味くて俺の機嫌が直ったという事があった(笑)。



あの時に食べた築地の魚介だしのラーメンを機会があればもう一度食べたいね。



コレクションは2日間で、その時は全国のジョニースペード取扱店の社長さん達、東京の友達達が沢山来てくれた。



サーフ、スケートの展示会なのに・・ウチのブースはTATTOOだらけの悪い人達ばっかり(笑)。



俺はみんなに相棒を紹介して、名刺交換をしてもらって相棒の商品をプッシュした。相棒もそれに応えた。



喧嘩はしてても、仕事は別。俺と相棒はアイコンタクトでお客さん達を紹介し合い、ジョニースペードもガーデンもある程度の発注がついた。ガーデンも手応えはあったから俺は嬉しかった。



そんな感じでコレクションも終わって俺達は仙台に帰ってきた。



しかし・・相棒と俺はその日以降、1年くらい連絡を取り合わなかった。



別れてしまった男女のような感じで・・俺達はライバル的なものもあったし、お互い色んな感情があったから、期間を空けないと話ができないような感じだった。



1年後、相棒はひょっこり電話をくれた。



「今から会いに行っていいか~」って。いつもの調子で。



「あぁ、忙しいけどね、ちょっとだけならね」。



俺もいつもの調子で。



嬉しかったけどね。



そして、俺達は何時間も思い出話と今のお互いの状況を話した。



相棒は独立して、自分でやってみてから俺の気持ちがよく分かったって言ってくれた。



それからはたまに相棒の車で一緒にジョニースペードとガーデンをお店に配達に行ったり・・・2人でブラブラしたりという日を送ったりしてた。



・・・話はこの時期から何年か先になるけど



今から9年前くらいに相棒が事務所に来てた時、「何だか最近、身体が痛いんだよね~」って相棒が言ってて。



サーフィンとかも毎朝行ってたから「筋肉痛じゃねーの?俺達も歳だし・・あんまり無理しないほーがいいよ」なんて俺は言ってた。



ジョニースペードもガーデンもあまり調子がよくなくて、俺は「店でも出そうかな?」って言ってたら、「その話、ノッた!また昔みたいに2人でやろうよ~、半沢!」なんて相棒も言ってくれた。



ジョニースペードもガーデンもブランドとして力量がついていたし、満を持してショップを出す時期に来てると思った俺は「よし、んじゃ話を進めるわ!」って言った。



その日以来・・・それっきり相棒と連絡が取れない状態になった。



色んな人達から相棒と連絡が取れないって電話が俺のところに来ていた。俺は相棒に何度も電話したんだけど、連絡が取れない状態で・・・何かあったんだろうとは思ってた。



俺は「相棒が連絡つかないようにしてるには何か言えない理由があるだろうから、詮索するのはやめておこう」って思ってた。



それから2年後に相棒が急性リンパ性白血病でこの世を去った知らせを受けた。



連絡が取れない期間は相棒は病院で闘病生活をしていたらしい。



俺に身体が痛いと言ってたあたりに病院に行ったら白血病とのことで即、入院だったらしい。



相棒が亡くなった知らせを受けて俺は相棒の家に急いで向かった。



寝ているのはいつもの相棒の姿だった。生きてるようでもあったし、死んでることが信じられなかった。



ただ、もう目を覚ますことはないという現実をその場で突きつけられた。



俺はショックで感情も止まってしまい、何も考えられない状態になっていたのを憶えてる。



・・・平成14年3月に相棒だった山本(菅野)竜は亡くなった。



俺はまだ相棒がハワイでサーフィンでもして帰ってこないような気分でいる。



そう自分で思い込んだ方が楽だ。



俺はまだ生きてるし、この世の中を生き抜くというゲームの真っ最中で・・それなりに辛いけど楽しんでる。



まぁ、俺が死んだら相棒に天国でサーフィンでも教えてもらおう。



ちなみに俺は泳げないんだけどね。


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話は戻って、相棒がジョニースペードを抜けてからの話になります。



相棒の独立が決まってから、俺はジョニースペードを一人でやるようになった。



正直、相棒が辞めた時点で「これでジョニースペードをいつでも辞めれる」とも思っていた。



もう相棒に精神的な負担をかけたり、給料が少なくて迷惑をかけることはなくなったし、俺も借金地獄はもうウンザリだって思ってたし。



俺は精神的にも経済的にも楽になりたかった。



俺一人ならジョニースペードを廃業することはいつでもできる。



色々考えた挙句、とりあえずジョニースペードを残った予算で俺のやりたい放題やってみようって考えになった。



ダメだったら・・何でもいいから仕事して残った借金を返せばいいって思ってた。



ジョニースペードは思い出として俺の中に残るし・・・俺は負け犬として、夢なんて語らず、黙々と何でもいいから働いて生きていけばいいって思ってた。



俺はジョニースペードでもっとアンダーグラウンドな世界を追い求めることにした。



トライバルタトゥーを駆使したデザインや時計じかけのオレンジのパロディ「オランウータンクッキー」、死体のフォトをデイフォルメして花に囲まれてるデザインなどのウエア・・・革のショートパンツ、DJバッグ、シルバーリング、腕時計、ジッポーなんかもリリースしていったと思う。



俺はどんどん加速をつけてリリースしていった。



今のような1ヶ月に1回というレディース並みのスピードのあるリリースはこの頃からだと思う。



ジョニースペードはマイノリティなハードコアなスケーター、サーファー、バンド、そしてバイカーのみんなに少しづつだけど受け入れられていった。



それは俺が望んでいたことでもあり、それになりたかった。



そして俺は事務所をマンションの一室に構えた。



でも相変わらずの貧乏で「家賃払えなかったらスイマセン」って大家さんにすでに言ってたよ。



その頃、友人の大宮が「FEELIN??DELICIOUS WEAR」というブランドを始めた。



大宮は中学から友達で・・・そのセンスとサーフィンは人より突出していて、俺は一目置いていた。



俺は最新のロックンロールやパンクを追い求めてたけど・・・大宮は最新のクラブミュージックやファッションに詳しく、それを体現していた男でもある。


 

ある日、大宮が「半沢、デザインやるならパソコン買わなきゃダメだぞ」って言ってくれて。



俺はそれまでのデザインは手書きやコピーの切り貼りで・・自分で満足いくデザインをしていたかというと・・・正直そうではなかった。



でもパソコンでデザインなんて・・そんなのロックンロールじゃないって思ってた(笑)。



その頃はMACも20万くらいで高かったと思う。



俺は大宮の家に行って、大宮のデザインを見せてもらった。



それはフォトショップを使用したデザインで「FEELLIN??」の一番最初のデザインだった。



  「スゲー!」



俺は開口一番に唸ってしまった。



字が簡単に綺麗に画面に出せることや写真を取り込めること、回転や色の反転ができること・・・俺がいつでもデザインで悩んでいたことがあっさりとクリック一つでできていた。



今の時代のみんなは「そんなの当たり前」と思うだろうけど、あの時代はパソコンはまだそんなに普及してなかったし、金の無い俺がパソコンなんて買えないし、そんなのできないって思ってた。



俺は大宮のデザインを見て、「MACを買う!」って即効で決めた。



そして大宮に付き合ってもらってローンでMACを買った。



スキャナー、プリンターなどや接続も大宮にセッティングしてもらった。



やりながらわからないところは大宮に電話をかけながらデザインを進めていったりした記憶がある。



かなり迷惑そうだった(笑)。



本当にありがとう、大宮。



そんな感じでMACを手に入れた俺はジョニースペードに意欲が出てきた時でもあった。


MACを手に入れた俺は本当にデザインが楽になった。



原稿、広告、ステッカー・・・etcと今まで作るのに四苦八苦していたものがスピーディーに作れるようになった。



ジョニースペードも今までよりレベルの高いデザインが発売できるようになって、俺の頭の中にある発想がよりリアルに表現できるようになったのがありがたかった。



時期は1996年。



この頃からドラゴン、マリア、スカル、梵字など宗教的モチーフが多くなってきた。



雑誌「BURST」に広告を掲載を始めたのも1996年の6月号からだった。



それから2002年の12月号までジョニースペードは「BURST」に広告を掲載させてもらった。



アパレルで「BURST」に広告を掲載したのはジョニースペードが一番初めだったと思う。



TATTOOなどをテーマにハードコアなカルチャーをマニアックに掘り下げる雑誌で、掲載しながらも随分と勉強させてもらった雑誌でもある。



この頃のジョニースペードは梵字、不動明王、龍、釈迦、トライバル柄なんかが大ヒットして、本当に忙しかった。



振り返っても・・・これまでのジョニスペの中で一番の売上を出していた時期でもある。



事務所は商品の入った段ボールで山積み・・・取扱店は30件を超して・・・俺は何故だ?みたいな感じで忙しくしていた。



タイミングがアンダーグランドのカルチャーの流れと合っていたからだと思う。



「BURST」の効果ももちろんあって、ハードコア、タトゥーのファンの人達も取り込んでいった時期だと思う。



事務所にも客人が増えてきて、PASSING TRUTH DRIVE、NAKED YEGGS、E805843のメンバー達も遊びに来ていた。



特にPASSINGのドラム、畠山君とE805843のコスビーはよく遊びに来てくれていた。



俺は後輩達の精神論や文学の話、音楽の話、絶望的な話などで話し合うのがとても好きだったよ。



後輩達が今も俺のところに遊びに来てくれることが、俺は心から嬉しかったりする。



嬉しさのあまり、思わず俺の不要な服やCDなどもプレゼントしたりする(笑)。



店に来てくれるお客さんもそうだけど・・・俺みたいな人間といつも仲良くしてもらってありがたく思ってるよ。



俺の所属するバンド「INNSANITY」も活動が盛んになっていた。



意味は「狂気」で大好きなTHE ROOSTERSの「ケース オブ インサニティ」から拝借した名前で、あえて「N」をひとつ増やしてる。



INNSANITYは今年で16年目に入ってるんだけど、相変わらずマイペースだし、ライブもあんまり演らない。



メンバーはギター、ボーカルは俺、ドラムは弟の剛、ベースは哲也の不動の3ピース。



何を目指すわけでもないし、俺は俺の音楽をこのメンバーで演りたいだけで・・誰か一人でも抜けたら俺は解散を決めてる。



売れる、売れないなんて最初からどーでもいい話でさ、俺は俺たちの音楽を残せれば満足。


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INNSANITYはもう16年目のバンド。



一度、メジャーからの誘いを頂いたのに、メンバーが今の環境を崩したくないという事でお断りしました。



まぁ、良い意味でも悪い意味でも素敵で困ったバンドではあるね。



そんなINNSANITYのメンバーは



ギター、ボーカルが俺、ベースが哲也、ドラムが剛の不動の3ピース。



詞と曲は俺が作って、剛と哲也は自分のパート分を創り出すパターンで楽曲は出来上がっていく感じのバンド。



俺と剛は10代の頃に「COIN ROCKER BABIES」ってバンドをやってて・・・その後、ザ・ランブラーズってバンドをやってたんだけど解散してしまった。



COIN ROCKER BABIESは日本語でビートロックみたいな感じで、バンドとしては完成してた。


でも、年齢を追っていくにつれ・・・ブルースや古いロックンロールを生音に近い感じで演りたくなって・・それでランブラーズにメンバー変わらずで変化したんだけど・・メンバーの就職なんかで終わってしまった。



剛はガキの頃からハードコア、メタル、パンク・・etcとヘヴィーな音楽しか興味がない男で。



近年はジャズなんかも聴いてるみたいなんだけど・・結局、ドラムしか聴いてないという生粋のドラマー。



剛は実の弟で・・・俺達には兄弟ビートみたいなものがあって”ストップ、ゴー”のタイミングが合うし、俺の曲をイイ感じに壊してくれる。ツインペダルを持ち込み、今のINNSANITYのリズム隊の形を作ったのは剛だと思う。


 

兄の俺が言うのも何だけど、筋の通った男でこだわりも凄いし・・・尊敬してるところもある。


 

ベースの哲也は長身でクールな男。同級生ではあるけどいつでも「カッコイイなぁ」と思う。



いつでもバンドを客観的に見てくれてる男でもある。



哲也のダウンピックベースは安定していて、ピッキングの音を感じさせないスムーズで太い音がする。剛のツインペダルに合わせてのダウンピックなんだけど・・鉄やマシーンを思わせるこの二人の重いスピード感のリズムが俺のギターにはピッタリだと思ってる。哲也が俺のコードの隙間に入れてくるメロディは独特で・・これも俺にとっては魅力的でもある。



俺が店を初めてオープンさせた時、哲也は自分のべスパを売って革ジャンを買いに来てくれるという大人の優しさを持ち合わせてもいる。高校の頃に哲也と少しだけバンドを組んだ事があって・・その時は古いロックンロールをスピードアップしてやるようなバンドだった。俺が歌が下手で抜けたんだけど(笑)。



INNSANITYは、俺と剛でランブラーズ解散後にまたバンドを始めようって話になって、今度はパワフルでタフなハードロックンロールバンドを演ろうって話で・・哲也が何もバンドをやってなかったのもあって3人で組むことになった。俺たちは全員、体格がデカイのもあって洋楽のような構成で外人みたいなバンドにしようなんて言ってた。


剛は同時期にハードコアバンドも組んでいて、INNSANITYはヘルプで手伝っている感じだったね。



哲也はジョニースペードの創立当初からブレーンとして関わっていて、一緒にスペードマークなんかを考えたりしてたよ。



INNSANITYはグレートハーティッドの阿部君の誘いでイベントに出たのから始まって・・・阿部君のバンドのイベントには全て出演していたと思う。



阿部君のおかげでINNSANITYはいつでも楽しくライブをやれた。



1stアルバム「BILLY THE RIPPER」は1999年に発売した。



全曲スピーディーな感じで一曲二分少々。「ザ ロッカーズやルースターズみたいでいいじゃん」なんて言ってたね。



・・・この頃は俺も哲也も破壊や暴力思想に偏っていて、詞は大藪春彦なんかを想像させる犯罪小説やピカレスクロマンを感じさせる内容で・・曲はスピードのあるロックンロールパンクみたいな感じ。



キャッチーでファットなパンクロックに犯罪小説のような物語を乗せたロックンロールを演りたかった。



バンドの音は1日で一発録音だった・・・っていうかINNSANITYは全曲そうだけど。



考えてみれば、その上からリードギターとボーカルを乗せるんで純粋な一発録音ではないね。



俺としてはクリームソーダにブラックキャッツやマジックがいてファッションと音楽がクロスオーバーしてロカビリーを表現しているように、ジョニースペードにもインセニティーがいて、ジョニースペードの世界観を表現したかったって感じだった。



ライブが多くなってきて、俺達はだんだんとライブに疲れてきて・・・。



そのままレコーディングが終われば解散って流れになってきていた。



INNSANITYは1stアルバム一枚作って終わり!って感じではあった。終わりにするのはもったいない気もしたけど、この時は「これ以上はこのバンドでは無理」って感じだった。



メンバーが揉めて喧嘩別れしたわけじゃなかったんで、三人三様で自分の好きな音楽やるのが良いんじゃない?って感じの終わり方だったと思う。



1stレコーディングの後、剛はNYハードコアスタイルのバンドを結成するとの事でINNSANITYを脱退・・・というかヘルプで手伝っていたから脱退じゃないんだけどね。



そして哲也は自分のバンド、「ドクターモロー」を結成した。キーボードを多用した実験的なUKロックのような感じだったと思う。



俺はこのINNSANITYのレコーディングの後に無理がたたって喉にポリープができてしまって・・・その後、手術を受けるんだけどね。



俺はソロでアルバム出すつもりで自宅にレコーディング機材を用意して80曲くらい一人レコーディングをしていた。俺は1日あれば10曲くらい曲ができちゃうタイプで厳選して曲を選んでいちいちレコーディングしてた。



その頃のドラムマシーンの音は機械的すぎて・・楽曲はできるんだけど、生々しいグルーブが無くて辛かったね。



ローリングストーンズの1stの「ROUTE66」や「CAROL」なんかは初めと終わりのスピードが全然違うんだけど、バンドのグルーブってものがスピードをそうさせたんだと思う。そのグルーブが生き物みたいでカッコイイし、それがロックンロールだと思った。



リズムマシーンのドラムは安定してるし、音ムラがないけど・・・ピンとこなかったし、俺は生々しいグルーブが欲しかった。



そして・・俺は機械で音楽を作るんじゃなくて、またバンドというもので仲間と音楽を作っていきたいという気持ちが強くなっていた。



この頃に俺が一人でレコーディングしてた曲は無駄になってるわけではなく、その後に結成するNIGHTBIRDの「テイル・オブ・マーメイド」や「スイートララバイ」なんかはこの時期に作った曲だったりする。



考えてみれば俺は服も音楽もオリジナルを作りたがるわ。

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そんな感じでINNSANITYは解散というか・・休止状態ではあった。



剛とは兄弟なので、普通に電話していて・・遊びでスタジオに入ろうか?という話になっていた。



あの頃の俺と剛はグランジムーブメントに夢中だったから、そんな感じのバンドをもう一度組もうか?なんて話になっていたと思う。



俺は自分の中から湧き出るメロディというのは崩したくないけど、アレンジを全面変えてしまうことは抵抗がなかった。



そのスタジオで俺は一人でレコーディングしていた数曲を弾いて歌った。



剛は一発でその曲にドラムを合わせてきた。ツインペダルを導入し、曲の間やスピードは俺が思ってるところとは全然違う感じではあったけど、俺のロックンロールエモーションみたいな曲にツインペダルをねじ込んだリズムは今まで聴いたことがないようなスタイルになったことは確かだった。



スタジオ終了後、「これだったら演ってもいいかもな」って剛が言ってくれたと思う。



じゃあ、ベースを探さなきゃいけないって話になって・・・やはり哲也しかいないって話になって・・・。



俺は1年ぶりに哲也に電話した。



「次の日曜日、スタジオなんだけど・・暇だったら遊びに来てくれよ」と俺は言った。



哲也は「行けたら行くよ」なんていってたと思う。



そして日曜日のスタジオには俺、剛、哲也がまた揃った。



後から聞いたら・・哲也は他のバンドのスタジオ練習が予約入ってたのに、「INNSANITYだから」って理由でそっちをブッチぎってきたらしい。



カッコイイ男だよ。泣けるわ。



そして・・・INNSANITY復活が決まった。



この時から俺は剛のドラムと哲也のベースに何も言わなくなった。俺は俺の曲を弾いて歌う。



剛と哲也はそれを聴いて自分のパートを作るってスタイルになった。



三人のグルーブが合わない曲は却下。



復活して一曲目に合わせたのが「LABYRINTH」というグランジテイストの曲だった。



今までのINNSANITYの曲とは違うミディアムなスピードでダークで投げやりな曲。詞も精神が壊れていく男の様を描いた曲だった。



その後に「GOD,DO YOU HEAR ME?」、「SKY」のお得意のスピードナンバーが出来ていったと思う。



剛はツインペダルを駆使し、へヴィーメタルのスタイルで曲を変化させ、哲也はそのドラムに合わせたダウンピックベーススタイルになった。



新しいINNSANITYの楽曲は曲間の隙間をペダルで埋めて、ノレるグルーブを排除してパワーで押さえつける感じになっていた。



そしてエモーショナルコアに影響を受けていた俺は「THE TIME GOES BY」や「SCARECROW」、「TONIGHT」などの楽曲をバンドに持ち込み、ロックンロールスタイルの「TAXI DRIVER」や「LUSTFUL HIGHWAY」の楽曲もINNSANITYに導入していった。



それもまた全曲、剛と哲也のへヴィーなリズム隊でテイストが違う曲になっていった。



そして・・・2005年11月に神経質でピリピリしたクールな空気漂う「JUSTICE?」をINNSANITYは発売した。



詞に関しては俺の世界観で・・各曲ごとに簡単に説明すると



1:GOD,DO YOU・・は被害妄想。



2:LABYRINTHは精神障害の手前。



3:SKYは事件を無責任に報道するマスメディアや世間に絶望して空が真っ黒に見えるって話。



4:THE TIME IS・・・は現実は弱肉強食だから誰も君を助けないって話。



5:SCARECROWは虚無主義(ニヒリズム)。



6:TAXI DRIVERは映画「タクシードライバー」からインスパイアされていて、パパやママに売春を強制されていた少女を男が助けて街から逃げるんだけど・・「やっぱりあの町に戻りたい」って少女が言う・・・狂った正義の味方の男の悲しい物語。



7:LUSTFUL HIGHWAYは愛情や感情なんて無意味な欲望に忠実な男のララバイ。



8:TONIGHTは裸の王様の話で正義は誤解され、抹殺される話。



9:JUSTICE?は正義の味方は悪を倒すけど・・その正義は本当に正義なのかな?って話。




アルバム全体を通して、「正義って何?」、「欲望や感情って悪なのか?」、「理論って正義なのか?」ってテーマにしてある感じです。



このアルバムで俺の尊敬してる森脇美貴夫さんにレビューを書いてもらった。



森脇さんが俺達のアルバムを聴いてくれただけでも凄いことなのに・・・天にも昇る気持ちというのはこの事だと思った。



今でも感謝してる。



俺が好きで買っていたバンドのレコードレビューはほとんど森脇さんが書いてる。あの頃の最新のパンクやイギリスの音楽シーンを日本にいち早く紹介していたのが森脇さんだと俺は思ってる。


