第百七十八章 教習
フワフワの床を飛び跳ねて、ポルーンが戻ってくる。ぬいぐるみのような手には、橙色の風船を持っていた。ポルーンは、それを聖哉に手渡す。
「この風船に僕のオーラが入ってるっちち」
そしてポルーンは私を見て、優しげに微笑む。
「こっちは女神様のぶんだっちち」
「わ、私の? もしかして、私もそのスキルが使えるようになるの?」
「悪いけど、僕のオーラは一人にしか譲れないっちち! これは、お詫びの風船だっちち!」
熊の形をした可愛い風船を受け取りながら、ポルーンを見る。数分前の危ない感じは全く垣間見られない。
「ありがとね」
私はポルーンに礼を言って、風船を受け取った。私の隣で突如、パンと音を立てて聖哉の風船が割れる。中に入っていた橙色のオーラが聖哉の体を包んだ。やがて体に染み込むようにしてオーラが消える。
聖哉は両手を何度か握って、ポルーンのオーラが体に馴染むのを確認しているようだった。が、不意に私に目線を送る。
「よし。行くぞ、リスタ」
「え?」
「オーラは会得した。後は自分でこのスキルを熟練させる」
「そ、そう」
聖哉がスタスタと歩き出す。私は置いて行かれないように慌てて聖哉の後を追う。
聖哉が絵のようなドアを開くと、
「それじゃあまたね、だっちち!」
ポルーンの声が聞こえて私は振り返った。お別れに手を振ろうとした時。
「ひひひひひ!」
ポルーンの顔がまたも邪悪に歪んでいたので、私はビクッとする。聖哉は有無を言わさず、ポルーンの家の扉を閉めると、そのまま振り返りもせず歩き出した。
ウノ邸に戻ると、聖哉は宣告通り、ポルーンから得たスキルを磨くと言って、自室に籠もってしまった。
私は所在無げに居間のソファに一人腰掛ける。ポルーンに貰った可愛い風船を見詰めながら、つい先程のことを思い返した。
ポルーンもさることながら、聖哉も少し様子が変だった。普段の聖哉なら、バルーン・ハウスに残って、より深くスキルを極めるのではないだろうか。聖哉は冥界に三日間滞在すると言っていたから、バイク合成の時間を除いてもまだ余裕はある筈。なのに、一刻も早くあの場から立ち去りたいといった様子だった。
勿論、私もポルーンに対して、逃げ出したいような不気味さは感じていた。今までの冥界の者と違って、ポルーンには得体の知れない怖さがあった。
――まるで、殺意に近いような……。
思い出してブルッと震える。その時、居間のドアがガチャリと音を立てて開かれた。「ひっ!?」と驚くが、入ってきたのはセルセウスだ。
「もう。驚かさないでよ」
セルセウスはのそのそと歩くと、私の対面のソファに倒れるようにして腰を下ろす。
「はぁ……」
そして、溜め息。セルセウスも何故かグッタリ疲れた様子で肩を落としていた。
「どうしたの?」
「いや……ウノちゃんとご飯作ってたんだけどさ。何だか様子がおかしいんだ」
「吐血でしょ。それ、ウノちゃんとドゥエの癖だから、慣れてあげないと」
「違うんだよ。ウノちゃん、たまに笑うんだ。『ぎげげげ』って」
「えええ? ウノちゃんがそんな笑い方する訳ないじゃない!」
「笑うんだって! 夕飯作ってる時も、心ここにあらずって言うか……俺、怖くなってきてさ」
セルセウスは真剣にそう言うが、私は真に受けていなかった。他の冥界の者ならいざ知らず、ウノとドゥエは冥界で唯一頼れる常識ある兄妹だからだ。
事実、その日の夕飯時、ウノにさしたる変化はなかった。いつも通りたまに吐血はするが、それ以外は普通。セルセウスと一緒に作ったという肉じゃがを嬉しそうに運んできた。
変化があったのは聖哉の方だった。ウノが食卓に運んできた肉じゃがの皿を睨むと、
「セルセウス。先に食え」
「は、はぁ。じゃあいただきます」
聖哉はセルセウスが食べるのをしばらく眺めていた。その後、肉じゃがを自分の皿に取ると、匂いを嗅いだ後でようやく口を付けた。
――まるで、初めて冥界に来た時みたい。
毒見でもするような素振りに私は違和感を覚えたが、聖哉の用心深さはセルセウスもウノも既に知るところである。ウノが笑いながら言う。
「た、確かにこの時期は食材が傷みやすいですからね! でも大丈夫ですよ!」
「そうっすよ、聖哉さん! ちゃんと火も通したんで!」
セルセウスも続けてそう言った。聖哉は黙って静かに肉じゃがを平らげた後、「バイク合成をする」と席を立った。
二日目の朝。
バイク合成の様子を見に行こうとして、ウノ邸の前庭を横切ろうとした時、私はドゥエの花壇が荒らされていることに気付いた。ドゥエが毎日水やりをしている花が全て引き抜かれ、無惨に踏み潰されている!