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INNSANITYの話もしたので・・・この際、俺が所属している残りの2つのバンド、DOG DAY AFTERNOONとNIGHTBIRDの話もしておきます。



DOG DAY AFTERNOONのメンバーはギター、ボーカルは俺、ウッドベースがケンちゃん、ドラムが近田の3ピース。



俺は昔からロカビリーが大好きで・・いつかはウッドベースでロカビリーバンドをやりたい!って思っていた。そんな時にケンちゃんがお客さんで来てくれた。ジョニースペードを昔から買ってくれていたらしい。



ケンちゃんは以前に所属していたロカビリーバンドが解散してしまって、新しいバンドを始めたかったらしいんだけど、なかなか良いメンバーがいなかったみたいで。



店でケンちゃんとそんな話になって、俺は俺でロカバンドをやりたい欲求があったので、タイミングはバッチリだった。



とりあえず、俺はケンちゃんを捕獲した(笑)。



ケンちゃんは寡黙なんだけど、筋を通す硬派な男で努力も惜しまないイカした男でもある。



俺の曲や練習のスタイルに最初は戸惑ってたと思うけど、今じゃ哲也(INNSANITYベース)並みに即効で俺のギターに合わせてくるように成長してきた。



俺はギャロッピング奏法やヒーカップやマンブル唄法ができるわけでもないし、「ロカビリー機材スタイルのロックバンド」を考えていたのでケンちゃんも大変だったと思うわ。



俺はロカビリーだとストレイキャッツ、ロカッツ、ポールキャッツ等の80’s~90’sのネオロカビリーが一番好き。



スターゲイザーズやブライアンセッツァーオーケストラ、ロイアルクラウンレヴュー、チェリーボッピンダディ、アトミックファイアーボール等のJIVEスタイルのロカビリーも好んで聴いてるし、もちろんエディコクラン、エルビス、バディホリー等のオールドのロックンロールも聴く。



でも俺が演りたいスタイルはロカビリーの楽器編成スタイルでPJ ハーヴェイ、ニックケイブ、クリスアイザックみたいな楽曲をやるバンド。



DOG DAYの目指す楽曲的な”匂い”はストレイキャッツの「ランブル イン ブライトン」、「ストレイキャッツストラット」やクラッシュの「ブランドニューキャディラック」、それと「ハルマゲドンタイム」みたいなレゲエ・・・マイナーコードを多用した雰囲気っていうのだろうか・・・個人差はあるけども、俺の思うそのハードボイルドとダンディズムの”匂い”がするバンドになれればいいなと思ってる。



DOG DAYはそういった意味でズレてるし、観る人から観れば全然ロカビリーじゃない。

  


でも俺はそんなバンドがやりたかった。

 


最初は剛(INNSANITYドラム)にJAZZスタイルのドラムを叩いてもらって、JAZZエッセンスを入れていたんだけど、剛が新しくメタルのバンドを始めたのでバンドを抜けるって話になって。



誰かドラムを探さなきゃなぁ・・なんて思っていて、昔から対バンをしていたデイジーシルキーゴーストの近田が脳裏に浮かんで、デイジーが解散してヘルプで何バンドか叩いてるって話は聞いていたんだけど。



近田のドラムはパワフルで近田のグルーブというものを持っていて・・何回もライブも観てるので近田ならDOG DAYでやれるかも・・・と思った。



そんな中、偶然にも近田が店に遊びに来たんで・・・そして捕獲した(笑)。



近田も気持ちよくOK出してくれて・・・今のメンバーになった。近田はロカビリーもあまり聴いたことがなくて・・それでも多分、色々聴いて勉強してくれたんだと思う。最近はケンちゃんのウッドベースと近田のドラムはビッタリ合ってる。



マイナーコードが中心の楽曲で今は7曲くらいは仕上がっていて・・・今年中にはレコーディングしたいと思ってます。


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NIGHTBIRDはナナミンこと七海ちゃんのソロプロジェクトとして始まりました。



ナナミンは今ではジョニースペードのレディース部門「ジョニースペードロックビューティー」のプロデューサーとして活躍してくれてます。



ナナミンはシャンプー☆プラネッツというバンドのボーカリストでライブを観に行ったりすると凄く人気があったボーカリストでもあります。



シャンプラはオリジナル曲の他にヴェルカーソルトのカバーやリッチキッズのカバーを演ったりとセンスが飛びぬけていて、他の女の子ボーカルのバンドとは一線を画していたと思う。



俺がラウドミュージアムをオープンさせた時にナナミンはお客さんで来てくれて、俺はお店をオープンさせてからジョニースペードのレディースを強化させていたのでナナミンにレディースのサイズや色の相談をしたのを憶えてるよ。



シャンプラの林君と俺と剛が仲が良かったのもあって、ナナミンはINNSANITYのライブにも来てくれたりしてました。



そんな中、シャンプラが解散したということで・・・ナナミンが店に来た時に色々と話をした。



バンドやってる人には理解できるだろうけど、一度、ライブやバンドを経験してしまうとそう簡単には音楽は辞めれない。



ナナミンも新しいバンドを作ろうとはしていたんだけど、なかなか良いメンバーが見当たらず、模索して苦しんでいた感じだった。



俺は俺でINNSANITYでメンバーにボツにされた楽曲を持て余していて、定期的にボーカリストを変えて楽曲だけをCD-Rでリリースする企画を考えていたから、ナナミンが新しい自分のバンドを作るまでのつなぎとしてこの話を持ちかけた。



俺は歌にコンプレックスがあって・・1オクターブも声が出ない。せっかく自分でイイ曲を作ってもサビで声が出なくて歌えなくなってしまう。基本的に俺はボーカルタイプじゃない。



だからどうしても2オクターブは出るボーカリストで自分の曲を残したかった。



そんな話をして・・・ナナミンも快くOKということで、俺が楽曲を録音したカセットテープを渡した。



ナナミンはINNSANITYとは全然違う俺の曲にビックリしたらしく「人って見かけじゃわかりませんねぇ~」という褒め言葉なのか何なのかわからないことを言われたのを覚えてるよ。



INNSANITYのイメージでパンキッシュな曲になると思ってたみたいだ。



とりあえず話は決まり、ドラムをE805843の番長に頼んで5~6回の練習で「テイル オブ マーメイド」と「ルース」を1日でレコーディングした。



番長は俺の知ってるドラマーの中でもロックンロールのグルーブを出せる数少ないドラマーでレコーディングではイカしたドラムを叩いてくれた。



その時にみんなで話をしていてナナミンが「私、真夜中に歌の練習をするんですよ~」なんて言ってたのでNIGHTBIRDという名前が決定した。



丁度、新星堂の遠藤君が店に出入りしてくれていたのもあり、新星堂でCD-Rでも取り扱ってくれるという話で・・じゃあNIGHTBIRDはポスターまで作ってやってみますか!なんてことで。



・・・実はこのナナミンのNIGHTBIRDの後に俺は新しい女性ボーカリストを用意していて、次のプロジェクトをやろうとしていた。それはエモーショナルでヘヴィーなサウンドのプロジェクトですでに練習も入っていた。NIGHTBIRDはこれで終わりって考えていた。



が、NIGHTBIRDを聴くにつれ、「ん~、これで終わらせるのがもったいないかも」と思うようになっていて。



ナナミンは性格も良いし努力家で、声もメジャーコードのキーで明るいし、俺の曲をより良く表現してくれる可能性は確実だった。



シャンプラで人気があったのも手伝ってると思うけど、新星堂や店でCDが凄い勢いで売れていた事実もあって・・・俺はNIGHTBIRDを継続することに決めた。



ファッションセンスも飛びぬけていたナナミンにジョニースペードのレディースブランドをやってみないか?と持ちかけたのはこれから半年後くらいだったと思う。



もともとナナミンは音楽同様、ファッションにも異常なくらいの情熱を持ってるので、ロックビューティーの話は即OKをもらった。



考えてみれば・・俺の苦手なレディースウエアのコンプレックスや楽曲へのコンプレックスを拭い去ってくれた貴重な人ではあるね。




話は戻って、NIGHTBIRDはプロジェクトとして継続していくと決まって、俺は次の音源の作曲に取り掛かった。


 

ロカビリースタイルなモータウンをテーマとして、NIGHTBIRDの2ndCD-R「DRIVIN'」は剛(INNSANITY)がドラム、ケンちゃんがウッドベースでレコーディングした。「DRIVIN'」は「テイル オブ マーメイド」を凌ぐ売上になった。



最近は近田をドラムに迎えた3rdCD-R「BABY DREAMIN'」も発売できて、NIGHTBIRDの「50’Sっぽいポップロック」の路線も完成されてきたと思う。



NIGHTBIRDはナナミン&DOG DAY AFTERNOONって感じで、やっとメンバーも固まってライブなんかも考えられるくらいになってきました。今は4枚目のシングルのレコーディングの練習に取り掛かってます。スピードのあるロカビリーっぽい曲になっていてカッコイイ感じ。


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話はジョニースペードに戻ります。



ジョニースペードは相変わらずマイノリティではあったけど、売上はそれなりに上昇していた。



その頃はカットソーだけではなく、色々なアイテムにチャレンジしていた。



ニットを使ったジャケット、シャツ、カウチンなども生産すればヒットしていた時期だと思う。



その頃、福井の安達さんと知り合って、彼女にお願いして和柄やピンナップガールのアロハを作ってもらったりした。



それで安達さんが韓国に生地を買いに名古屋のショップの人と行くから、一緒に行かないか?という話をもらって韓国に行くことにした。



お恥ずかしい話で・・俺は修学旅行も停学で行けずじまいで(笑)。



旅行といっても東京までしか行った事がない男で・・・海外に行くのは初めてだった。



パスポートを取ったり、ガイドブックを買ったりと海外初心者の俺はまるで小学生が遠足に行くような感じだったよ。



成田空港からのフライトだったので、前日の高速バスで仙台を夜中に出発した。



成田に朝5時頃着いて・・・午後1時のソウル行きの飛行機に乗った。



安達さんと名古屋のショップの二人とはソウルで待ち合わせだったと思う。



名古屋のショップの人はあの頃、爆発的だったNIKEのシューズが目的で、エアマックス、エアジョーダンが飛ぶように売れていた時代だった。



とりあえず、韓国の金浦空港に着いて二人と初めて会った。



安達さんとは電話はしていたものの、会ったことがなかったので韓国で初めて会うというのも不思議な気分だったね。



名古屋のショップの人は細身で長い髪を結んでいてカッコイイって感じの人だった。



安達さんも小柄でキュートな感じの女性で素敵だったね。



そんな初めて会う二人は俺に凄く気を使ってくれて、ありがたかった。



ホテルにチェックインして、すぐにその街のお店を物色しに行った。



その頃のレートは100円→740ウォンって感じだったと思う。



シルバーやレザーなんかもかなり安くて・・革のウォレットコードが流行りはじめた時期でもあって、名古屋のショップの人はかなり仕入れていた。



俺は生地や工場が目的だったので仕入れはしなかった。



スカジャンなんかのお店もあって・・・憶えのある日本のブランドのスカジャンが飾ってあったお店で「スカジャン、作れるよ」なんて言ってもらったんだけど・・・夏だったのであきらめたね。また冬にスカジャンをリリースする予定でもあればまた来ればいいって思った。



そんな感じでお店を周り、俺は頭の中を整理してジョニースペードでどのお店で何を作ろうか?なんて考えていて。



考えてたら夜になってしまって・・どこにも何も頼まずじまいで終わった。



夜は三人で焼肉を食べて・・その後、夜12:00からチャーさんという安達さんの仲の良い生地会社の社長が俺達をナイトマーケットに連れて行ってくれた。



凄い商品量とお店の数だったんだけど、レディースの商品量が圧倒的でジョニースペードにはあんまり関係ない感じではあったね。



10何年前の話だから、今は違う感じなんだろうけどね~。



チャーさんは凄く良い人で、ジョニースペードのロットの少なさでもオリジナルを考えても良いなんて言ってくれてありがたかった。



次の日はまたアクセサリー、レザーなんかの工場や生地の工場をチャーさんに紹介してもらったと思う。



その工場で俺はフェイクファーのショートパンツを作りたかったので、かなり吟味して黒のファイクファーと豹柄のフェイクファーを仕入れたと思う。



結局、今回の韓国はこのフェイクファーの仕入れだけで俺は終わり。



名古屋のショップの人はかなりの仕入れをしていて、スニーカーも山盛りだった。レザーも一枚大きいのを仕入れて俺に財布を作ってくれるって言ってくれてね。



作ってくれた財布は後日、本当に俺の元に届いた。今も大事に持ってる。



安達さんはチャーさんと仲が良いのでいつでも生地サンプルを送ってもらえるみたいで、あまり何も購入しなかったと思う。



・・・翌日、朝一の飛行機で俺だけ先に帰ることになっていたので、朝から早々に二人にお別れを言って韓国を出発して・・・成田空港に着いた。



何もオチがない旅行話になってしまったけどね(笑)。



また機会があれば、韓国は行ってみたいと思ってます。


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韓国に行ったり、東京で生地を探したり・・・あの頃のジョニースペードはいわゆるインディーズブランドのテイストが非常に強かった。



時代的にはAPEやアンダーカバー、グッドイナフなどのブランドが人気で、裏原宿系のブランド、下北沢系のブランドが雑誌を賑わせていた。



ジョニースペードは相変わらず全国のロックアパレルショップ、バイカーショップ等のマイノリティなショップに取り扱ってもらっていて、俺は小さなマンションの事務所で一人頑張っていた。



梵字、不動明王、釈迦、龍のデザインが売れていた時期でもある。マリアやキリストモチーフもこの頃からジョニースペードではリリースしてるね。



梵字や不動明王に関してはウエアがお守りとなって、買ってくれた人を不吉な事から守ってくれるといいなぁ・・なんて気持ちでリリースしていた。



このシリーズは凄く売れていたんだけど、俺はすでに次のシリーズを試行錯誤していたと思う。



案の定、量販店にも和物、梵字、龍なんかのモチーフを使ったTシャツが並び始めていて、ジョニースペードとしては次の段階に行かなければならなかった。



1997年辺りは「SUPER SONIC STYLE」と銘打って、梵字関係のシリーズからの脱却を試みていた。



ピンストライプを取り入れ、ホットロッドカルチャーをジョニースペードに取り入れていったり、IGA(L.Aのグラフィティチーム)のCOOZにグラフィティロゴを描いてもらったり、グランジテイストな最新型パンクロックを提唱したりしていた。



前にジョニースペードは「ローリングストーンズ理論」と書いたことがあったと思うけど、これは俺の親友がジョニースペードや俺を分析してくれて言われたんだけど、確かにそうだなぁ・・と納得してしまった。



ストーンズはデビューアルバムでチャックベリーやマディウォーターズの黒人のロックンロールやブルースを取り入れていて・・・自分達のフィルターを通して表現していた。ミックもキースも白人だけど、黒人のブルースに憧れ、尊敬を持ってプレイをしていたんだと思う。



70年代に入ってストーンズはディスコが流行ってくればディスコテイストの「ミスユー」、パンクが流行れば「ハングファイヤー」って曲をリリースしたりしていた。



ストーンズのフィルターというものができているから、何の音楽のジャンルを取り入れてもストーンズのオリジナルにしかならない。それが俺には強烈にカッコイイし、ストーンズのアルバムで時代を感じる事ができる。



ジョニースペードもパンク、ロカビリー、チカーノ、タトゥー、50’S、モーターサイクルなど色んなアウトサイドカルチャーをジョニースペードフィルターに入れて表現していて、いわゆる「ローリングストーンズ理論」に当てはまるカスタムブランドだと思う。



個人的な意見なんだけど、もともと日本は外国の文化などを日本人向けにアレンジするのが得意な人種だと思う。



料理だって、音楽だって、ファッションだってそうだしね。日本人はルーツから影響を受けてオリジナルスタイルにするのが得意な人種なんじゃないかなぁ~と俺は思ってる。



1997年辺りからそんな「ローリングストーンズ理論」的なジョニースペードのスタイルは固まってきたと思う。



この時代のジョニスペはお洒落だったなぁ・・と今、昔の資料を見ると思うね。



料理の仕方は最新のブランドと同じ感じなんだけど・・・テーマが違うって感じ。



しかし、今、見ても・・・テーマがBADなものばかりってのがジョニースペードっぽいわ。


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前回、話したとおりの「ローリングストーンズ理論」であらゆるアウトサイダーカルチャーを取り入れた雑食性のジョニースペードの売上は安定していった。



しかし、売上が上がれば、生産量も増えるので支払いの額も大きくなっていく。



俺の生活は相変わらず苦しく、ただ自分のルールに沿って色んなカルチャーを料理して、ジョニースペードに落とし込むことだけが唯一の自分の存在意義のように思えていた。



今もだけどね。



デザインと支払い、人間関係のストレスは俺をいつでも苦しませる。商売やってる人はよく理解できると思うけど。



でも自分のやりたい仕事をやれてるだけ、そのリスクは受け入れなきゃいけない。



その頃の俺はストレスがマックスになってくると、いつも気晴らしに街をブラブラと歩いた。



仙台のアーケードを歩いてる人を眺められる二階の喫茶店なんかで、ボーっと歩いていく人達を眺めるのが好きだった。



色んな人達のファッションを見ながら、次のジョニースペードのデザインのヒントを探したり、社会における自分の立ち居地というのを考えるには格好の場所だった。



ネクタイの曲がったサラリーマン




派手なメイクをした女子高校生




夕方から出勤の水商売の女性達




ヤクザもどきのヤンキーくずれ




色んな人達が歩いてるし、自分の人生を一生懸命生きてる。



俺はその頃から決まった友達としか会わなかったし、どんどん自分の殻に閉じこもるようにもなっていた。



俺は殻に閉じこもっていた方が色んな情報や人間が入ってこないので、より本当の自分でいられた。



だから、この頃のジョニースペードは非常にバイオレンス且つ暗い。



版画で女性が悪の獣にレイプされてるんだけど、そこから抜け出さない女性をテーマにした「バイオレンス」



暴行を皆の前で受けた血まみれの女性の写真とその後に「何故、助けなかったの?」と周りの人達に叫ぶ物語をテーマにした「I HATE EVERYBODY」



深い森の中に自殺に行く男の話をテーマにした「THE END」



あの頃は人の心を残酷に揺らす現実をテーマにした「感情」の商品を作りたかった。



そんなストリートブランドはないだろ?みたいな感じでさ。



この頃のジョニースペードはより文学的で刹那的な感じだったと思う。ロックンロールから遠ざかっていた感があったね。エモーショナルコアブランドみたいなのを目指していたと思う。



この頃にINNSANITYの1stアルバム「BILLY THE RIPPER」を発売したと思う。



俺たちの思うハードボイルドロックンロールを真空パックにして「弾丸ロック」と称して全国のジョニースペード取扱店、CDショップで流通させてもらった。



俺はガキの頃からずっと買っていた「DOLL」にサンプルを送らせてもらった。返却はいらないからその頃、編集長だった森脇美貴夫さんにCDをプレゼントしてほしいってDOLLの編集部の人に手紙を添えた。



何日か後・・・事務所に電話が来た。電話に出ると



「あの、半沢君かい?」



「はぁ、どなたですか?」



「DOLLの森脇です」



「えぇ?!」



俺はビックリして大声を上げてしまった。

 


これを読んでるみんなだって自分の尊敬してる人や憧れてる人から電話が来たら、驚くでしょ?


 

森脇さんは俺の憧れだったんだから。



森脇さんは俺の書いた森脇さんへの手紙と一緒に送ったジョニースペードのTシャツのお礼で森脇さん直々に電話をしてきてくれた。



俺は森脇さんは大御所なのに、なんて義理堅くてカッコイイ人なんだと思った。



その電話で本当に色々な話を森脇さんに聞いてもらって・・・それから森脇さんは俺を気にかけてくれて何度か電話をくれていてね。



そして遂に森脇さんが仙台に遊びに来るって話になった。

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森脇さんが仙台に来てくれるってことで俺はメディアや文学に強い伏谷という友達とともに仙台駅に森脇さんを迎えに行った。



待ち合わせの時間になって・・・周りを見渡すと長身で黒づくめのサングラスの男性が歩いてきた。



すぐに森脇さんだとわかって「森脇さん!」と声をかけたら口元に笑みを浮かべてくれた。やはり森脇さんだった。やっぱりオーラが人とは違うなぁ・・なんて思ったよ。



伏谷の車でまずは仙台観光!



青葉城の跡地や秋保の民芸の里なんかを周ったと思う。



森脇さんはパンク雑誌「DOLL」の編集長であって、俺が貪るように聴いていたバンド達のレコードレビューをほとんど書いていて・・・俺はいつも気がつけば音楽雑誌の森脇さんが勧めるバンドをチェックしていた。スタークラブやスターリンのアルバムのプロデュースも手がけたりしていた人でもある。



俺の記憶では・・・森脇さんの初期のレビューは非常にハードで文章自体にパンクロックのスピードを感じられる「動」って感じのレビューだった。



が、しかし森脇さんのハードなレビューはロンドンのポジティブパンクと言われたムーブメントを紹介しはじめた辺りから変化していったと思う。枯れた感じで「静」の魅力を増していった。



俺はその変化が衝撃でもあり、そんな森脇さんが知的でカッコよかった。俺もその影響でダークなポジティブパンクに夢中になっていった。



・・・そんな憧れの兄貴、森脇さんと車で一緒に走ってると思うと俺は嬉しくてたまらなかった。



森脇さんは古本が大好きなので仙台の古本屋巡りをしたんだけど、それが森脇さんにヒットしたらしく何時間もその古本屋から動かない(笑)。



俺は三島由紀夫の文学が自分の人生の書だと思ってるんだけど、森脇さんから「これ、半沢君、読んだ方がいいよ」と言われて永山則夫の本を勧められた。当然、俺は購入しました。



森脇さんに永山則夫の話を聞いたり、パンクロックの話を聞いたり・・・凄く恐縮でもあり、充実した時間だったと思う。



そして夜は俺、伏谷、そして森脇さんと三人で秋保の温泉に行った。



美味しい料理を食べながら、森脇さんと文学や音楽の話、精神論の話をするのは俺にとっては幸せの極みだったね。



そして、俺はかなり森脇さんに甘えてしまって、自分の不満を話し出してしまった。




「どんなにジョニースペードを頑張っても生活の安定は見込めない」




「俺の給料は周りの友達の給料に追いつかないし、ボーナスもない」




「どんなにカッコイイ商品を出しても、メディアの力を使わなければ売れない」




俺はその頃、すごく人生や仕事に焦っていた。早くジョニースペードというブランドを確立して、普通の生活を送りたいという気持ちが俺をイライラさせていた。



ジョニースペードをどんなに頑張っても人並みの生活ができない。



有名にもなれない。



バンドをやってもお金になることはない。



・・・そんな話を森脇さんに聞いてもらっていたと思う。



森脇さんは黙って俺の話を聞いてくれて、こう言った。



「半沢君、それ、一言で片付けてあげようか?」

 


「一言でですか?」と俺は聞き返した。



「受け入れればいいんだよ」と森脇さんは言った。



俺は意味が解らず・・・「受け入れるというと・・?」とまた聞き返した。



「半沢君はジョニースペードで生計を立てたいとか、人並みの給料が欲しいとか、ブランドとしてこういう風になりたいっていう理想があるでしょ?」と森脇さんは言った。



「はい」と俺は答えた。



「その理想は半沢君が勝手に自分で決めてるだけで、別に半沢君がそれを決めなければ苦しまないんだよ。誰かが半沢君にそれをやりなさいって言ってるわけじゃないでしょう」と森脇さんは話を続けた。



「自分の理想というか、「こうなりたい」とか「こうでなければならない」とかの理由が自分の首を絞めてると思わないかい?話を聞いてると半沢君は半沢君の理想にならないから苦しんでるわけだよね?そのロープを捨てればいいんじゃないか?理想を捨てればいいんんだよ。自分の今を受け入れてないから苦しむんだよ」と森脇さんは言ってくれた。



俺はやっと森脇さんの言葉に気づいた。そして何か縄みたいなものがゆっくり外れていくような気がした。



森脇さんの言葉は俺を救ってくれた。



今でもたまにこの言葉に救われる。



俺は森脇さんのおかげでそれから「将来はこうなろう」とか「こうしなくちゃならない」とか考えなくなったし、周りの人と自分を比べるのはやめた。



今の自分を受け入れて「俺は俺にしかなれない」と思うようになった。



人生、色々と理想はあるけどね、なれないもんはなれないんだよ。



例えれば、何かファッションの流行があって、自分の苦手な分野の流行なのに俺がそれを真似して商品を作ったとする。



それが凄く売れたとして、俺はその流行が終わったら次は何を作ればいいのか解らなくなると思う。



もともと自分に嘘をついて、自分の流れに合わない商品を作ったんだから解らなくなるのが当たり前だよね。




俺はそんな森脇さんのその言葉と会話がまだ耳に残ってる。

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森脇さんと伏谷との温泉は非常に楽しく、有意義な時間となっていた。


 

次の日は秋保の近くにある杜の湖畔公園に三人で行ってみた。



そこは花や木々の自然に囲まれた公園なんだけど、東京に住んでる森脇さんに少しでも癒しになればいいなぁ・・・なんて思ってね。



森脇さんはその地域の歴史や文化を知りたがっていて、俺なんかは地元なのに全然わかってないので説明ができない。



伏谷は仙台文化に詳しい人なので森脇さんに色々と説明してくれていた。伏谷が居てくれて助かった。



そんな自然が溢れる公園を森脇さんと色んな話をしながら、散歩していて、俺がまた森脇さんに甘えて愚痴を言った。



「この間、お袋と話していて「老後は面倒みてくれ」なんて笑いながら言われたんで俺は「今だって金銭的にキツイのに無理だよ」って言ったんですよ」



俺は自分の心に引っかかってるお袋との話を森脇さんに話し出した。



森脇さんは少し間を置いて



「半沢君、そんな時は「老後は面倒みてやるから」ってお母さんに言わなくちゃ」と言った。



「だって、将来お袋を面倒みれないと嘘になってしまうじゃないですか。期待されても困るし・・・」と俺は言った。



「言ってよい嘘ってのもあるんだよ。半沢君が将来のその時、お母さんを看れなくてもいいんだよ。そんなことはお母さんだって期待してないし、わかってるよ」



森脇さんは話を続けた。



「今、半沢君のお母さんが老後に不安を持っているとして「金銭的に無理。面倒看れない」って半沢君が言えば、今のお母さんの気持ちはもっと不安になるんじゃないかな」



「わかった。面倒看るよ」って半沢君が言えば、今のお母さんの気持ちは楽になってポジティブになると思うよ。今のお母さんの気持ちの不安を取り除くのなら、そう言ってやれ。半沢君だって将来のその時、金銭的に余裕があればお母さんの面倒看るわけでしょ?嘘になるか、ならないかはまだわからないじゃないか」



森脇さんは俺にそう言ってくれた。



俺は言葉にしたら嘘になってはいけないと思うタイプだからね。



確信が持てないことは言ってはいけないと思ってたんだけど、確信が持てなくても自分でそれを言葉にしてそうなるように最大限に頑張るというやり方もあるという事を森脇さんの話から学んだ。



何でもそうだけど最大限に努力して、そうならなかったら「そういう運命」なんだわ。仕方がない。



でも最大限に努力すればそこに近づくことはできる。努力しないよりは近づけてる。



森脇さんはいつも俺の悩みを一言で解決してくれる。本当に俺にとっては大事で尊敬できる人だ。


 

もちろん、パンクロックや音楽の話も沢山聞かせてもらった。



ボブマーリィーのライブは音が凄く小さいらしく・・お客さんはボブの言葉や声が聴きたくて、ステージの前の方に押し寄せた・・なんて話は面白かったね。



まぁ、そんな感じで森脇の兄貴との濃い時間もあっというまに過ぎてしまい、森脇さんは東京に帰ってしまった。本当に楽しかったし、森脇さんとの出会いは俺の人生のターニングポイントでもある。



今でも森脇さんとはたまに電話で話したりしてね。俺は幸せもんですよ。感謝してます。



でも、元DOLL編集長の森脇さんとジョニースペードの俺が公園を歩いて、自然を眺めてるなんて不思議な光景だよね。



人間っていうのは表のイメージの他にまた色々と違う面もあるんですわ。


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森脇さんと出会った時期を思い出して・・ジョニースペードはどうだったかというと・・・TATTOOデザインを取り入れ始めた時期でもあるとは思う。



TATTOOデザインは個人的にはアートだと思ってるし、デザインに色んな意味もある。それを理解して身体に刻む人もいれば、憧れで入れる人もいるしね。色んな考え方はあるけど俺は個人の自由だと思ってます。ちなみに俺はトラディショナルスタイルのデザインが好きで夢中になっていたよ。



トライバルのスタイルもクールでカッコイイし、和柄も当然、カッコイイんだけど・・ロカビリアンが入れてるTATTOOはトラディショナルスタイルが多く、俺はそれに惹かれてた。



1998年のそんな中、俺は昔からの取引先の社長さんから「アメリカからTATTOOアーティストが来てくれるんだけど、会ってみないか?」と言われて、幸運にもその二人と会えることになった。



その二人とは今、全米ナンバーワンTATTOOアーティストとも言われてるMr.CATOON氏とチャーリーロバーツ氏であった。



俺は当然、Mr.CATOON氏のスタイルも好きなんだけど、チャーリーロバーツ氏のトラディショナルスタイルがその時期の俺にドンズバだった。チャリーロバーツ氏とCATOON氏と社長さんと4人で食事をして・・その時にチャーリーロバーツ氏にお願いして、ジョニースペードに何作か描いてもらった。



チャーリーロバーツ氏はあのスポットライトタトゥーのボブロバーツ氏(ブライアンセッツァーのTATTOOの何点かもボブロバーツ氏が彫ってるとのこと)の息子でもあって、素晴らしい才能を持っている。ジョニースペードはウッドベースがスカルになった「ウッドベーススカル」とスカル&クロスの「ロカビリー」をチャーリーロバーツ氏に描いてもらった。



この二点のデザインはあの時期のジョニースペードの代表作でもある。



その後、そんなチャーリーロバーツ氏との幸運な出会いを作ってくれた社長さんが、「今度、新しい店をオープンさせるんだけど・・一緒にアメリカに行って仕入れを手伝ってくれないか?」と誘ってくれた。



ギャング系のお店の社長さんで、俺は昔からその社長さんと仲が良い。ジョニースペードも取り扱ってもらっていた兼ね合いもあり、俺は一緒にアメリカに行く事にした。



この社長さんは男気があり、度胸もある人で「もし、半沢さんに何かあれば俺が命張って守りますから」なんて泣かせる言葉を言ってくれる人でもある。そして・・・この言葉は嘘じゃない男だという事も俺は十分承知してる。



その社長さんが言うには「今度のお店はギャング系ではなくて、セレブリティな感じのL.Aを表現したい」とのことだった。意外には思ったけど、ギャング系のお店はもう経営してるわけだし、新しい感じでいきたいんだなぁ・・・なんて俺は思ってた。



出発の日、朝6:00から二人で車を飛ばして成田空港に行った。



俺と社長さんは飛行機の中で、自分達の昔話やアウトサイドカルチャーについての話なんかで盛り上がったり、社長さんの新しい店の構想を聞いたり、ジョニースペードの今後を俺が話したりと二人は話しっぱなしだった。



9時間くらいのフライトでL.Aに着いたと思う。俺は初めてのアメリカでワクワクしていた。



が、最初からトラブルが続出した。



ロサンゼルス空港で社長さんが係員に止められた。何か二人で英語で話してるんだけど・・と思っていたら係員に「死にたいならここから先に進め」と言われたらしい。



社長さんは全身TATTOOだらけなんだけど、入ってるTATTOOが問題あるTATTOOだったらしい。



半袖&ハーフパンツだったしね(笑)。しかし、社長さんは全然気にする事なく「半沢さん、行きましょう」なんて感じで笑顔だった。



俺達は空港から出て、近くのレンタカー会社から車を借りる予定だった。そこはいつも社長さんがロスに来るたびに利用しているところらしい。



で、そのレンタカー会社に行って、車を選んで、さぁ、行くぞってところで今度はレンタカー会社の人に止められた。



社長さんとレンタカー会社の人がモメてたんだけど、原因は前回、社長さんが来たときに駐車違反かスピード違反をしていたらしく、社長さんはそれを知らずに罰金を払わないで日本に帰ってしまったってことで、その請求書がそのレンタカー会社に来ていたらしい。



レンタカー会社の人と社長さんが話が終わって二人で車に乗り込んだんだけど、社長さんは「半沢さん、スイマセン。最初にビバリーヒルズコップに行かなきゃいけなくなりました」って笑顔で言った。



結局、L.Aに着いた途端にビバリーヒルズの警察署に行くことになってしまった。



ビバリーヒルズ警察署の中は凄く綺麗でホテルのようだったと記憶してるよ。そして順番が来るまで何時間か待って、支払いを終えて、やっと自由のみになりました(笑)。



一抹の不安を抱えながら・・・俺と社長さんのL.Aの旅が始まった。

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そんな感じで俺と社長さんの珍道中が始まった。



目的は社長さんの新しい店舗の仕入れだったので、俺はバイヤー役に徹した。



まずはマックスフィールドというお店に行った。



この時代は日本ではクロムハーツがブレイクしてきた時期だったので、俺はクロムハーツを社長さんの新店舗に導入したかった。



マックスフィールドは今で言うセレブリティな店で・・・俺たちは場違いな感じ。



その店の大きなガラスケースにクロムハーツがズラッと並んでいた。



ウォレットチェーンなどは金額が高くて売りにくいと思っていたので、リングとペンダントトップなんかを社長さんに仕入れしてもらった。もし、店でクロムハーツが定着するようであればその時に単価の高い商品を仕入れればいいと社長さんにアドバイスした。



マックスフィールドにはローリーロドキンゴシックなんかも置いてあったんだけど、クロムハーツのみの仕入れで終わらせた。



実はそこに無名のダイスのウォレットチェーンが置いてあって・・・俺は帰り道で凄く記憶に残っていた。それは仕入れしなかったんだけど、シルバー925のわりに価格も手ごろで買っておけばよかったなぁ・・なんて思ってた。



その何ヵ月後、日本に帰ってそれにインスパイアされたジョニースペードのダイスチェーンを作ったんだけど、本当にメチャクチャ売れた。2~3ヶ月はそのチェーンのみで生活が成り立った記憶がある。



マックスフィールドを後にした俺達はメルローズに行った。



メルローズは色んなお店があって楽しかったんだけど、なかなか仕入れられる商品がなかった。



日本で見たような商品ばかりであまり目新しいものは無かったね。



ゴシックのお店やレザーアイテムの店、雑貨なんかも物色したんだけど、社長さんの新しい店舗のコンセプトに合うものはなかった。



俺の記憶に残ってるのはインディアンジュエリーのお店で、そこは圧巻だった。お店自体が重々しい雰囲気でインディアンの大きな写真なんかがパネルになっていて、上品な女性がインディアンの歴史をゆっくり俺に説明してくれていた。



単語や雰囲気で何となく俺にも理解できていた。セージの香りが店に漂っていて、外とは別世界の空気を作っていた。ターコイズなんかも大きくて、当然人工ではなく天然石で一つ一つに迫力があったのを憶えてる。



その女性は俺達に優しくしてくれたんだけど、ここもまた社長さんの新店舗のコンセプトに合わない感じだったので何も仕入れはしなかった。



メルローズを後にして、ヴェニスビーチに俺達は向かった。



車で走っていて、スケートボードが飾ってあるお店を見つけたので、俺達は車を停めてそこに入ることにした。ここは新店舗の仕入れというよりは俺の個人的な趣味だね。



入ってみたら、そこはあのブルドッグ氏のお店だった。ブルドッグ氏はヴェニススケートカルチャーを代表するブランド ドッグタウンのデザインを描いたりしている人なんだけど、俺はこの偶然に歓喜した。



俺がコレクトしてる古いドッグタウンTシャツのデザインはブルドッグ氏デザインのもので、そのデザインを描いた人の店に偶然にも入ってしまったわけだから、当然俺は興奮しまくりだったね。



その店は天井が高くて、古いスケートデッキが高いところからズラッと飾られていた。トニーアルバの写真なんかも飾られていて・・・俺はその迫力に圧倒されていた。



すると奥から、少し小柄で精悍な顔をした男性が出てきた。名前を聞いたら・・・その人がブルドッグ氏だった。俺達は新店舗の仕入れの為に日本から来たということと、俺がジョニースペードというブランドを日本でやってること等をブルドッグ氏に説明した。



ブルドッグ氏は凄くフレンドリーで優しかった。ドッグタウンのイメージとはまた違う人だった。



色々と話をさせてもらってたら、もうすぐブルドッグアートというブランドをやるって話をしてくれた。そしてブルドッグ氏が指を差したところにスケートボードが5~6点置いてあった。



そのスケートボードのアートワークはブルドッグアートと手書きで描いてあって、物凄いオーラを放っていた。俺は一点づつ見入って感動していた。




そんな俺の様子を見た社長さんがブルドッグ氏に「このスケボー、売ってくれませんか?」とブルドッグ氏に言った。



俺は「エッ!」みたいな感じで驚いて社長さんの顔を見たんだけど・・・社長さんは相変わらずの笑顔でブルドッグ氏を見つめてた。



ブルドッグ氏は難色を示し、「NO・・SORRY」みたいな感じで。



俺達はやんわりと断られた。そりゃ、そうだ、ブルドッグアートという新しくやるブランドのサンプルなわけで、手書きのスケボーだもの。



俺達は「OK,OK」みたいな感じで、他の商品を物色しようって話になって・・・店の他の商品を見はじめた。・・・ブルドッグ氏は奥の方に戻ってしまった。



俺はブルドッグ氏が気を悪くしたんじゃないかと心配で、奥から戻ってきたら「失礼なお願いをしてしまって申し訳ない」と謝ろうと思ってた。



ブルドッグ氏は2~3分で戻ってきて、俺が謝ろうと思ったら「OK! 」って言って、笑顔で手書きのスケートボードを指差した。



ブルドッグ氏は手書きのサンプルスケートボードを俺達に譲ってくれる気持ちになってくれたらしい。



社長さんが「半沢さん、ブルドッグ氏がOKって言ってくれましたよ!」って満面の笑みを浮かべてた。俺は「大丈夫なんですかね?これ、大事なサンプルなんじゃないですか?」って言って。



社長さんがブルドッグ氏に改めて確認をとったら「大事だけど、お前達だったら売ってもいい」ってブルドッグ氏は言ってくれた。



俺達は大喜びでそのスケートボードの前に行った。あまりにも素早く俺達がボードの前に行ったのでブルドッグ氏も大笑いしてた。



ブルドッグ氏の手書きのボードの中で一枚だけカラーが入ってるスケートボードがあって、俺はそれがどうしても欲しかった。キャディラックのマークをアレンジしたもので、ブルドッグ氏のアートが俺から見て一番感じられるものだった。



俺は「これ!」って指差したら・・ブルドッグ氏は悩みだした(笑)。ブルドッグ氏の一番のお気に入りのスケートボードだったらしい。俺は「スイマセン!じゃあ、他のにしますから」と言って、スカルデザインのにしようとしたらブルドック氏が思い立ったように「OK! OK! HANZAWA!」と言ってくれて、そのお気に入りのスケートボードを俺に差し出してくれた。




俺は「本当に?いいの?」とブルドッグ氏に確認したら、笑顔で「OK!」って言ってくれた。


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俺達はブルドッグ氏のお店を出た後はレドンドビーチにあるホテルに直行した。



車で色々行って、モーテルに泊まるのも考えてたんだけど、今回の滞在はこのホテルを基本に動いた方が楽だったので、滞在中はこのホテルにずっと泊まってた。



夜は近くのスーパーマーケットに行って、ファットバーガーを食べたり・・次の日の予定を立てたりして寝ました。



次の日の朝はメキシコに行こうってことで、早起きしてメキシコにGO!