「な、何よ、コレ!! 酷い!! 一体誰が!?」
「……僕だよ」
声がして振り向く。そこには、やつれた顔のドゥエが佇んでいた。
「ドゥエ! 体調は良くなったの……って、えええええ!? 今『僕だよ』って言った!? 自分で花壇、荒らしたの!?」
ドゥエは引き抜かれて、しおれた花々に目を落とした。
「気付いたんだ。花は散る時が一番美しい。いや、花だけじゃない。全ての生命は消え去る時の方がきっと……」
ドゥエは片手で頭を押さえていた。苦しげだった顔に突然、歪んだ笑みが浮かぶ。
「ぐひゃ! ぐひゃはは!」
「!! ドゥエ!?」
ドゥエの口から聞いたことのない哄笑が漏れた。だが、私の声でドゥエはハッと気付いたような表情になって眉間を押さえた。
「頭が……頭が痛い……」
「や、休んでた方が良いよ! 体調、まだ悪そうだし!」
「最近……吐血の量も増えてきた……自分の体に何が起こっているのか分からないんだ……」
ドゥエは不安げにそう漏らした。肉体的な病なのかも知れないし、精神的なものかも知れない。どちらにせよ、冥界の者の症状が私に分かる筈もなかった。
「冥王って何でも知ってるんだよね? 相談してみたらどうかな?」
「あ、ああ。そうだね。それは良い。ありがとう……」
ドゥエは私に感謝すると、ふらふらと家の中に入っていった。
――ホント、大丈夫かしら。
聖哉にも伝えておこうと思って、庭の裏手に回る。その瞬間、私は目は見張った。
聖哉の前に、ジョンデの愛車に勝るとも劣らぬ立派なバイクが完成し、停められていた。無論、ピンク色ではない。むしろジョンデのバイクよりもメタリックな部分を少なめに、全体的にブラックで統一されている。聖哉のことだから、暗めの色使いで敵から発見されにくいようにしているのかも知れない。いや、多分だけど。
聖哉は私に気付くと、傍らにあるもう一台のバイクを顎でしゃくるようにして示す。
「ジョンデのバイクもほぼ同じに復元した。これで文句は言われん筈だ」
バラバラに分解されたジョンデのバイクだが、盗んできた時と――もとい、借りてきた時と全く違いが分からないくらいに復元されている。少なくとも私には違いが全く分からない。
「完璧ね!」
自分のバイク合成にも成功し、ジョンデのバイクも元通りにした。なのに、聖哉は首を横に振る。
「ここからが本番だ。試運転せねばならん」
そして聖哉はバイクに跨がり、エンジンを始動する。低くて重い排気音が心臓の鼓動のように庭に響いた。
「うむ。良い感じだ」
いつの間に作ったのか、聖哉は黒色のヘルメットを被る。頭部がすっぽりと収まるフルフェイスだ。聖哉はバイクに乗って、ゆっくり庭をぐるりと回った。
「すごい、すごい! ちゃんと動くじゃない! もっと速く走ってよ!」
「焦るな。しばらくは慣らし運転をせねばならん」
聖哉は冷静にそう言ったが、私のテンションは爆上がりである。
「えへへー! 私も後ろに乗りたいなぁー!」
にへらーと笑いながら、私は聖哉のバイクの後ろに近付く。不意に聖哉がエンジンを切った。
「お前の分は既に用意してある」
「え? 用意って?」
バイクを降りた聖哉が庭の奥から運んできたものは、一見、小さなボートのようだった。聖哉がそれをバイクの隣に横付けする。
「お前はコレに乗れ」
「さ、サイドカー……ですか……!」
――最近あんまり見ないやーつ!!