パームツリーが並ぶハイウェイは本当に雰囲気があって気持ちが良かったよ。



国境の近くに車を駐車して、アメリカからメキシコに行く国境を歩いて越えた。念の為、俺はウォレットチェーンなんかはポシェットに入れて、無地の黒のTシャツにしていた。



ウォレットチェーンなんてしてると「財布はここにありますよ」なんて主張しているようなもんだから。俺はなるべく面倒にはならない格好をアメリカではしていたと思う。今はアメリカに行ってもそんなに神経質にならなくてもいいかもしれないけどね。



国境のガード?みたいな道を少し歩いたら、すぐメキシコに着いてしまった。着いたのが朝8:00でショップなんてどこも開いてない。



社長さんと適当に散歩しながら看板をチェックして、行くお店なんかをマークしながら店が開く時間までブラブラしてた。



朝10:00頃になると、車も多くなってきてお店も開いてきた。車に関しては信号や車線なんて意味がないって感じでどの車も適当に走ってたね。



お店もある程度営業しはじめたので、まずは俺がブーツが欲しいってことで靴屋に入った。俺はレッドウィングとチペワは10足以上持ってるんだけど、無名のローバーブーツかペコスが欲しかったんでね。



お店に入るとブーツがギッシリ並んでいて、俺はワクワクしながら物色していた。トニーラマとかよりは無名の無地のペコスブーツのようなものを探していたんだけど、見当たらなかった。



店主に声をかけて、ボディランゲージで「こんな感じで・・こんな風な・・」なんて説明してたら、奥から茶色のブーツを出してきてくれた。俺は「この形で黒が欲しいんだけど」って言ったら「OK!一時間後に来てくれ。探しておくから」と言われた。



社長さんはブーツにはあまり興味がない人なんだけど、「半沢さんと一緒に見てたら、俺も欲しくなっちゃった」ってことで社長さんのも一緒に頼んで、メキシコを出る時間辺りにまた来ることにして、靴屋を出た。



その日は日曜日かなんかで・・社長さんが楽しみにしていたマリアッチが道には出てなくて、社長さんは残念がってたんだけど、歩きながら見つけた雑貨屋なんかを物色して、シルバーやマリアグッズなんかも仕入れした。



お昼になって、何か食べようって話で・・・表通りは観光客用の飲食店が並んでいて価格も高めだったので、裏通りのタコス屋に入った。そのお店のお客さんたちがTATTOO入ってる率が高くて、ウケたね。とりあえず俺達はそのお店で隣りのTATTOOだらけのおじいちゃんと談笑しながら、チキンの丸揚げとビーンズ、タコスを食べた。5ドルくらいで安くて美味しかったよ。



メキシコの仕入れも終わったので、帰りに靴屋に寄った。二人分のピカピカの黒いブーツが用意してあった。日本円で8000円くらいだったんで、俺も社長さんも「安くてよかったねぇ~」って言いながら購入した。俺にいたっては履いてたブーツから、そのブーツに履き替えて喜んでた。



実はこの話にはオチがあってね。



なんとこのブーツ、履いてるうちに擦れてきて、茶色の革になっちゃった(笑)。



結局、最初の茶のブーツに黒のスプレー塗られてただけだったという・・・やられたね。



まぁ、いいさ。



それから俺達はメキシコの国境を歩いて帰った。国境の近くの大きなアウトレットショップに立ち寄って、社長さんの新店舗の為にカルバンクラインなんかを大量に仕入れた。



駐車していた車に荷物を積んで、今度はサンディエゴにGO!



何故、サンディエゴかというと俺の古い資料でZORLACのカタログがあるんだけど、サンディエゴの住所が掲載してあったから、サンディエゴにZORLAC関係のウエアなんかがあるんじゃないかと淡い期待をしていた。



サンディエゴに着いて、まずはタワーレコードがあったので、バンドTシャツの仕入れ。それは社長さんの新店舗というよりはジョニースペードの取引先向けの仕入れだった。サイズがL、XL中心の品揃えなのであまり買えなかったね。日本ではS、Mの商品の方が売れるからね。ホワイトゾンビやラッシュ、エアロスミスなどパスヘッドデザインに限定して仕入れをしたと思う。



その後、LEVI'Sを見つけてバレンシア工場で復刻された501XXを仕入れ。その頃の日本はまだビンテージのデニムは高価で、ビンテージの復刻も発売していたんだけど日本製だけだったと記憶してる。MADE IN USAの501の復刻は発売されたばかりで社長さんの新店舗には必要だと思って仕入れを勧めた。




次は古着屋を発見して、社長さんは古着は新店舗には入れないって言ってたので、ジョニースペードの取引先のみの仕入れ。あまりこれといったのは無くてね。またパスヘッドデザインのTシャツのみの仕入れ。ここの店員にZORLACの事を聞いたんだけど・・「ZORLACって何?」と聞き返される始末。



スケートショップにも行って聞いてみたんだけど・・誰もZORLACを知らなかった。クリーチャーなんかを勧められたんだけど・・予算も決まってるので仕入れはしなかった。



サンディエゴで昼食。ホットドッグを食べたんだけど、あまりに美味くて4本くらい食べまくった。またもや店員とボディランゲージでお話しながら食べた。



俺、英語話せないんだけどね。



そしてその後、またもやヴェニスビーチ!



前日のブルドッグ氏のショップの近くにスイサイダルタトゥーがあったのでそこに行った。スイサイダルテンデンシーズのウエアの仕入れは社長さんの新店舗ではないギャングスタイルのお店とジョニースペードの取扱店舗の仕入れって感じだった。



スイサイダルタトゥーは真っ白で非常に垢抜けた清潔感があった。彫師が何人かいて・・俺達を歓迎してくれた。社長さんはスイサイダルタトゥーではウエアの仕入れのみで彫る予定じゃなかったんだけど、他の人が彫るのを見てたら我慢できなくなってTATTOOを入れることになった。



社長さんは足にあのスイサイダルテンデンシーズの特徴のあるアートワークを入れることになった。その間、俺は社長さんの分も含めたウエアの仕入れをしたりしていた。


何時間後、俺の方の仕入れも終わり、社長さんも足にブラック&グレイでTATTOOが入った。社長さんはまたもや笑顔だ。結構、疲れてると思うんだけど本当にタフな人だと思う。



そんな感じでスイサイダルタトゥーに何時間も居たんだけど、すでに日が暮れてきた。



そしたら!なんとスイサイダルタトゥーの代表、ジムミュアー氏が登場した。



オリジナルZ-BOYS、スイサイダルテンデンシーズのマイクミュアーの実兄だ。俺はもう歓喜の嵐だった。



社長さんにTATTOOを彫った彫師さんが日本から来た俺達についてジムミュアー氏に説明をしてくれていた。



ジムミュアー氏と俺達は握手を交わし、スイサイダルのウエアで日本に入ってない商品の説明をしてくれたりしてくれた。



ジムミュアー氏は大きな人で190cmくらいあるんじゃないだろうか?スイサイダルタトゥーのスタッフ達もみんな大きくてカッコよかった。



黒のTシャツ、ディッキーズ、ボールチェーンのウォレットにバンズのスニーカー・・ほとんどのスタッフがそんな感じの格好だったと思う。



スイサイダルのマイクミュアー氏も夜に来るって話で、「待ってたら?」なんてことも言ってくれたんだけど、スケジュールの都合で俺達は夜まではヴェニスにはいられなかった…残念。



時間が来てしまい、俺達もホテルに戻るので仕入れたウエアの会計を・・って話になった。ジムミュアー氏は合計の金額を出してきて、俺達もキャッシュで支払うところだったんだけど、社長さんにTATTOOを彫った彫師さんがジムミュアー氏のところに足早に歩いてきて、何かジムミュアー氏に話している。俺と社長さんは顔を見合わせて「何だろう?」なんて思ってた。



ジムミュアー氏が「ウチの彫師が「こいつらは俺のTATTOOを彫った。仲間だからもっと安くしてやってくれ」って言ってる。だからディスカウントする」って笑顔で言ってくれた。



俺はそのスイサイダルタトゥーの男気に感動した。何てカッコイイんだって思ったよ。



ディスカウントとかのことではなくて・・その姿勢、スタイルに。男たるものこうありたいね。

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スイサイダルタトゥーからホテルに帰ってきた俺と社長さんは帰り際に吉野家を見つけたので、もう一度行ってみようってことになって吉野家に行ってみた。



アメリカの吉野家は味が全然違う感じだった。とろみがあって中華飯食べてるみたいだったよ。



次の日はスワップミートが開催してるという情報を聞きつけて、またサンディエゴに行った。



フリーマーケットみたいなもんなんだけど、何かあるかもしれないと期待して行ったんだけど・・・こちらの希望するようなものはなかった。俺はシルバーにターコイズが入ってるライターケースと無名のオーデコロンを購入したのを憶えてる。



どちらも非常に安かったんだけど、そのコロンがジャスミンの素敵な香りでよかった。もっと買っておけばよかったなぁ・・・。



その後は少し遠出をして、パシフィックビーチ~ミッションビーチに行ってみた。そこでサーフショップがあったので車を停めて中に入ってみた。



なかなか良い店で俺と社長さんはステューシーなんかを仕入れしてたんだけど・・そこにいるスタッフたちにはあまり俺たちに良い印象じゃなかったらしく、直感で不穏な空気が流れ始めているなぁ・・とは思っていた。



従業員とその仲間二人のアメリカ人が口々に「~ジャップ」や「~ファック」みたいなことをレジの前で言っていたと思う。俺と社長さんはそういう空気には敏感なんでね。「どうします?」なんて商品を物色しながら考えていた。



店の中には俺達しか客は居なくて、突然、店で流れていた音楽も消されて・・・。



やっぱり面倒なことになりそうだなって感じになった。俺達はアメリカが好きでアメリカのカルチャーも愛してるし、何も失礼なことはしてない。理由は色々あるだろうけど人種差別は良くないと思うぜ。



俺と社長さんは「んじゃ、行きますか」みたいな感じで度胸を決めて仕入れした商品をレジの前に持っていった。



レジの前の従業員は俺達が商品をレジの前に持っていってもレジを打たない。



レジの前の従業員がガムを噛みながら、こちらを見ていて沈黙が続いた。



その仲間二人が俺達を囲んでいて、どう考えても緊張感があって、モメる雰囲気になっていたと思う。



その三人が俺達を怪訝に思う理由は俺には分かっていたけど・・・まぁ、ここで書かなくてもいいことだ。



そこで社長さんは「俺、半沢さんに言ったじゃないですか、守るって。だから命張りますから」って言ってた。



でも、それは俺からすると逆でね。



社長さんに「いやいや、俺も社長さんを守りますよ」って言った。



日本語で二人で言ってるから周りは意味が解らなかっただろう。



三人のアメリカ人が口々に何か言い出して、大声になってきた。



俺達は意味が解らないよってジェスチャーをした。



一人のアメリカ人が空手の真似をやりはじめたよ。



俺は「体格も違うけど勝てるかなぁ・・・」なんて思いながらそれを見ていた。



そしたら、店のオーナーみたいな人が裏から出てきた。



俺は「あら~、一人増えちゃった。もう負けるな、こりゃ」なんて思った。



オーナーみたいな人は俺達のレジに置いた山盛りの商品を見て、いきなり笑顔になった。俺たちは日本から来たこと、新しい店舗の商品の仕入れをしていることをたどたどしい英語で説明した。



「OK!」。オーナーみたいな人はそう言って、周りの三人に何か説明をしていた。三人は納得いかない顔をしながら・・俺達の購入した商品をたたみはじめた。オーナーみたいな人は一枚づつレジを打ちはじめてくれた。



俺と社長さんはそれでもモードは崩さなかった。全部の商品の精算が終わって、店を出るまでは俺達は油断しなかったね。



商品を車に積んで、俺達は車を発進させた。



そこでやっと俺と社長さんは安心して「あれ、やっぱそんな感じでしたよね?」「そんな感じでしょう」なんて話し出した。とりあえず、何もなくて良かったよ。



俺はそこで購入したクリアフレームでミラーレンズのサングラスをして、帰り道のハイウェイのパームツリーを眺めながら社長さんと笑い話なんかをして、今度はアメリカとメキシコの国境の近くに住んでる社長さんの知り合いの日本人の家に行った。



凄く良い人で俺達に手料理なんかを振舞ってくれた。俺はアメリカに住んでるその人にアメリカに住むメリット、デメリットなんかを聞いていたと思う。色々と勉強になる話を聞かせてくれた。



俺はその話を聞きながら、自分の日本での環境と照らし合わせて考えていた。日本でお金や生活に苦しみながら生きてると人間として大事な物を忘れてしまうなぁ・・・なんて思った。



だからといってアメリカで生活できるかというと俺は日本でしか生活できないだろうなぁ・・とも思った。



結構、遅くまでそこに居て俺と社長さんは夜にホテルに戻った。


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次の日、俺達はホテルで朝食をとり、社長さんのギャング系の店舗の仕入れに車でダウンタウンに行った。



ダウンタウンに近づくにつれ、街の雰囲気が変わってきた。



人気が無くなり、ホームレスがたむろするような場面が数多く見られるようになってきた。街のいたるところにドラム缶が置いてある。



俺はそれをボーっと見つめながら夜になると火を燃やしてるんだろうなぁ・・・なんて思ってた。



ダウンタウンに着いて、まずは繁華街を歩いた。キッドクレオールが着てるようなズートスーツを売ってるお店があって、そこで社長さんは何着か仕入れしていた。ギャングスタイルの正装のようなことらしい。。社長さんの店のディスプレイで使うらしく、凄く派手なスーツを仕入れしたと思うよ。



その後、ディッキーズやベンデイビスの店に仕入れに行った。ワークシャツ、ポロシャツ、ワークパンツ・・・etcとかなりの量を仕入れしたと思う。俺はその商品たちを検品しながら段ボールに詰め込んだ。サイズはジョニースペードと違って、L、XL、XXLが中心でローライダーが好むような商品ばかりだ。ジョーカーなんかもかなりの量で仕入れしたと思う。



残念だけど、今はその店を社長さんは閉めてしまったんだけどね。



ギャング、ローライダーのマニアックな品揃えのお店だった。なかなか手に入らない商品が多くてリアルなL.Aを体現していたお店だったと思う。



社長さんの仕入れが終わり、「明日、日本に帰るし時間も余ってますから、半沢さんが行きたいところに行きましょう」なんて社長さんも言ってくれたので、俺はもう一度、マックスフィールドに行きたいんですけどって言って、メルローズにまた行くことになった。



マックスフィールドに着いて、俺はクロムハーツのハートのペンダントトップやコムデギャルソンのTシャツ三枚くらいを個人的に購入した。



仕入ればかりで自分の物なんて全然買ってなかったし、せっかくだから普段着ないようなブランドを買ってみたかった。



ダイスチェーンは最後まで迷ったんだけど、日本円で六万くらいだったので高いなぁ・・と思って諦めた。でもそのチェーンのスタイル、ダイスの数、その雰囲気を頭に叩き込んでた。



日本に帰ったら、こんな感じのウォレットチェーンをジョニースペードでリリースしたいって初めて見たときから思ってたからね。



あっという間に夕方になってしまい、俺と社長さんで今日で最後だから少し豪華な晩御飯を食べようなんてことになって・・・色々考えた末に何故か中華に行った。



それまでは朝食はホテル、昼、夜はファーストフードみたいな感じで仕入れの為に節約してたし、最後くらいはいいでしょうなんて感じで。



そのチャイニーズの店でフルコースを二人で頼んで、夜景を見ながらこの旅のことを二人で思い出して話をしていた。料理も美味しくて、このときに俺は社長さんとアメリカに来て本当に良かったなぁ・・・なんて思ったよ。



俺達はお腹も一杯になって、ホテルに早めに帰った。帰る準備をしなくちゃいけなかったからね。今まで仕入れした商品なんかを整理して荷物にまとめるのが、また大変で・・・何時間かかかって帰る準備もできた。



そしたら「あっ、ヤべー・・・俺、ココア頼まれてたんですよ~」って社長さんが言い出した。



「ココアですか?」と俺は聞きかえした。



友達にマシュマロ入りのインスタントココアを頼まれてたらしく、それは今、仙台でインポートの食品を扱うお店で普通に売ってるけど10年前は仙台では売ってなかった。



それを買いに行くって話で、ホテルの方では夜10時過ぎは危険だから外出しないようにとは言われてたんだけど・・・俺達は夜中に開いてるスーパーを探しに車で出掛けた。



レドンドビーチの近くのスーパーがまだやっていたんだけど、入り口にローライダーの車がボンガボンガいってて・・・車の上に黒人が三人くらい乗ってHIPHOPを大音量で流してた。俺達は車を駐車場に停めて、その前を通ってスーパーに入った。




俺はそのスーパーに入って非常にカルチャーショックを受けたんだけど、商品が通路に捨ててある・・というか投げてある。



見てると・・・商品を手に取ったお客さんはその商品を見たら、カゴに入れないで通路に投げ捨ててた。購入する商品はカゴに入れるって感じだった。



そのスーパーは黒人のお客さんが多いみたいで、ほとんど黒人だったと思う。俺達が珍しいらしく、俺はなにかと黒人の子供達が寄ってきて質問をされていた(笑)。



そこでお目当てのココアを4~5個購入して、ポマードでニューナイルも売ってたのでロカビリー時代を思い出して購入。昔はドライヤーで溶かして髪に撫で付けたりしてたんだけど1回のシャンプーじゃ流れない強烈なポマードでね。



ストレイキャッツの1stアルバムの裏の写真に出てるもんだから「ブライアンも使ってるんだ」なんて意地で使っていた時期があったね。

 


そのスーパーで芳香剤なんかも仕入れができたりして、俺と社長さんは雑貨なんかも大量に購入してホテルに戻ったよ。



ホテルの部屋で社長さんと暖かく超甘いココアを飲みながら、また談笑して、俺達はゆっくり寝た。



次の日の朝、ロサンゼルス空港に行って、次の日の午後に成田に着いた。



俺達は沢山の仕入れした荷物を、空港の近くの駐車場に停めてた社長さんの車に詰め込んで仙台に戻った。



本当に色々と楽しかったL.A旅行でした。社長さんには今でも感謝してるし、また一緒に行ければ行きたいなぁ・・・なんて思ってます。

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アメリカから帰ってきた俺は頭に残っていたダイスチェーンの制作に着手した。



本当はシルバーで作りたかったんだけどね、コストもかかるし、単価が高いと取扱店さんだって売りにくいと思ってシルバーのダイスチェーンは却下した。



ジョニースペードでリリースしたのはアルミキャストで作ったダイスチェーンだったんだけど・・これが飛ぶように売れた。



ダイスチェーンの相乗効果でスカルのコンチョウォレットなんかも売れていて、雑貨屋のような状態になっていたね。



その後にダイスの形のトランプチェーンやスターのアルミキャストを使用したスターチェーンなんかもリリースしたんだけど、これもヒットした。



以前の俺はグランジムーブメントの影響でネルシャツ、ボロボロの501、長髪、無精髭みたいな感じだったんだけど・・・この頃の俺はヘアスタイルをリーゼントに戻して、ゴールドのメッシュを入れてたりして・・聴く音楽もジャイブロカビリーなんかが中心になっていた。



ジョニースペードもネガティブで絶望的なモチーフ、梵字、宗教的モチーフが中心だったんだけど、ホットロッド、トラディショナルタトゥー、ロカビリー、モーターサイクルのモチーフとしたものにガラッと姿を変えていったと思う。



そんな中、SOBUTと出会った。



仙台でイベントがあって、INNSANITYがそのイベントに出演することになっていたんだけど、それは川村かおりちゃん、モトアキ氏、ブランキージェットシティーの中村達也氏がDJをするイベントで696の前身みたいなイベントだった。



INNSANITYのリハーサルが終わって・・・中村達也氏が入ってきて、ドラムを軽く叩いたんだけど全然音が違うのに驚愕したのを憶えてる。全バンド同じドラムセットなのに、中村達也氏の叩いたドラムはパワーとビートが強烈だった。そのイベントでは中村氏はDJだったので、ドラムを叩くのは2~3分で止めてしまったんだけど・・圧倒されたよ。



川村かおりちゃんは「CUTIE」にジョニースペードが掲載されて、すぐ電話をくれて通信販売で買ってくれていた昔からの知り合いではあったので、久々に会えてお互いの近況を話したりしていてね。



そこでSOBUTのモトアキ氏を紹介してもらった。



物凄いオーラとカッコよさがモトアキ氏にはあって、色んな話で盛り上がった。イベントの時間が来るまで仙台の街を案内して、ジョニースペードの取扱店なんかを三人で周った。



二人ともまだ自身のブランドのアンチクラスやロイヤルプッシーをやっていない時期だと思う。



そのイベントの何ヶ月後、SOBUTが仙台でライブをするってことでモトアキ氏から電話をもらって、俺はそこで初めてヨシヤ氏、ヒデ氏、ヨッツ氏のメンバーと会った。



男気があって気持ちの良い人達でね。



俺は非常に居心地がよく、楽屋にずっと居させてもらったりした。



リハーサルが終わって、メンバー達と談笑していたんだけど、いざ、本番って話になったらメンバーが全員、着ていたTシャツを脱いで俺がプレゼントで持っていったジョニースペードのTシャツに着替えてくれた。



そのままSOBUTのメンバーはジョニースペードのTシャツでライブをしてくれたよ。なんて義理人情があってカッコイイ男達なんだろうって思ったよ。そのライブ後、モトアキ氏と朝まで飲んだりして楽しかったね。



ヨシヤ氏とも親交深くしてもらってありがたかった。何年か前にヨシヤ氏にJOSHROCKとしてジョニースペードに絵を描いてもらってリリースもさせてもらった。凄い人気で即完売したのを憶えてる。



ヨシヤ氏はカリスマ的なオーラがあって、頭の回転も速いし、カッコイイし、と三拍子揃った人物でヨシヤ氏の現在のバンド、RADIOTSのCDはラウドミュージアムでも取り扱ってます。


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この時期は色んな人達と出会えた。



秋田でライブハウスのイベントがあったんだけど、MAD3と一緒にINNSANITYも呼んでくれて一緒にライブを演れたりもしたよ。



MAD3のメンバー達は気さくで優しかったんだけど、リハーサルのMAD3のド迫力に驚いた。エディ氏の太いギターの音とギターの上手さに「スゲェ~」なんて思って観ていた記憶があります。



ライブが終わって・・・打ち上げも楽しくて、社交性のない俺にエディ氏が話しかけてくれたりして・・ありがたかった。「俺、ジョニースペード持ってますよ」なんて言ってくれたり・・・凄く嬉しかったね。




その打ち上げで今、ラウドミュージアムの近くにあるdELVISの社長の金谷氏と初めて会った。「今度、仙台にお店を出すんですよ」なんて話をしていたと思う。



まさか何年後にそのdELVISの近くに俺が店を出すとはその頃、自分で想像もしてなかったよ。金谷さんも想像してなかったと思うわ。


 

この頃は結構、イベントやライブが多くて色んな人達に出会えていた時期でもある。



仙台のBEHIND THE SUNのイベントではバイオレントグラインドのクロ氏、USGROW氏の三人でライブハウスの前で色んな話をした時もありました。



その頃のジョニースペードはノッてる時期でリリースする商品は残さず売れていたと思う。この時期、ジョニースペードはオーリーやファインマックスなどのファッション誌でもピックアップされて掲載されたりしていた。西海岸、ROCKスタイルのファッションが少しずつ認知されてきた辺りだと思う。



俺は写真撮られるの苦手でね・・。何かとキャップを深く被ったり、サングラスをかけたりなんてしてた。この頃のジョニースペードはなるべくメディアに出ようとしていたね。昔の雑誌引っ張り出すと俺はいつでもサングラスだ。俺がメディアに出るんじゃなくてジョニースペードをメディアに出したかったんだよね。



雑誌に露出することはそれなりに効果もあってジョニースペードの売上も良くなっていった。露出することでジョニースペードを取り扱っているショップさん達にもお客さんが増えてプラスになっていたとも思うし、そうしなければ!と思ってたよ。



個人的にはメディアに露出しなくても、お客さんが自分のスタイルや自分の意志でジョニースペードの服を選んでくれるのが理想だけど・・・露出しなくちゃジョニースペードの存在自体、認知されないもんね。




そんな時期、ブランキージェットシティの照井氏と会える機会があった。




照井氏は皆様、ご存知ケルト&コブラというブランドもやっていて、このブランドは本当に何から何までカッコよかったと思うよ。発生から終焉まで照井氏の美意識が貫かれたブランドだったと思う。



俺は昔から仲の良いLUST FOR LIFEの社長さんと共にケルト&コブラの事務所に遊びに行かせてもらった。




事務所に入って・・・逆光の中、ソファーに座る照井氏は最高にカッコよかったね。丁度、ケルト&コブラの冬物展示会の時で新作が展示してあったんだけど素晴らしいコレクションだった。




俺達は照井氏やケルト&コブラのスタッフに凄く良くしてもらった。ビール、たこ焼き、ピーカンナッツなんかも出してもらって、俺はガンガン食ってた。




照井氏にINNSANITYのCDなんかもプレゼントしたんだけど、あまり音楽の話はしなかったと思う。俺みたいな小さなブランドにも同じ立ち位置からの話をしてくれて・・・工場の話、ロットの問題、商品の完成度の話なんかをしたりして・・・アパレルへの真剣でストイックな照井氏の姿勢が垣間見れたりして、凄く楽しかったね。




照井さんとの話の中で「じゃ、あとTシャツとシャツをプレゼントしますよ」なんて言ってくれて・・正直、俺に気を使った社交辞令みたいなものだろうなんて思ってたんだけど、仙台に帰ったあとにTシャツとシャツがケルト&コブラから送られてきたりして・・・男気と誠意を凄く感じた。



こんなに商品も姿勢もカッコイイブランドは他には無いだろうなぁ・・・なんて思ったね。

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そんな感じで・・・俺はジョニースペードを通して色々な人達と関わってきた。



全国のジョニースペード取扱店の社長や店長達にも随分と良くしてもらってると思う。



ジョニースペードはアパレルとしては特殊で毎月、新作リリースをするんだけど、基本的に何をリリースするかは取扱店さんたちは新作の荷物が届かないと何が入っているかはわからないという自己中心的なメーカーでもある。



普通は冬に夏物の展示会をやって、取扱店さんたちに注文をもらったり、カタログ(スワッチ)を発送して注文をもらったりするんだけど・・・ジョニースペードは16年間それをやったことがないと思う。今は簡単なカタログをリリースする前の月には何とか発送してるんだけど。



そういった意味でジョニースペードはアパレルブランドとしては不器用でダメなブランドだと思うんだけど・・・そんなウチを10年以上取り扱ってくれてるお店もある。



今から10何年前だと思うんだけど、俺は一人で福島の郡山に営業と名を借りたドライブに出かけた。郡山にカッコイイお店があるというので観にいってみようって目的だったんだけど。もちろん、ジョニースペードの商品や簡単なカタログも持っていった。でも図々しいのは嫌なので、なるべく営業はしないようにと思ってた。



そのお店は「JOB314」。



今では、その付近に何店舗も経営する大きな会社になってる。



俺は慣れない高速道路を走り、郡山に着いた。高速の出口からJOB314はすぐだった。



俺が行った頃はまだ小さなお店で、ただ置いてある商品や取り扱ってるブランドはカッコイイものばかりで、俺は仙台にあるショップよりも購買意欲が湧いたのを憶えてるよ。



レジの奥のところに俺の記憶が正しければブライアンセッツァーと肩を組んでるリーゼントの人の写真があった。



その写真のリーゼントの渋くカッコイイ人がレジに立っていた。それがJOB314の社長だった。



俺はその人に思い切って話しかけてみた。



「あの、仙台から来たジョニースペードというブランドをやってるものなんですが・・・」



JOBの社長は「おぉー、そう。じゃあ、話を聞くからこっちへおいで」と言ってくれた。



俺は舞いがってしまい、緊張したんだけど社長の後についていった。



横にアメリカンバスがあったんだけど、そこが事務所のようになっていた。その中にシートとテーブルがあって、俺は社長と向かい合って座った。



社長は「どれ?」なんて言ってくれて・・・俺は緊張しながら、ジョニースペードの商品とカタログを社長に見てもらった。



俺は「売れるはずがない」って思ってた。俺は営業したことがないし、それまで「取り扱いたいんだけど」と言ってくれるお店にしか行ってなかったから、営業の駆け引きなんかもできないしね。しかも「黒のTシャツなんて売れっこないよ」って仙台のショップなんかに言われていた時期だったしね。



ただ、このJOBの社長さんにジョニースペードの存在をわかってもらってアドバイスでももらえれば嬉しいななんて思ってた。



「これ、どんくらい今日、持ってきた?」 JOBの社長さんは俺に言った。



俺はたまたま全在庫を段ボールに入れていたので「全種類の在庫は今日、持ってきてあります」と答えた。



「わかった。全部、買う。」ってJOBの社長さんはあっさり言った。



俺は「エェー!」って驚いたんだけど・・・JOBの社長さんは真顔で「支払いはどうする?」なんて言ってくれて話はどんどん進んでいた。




この時は本当に驚いたし、嬉しかった。もちろん、今だってJOBの社長に感謝してる。



そして今もJOB314にジョニースペードは取り扱ってもらってる。もう10年以上だね~。俺はJOBの社長にいつか恩返しをしなくては!と思ってる。



JOB314と同じく、10年くらいジョニースペードを取り扱ってもらってるショップが長崎にある。



「MAKEOVER」。



昔の「スパイダーロック」というショップ名の頃からジョニースペードは取り扱ってもらってる。



俺はいつも新作やアイデアに困ると、MAKEOVERの松本社長に電話してしまうんだけど。



ストイックで冷静に商品や状況を判断してくれる人で、俺はいつでも頼りにしてしまう。



二人でこれからのアパレルのシーンを考えてみたり、お客さんが何を欲しがってるのか?何を望んでいるのか?サイズ展開のことなんかを時間が許す限り電話で話しさせてもらったりする。



MAKE OVERにはロックビューティーも取り扱ってもらっていて、レディースの方もお世話になってたりします。



こうやって考えてみても・・・何でも続けてみなけりゃわからんね。



今、成功してるブランドもバンドもショップも最初に辛くてあきらめたりしたら、現在は存在しないわけだし。



それは俺が言うのは変だけど・・みんな、それぞれ神様に試されてるような気がします。



俺の個人的意見なんだけど、新しく何かを始めて、トラブルが多かったり、悪いことが続くようだったら神様は「それはあんたの道じゃないよ」って教えてくれてるんじゃないかなぁ・・・なんて思ってる。



新しいことを始めて何かラッキーなことがあったり、平穏な日々であればそれはその人にとっては間違っていない道なんじゃないかなぁ・・と思うよ。



時期とか環境もあるから、「そのタイミングではない」って神様が言う場合も多々あるとは思うけどね。俺の場合、その空気や気を勘を働かせて読んでみると、俺にとってそれが正しい道なのか間違ってる道なのかが読める時がある。




しかし、それが正しかろうが間違ってようが、得であろうが損であろうが、俺は俺の思う道を行っちゃうタイプなんだけどね。それもまた色々あって面白いしね。




何もない無難な人生もいいけど、山あり谷ありの人生の方が楽しいとも思ってる。




トラブルや嫌なこともせっかくだから楽しまないとね!そこで負けるようなら、そこまでの器の人間だわ。




まぁ、人生ロックンロール(転がり続ける石)ってことで。

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この頃のジョニースペードはホットロッド&ロックンロールスタイルで売上を順調に伸ばしていたと思う。取扱店も全国に30件以上になり、俺はいつも忙しくしていたね。



事務所は段ボールで溢れ、毎日発送の日々だった。



忙しい仕分けの日に手伝ってくれる後輩のアッキーというレディースのオートクチュールデザイナーが来てくれるようになったのもこの時期からだね。今も仕分けの日はアッキーに来てもらってる。



アッキーは服飾の専門学校で先生をやれるような実力のある男でもあるんだけど、何故か俺と気が合ってジョニースペードに関わってもらってる。もともとアッキーは古着マニアで、俺も昔から何かとビンテージの服をアッキーに直してもらったりしていた。アッキーは古着やアメカジにも造詣深い男でもある。



そういえばこの頃は夜になると、よく仙台のバンドマンたちが酒を持って事務所に遊びに来てくれたりもした。



今は店に遊びに来てくれるけどね。



PASSING TRUTH DRIVEの畠山君、中川君、ツカサ君やE805843のコスビー、PINK GROSS IN THE HEARTのノブ、緒方君、元MAGICのトシ、NAKEDYEGGSの日下君なんかもよく来てくれていた。



俺はみんなとヘヴィーな話をしたり、音楽、文学の話をして、その人の感情を聞くのがすごく好きでね。



しかも何でそう思うのか、理由を根掘り葉掘り聞いたりする。



後輩達なんだけど、俺もジョニースペードの新作のヒントになったり、INNSANITYの新曲の詞のヒントをもらったりと・・・今もいつも実になる時間だと思って感謝してる。



この頃は仕事的にも仲間的にも充実していた時期だった。売上も大きくなれば、支払いも大きくなって大変だったんだけど、この頃から俺は森脇さんのアドバイスのおかげで「今」を受け入れるようになったりしていたので精神的にはとても楽になっていたね。



俺はデザインやアイデアで頭の中が一杯になった時は、ブラッと1000円持って、一人で町内を散歩した。



事務所の町内の駅の立ち食いソバを食べて、次の日はそのソバ屋の道路挟んで向かえのラーメン屋で食べる。その次の日はラーメン屋の隣りの定食屋で食べたりしてた。



結局、町内の飲食店は全て網羅しました。



一人で食べてると、他のお客さんの話なんかが聞こえてくる。盗み聞きみたくなってしまって困るんだけどね。聞こえてくるんだもの、仕方ないよ。



仕事の愚痴、上司への愚痴、家庭への不満、自分の自慢話、不幸自慢・・・みんな言いたい放題で色んな人生、色んな人間がいるなぁ・・なんて思いながら俺はその話を聞きながら自分の人生を照らし合わせたりもした。



そんな店にいる人達や店主の話を聞きながら



「俺だったらどうするかな?」



「あぁ・・その後の行動は俺だったら違うな」



・・・なんて思いながら黙ってラーメン食ってる俺は変わり者かもしれません。



でもそうやって色んな人の話を聞いてると、俺の人生はまだ幸せだなぁ・・なんて思う時も沢山ある。それは俺は「今」が順調で、精神的にも余裕があるから思えることだと思う。


 


ただ、それは「今」であって明日には俺もダメになるかもしれない。いつダメになってもいい覚悟もできてるけど、自らダメにはなりたくないもんね。



俺は「今」を継続するため、今の「生活」を続ける為に俺は事務所に戻ってすぐ仕事をする。将来や生活の「不安」を解消するためには「仕事」を頑張るしかない。



しかも、自分の好きなことが仕事になっているという恵まれた環境でもあるわけで、俺としてはここで愚痴を言うわけにはいかない。それは贅沢ってもんだ。好きな仕事ができて生活できてるんだから。

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順調に売上を伸ばしていたジョニースペードも良い時期は続くはずもなく、少しづつ低迷してきた。



良い事ばかりは続かない。



理由はジョニースペードのいつもながらの「変化」だったと思う。



前回、話した通りでジョニースペードは「ローリングストーンズ理論」を体現するブランドでもある。



色々なアウトサイダーカルチャーを独自のフィルターに入れて料理するスタイルなので、シーズンによってガラッと姿を変えるブランドでもある。



そうなると、取扱店やお客さんが欲しがってる物ではない商品をシーズンによってはリリースしたりってことも少なくはない。



マルタンマルジェラのようなローゲージの無地のニットライダースをリリースしたり、顔料染めのタイトなローライズブーツカットのジーンズをリリースしたり、と俺はジョニースペードをもっとファッション性の高いブランドにしようとして変化させていた時期でもある。



そうなると全国のジョニースペード取扱店さんやお客さん達は「あれっ?」って感じになってしまうんだと思う。



そりゃ、そうだ。



取扱店さんはいわゆるセレクトショップだからね。当然、ショップのオーナーが色んなブランドをセレクトして仕入れして、自分の店に並べるわけです。



ショップオーナーの志向性から外れたりすれば、そのブランドの仕入れはナシってことです。セレクトショップはオーナーや店長が自分の店に置きたい商品を選ぶからセレクトショップって言われてるわけですから。



パンクショップに単価の高い無地のニットライダースがあったって売りにくいからね。俺はそれを理解していながら、ジョニースペードを変化させてしまう時がある。



この頃は取扱店さんたちに非常に迷惑をかけた時期でもあるね。



仙台でジョニースペードを取り扱ってもらっていたショップも例外ではなく、5~6件あった取扱店も常時、新作を仕入れしてくれるショップは2件のみと減少していった。



時期を同じくして西海岸系、ロック系のスタイルも流行が落ち着いてきた時期でもあったからかもしれない。




全国的にもそのシーンに篩いがかけられて、残るショップやブランドは残る、消えるショップやブランドは消えるって感じの雰囲気になっていた。




ジョニースペードはそんな感じでモードスタイルを追い求めていたりしたので、取扱店やお客さんも減少し、だんだんと支払いなんかにも支障が出てきたりしていた。




自分が思ったとおりの洋服をリリースして、それがいつでも何でも売れるのなら、それは本当に凄いことだと思う。




でも、俺がやってるのは商売であって芸術ではないってことをここで思い知らされたよ。



売れる音楽や服を俺の用語で「POP」って呼んでるんだけど・・・POPは本当に難しい。



そういった意味でサザンオールスターズのようにリリースする音楽がいつでもそのテイストで売れ続けるというのは凄く大変なことで・・前衛や芸術性の自分のエゴを切り捨てて、POPに仕上げなきゃいけないというのは非常に難しいことだと思う。シングルカットはヒットさせなきゃいけないからね。



これを読んでるみんなも好きなアーティストのアルバムに10曲入っていて、10曲全部が好きって人は少ないと思うんだけど・・・アーティストは10曲全部、本気で作ってると思う。でも当然、リスナーによっては「このアルバムは2曲しか好きじゃないんだよね~」って場合もある。



俺も同じくでジョニースペードで毎月リリースする商品も全作品手を抜いたことはない。が、しかし当然、お客様の好みがあるわけで「前回は3枚買ったけど、今回の感じは好みじゃないのでいらない」ってことも多々、あるわけで。



どれだけ一生懸命やっても、売れなきゃ意味がないのが現実だったりする。



どのブランドも、どのアーティストも全商品をみんなにヒットする商品、みんなに認められる商品をリリースして、生計を立てたいわけで・・・まぁ、中には自分の好きな商品を作りたいだけっていう俺みたいな人達もいるとは思うけど。




この時期は色々、試行錯誤してジョニースペードはどういうブランドであるべきか?ということを改めて考えたりした時期でもありました。

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そんな感じでジョニースペードは変化に伴って、売上の下降を余儀なくされていた。



俺は事務所の窓から外を観ながら、よく腕組みをして考えていたのを憶えてるよ。



ジョニースペードをもっとハイセンスに・・もっとモードな感じに・・・なんて思っていた俺はもう一度、ストリートに軌道修正しなければならなかった。



考えてみれば、自分のエゴイズムがそれを引き起こしていた部分もある。



「俺はこれだけ最新のモードを理解してるんだ!」みたいな部分があったと思う。



あの頃はパリコレが掲載されてる雑誌を買ってきてみたり、海外のセレブ雑誌を読んでみたりとジョニースペードをもっと芸術的でタイトなモードラインのブランドにしようと思ってた。



今、考えると思いっきり勘違いしてる方向だね。



ストリートから出発して、よりレベルの高いハイセンスな方向に成功していくブランドも多々あるけどジョニースペードはそれには向いてないんだなぁ・・と売れ残った在庫の山を見て痛感した。



ジョニースペードにお客さんはそこを求めてないということが見えてない時期だった。



そりゃ、ストリートの最新型を求めてくれてるとは思うんだけど、ジョニースペードにコムデギャルソンみたいな服を求めてくれないわ。



欲しいんだったらジョニースペードじゃなくてギャルソンで買うしね。




今、考えるとお客さん、取扱店さんの事を考えてない身勝手な変化はやはり好ましくない。変化するにしても、今までのお客さんや取扱店さんに喜んでもらう変化でなければ意味がない。



まぁ、失敗したからそれが判ったって話でもあるけど。



・・・バンドもそんな時期で、俺はその壁にぶつかりまくっていた時期でもある。



あの頃の俺はあらゆる最新のジャンルからインスピレーションを受けて・・「エモーショナルっぽく」とか「じゃあ・・ダブでダンサンブルな感じで!」とか新曲を作って、スタジオで剛や哲也にぶつけていってメンバーで合わせていくんだけど・・・



哲也や剛は「演れるけど・・・全然INNSANITYっぽくないよ。」と口を揃えて言ってた。



俺は頭に溢れてくる楽曲を形にしないと、次に行けないという悪い癖がある。ジョニースペードも同じで「これを発売しておかないと次に行けない!」みたいな部分があったりする。



INNSANITYはバンドでメンバーと一緒にやってるから、俺の楽曲を哲也と剛がOK出さない曲はボツになる。なので何曲ボツになったかなんて数え切れない。でもINNSANITYは民主主義だから仕方がない。



剛と哲也は俺よりもINNSANITYを客観的に見えてるんだと思う。二人はバンドのグルーブが出ない曲は俺がどんなに一生懸命に楽曲を作ってきても容赦なく却下してくる。



でも、だからINNSANITYは変わらないんだと思う。何でも三人で決めてるしね。哲也と剛には俺がどんなに色んなタイプの曲を作ってこようが、INNSANITYはどういう曲をしなくちゃいけないバンドなのかというのが見えてるんだと思う。




自分の体に流れてないグルーブの演奏をやれっていわれて、やれたとしてもそれはメンバーが心から楽しんでない演奏だし、グルーブは借り物だし、カッコ悪いバンドになっちゃうよ。



俺はバンドでそれを凄く思い知った。



自分が心からカッコイイと思わない商品や音楽のパワーは弱いと思うよ。人に伝わるはずがない。



バンドと反対にジョニースペードは俺一人の意見で進むから、タチが悪い。



誰もダメ出ししないし、俺一人で商品のリリースの判断をしなくちゃいけない。



あの時期にジョニースペードを俺が心からカッコイイと思っていたか?と自分の心に問うと、答えは「・・・・」って感じだった。



俺は自分のエゴに囚われて・・・ジョニースペードをもっとレベルの高いブランドにしたかったし、そう言われるブランドになっていこうって思ってた。



まぁ、結局は2~3ヶ月で在庫の山になってしまってジョニースペードハイブランド化計画はあっさり辞めたんだけどね。



かなり悩んだけどジョニースペードというブランドがどうあるべきかハッキリ答えがわかった時期でもあります。


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試行錯誤を繰り返して、俺は自分を見つめ直してジョニースペードはまたアウトサイダースタイルに戻った。