私は心の中で叫ぶ。私が愕然としている間も、聖哉は淡々とサイドカーの説明を続ける。
「セルセウスの車椅子をベースにして合成した。無論、お前用のフルフェイスも作ってある。……何だ? どうした?」
「い、いえ! うん、ありがと」
私はぎこちない笑みを浮かべていた。あーあ、サイドカーかあ。後ろから、聖哉にしがみつきたかったのに!
だが、それは単なる私の願望。安全を考慮すれば、サイドカーの方が良いに違いない。
――そうよ! 聖哉とツーリング出来ることに変わりはないんだから!
「じゃあ、このサイドカー、乗らせて貰うね!」
「うむ。どうせなら、こちらで試運転しよう」
そう言って聖哉は、サイドカー付きのバイクを裏庭の更に奥まで押していく。私は後を追って――目前の光景にポカンと口を開いた。
S字に引かれた白線! 土を盛って作られた傾斜! ウノ邸裏庭の奥まった箇所は、さながら教習所と化していた!
「コースまで作ったの!?」
「敵と戦う前に交通事故に遭えば、目も当てられん。充分に練習をしておく」
「そうですか……」
相変わらずの慎重振り! う、うん! でも、まぁそうよね!
「免許がないなら、しっかり練習しないとね!」
「いや。大型自動二輪免許なら持っているが?」
「!? あるんかい!!」
免許は持っているらしい。なのに冥界で、聖哉の二輪運転講習が始まろうとしていた。
それでも私は、ワクワクしながらヘルメットを装着して、聖哉の隣のサイドカーに腰掛ける。まぁ、いいや! 聖哉の運転で初ドライブ! 楽しみっ!
ちらりと横の聖哉を見る。前も思ったが、バイク姿がとってもサマになっている。
――うーん! やっぱり格好良いっ!
しかし、そう思ったのは最初だけだった。聖哉はエンストを起こしそうなくらいの超低速でコースを周回した。『風を切ってコースを駆け抜ける』――そんな空想をしていた私は、歩くのと変わらぬ速度に言葉を失っていた。
更にS字に差し掛かった時。聖哉がぼそりと呟く。
「……右に曲がる」
きちんと曲がる方向を口にした後で、聖哉は右手を水平に伸ばす。
――こ、こ、これはまさか……!!
「……停止する」
一時停止する時も、聖哉は左手を斜め下に下ろした。私は溜まりかねて叫ぶ。
「『手信号』て!! クソだせえな!!」
「何がダサいだ。安全第一だろうが」
「だって!!」
手信号とか今時こんなん、誰もやってなくない!? いや、良いことなのかも知れんけど!!
しかも聖哉は右左折時、きちんとウインカーを出しているのだ。『ウインカー+手信号』。逆にやることが多すぎて危ないんじゃないかと思う。
「はーあ……」
私はがっくりと項垂れた。安全重視のサイドカーに、亀みたいな低速。極め付けは、公道でやる人はほぼいないであろう手信号。
聖哉の背中に抱きついて『キャア、速ーい』などと宣いたかった私の妄想は、見事に打ち砕かれたのでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。