Tシャツ、フーデットパーカー、ワークシャツ、ワークパンツ・・・etcの西海岸スタイル。ジョニースペードの服はどこでも寝転がれて、汚れても洗濯機で丸洗いできるカジュアルなウエアでOKだと思った。



方向を戻してから、売上は何とか回復して商品の流れもスムーズになっていった。



そして・・俺はジョニースペードには新しい血が必要だと思っていた。結局、俺一人のデザインでは偏るし、限界が見えるようになっていたからね。



そんな風に思っていた時にナイスタイミングでグレートハーティッドの阿部君から彫燕君を紹介された。



以前からジョニースペードはトラディショナルスタイルのタトゥーのデザインを数多くリリースしていたし、彫燕君というタトゥーアーティストとの出会いは俺にとっては嬉しい出会いだった。




彫燕君はハノイロックスのアンディマッコイ似のカッコイイ男で長身、そしてエキセントリックだ。ガレージ、ロックンロールにも造詣が深く、考え方も筋の通ったこだわりを持ってる。




俺は彫燕君のスケッチを見せてもらって・・・そのテイストに独特な雰囲気に魅力を感じた。



和、洋とミックスされたデザイン、神経質なタッチ、根底に流れるバイオレンスな匂い・・絵によっては狂気さえ感じた。



俺は彫燕君に「ツバメ君、ジョニースペードに絵を提供してみないか!?」と話してみた。彫燕君は「全然、イイですよ!OKです!」って言ってくれた。



・・・そして「リベルタッド」や「ダガー&パンサー」、最近では「ソリチュード」などの彫燕君の強烈なアートワークの商品をジョニースペードからリリースすることができた。




そんな彫燕君のデザインを筆頭に、この頃のジョニースペードはハードエッジな商品を数々とリリースしていたと思う。




「仙台に直営店をオープンさせる」って考え始めたのもこの頃だと思う。




俺は22歳の頃、仙台の国分町で古着&アメカジショップをオープンさせて大失敗した経験がある。



失敗した理由は・・・仲間に価格を割引して売る、家賃が高額、俺は俺でリーゼントにサングラス、レザーライダースにレザーパンツ、店のレジ台に足を乗せてタバコは店でプカプカやるし・・仲間達はバイクを店の前に並べて横付けして・・・店の前を通る人達を威嚇する。挙句の果てには店でお菓子ばら撒いたり、レジの前でギター弾いてたりって状態で・・ヒドイ有様だ。




ガラス張りの店だったんで、中が見えるし普通の人は怖がって店に入って来ない。



最後の方はやる気も失くして、もう掃除なんかもしなかったから、店は汚れ放題。



お客さんがシャツを広げると、アーモンドチョコが落ちてきたなんてこともあったよ(笑)。



最低の店。



そりゃ、失敗して当然。



そしてお店を閉めて借金800万を何とか26歳までかかって返済した。



その後、ジョニースペードを相棒と始めたわけで、もう二度とショップをやるのはゴメンだって思ってた。



このままメーカー、ブランドとして卸売業を続けていた方が経費的にも楽だったんだけど、やはり自分の思ったとおりのジョニースペード中心のヘッドショップがやりたいという気持ちが強くなっていった時期でもある。

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・・・というわけで俺は色々考えた挙句、ジョニースペード直営店をオープンさせることを考え始めた。



まずはお店の場所を頭の中で巡らせて考えた。



取扱店がない東京で考えたんだけど、原宿、代官山などは家賃も高いだろうし、考えるとしたら下北沢、高円寺辺りがジョニースペードっぽいとは思っていた。高円寺は仙台の家賃と同じくらいの金額の物件も沢山あったしね。



しかし、自分の生活も東京でって話になると、やっていけるかどうかは未知数だった。東京は楽しいけど、物価も高いし、そこで頑張れるかというと難しいかな?って。



考えてみればジョニースペードはメーカーで卸売りがメインだし、発送手段は佐川急便やクロネコヤマトが主なので店舗の場所はどこにあってもいいんだよね。



生活や資金のことも考えると東京は無理だなぁ・・と俺は判断して、やはり地元の仙台で店舗をやるという方向でいくことにした。



その時、俺はスイサイダルタトゥーの事を思い出した。



俺達が帰るときにスイサイダルのスタッフが「俺達のウエアはベニスにある。俺達とウエアに会いたければベニスに来い」って握手をしながら言ってくれたことが印象的だった。



スイサイダルやブルドッグのアートはアメリカのニューヨークやハリウッドで発生したカルチャーじゃなく、ベニスって街で独特のカルチャーが発生したわけで、それを考えると俺はこの仙台って街で生きてきて、刺激を受け、商品を作って生きてきた。そして仲間もいる。



生きる場所を変えれば、デザインや考え方も変わってしまうかもしれないなって思った。


スイサイダルがローカルのベニスからカルチャーを世界に発信してるように、ジョニースペードもローカルの仙台から全国に向けて発信しているわけでね。



俺は結局、そんな考えで仙台で店舗をやることに決めた。



次は資金。



そんなもんはない。



しかし、店舗をやるには資金を何とかしなくては話にならない。



16年前から比べれば、そりゃジョニースペードも規模は大きくなったけど・・・自転車操業には変わりなかった。



俺は銀行から融資をしてもらう為に決算書三年分を持って、メインにしていた銀行を訪ねた。



奥の部屋に通され、色々と融資担当の人と話をして、その人は「店舗のオープン資金ですね。わかりました。この決算書を見て検討してみます。」って言ってくれた。



ギリギリ赤字ではなかったジョニースペードの決算書とお金を借りてでも払っていた税金関係の部分で融資は何とかOKになりそうな感じだった。



俺が10年前に個人商店ジョニースペードをラウドミュージアムという有限会社にしていたのも、融資を受けることに有利な条件になっていたようだ。



とにかくこれで資金の面は何とかクリア。



あとは仙台のどの場所で店舗をオープンさせるか?を俺は考えていた。

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店舗の実現も現実味を帯びてきた。



あとは内装をどうするか?って話で・・・これが一番、俺には大事なところだった。



ジョニースペードのイメージはずっとタトゥー、ロックンロール、モーターサイクル・・・などなどとバッドボーイアイコンな訳でそういう”黒い”雰囲気にするのは容易いことだった。



俺は仙台でもセンスある内装をやる人に頼んだ。見積もりも何とか予算と合っていたし、今まで色んなショップを手がけていた人なので安心な部分もあった。



プロの内装デザイナーにジョニースペードのイメージを伝えて、店舗は手がけてもらった方が良い効果を得られるんじゃないかと思ったからね。



俺が当初考えていたのは黒ペンキの壁、黒鉄を使用した鎖や什器等、とにかく黒のグラデーションで全てを埋め尽くす考えだった。



その頃、事務所には後輩のコスビーがよく来てくれていた。



コスビーはアグレッシブな部分とナチュラルで神経質な部分を共有する男で、俺はコスビーのセンスとギターにはいつも一目置いていた。



コスビーは大工だったので俺は内装のアイデアなんかをコスビーに言って、色々話してるうちにプロの内装デザイナーに頼むより、コスビーに内装を頼んでみようという気持ちになっていった。



コスビーは大工のプロだったので、俺が「こういう感じでやりたいんだけど・・」なんていうと「それは作る事は可能ですし、金額は~くらいでできますよ」と的確な数字を算出してきた。



俺としては予算が決まっていて、贅沢できる環境でもない。何でも理想どおりの内装にしていたら金がいくらあっても足りない。



コスビーは俺の事を思ってくれて、全てにおいて原価で出してきてくれた。



それは言うのは簡単だけど、大変なことだった。利益がほとんど無いのにコスビーは俺の為に一人でやるって話なわけだから。



俺は色々考えた挙句、頼んでいたプロの内装デザイナーの人を断ることにして、内装はコスビーに頼もうって決めた。



俺の事を理解してくれてるコスビーに頼むのが一番楽だなとも思ったし、俺はコスビーが俺を思ってくれる気持ちが嬉しかったしね。



後は場所を残すのみだった。



仙台の中心街でショップをやるってことだと、中央、一番町辺りで考えるのが妥当だった。



不動産屋を巡って、色々と物件を探したんだけど・・なかなか良い場所が見つからなかったね。



しかし、もうすぐアーケード一番町から離れた一番町一丁目の場所が空くって話で。



そこはアメリカンカジュアルのお店で坪数も大きく、天井も高い。俺は何回か行った場所だったので雰囲気は悪くないって感じのイメージがあったショップだった。



色々と不動産屋を回って物件を紹介してもらってたんだけど、やはりその場所以上のところはなかった。



その場所は俺が思っていた家賃よりも、少し家賃が高かったので俺は決めかねていた。



昔、ショップの家賃が高くて苦しんだ思い出があるので俺はショップの家賃には神経質になってた。



今でも憶えてるんだけど、その日は台風で雨と風が強かったんだけど、その場所を紹介してもらった不動産屋の内海君がビショビショになりながら夜に自転車で事務所にやってきた。



不動産屋の内海君は俺にすごく良くしてくれていて、何日も色んな場所を一緒に回ってくれた男でもある。



俺はその時、実は内海君と他の不動産屋の人に話を入れていて、安さを競わせてその場所の話を進めていた。



本当はそれはダメなことらしく不動産屋同士で揉めることにもなりかねないらしいけど。


まぁ、俺はそういうルールを知らなかったんでね。



台風の中、びしょ濡れでやってきた内海君は「半沢さん、夜分すいません!敷金礼金を安くするのは俺の力では無理です。しかし、○○不動産じゃなく俺という人間で決めてくれませんか!ジョニースペードにはあの物件がベストだと思います!」



もう一人の不動産屋の人はこちらから電話をしなければ来ないし、一緒に場所を回っても「この物件、最高ですよ!」しか言わない。「家賃、高いよ~」と俺が言うと「いやいや、大丈夫っスよ~」ってな感じで。



この人はこういう行動をする。別に悪い事じゃないし、仕事だからこれが当たり前。



内海君の行動は逆で「この場所は高いからやめましょう!」とか「ここはジョニースペードっぽくない」とか、俺やジョニースペードの事を真っ先に考えてくれた男であった。


俺はそうやって行動で人間を見る癖がある。言葉じゃなくて行動ね。



この物件の話は台風の中、自転車を漕いでびしょ濡れでやってきた内海君で当然、決めた。



場所とか金額より、この男の今までの俺に対する行動と熱い情熱にやられた。



それが内海君が会社の利益や営業成績を上げたいからって理由であっても俺はOKだ。


俺と何日も場所を回って台風の中、自転車で一時間かけて俺のところにやってきた事は紛れもない事実だしね。



しかも「半沢さんが家賃、お金足りなくて払えなかったら俺が足して払います」まで言ってて(笑)。



「サンキュー、気持ちだけもらっておくよ」って言いました。



この物件にOK出す以上は全て俺の選択決定なんでね。内海君には責任なんてない。



結局、その後に内海君は今は不動産屋を辞めてしまったんだけど、今も内海君とは付き合いさせてもらってる。



・・・・というわけでラウドミュージアムというショップは二人の男達の情熱に俺がやられっぱなしって感じで始まったわけです。

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ショップをオープンさせる計画は着々と進んでいた。今から6年前の話になります。



場所も前回に書いた一番町に決まった。



近くには数件の古着屋、そしてdelvis(当時はケルト&コブラも扱っていた。今もハイクオリティなブランドを扱うセレクトショップ。安達君と和野ちゃん、社長の金谷さんとカッコイイメンバーと服が揃ってます)。



道路を跨げばSAM'S(今は移転してしまったけど、アパレル&モーターサイクルのカスタムショップ。オサムさんに頼んでSAM'Sの別注Tシャツを作ってもらったりしてました。俺は昔からSAM'Sのファンでもあり、ここのカスタム&デザインは最高だと思ってます)



向かえにはリトリート(今は辞めてしまったけど、リアルマッコイやBUCOなどを扱っていたアメリカンカジュアルショップ)もあった。



物件的にはジョニースペードにはバッチリだった。



銀行からも借り入れができたので、後は内装を残すのみとなっていた。



内装を任せたコスビーは働いていた会社を辞めて、この物件を一人きりでやるってことだった。



俺は唖然としてしまってね。



同時にコスビーの気持ちにありがたいと思う気持ちと、どういうふうに感謝したらいいのかもわからないくらいの気持ちが同居していた。



内装のデザインで俺とコスビーは何度も夜中まで打ち合わせをしたんだけど、なかなかイメージが固まらなかった。



とりあえず最初の黒鉄で埋め尽くすイメージは止めることになった。



コスビーが「ジョニースペードっていうのはイメージがアウトサイダーな感じじゃないですか?俺としては黒で埋め尽くすと怖い感じになって一般のお客さんが来にくいと思うんですよ」って言ってたしね。



確かに言う通りで、俺も偏ったショップにはしたくなかったので黒っぽい店にするのは諦めた。



壁と天井だけは白くして、後は黒い鉄を使った什器でハードに持っていこうって話になったと思う。



コスビーは翌日からたった一人で壁と天井を白く塗り始める作業に入った。



俺は通常の仕事があるので、その合間を見てコスビーのところに行ったりしてた。



コスビーは何かこだわりがあったらしく、スプレーは使わず刷毛と筆で壁と天井を真っ白く塗りつぶしていた。何日も何日も朝から晩までコスビーはその作業に明け暮れていた。



予想以上に日数がかかっていたのを憶えてるよ。



俺はもう物件を借りてしまったので、その月から家賃が発生することで気持ちが焦っていた。早く内装を済ませて、オープンしないと家賃が無駄になってしまうってことで頭が一杯だった。



コスビーは本気で一人でやるつもりだし、これは内装は一ヶ月では済まないし困ったなぁ・・・なんて思ってた。



しかも、その物件の広さの為に商品を追加で生産しなくてはならなかったし、他の仕入れもしなければならないような状態で予算が思った以上に掛かっていた。



しかし、コスビーが夜も寝ないで一生懸命やってくれてる姿を見ると俺はその焦りを口にすることを躊躇せざるおえなかった。



壁、天井を白く塗りつぶした後の予定は何も決まってなかった。



俺は中古の什器買ってきて、黒く塗装でもすればもういいかな?なんて考えだった。正直、疲れてしまって面倒になってきたってのもあった。とにかく適当にオープンできればいいなんて思ってた。



でもコスビーは違った。



俺がそんな感じのことを言うたびに不服そうな顔をしていた。



コスビーも状況を把握していて、毎日この次の展開を何か考えてるようだった。



ある日、コスビーが電話をくれた。



笑みを含んだ晴れやかな声をしていたので俺は「おっ、見つけたな」と思った。



「何か案が浮かんだ?」と聞いたら



「ハイ。色々考えたんですが・・グレッチって感じでいきましょう」ってコスビーは言った。



俺は意味が分からず「んっ?」って感じだった。



「白木を買ってきて、グレッチの6120と同じようなオレンジステインで塗ってしまうってどうですか?棚も什器も。什器にはFホールを入れたりすることを考えてます。ハンガーのポール台はゴージャスな感じでそちらはロックンロールバビロンって感じで考えてるんですけど。」



「おぉ!さすが、コスビー!!スゲーカッコイイ!それで行こう!」って俺は即座に言った。



コスビーの考えたその内装の「絵」が俺にも見えたからだ。

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ジョニースペード直営店「ラウドミュージアム」の内装のテーマが「グレッチ」に決まった。



コスビーは壁と天井を白に塗りつぶす作業を終えて、今度は木材の仕入れに奔走していた。



ロックンロールスタイルならコスビーはかなり熟知している男なので、どんな内装になるのか俺はワクワクしていた。



俺は俺で事務所で通常の業務をこなしていたので、なかなか忙しくて手伝いに行ける状態ではなく、今回のお店の件はコスビーに全て依存した状態ではあった。



日々の進行の状況を電話連絡してもらう感じで、どこまで進んでるのかはそれで把握している感じだった。



ある日、夜中の12時頃にコスビーから連絡が来た。



「ちょっと来てもらっていいですか?見てもらいたいんで」ってコスビーから連絡が来た。



俺はすぐ着替えて、車を飛ばして店に駆けつけた。



冬だったのでダウンジャケットを着ていったのを憶えてるよ。



店に着いたら・・・何とPASSING TRUTH DRIVEの畠山君が真冬に短パンでコスビーと一緒に店に向かって二人で仁王立ちしてる。



俺は「おぉ!畠山くん、どうしたの?」って二人のところに駆け寄った。



二人とも勝ち誇ったような顔で「アレ、見てくださいよ」なんて店の方に視線を向けた。



店と事務所は壁で仕切りたいって俺が言ってたんだけど・・・天井までの高さの白い壁に立体的で彫刻のような白いファイヤー(フレアー)パターンが作られていた。



「うおぉ!カッコイイ!スゲー!」



俺は驚いて・・そして喜んだ。



コスビーと畠山君の顔や手には白い塗料が着いていて・・・すごく大変だったのが窺えた。




畠山君は男気があって義理堅いので仲間のコスビーが一人で内装をやってるのを見て、ほっておけなかったんだと思う。そのまま、今回の内装に時間があれば手伝いに来てくれた。



その後、畠山君の実弟のツカサ君(PASSING TRUTH DRIVEのベース)がトイレをFRPで埋め尽くしてくれたり・・・本当にありがたいと思ったよ。



そのフレアーパターンの壁が出来上がってから、店の全体像が見えてきた。



ハンガーをかけるポールの柱は角材に縦の模様を彫り、そのてっぺんに丸いボールのような物を付けて、また白のペンキで塗りつぶした。



これがシンガポールのお城のような雰囲気を醸し出していて、非常にセレブリティな雰囲気で俺のお気に入りだった。



コスビーは何か一つの物を作る度にロックンロールなギミックを凝らしていた。本当によく考えついたと思うものばかりだった。そのセンスの良さには脱帽もんだった。



問題の什器、棚、そして床はグレッチのギターと同じの色、オレンジステインにするって話で、これがまた大変だった。



コスビーは色んな塗料を試していて、グレッチと似たオレンジ色にすることに非常に拘っていた。



俺は「色が似てればいいんじゃないの?」なんて言ったんだけど、コスビーは俺と違って中途半端が嫌いらしく「ダメです。薄く塗って下地の木の模様も出さなきゃ意味ないっス」なんて言ってた。



コスビーは試行錯誤の上、塗料を組み合わせていって「グレッチオレンジ」を作り上げる事に成功した。



塗装はPASSINGの畠山君、PINK GROSS IN THE HEARTのノブ、そして緒方君が参加してくれた。



俺が何かやる度に、コスビーに「施工主は手を出さないでください」って言われてたよ。どうも俺の手伝い方は適当すぎるらしい。



まぁ・・・雑ってことらしい(笑)。



白木を塗装していくのは2~3日夜中までかかったと思うわ。



ありがとね、みんな。ホントに。



そして・・・この辺りからコスビーの疲労はピークになってきたのを憶えてる。



それでもこの男は泣き言も言わず、凄まじい集中力を持ってこの仕事をしてた。



感謝!

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ジョニースペード本店 ラウドミュージアムの完成も間近に迫ってきた。



コスビーは2メーター以上ある什器に着手していた。



脇にグレッチのギターのようなFホールの穴を開けるのに苦戦していたのを憶えてるよ。



一ヶ月の予定が2~3ヶ月に延びていたけど、コスビーの執念に俺はもうそんなことは関係なかった。



だって俺の店の為に、寝食削って頑張ってくれてるんだもの。



コスビーも何でも作れるといっても弱点があって、電気や照明関係はさすがにできないようだった。



そこで登場してくれたのが、NAKED YEGGSの日下君だった。



日下君は昔から事務所に顔を出してくれていた人物でもある。



・・・前に俺がちょっと面倒な人とトラブって困っていたことがあったんだけど、その日に日下君が事務所に来てくれていて、俺も思わずその事を日下君に喋ってしまったことがあった。



そん時に日下君は「俺も行きます!半沢さん一人で行かせるわけにはいかない」なんて泣ける言葉を言ってくれたときがある。



俺は「何、言ってるの。大丈夫だよ、気持ちだけ受け取っておくよ」なんて言ったんだけど心の中はそんなこと言ってくれる日下君がありがたくてね。



そんな日下君がラウドミュージアムのサウンドシステムを引き受けてくれて、BOSEのスピーカーを天井に付けるのに場所を色々と試していたり、配線を見せないように鉄パイプから通したりと頑張ってくれた。



いつの間にかラウドミュージアムの中はPASSING TRUTH DRIVE畠山君、ツカサ君、NAKEDYEGGS日下君と人数が増えて活気が出てきた。



コスビー含め、このメンバーが揃って内装をやってるなんて・・・ここはバードランドか!って話で(笑)。



見る人が見たら豪華な面子だ。それぞれ仙台でも有名なバンドの人達だしね。



最初、一人ぼっちで頑張っていたコスビーもみんなが来て手伝ってくれてるので、最後の力を振り絞っていた。



俺は俺で・・店舗用のジョニースペードの商品の追加生産やアメリカからセイラージェリーやエドハーディー、シルバースターを仕入れたりと内装が終わったらすぐに商品を並べられるように動いていた。



コスビーは試着室に非常に拘ってもいた。



試着室を通常より大きくしてカーテン等ではなく、ドアのスタイルにするように設計していた。



ドアノブを排除し中から押して出られるようにして、外は革紐で引っ張って開けられるようにしていたね。



荷物を置けるように中に台も作ってたし、ドアを開ける音にも拘っていて、開けると「ガチッ」とリッチな音色が聞こえるように工夫していた。



床の部分も板を全部一枚一枚カットして、オレンジステインを塗って床全体に張り詰めた。



店全体が白とオレンジに統一されて、コスビーがイメージする全体像がハッキリとしてきた。



椰子の木とかが入れば、アメリカにあるんじゃないか?みたいなお店になっていた。俺は最初、黒い鉄で真っ黒に・・なんてデカダンススタイルに思っていたんだけど、コスビーのこのロックンロールスタイルの内装で本当に良かった!ってこの時に実感したよ。



苦戦していたFホール什器もすごくカッコイイのが出来ていた。パイピングまで付けてゴージャスな仕上がりだった。



コスビーは疲れきっていたんだけど、それでも踏ん張って仕事をしてくれていて俺はそんなコスビーの姿を見る度、痛々しくも思っていたし、頼りにもしていた。



ヨネちゃんも来てくれて、事務所側のペンキをカッターで掃除してくれたりと色々と手伝ってくれた。



店の完成も遂に近づき・・・



最後はマンチーズのカタケン君が来てくれて、店全部をクリーニングしてくれた。




汚れていた店のガラスや床や壁に貼り付けていたビニールを剥がして、一気にクリーニングしたんだけどホント、キレイになっていく様は感動したね~。



そしてそのクリーニングしている最中、コスビーは仕事途中で座り込んで寝てしまった。



俺から見ても人間の限界超えてたしね。ほとんど全部、一人で店一つ内装しちゃったんだから。



手伝ってくれていた皆はコスビーを起こさないように、コスビーを避けながら作業してくれていた。



本当にお疲れ、コスビー。

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遂にジョニースペード本店「ラウドミュージアム」はオープンした。



「ラウドミュージアム」は会社名ではあるけど、そのまま店の名前にした。



意味は「轟音の博物館」。



お客さん達は今も「ジョニースペード」、「ジョニスペ」、「JOSP」って呼んでるけどね(笑)。



今から6年前になります。



オープンの日は俺、コスビー、アッキーの三人でテーラードジャケットなんか着て「一応、正装しようぜ」なんて言って・・・オープンの日のお客様を出迎えた。



沢山の花と仲間とお客さんに囲まれて・・俺は嬉しかったよ。



コスビーも大変な仕事をやりきった充実感のある顔をして、終始笑顔だったね~。でも細かいところが気になるらしく・・・お客さんが来ていても、目で内装のチェックを欠かさなかったわ。



店内は真っ白な高い天井に無数のスポットライト



白い壁と彫刻のようなファイヤーパターン



広いボックスになった試着室



50’Sを感じさせる大きな観葉植物



白木をカットして一枚一枚貼り付けたオレンジステインの床



Tシャツをアートの本のように見せる為の斜めの棚



Fホールの什器



白い革を張ったアクセサリーも置けるレジ台



真鍮で造った「LOUD MUSEUM」のサイン



Fホールのマットなどなど・・・随所にコスビーのこだわりが発揮されていた。



大音量で流れるロカビリーやアメリカングラフィティがコスビーの内装をまた印象的にしていた。



商品もジョニースペードの他に海外ブランドはエドハーディー、セイラージェリー、シルバースター、そして国内からはラストフォーライフと充実した品揃えだった。



オープンの日は大盛況で俺は店を出して本当に良かったなぁなんて思ったよ。



今まで10年間、どんな人達がジョニースペードを買ってくれているかも知らずに商品を作っていたから、お客さんと話をしながら商品を買ってもらうということが凄く新鮮だった。



ラウドミュージアムのオープンと一緒にHPもリニューアルした。



ジョニースペードは「BURST」に掲載されてる時からHPを運営していたんだけど、俺が適当に商品アップするもんだからズレたりして、メチャクチャになってた。



この時からクリエイトワンの橋本さんと八巻さんがジョニースペードのHPを一手に引き受けてくれるようになった。



リニューアルも大変でジョニースペードの商品量の多さにかなりの撮影時間を費やしたのを憶えてるよ。



Tシャツだけで何十種類もあるしね。



現在も商品アップや撮影、メルマガは八巻さんが頑張ってくれてる。



こんな感じでラウドミュージアムはオープンし、発進しはじめた。

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オープンしたラウドミュージアムは何とか順調だった。



それはありがたいことに10年にわたって仙台の他のショップでジョニースペードを展開していたので、ジョニースペードのファンというお客様達が存在していてくれたおかげだった。



ジョニースペードを長年にわたって扱ってくれたショップには今でも感謝してるし、直営のショップをオープンするって決まった時に俺は仙台の取扱各店にお詫びと挨拶をしにいった。



今までお世話になったのに、直営ショップをやるから「ハイ、さよなら」ってのは筋が通らないし、都合が良すぎるよ。どのお店のスタッフも一生懸命、ジョニースペードを今まで売ってくれていたわけだから。



どのショップもジョニースペード直営店をオープンさせる事に快くOKを出してくれた。



俺は皆に感謝しながら、心置きなくショップをオープンさせる事ができた。



その各店の中に俺が兄貴と慕う人が経営してるお店があった。



俺が昔、店をつぶしてしまい、借金だらけで途方に暮れていた時に一本の電話が来た。



「半沢か?」



聞き覚えのある兄貴の声だった。俺は今もこの人を「社長」と呼んでる。



「社長ですか?!お疲れ様です!」



俺は何で社長が俺なんかに電話くれたんだろ?みたいな感じだった。それだけ社長を尊敬していたし、凄い人だと思っていたから。



それは今も変わらない。



「明日、朝11:00にウチの店に来い。わかったな!」



社長は一方的に言い放ち、電話を切った。



俺は「明日、社長に怒られるのかぁ・・・」って思ってた。それには理由がある。



俺は16歳からずっと社長の店で服を買っていて・・・お世話になっていたにもかかわらず、いきなり社長に相談無く店を出してしまって、そして失敗して店をつぶしたからだ。



社長が俺が店を辞めた時に知り合いの先輩に「何で半沢は俺に相談しねーんだ!」って言ってたって聞いてたしね。



とにかく俺は次の日、朝11:00ジャストに社長のお店の前に行った。



社長は少し遅れてやってきて「これ、ヨロシク」ってホウキとモップ、そしてバケツを持ってきた。ちなみに俺の口癖の「ヨロシク」は社長の口癖を真似してるわけなんだけどね。



いきなり社長からそんな感じで言われた俺は「?」って思ってたら・・「早く店の前、掃除しろ。これからは来れる日があればウチで1日バイトしろ。お前も色々大変だろ」って社長が言った。



俺は怒られるんじゃないかと思っていたのが拍子抜けしたと同時に社長の無骨で強引な優しさに本当に感謝したよ。

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というわけで俺は店をつぶした後に社長に拾われて働かせてもらったことがあった。



まずは掃除!



これは当たり前のことなんだけど、朝から床を掃除して、窓を拭いて、商品をキレイに陳列してお客様を迎える。



16歳から憧れていた社長の店を掃除するというのは、とても光栄な気分だった。そう思っていただけに一生懸命、掃除をさせてもらった。



つぶしてしまった俺の前の店「ガルソーネ」は最初の頃は掃除してたけど、売上が落ちていく度にどんどん掃除をしなくなってしまった。気持ちが萎えていくというか、やる気がなくなっちゃったんだね。最後の半年なんて埃だらけだったよ。



それじゃ、お客さんだって嫌な気分になるわ。



「ラウドミュージアム」は社長の店で働いた経験を忘れず、毎朝8:00頃には店に来て毎日一時間かけて欠かさずキッチリ掃除してる。



「ラウドミュージアム」がこれでダメになってしまったとしても悔いはない。掃除から始まって接客も毎日ベストを尽くしてダメになってしまったのなら仕方がない。



「ガルソーネ」は掃除すらキッチリやらなかっただけに、悔いが残っていた。「もし、俺がちゃんとやっていたなら、つぶすことはなかったんじゃないか?」という思いはあったからね。



今では掃除しないと運が悪くなるような気がしてね・・・もう「ガルソーネ」みたいな失敗はしたくない。


社長から教わったのは掃除だけではない。当然のごとく販売、および接客だ。



これは各店舗のやり方があるので、どれが良い、どれが悪いというのはないと思う。



フレンドリーな接客もあれば、丁寧な接客もある。その店の個性にあった接客や販売が一番良いと思うよ。



社長の店で働いた初日、俺は社長に「お前、二年も自分で店を経営して販売してたんだから任せるからやってみろ!」と言われた。



俺は社長に良い所を見せたかった。俺を拾ってくれた恩返しで少しでも社長の店の売上を上げたかった。



二人組のお客さんが店に入ってきて・・社長は奥に引っ込んだ。俺が一人で接客を始めた。



俺は丁寧に、丁寧に話をして自分の知識を話しながら、何とかシャツを一枚買ってもらった。



俺はレジを打って、商品を渡してお客さんを見送った。



お客さんを見送った後、振り向いたら社長がレジのところにいたので「一枚、買ってもらいました、社長!」と俺は嬉しさ一杯で社長に言った。



社長は浮かない顔で「ん~、ダメ。お前は丁寧すぎる。あれじゃ、お客さんによっては緊張しちゃうぞ。お前の買ってもらおうって「気」が出まくってるし・・・しかもあのお客さんはもう一枚買ってくれたと思うよ。お前、どこ見てた?」



俺は自分の知識をお客さんにひけらかす事に夢中になってしまい、お客さんの目線がどの商品にいってるかなんて見逃してた。



俺は社長に良い所を見せようとして、お客さんの雰囲気や空気を読まずに自分の知識をお客さんに押し付けて自分に酔った接客をしていた。考えてみれば「ガルソーネ」だってそんな感じの販売の仕方だった。



「スイマセン・・社長」 



俺は自分の接客のダメさに落ち込んでしまった。



「サンキュー、半沢。ありがとな」 社長はそう言ってくれた。



俺は凄く嬉しかったけど、今度はもっと頑張ろうって気になった。



俺は基本的に誰の言うことも聞かないタイプだけど、尊敬する人には別だ。社長の役に立ちたいと思った。



次のお客さんが店に入ってきた。



社長が今度は接客をしてくれた。もちろん、俺も一緒だ。朝に社長に「お客さんがいる場所から斜めに一定の距離をとれ」と言われていたので、俺はそれを忠実に守った。



そのお客さんに社長は3点の商品を買ってもらった。お客さんも笑顔でスムーズな空気が流れていて、俺の緊張させる空気とは真逆で社長はリラックスした雰囲気にしていた。



昔の俺は押し付けるような自己中な接客をしていたんだけど、今のような接客スタイルになったのは社長のスタイルをこの時期に学んだからだと思う。



接客は店それぞれ、お客様それぞれだとは思うので自分と店の個性に合ったスタイルが一番だね。

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そんな感じで社長の店で接客や販売を改めて勉強しながらジョニースペードの設立を考えていたのを憶えてるよ。



その後、このブログの物語で書いたように相棒に会い、ジョニースペードを設立したわけだけどね。



そしてラウドミュージアムという店がオープンした。



店は開店の賑わいも落ち着き、通常に営業する状態になった。



俺は朝早くから店を掃除し、商品を陳列しなおしたり、ディスプレイを替えたりと・・久々にショップに立つのを満喫していたよ。



ジョニースペードはブランドなので10年間に渡って一般のお客様ではなく、全国のショップがお客様だったわけで・・・あっという間に卸売→卸売&小売という感じで俺の環境は変わってしまった。



一度、ショップをオープンする際にSAM'Sのオサムさんのところに挨拶に行ったんだけど、「半沢さん、やっぱり自分で作った物は自分で売るのが一番ですよ!」って言われたんだけど、それを実感する時が多くなった。




「この言葉の意味は何ですか?」




「このマークって何ですか?」




「ジョニースペードって何系なんですか?」




「ロック系ですか?バイカー系ですか?」




「他の色のTシャツは無いんですか?」



・・・etc



自分で販売しているとお客さんが何を求めているかがよく分かった。



人気があって売れてるデザインも把握できるので、自然とリサーチできるようになっていったね。


リサーチすると新作よりも何年も前のデザインの商品が一番売れていたりする。結局、売れる商品というものは決まってるんだなぁ・・・って認識をせざるおえなかった。


俺がどんなに必死になって新しい曲や新しい商品を作って、自分の感性の限界に近づこうが、お客さんにはあまり関心のないことなのかもしれないなぁ・・・って思ったよ。



例えれば



好きなアーティストのライブに行っても、やはりヒットした古い曲が盛り上がったりしてるもんね。アーティストもヒットした曲を「もう演りあきてウンザリだ」って思っていても、お客さんの為にもその曲をセットリストから外すわけには行かないんだと思う。



新曲ばかりのライブはアーティストは緊張感があって気分が良いかもしれないけど、ヒット曲を期待している一般のお客さんは退屈だもの。



アーティストは創造していくから芸術家だけど商売はお客さんに納得してもらって、喜んでもらったりしなければいけないからアーティストの自己満足では商売にならない場合が多いと思うよ。



商売と芸術のバランスがとれれば最高だけど。



もちろん、その芸術全てが商売になっている人もいるだろうけど、それは選ばれた人だけだと思うわ。



商品の話に戻ると



今度はそのヒットしている何年も前の商品がパタッと動きが突然止まったりする。「昨日まで売れてたのに?」って感じで・・・今度は何日経っても一枚も売れない。



だから油断できない。毎月、お客さんに喜んでもらうようなヒット商品を狙わなきゃいけない。



俺はそのリアルなリサーチをするためにも、ベタベタで馴れ馴れしい接客はしないように心掛けてる。



お客さんが自分の目、自分の感性、自分の好みでこのジョニースペードのラインナップから選んで欲しいと思うから。



それがリアルな結果だなって思うし、お客さんも自分の感性を持ってないとセレクトしできないので、お客さんにもその感性を持ち続けて欲しいって思うしね。

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ラウドミュージアムがオープンして、色んな人達と会う機会が増えた。



それまで10年間、小さいマンションの一室でやっていた時とは大違いだった。



各地のバンドさんたちもツアーの時には寄ってくれたり・・・店のビルの2階にスクライブタトゥーがあったので彫氏さんたちもよく遊びに来てくれた。



スクライブにはいつも仲良くしてもらって・・・よくコウさんとは馬鹿話をして笑い転げてたよ。



コウさんは勉強家で和と洋のミックスしたスタイルと繊細なタッチは素晴らしいものがあって、昨年は念願叶ってジョニースペードからコウさんの龍をリリースできた。



TATTOOSHOPのチンペイ君も前から知り合いなので、よく遊びに来てくれた。



チンペイ君のトラディショナルを基本としたTATTOOには本当にファンが多い。



昔、SOBUT時代のモトアキ氏を紹介した時があったんだけど、チンペイ君の絵を見たモトアキ氏が迷わず「今、彫りたい!」って、そのまま彫りはじまってしまったこともあったね。



そしてRYO君ともこの時期、出会った。



RYO君は仙台でも有名だったバンド「D.I.C」のボーカルでフロントマンだった。



俺はリリースされてる「D.I.C」のジャケットのアートワークが昔から気になっていて、トラディショナルテイストでキャッチーなそのアートワークを誰が書いてるんだろう?っていつも思ってた。



ギターのユウヒ君がよく店に来てくれていたので、ジャケットのことを聞いてみたら「あ、あれはRYOっすよ」って答えでね。



俺はD.I.Cがどこかの彫氏に頼んでいたと思ったからビックリしたのを憶えてるよ。



そしてRYO君が店に来てくれた。



RYO君は細身でハンサム、ハスキーでくせのある声のボーカリスト、そして絵の才能もある。



俺は迷わず、「RYO君、ウチで描いてみないか?」とRYO君に言った。



RYO君は「OKっすよ!」って快く承諾してくれた。



そして・・RYO君は数々の作品をジョニースペードに提供してくれた。今もRYO君にジョニースペードの新作を頼んで描いてもらってる。



いつもありがとう、RYO君。



そんな感じで・・・俺はラウドミュージアムという店をオープンしたおかげで若く才能を持った人達と知り合えることが多くなった。



オープン当初はGELというヨネちゃんのブランドも置かせてもらった。基本的には着物をリメイクしたブランドなんだけど、その斬新な切り口とセンスに俺はいつも驚かされた。



ボタン、縫製、生地と細部にこだわったブランドで圧倒的な存在感があったね。




絵を描いてもってくるお客さんも増えてきた。自分でブランドをやりたいっていう人達も随分、店に来るようになったよ。



フミカという女の子もいた。今もたまに店に来てくれるロカビリー好きの女子で絵が個性的だった。その時にフミカの描いた漫画もみせてもらったんだけど、上手すぎてビックリしたよ。



フミカは自分でブランドをやりたい!ってことで店に相談に来ていた。俺は女の子だからといってフミカを甘やかさなかったよ。



商品が出来たら店に置くという約束はしたけど、全て自分でやらせた。資金、デザイン、ボディ、ネーム・・・etc。協力したのはパソコンでレイアウトするくらいだった。



何でも手伝ってあげたら、本人の為にならないからね。



ウッドベースモチーフの50’sテイストのTシャツでカッコよかった。なかなか初めてにしては上出来のブランドになったし、フミカもよく頑張ったと思う。



今はフミカのブランドは休止状態だけど、また活動始めてくれることを期待してる。



今、現在は菅井君の「WEAR WOLF」を店で置かせてもらってる。



「WEAR WOLF」は菅井君のアート溢れる仕上がりでハードな感じなんだけど菅井君独特のデカダンスエッセンスも入ってる。



お客さんが買ってくれたら、それはカッコイイから買ってくれたわけだし、これからの菅井君にも自信を与えてくれる。



俺もそうやってやってきたわけだしね。



商品が売れるという嬉しさを味わっていただきたい。

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ラウドミュージアムをオープンしてから、若い才能のある人達と知り合うことが多かった。



その中に今、ジョニースペードのレディースを任せてるナナミンこと七海ちゃんもいた。



初めて店に来てくれたときはセーラージェリーのタンクトップを購入してくれたと思う。



あの頃のナナミンはサンサーフか何処かのアロハを着ていても、ロックな匂いを漂わせていたわ。小柄で細くて可愛い感じは今も変わらないし、オーラみたいなものもこの頃からあるね。



話をしていたら、知り合いの林君所属のシャンプー★プラネッツのボーカルだとわかったので、お互い気楽に話が出来るようになった。



俺は店をやってからというもの、ジョニースペードのレディースに頭を悩ませていた。



サイズ、デザイン、カラー・・etcとやはりメンズとは全然違う。



「これはイケる!」と思って作ったレディースの商品が全然売れない。売れないレディースの在庫が増えて切実な問題になっていた。



そんな感じだったので、ファッションに詳しいナナミンが店に来る度に「レディースで何を作ればいい?」っていう感じで質問攻めしていたと思う。ナナミンも色々考えてくれてアドバイスはしてくれてたよ。



そして前に書いたようにシャンプラが解散して、ナナミンのソロプロジェクト「ナイトバード」結成という運びで・・・その後、ラウドミュージアムの販売員&ジョニースペードのレディースブランド「ジョニースペードロックビューティー」をナナミンにやってもらうことになりました。



接客なども教えなくても出来ちゃうし、最近では店にナナミンのお客さんも多く来てくれる。



ロックビューティーも最近は独自のスタイルを押し出してきてるし、ナイトバードも色んな音楽を聴いたうえで、今の路線で進めたいという考えをちゃんと持ってるカッコイイ女子だと思う。



そして時を同じくして・・・この時期にROCK54氏とも親交があった。




ROCK54氏は仙台でも有名なショップのデザイナーで、俺と同じ年齢なので・・・ニュージェネレーションと言っていいかどうか・・・(笑)。でも間違いなくジョニースペードに新しい血を入れてくれる人物だ。



彼のデザインはその頃から目を見張るデザインが多かった。カルチャーを理解したうえでのユーモアのあるデザインや字に対するこだわりは昔からだ。仕事の完成度も高いし、センスも抜群で特に50’Sやスケートのカルチャーを熟知してる。



初めてROCK54氏の事務所に遊びに行った時はザ・レヴァレンド・ホートン・ヒートのロカビリーが大音量で流れる中、新作のレーシングスタイルのTシャツを見せてもらったりした。



その時に俺は「この人はやっぱりセンスいいなぁ~」なんて思ってたよ。



そして昨年からROCK54氏にお願いして色々とジョニースペードのデザインをしてもらってる。俺と彼はカルチャーの雑食獣(笑)でもあるので、俺が「こんな感じで~」なんて言うと、ROCK54氏は「わかった!」って感じで話が早い。



まぁ、同じ年齢だしね。



見てきたものが同じだからね。



これから俺が行こうと思ってるジョニースペードのラインには不可欠な男なので、これからも力を貸して欲しいって思ってます。



ヨロシクです。



そんな感じで今、ジョニースペードに関わってくれてる人達というのはお店を出してから出会ってる割合が多い。



仲間に恵まれてる俺はそういった意味で幸運な男だなぁ・・・って思うよ。

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ジョニースペードヘッドショップ「ラウドミュージアム」はお客さんにも恵まれ、順調にいってるように思えた。



が、しかし・・・波のない商売なんていうのは俺には無縁な話でして(笑)。



店をやる前のマンションとは家賃も違えば、経費も違う。しかも店員は俺一人なので、前と違って出歩くことすら出来ない状態。



仙台の一番町というのは一応、仙台の中心街にあるので家賃もそれなりに高い。俺の計算では家賃というのは全体の売上の10%で考えていかなくては・・・と思っていたので売上もそれなりに上げなければ計算が合わない。



それと照明やシャッターなども多く使うので電気代もかさむ。省エネ電球を使ったり、水道をあまり使用しなかったりと節約を心がけた。



前の事務所では疲れたり、新作を考えたりする時は横になってボーっとしていたり、ブラッと車でドライブして気分転換できたんだけど・・・店舗を構えた以上、それはできない。店でボーっと寝てるわけにもいかないし、ブラッと店をほったらかして車でドライブするわけにもいかなくなった。



俺は店舗を持ったことによって新作を考える時間がどんどん削られていくことになってしまった。



店にお客さんや友達がラストまで居てくれたりすると・・・営業時間が終わってから夜中までデザインや企画を考えたりしなくてはならないんだけど、その精神力を搾り出すのが大変。今もだけどね。



ただ店舗をやってるとお客さんが何が欲しいか?何が売れてるのか?というシュミレーションが出来るので新作を考える時にかなり参考になるのでありがたいね。



ラウドミュージアムは一応、有限会社なので現金出納帳、領収書・・etcと当然、申告しなくてはならないんだけど、事務所の時よりも細かい領収書が増えていて・・・これがまた整理するのに時間を要していた。



俺は銀行通帳から現金を引き出す時には必ずシャープペンか鉛筆で何に使ったかを通帳に書き込んでる。何日か経ってしまうと・・何に使ったのかを忘れてしまう場合もあるので面倒でも必ず書き込むことにしてる。



一人で会社をやるということはそういうことで全部、自分でやらなきゃ誰もやってくれない。



そんな感じで店をオープンしてからというもの何かと俺はやる事が増えて、忙しくなっていた。



近所のお店のdELVISのスタッフの安達君、ツッチーの二人やスクライブタトゥーのコウさんたち、そしてハウディの真山、梟のダイスケ、アンジの松田さん、タマヤの高橋さん、パラダイスレコードの永山マネージャー・・・と色んな店の人に俺は仲良くしてもらってね、毎日楽しくやってた。



コスビーの内装も最高に気に入ってたし、ジョニースペードの商品もちゃんとコンスタントにリリースしできていた。INNSANITYも2ndアルバム「justice?」を発売できたり、ジョニースペーも「ストリートバイカーズ」にも毎月、掲載されていて俺はお客さんとの出会いを楽しんで商売というものを苦しくも楽しく満喫できていたと思う。



店をオープンして3年経ったある日、俺がテナントとして入ってるビルのオーナーに「半沢さん、少し話があるんだけど・・・」なんて言われて・・・俺はそのビルにある社長室に呼び出された。



何か社長の顔が神妙だったんで、嫌な予感はしたんだけどね。



それは的中した。



「このビルね、来年の一月には売ろうと思うんでね、ちょっと考えてくれないか?」とのことだった。



俺はせっかく店舗を出したのに、三年目でもう移転しなくちゃいけない状況になってしまった。

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というわけで俺は三年目にして店を移転しなくてはならなくなった。



せっかくコスビーや仲間達が作ってくれたお店だったんだけど、ビル自体が取り壊しになってしまうのでは抵抗しても仕方がなかった。



唯一の救いはこのビルのオーナーが若いのに昔気質の人で、このビルに入っていた全部のテナントの移転費用を出すと言ってくれたことだった。



結局、1月にその話が本決まりになって4月までには移転しなくてはいけなくなった。



1月になって俺は同じテナントとして入っていたスクライブタトゥーのコウさん、美容室アンジの松田さんと頻繁に話をしていた。



やはり皆、お客さんが大事なので移転するにも、今の場所の近くが良いってことになっていた。常連のお客さんたちも、この場所に馴染んでるわけだしね。



離れた場所に店を移転しちゃうとまた改めて新店舗を出すような状態になってしまい、一から全てやり直しという場合にもなりえる可能性もある。



この辺は一応、仙台の中心部「一番町」なので、手ごろな大きさの物件はなかなか空きがない。今と同じ家賃で大きさの丁度良い場所はなかなか見つからなかった。



最初に動いたのはスクライブタトゥーで、本町の方に場所を決めて移転の準備を着々と進めていた。結構、場所が離れてしまったんだけどコウさん達は顧客が多いので、移転に関してはあまり問題がないようだったよ。



俺は本当にどうしようかな?って感じだった。もう店を辞めてもいいかな~って感じでもあったね。良い場所があれば移ろうなんて感じだった。



もともとジョニースペードは小さなマンションで10年も卸売をやっていたので、表に出るショップを経営したことによって自由な時間や商品を考える時間を失うことが俺にとってはストレスにもなっていたし、経費もかかりすぎてると感じたからだ。



しかし、ショップをオープンしてみて・・・色んなお客さんと話ができたり、全国からジョニースペードを尋ねてくれるお客さんもいてくれたり、雑誌に掲載されたりとジョニースペードのヘッドショップというのは失いたくないという気持ちはあった。



俺はいつも通りに無理矢理何かを決める事はしないで「波」に身を任せる手段に出ていた。期限まで精一杯動いてみて、良い場所がなければ店は閉店。良い場所があれば店は移転して継続って感じだった。



運任せというのは人によっては何も自分からは動かないだらしない人間って思うかもしれないけど、俺は必然的な偶然を信じるタイプなんでね。昔からその方が俺は俺らしい人生を送れそうな気がしてるんだけど・・・それが良いか悪いかは判らないけどね。


理解しにくいかもしれないけど・・・俺は運命じゃないのに無理して動いてしまって失敗する時がある。



強烈な波動のアクションを運命に加えると強烈な反動が戻って来る時が多い人種なんじゃないかな?って思う時があるね。



なるべく運に任せて、ゆっくりした波動で浮いて生きてるのが俺には似合ってる人生なんだわ。だけど運命だと思ったら・・即決するようにしてる。



それは俺の中で全てがイエスになっていて迷いが一つもないから即決できる。俺自身が欲してるのが手を取るように理解できるからなんだけどね。



イエスの言葉まで、それまで運任せにしちゃったら俺は何も決断できない人間になってしまうわ。



とにかく俺は運命の場所を待つ日々になっていた。

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移転という問題を抱えた俺は、最初に今のラウドミュージアムの場所を紹介してくれた内海君に連絡をした。



内海君はもう不動産業を辞めてしまって、違う業種の仕事をしていたのでもう何処のテナントが空いてるかは分からないとのことだった。



しかし、前の不動産屋の人を紹介してくれて、俺は電話をしてその不動産屋に行って空いてる物件を紹介をしてもらったんだけど正直、これだ!という物件はなかった。



俺は「昔みたいにどこか小さな郊外のアパートでやっていこうかな・・」なんて気持ちの方が強くなっていた。



そりゃ、ショップをやってお客さんと直に触れ合っていきたいけど、自分が納得いかない場所でショップを経営するのは嫌だなぁ・・・と思っていたね。



ショップをオープンさせるには敷金礼金、内装費・・etcとお金が随分とかかる。一度、オープンしたらそこがダメだからあちらの場所に・・・とはできない。それゆえショップの場所にはこだわりたいという思いがあった。



もともと俺はジョニースペードを大きく事業としてやっていこうとか、金儲けをしたいとか、そんな気持ちはそんなになくてジョニースペードも、そしてバンドも「自分の探求」としか思ってない。



昔から「波」に任せて自然に生きてるだけなんでね。



「何でこのデザインがカッコイイと俺は思うのか?」



「何でこのメロディが心から湧き出てくるのか?」



ガキの頃からその「自分」の中にある謎を突き詰めて「商品」というものにしてきただけで、それを皆が「カッコイイ!」って言って買ってくれる事に至福の喜びを感じているようなもんで。



その購入という行動がみんなから俺への評価だと思ってる。



まぁ、とにかく俺はそんな感じなので移転の時期が近づいてきてはいたものの、そんなに焦ってはいなかった。良い場所が見つからないならまた昔みたいに小さな事務所を借りてやるだけだって思ってた。



そんなある日、ラウドミュージアムから歩いて一分もしない場所のホットドッグ屋さんが店を辞めるという情報が入った。まだ誰にも知られてない情報だった。



「あそこだったらOKだ!」 話を聞いた時に俺の中ではもうOKサインが出ていた。焦って他の場所にしなくて良かったという思いと、同時に場所を待っててラッキーだという気持ちがあった。



ただホットドッグ屋を辞めるだけで、オーナーと場所はそのままで業種を変えるだけということもありえる。俺はその場所を担当してる不動産屋を調べて話を聞きに行った。



その不動産屋の人は「ホットドッグ屋さんがあの場所を出るとはオーナーからは聞いていない」とのことだった。俺は名刺を出して念入りに・・そしてしつこく(笑)「あの場所が空いたら大至急、連絡をください」といって不動産屋を後にした。



ホットドッグ屋がその場所を出るのは確実ではないし、俺は4月までには移転しなくちゃいけない。ということは内装に1ヵ月かかったとしても3月までには場所を決めなくてはいけないというタイムリミットもあったので他の場所も探しておかなくてはならなかった。



そういうわけで、移転の状況は何一つ変わってはいなかった。



そんな感じで過ごしていたある日、ホットドッグ屋のテナントの担当の不動産屋から電話が来た。



「どうも、どうも!あなたが言ってた通りでホットドッグ屋さんがあそこを出るらしいんですよ。どうします?」



「どうしますって・・・入るに決まってるじゃないですか。ヨロシク!」って俺は言ったよ。



ラウドミュージアムの移転の場所は今の場所から歩いて一分もしないホットドッグ屋のあと場所に決定した。現在のショップの場所なんだけどね。



「また内装かぁ・・」 ラウドミュージアムをカッコよく内装してくれたコスビーはもう大工を辞めてしまって違う仕事をしていた。しかもコスビーは大工道具を全て捨ててしまって、「もうやらない」って言ってたので俺は頭を抱えたよ。



とりあえず俺はコスビーに電話をした。ラウドミュージアムはロックンロールを熟知するコスビーの内装感覚で・・・俺は日々それに包まれていて居心地が良かった。どうしてもコスビーに頼みたかった。



コスビーに俺は移転の事情を話した。せっかくコスビーが頑張って内装してくれたラウドミュージアムもビルが取り壊す工事に入れば無くなってしまうことも伝えた。



コスビーは電話で「そうですか・・・ビルが取り壊しなら仕方ないですよ。新しい半沢さんの店の内装はもうやりません。道具も捨ててしまいましたし。スイマセン」と言ってた。



俺はコスビーに「じゃあ、デザインだけ考えてくれないか?コスビー、何とか頼むわ」って言った。



コスビーは「浮かべば考えておきます」って言ってた。



俺はコスビーのデザインの店でやりたいけど、コスビーが乗る気じゃないなら・・もう仕方がないなって思ってたよ。



そんな感じだったので違う内装のパターンも考えなくてはならなかった。ジョニースペードを昔から手伝ってくれてるアッキーに「仙台でカッコイイ内装をやるのはどこよ?」って聞いたら「半沢さんの好みだったら三浦さんでしょうね!」と即座に返答が返ってきた。



ジョニースペードの個性ならもっと真っ黒にしてロカビリー風に、もっとバイカー風に・・・って思う人もいるだろうけど俺はショップを閉めた時の事を考えてしまうんだよね。



あまりペンキなんかで個性的にすると・・居抜で場所を譲ったりというのは不可能になってスケルトン(何もない最初の状態)渡しの状態にできないということになってしまう。元のスケルトンの状態にするのにまた業者に頼んでお金がかかったりするわけでね。



できれば店を閉めるときには次の人がそのまま居抜の状態ですぐにでも営業できるような状態にしたいと思ってる。アパレルであれば今のラウドミュージアムはどんなジャンルでも対応できる内装になってるよ。



三浦さんの内装のイメージには「塗り壁」、「鉄」、「アンティークの木」など素材と雰囲気にこだわった徹底したシンプルなイメージが俺にはあった。アメリカというよりヨーロッパの雰囲気でハイセンスで高級な感じがあったね。



ビルのオーナーが移転費用を出してくれるといっても予算は限られてる。三浦さんに頼んだら・・予算が全部無くなってしまうんじゃないかな?って思ってたよ。



三浦さんの会社「ブルーサロン」は実は近所に会社を構えていたので、俺は一応、話だけでも・・・と思い三浦さんを訪ねた。

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俺は三浦さんの会社「ブルーサロン」に行った。



三浦さんは俺より少し年上でカッコイイ大人って感じの人で物腰は柔らかい人だった。


三浦さんの手がけたショップの写真を見せてもらったんだけど、モダンなセンスに溢れていてシンプルな感じが伝わってきた。



事務所に無造作に置いてある木材、レンガ、鉄なんかは古っぽい感じに加工されていて、俺の好みだったよ。



三浦さんに4月までに移転しなくてはならないこと、今度の場所は近くのホットドッグ屋の後になること、予算は限度があることをそのまま伝えてみた。



三浦さんは「了解!やりましょう。予算内でやりますから」って言ってくれた。俺は三浦さんには高級なイメージがあったから限りある予算内でOKしてくれたことにとても感謝したよ。



今度の内装のイメージは三浦さんも一緒に考えてくれるってことで話は終わった。



俺は店のイメージを大至急、考えなきゃいけなくなったんだけど、今度の場所は細長い長方形の感じなのでなかなかイメージが浮かばない。



真っ黒で鎖を多用した店、それとも前回のようにグレッチのイメージでオレンジステインの木材を全てに貼り付ける店・・・色んなショップの内装の写真を見ながら頭を悩ませていた。



結局、その日は何も浮かばなかった。



次の日、店でまた色々考えていたら、なんとコスビーが来てくれた。



コスビーには電話をして内装の件を頼んではいたけど、この頃の俺とコスビーはしばらく会ってなかったし、電話でも今回の内装の件にコスビーがあまりやる気がない感じだな・・・と俺は捉えていた。



コスビーはいつものポーカーフェイスで「ハイ、半沢さん、プレゼント」って何かをデッサンした紙を渡してくれた。



それは今度の新しいラウドミュージアムの内装のデッサンだった。



前回と全く違うコンセプトで例えると前回がブライアンセッツァーだとしたら、今度はデビッドボウイの感じ。アメリカじゃなく、ヨーロッパのイメージだった。



壁は塗り壁で刷毛の跡を付けるセメントのような白



床はあえての白のタイル



ポールやハンガー台は黒く燻した鉄に黒鉄の蔓を巻きつける



什器は流木を使った枯れた感じ



事務所と店舗の仕切りの壁はダイアモンドカットの革張りのクッション





俺は考えもしなかったこのデカダンスなイメージに驚いた。そして同時にこのコスビーという男の才能とセンスに脱帽したわ。



当然、気に入った。コスビーが俺の為に考えてくれたこのイメージをどうしても形にしたいと思ったよ。



店の営業を終えて、三浦さんの事務所にコスビーを連れて再び訪問した。コスビーは今回はデザインのみで内装はブルーサロンに全てお願いするって段取りで行くことになった。



三浦さんは前のラウドミュージアムの内装をコスビーが一人でやったという事にまず驚いていて、そして今度のコスビーの新しいラウドミュージアムのデッサンを見つめていた。



ここから三浦さんとコスビーの素材やイメージなどの専門的な用語が飛び交うディスカッションが始まってしまったので俺は蚊帳の外だわ。




コスビーはそのデッサンの内装の見積もりを大体ではじき出していたみたいで、それを聞いた三浦さんは「ご名答!」みたいな感じで・・・俺からするとクイズバトルのような感じだったね。



コスビーは俺が予算が少ないのを分かっていて、あえて床に学校で使うようなピータイルを使用したり、仕切りの壁を合皮にしたりと何かと予算を気にかけた内装のデザインをしてくれていた。



雪の降る中、新ラウドミュージアムの内装は始まりました!



ではではラスト!

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そしてラウドミュージアムは3年位前に今の場所に移転しました。



この場所に来てから・・また流れというものが微妙に変わったと思う。



俺のデザインだけではなく、スイギングスキンのツバメ君、RYO君、ROCK54の力を借りて、よりジョニースペードというブランドを多角的にしようという気持ちが強くなったね。



俺を「洋食」の料理人に例えて「豚肉」を使った料理を考えなければならないとする。



俺はその「豚肉」で考えに考えた「ポークソテー」を料理するわけだ。



しかし、お客さんは俺の作る、その「ポークソテー」を毎日食べていたら、その味に飽きてくる。



では、そこにツバメ君を「和食」の料理人に例えて、同じ素材の「豚肉」の料理を考えてもらうというテーマを出してみる。



ツバメ君はその「豚肉」という素材で考えに考えた「豚肉の竜田揚げ」というものを作ったとする。



お客さんは同じ「豚肉」という素材を使った料理でもテイストが今までとは全然違う「豚肉」の料理を食べられるわけだ。しかも同じ店で。



「豚肉」を「スカル」や「スペード」なんかに差し替えてみると意味がなんとなく理解できると思う。



バッドテイストのアイコンなんて昔からほとんど決まってる。しかしそのアイコンを使用しなければバッドテイストを表現できないのであればアイコンの多様化より、デザイナーを増やした方が同じ「スカル」というアイコンでもデザイナーごとに全然違う「スカル」の商品があって、お客さんは新鮮で楽しいんじゃないかなって思った。



そんな風に俺は考えるようになってきて、前述に上げた三人のデザイナーの血をジョニースペードに注いでいくようになっていった。



俺はこの三人のデザインのファンでもあって、是非、これからもそのアートでジョニースペードを良い意味変えていって欲しいと思ってます。




それとスタッフで昔から手伝ってくれているアッキーの他にナナミンがスタッフで入ってくれたのも、この店の場所に移動してからだね。



設立してもう2年位になるジョニースペードのレディース、チャイルドラインのジョニースペードロックビューティーや店舗での販売を一手に引き受けて頑張ってくれてます。「NIGHTBIRD」も順調で、CD-Rではあるけども発売すれば必ず売れるみたいな雰囲気になっていることに俺は嬉しく思ってます。




「病んだ時代だから・・あえて光のある明るい希望のある曲を演りたいです!」ナナミンは言ってた。



俺はそのポジティブな姿勢と意志に感心してたりするし、現実を突き刺すINNSANITYとは逆の理論ではあるけど、NIGHTBIRDはナナミンが言うようにそうでなくてはならないなとも思ったりします。


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この場所に移転してから店に来てくれるお客さんも常連さんから新規の若いお客さんまでと色々と幅が増えてくれました。いつも・・・いつでも本当に感謝してます。



もともと「ジョニースペード物語」っていうのは「ブランドをやってみたい!」とか「お店を出したい」とかという店に来てくれてるお客さんに向けて書き始めたわけなんだけどねぇ~・・何だか俺の苦労自慢で自画自賛物語になっちゃったね。



俺はクリームソーダの山崎社長みたいに大成功したわけでもないし、ジョニースペードなんて小さなブランドは物語なんて書けるレベルでは全然ないんだけど・・・まぁ、金もない、コネもない、器量もない人間でも何とか好きなことをやって生きれてるってことを書きたかったわけで。



もっと沢山面白い話はあるんだけど、ネット上なので色々と書けないこともありまして・・・それは勘弁してください。



大体、許可も取らないで個人名出しちゃったりしてるしなぁ・・・。



まぁ、いいか。



読んでる人それぞれに価値観や常識は違うので、もし何か嫌に思った箇所があれば申し訳ない。



とりあえず、俺はこの店を閉めたりしない限り、毎日このラウドミュージアムに居ます。



これからも時代がどうであれジョニースペードが続く限りは自分がカッコイイと思う商品をリリースして続けるだろうし、音楽の方も同様で続く限りはINNSANITY、NIGHTBIRD、DOGDAYAFTERNOONと作品をリリースしていくと思う。



気に入ったら買っておくれよ。



不景気だからね、無理はしないよーに。



「ジョニースペード物語」読んでくれた皆様、本当にありがとう。

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ジョニースペード物語 半沢 誠 @johnny

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