第3話

槙の家に案内された村上は、その古風な造りの佇(たたず)まいになんだかホッとしながら玄関を入った。


「すごいな、やっぱり」


広い座敷に通されると、そこにはおびただしい数のトロフィーや楯、賞状がところ狭しと並べられ、それらに囲まれるように家具調の仏壇が設えてあった。

そこかしこに須藤卓の栄光が輝き、写真の中の彼も煌めいている。


「線香、上げていいかな」


一通り卓の功績を見渡した村上は、潤んだ目で槙を振り返った。

小さく頷いた槙は、ろうそく代わりのキャンドルに火を灯す。

美しいクリスタルの香立てに白檀の線香を立てて、村上は静かに手を合わせた。


「何だか、やっと会えたって気がするよ。須藤、ありがとうな」


村上は卓の写真を眺めながら穏やかに言った。

手に取っているそれは、卓が大学1年で箱根駅伝2区を走った時のものだ。

肩から大学名が入った襷がかかっている。

“花の2区”と謳われるそのコースで、卓は15位という順位で入ってきた1区から襷を受け継ぎ、13人抜きの快挙を成し遂げた。

一気に上位に食い込んだペースはその後、選手によってばらつきはあったものの最後までひどく落ち込むことなく、総合順位6位という成績を残すことができた。

毎年出場するものの一度もシード権内に入ったことのなかったその大学に、卓は大きな旋風を巻き起こしたのだった。

残念ながら区間新記録まではいかなかったが、その年の区間賞は当然のように手にした卓は、大型新人としてかなりメディアにも取り上げられた。


「父が須藤卓を知ったのは、この箱根駅伝なんだ。すごい選手が出てきたって思ったらしいよ」


当時すでに実業団に入っていた村上の父は、卓の精悍な顔つきとその走りにくぎ付けになったようだ。


「俺さ、この大学に入りたいんだ。小さい時から父に、須藤卓の大学で箱根を目指せって言われててさ。一時(いっとき)反発もしたけど、父が亡くなった今その夢を叶えてみたいって思って」


槙は熱く語る村上をじっと見ていた。


「あ……、俺ばっかしゃべってるな、ゴメン」


慌てて口をつぐむ村上に、再び槙は笑いがこみ上げる。


「村上先輩、結構話すんですね。今まで見たこと無かったから、ちょっと驚きました。今日は特別ですか?」

「特別だよ。ずっと憧れていた人にやっと会えたんだ」

「ありがとうございます。そう言っていただけて、父も喜んでいるでしょう」


槙は仏壇の中で笑っている卓の写真を見つめながら言った。

槙の視線につられて、村上も仏壇に目を遣る。


「かっこいいな、ホントにすごい人だよ」

「父には陸上しかありませんでしたから……」


寂しそうに笑いながら槙はつぶやく。

そんな様子に、村上の胸がキュッと縮んだ。

しかし。

……俺は今、場違いなことを考えている。

コイツも父親に負けず劣らず、かっこいいよな……。


「先輩、コーヒー飲みます?俺、淹れてきます。それともお茶がいいですか?」


槙の声に、ハッと気づく。


「コーヒーにしますよ?」

「あ、ああ、頼む」


ごまかすように、村上は手にしている写真をもう一度食い入るように見つめた。

ちょうど槙と同じくらいの年頃の卓は、槙に雰囲気がよく似ている。

確かに親子なんだなと納得しながら元の場所に戻して、他の写真も見まわしてみる。

その中に、ふと見知った顔を見つけた。


「あれっ、多田コーチだ」


卓と肩を組んで満面の笑みで写真に納まっていたのは、若かりし頃の陸上部コーチの多田だった。

須藤卓と知り合いだったんだ。

槙がトレイにコーヒーを載せて部屋に戻ってきた。


「なあ、コーチとお父さん、知り合いだったの?」

「父とコーチは大学の同期ですよ。知り合いどころか、うちはずいぶんお世話になっています」

「え、コーチとオマエってもしかして、入部前からの知り合いだったのか?」

「はい、俺が赤ちゃんの時から知ってますよ」


そうだったんだ!

多田コーチがこの大学出身だとは知っていたけれど、自分は箱根駅伝には結局出られなかったんだという話くらいしか聞いたことが無かった。


「じゃあ、須藤が陸上部に入ってきたのって、偶然ってわけじゃなさそうだな」

「察しがいいですね。コーチに勧められて」


そうか、多田コーチは最初からコイツに素質があるって分かってたんだな。

実際、この1年半の成長ぶりは目覚ましいものがあった。

長距離だったら、俺や凱斗と互角……それ以上になったかもしれない。


「なあ、お父さんが長距離なのに、なんで須藤は短距離にしたんだ?」

「陸上をやるって決めたときに、コーチにひとつだけ条件を出したんです。父と同じ長距離はやらないって」

「なんで……」


一瞬槙の目に光が宿り、村上の視線を射貫いた。

ウッと言葉に詰まる。

聞いてはいけないことだったか?


「本当は俺、陸上なんてやりたくなかったんです」


フイッと視線を逸らして、槙は小さく呟いた。

えっ、陸上はやりたくなかったって言った?

何で?

もっと聞きたいことがあるのに、さっきの視線がこれ以上の質問を拒否しているようだ。


「まあ、いいよ、無理に話さなくたって。何にせよ、須藤とこうして一緒に陸上できるのが俺は嬉しい」

「すみません、隠すようなことでもないんですけど」

「コーヒーもらっていい?」

「あ、そうですね、ちょっと冷めちゃったかな」


チェストの上に置きっぱなしにしていたトレイから、コーヒーを手渡す。

さりげなく話題を逸らしてくれた村上にホッとしながら、槙はコーヒーを口に運んだ。

村上先輩。

今までは凱斗と仲がいい先輩、とくらいしか思ってなかった。

父さんを目指しているんだ、この人……。

嬉しいような胸がざわつくような、複雑な感情が胸の中に渦巻いた。

父さんと同じ長距離を選ばなかったのは、実は母さんの願いだ。

大学時代、陸上部のマネージャーをやっていた母さんは、俺を宿して父さんと結婚した。

母さんはいつも言ってたよな。

父さんはどんな時も最高の長距離ランナーなんだって。

自分には父さんしかいないって。

それは一見微笑ましく見えるけれど、俺は寂しかった。

どうして母さんは、父さんが生きている時に俺に陸上をやらせなかったんだろう。

意図的に陸上から遠ざけて、合気道を極めさせようとしてたよな。

どうしてそこまで徹底してたんだろう。

急に黙りこくって何か考え込んでいる槙を目の前に、村上は所在なさげに視線を泳がせた。


「須藤、今日ありがとな。俺、帰るわ」


ハッと気が付いて、慌てて槙は村上を放ったらかしにしていた失礼を詫びた。


「す、すみませんっ、何かいろいろ考え込んじゃって。もっとゆっくりしてって下さいよ」


焦った顔が、ほんのり赤らんでいる。


「ははっ、いいって。今日は突然だったんだし」

「また来てください」


照れたように髪を掻き上げてはにかむ様子は、この言葉が社交辞令じゃないことを物語った。

村上はもう一度仏壇に手を合わせて、槙の家をあとにした。

村上が帰ったあと、槙はぼんやりと卓の写真を眺めていた。

今どき卓を目指して陸上をやっている人がいるなんて、思いもしなかった。

そんな奴は自分だけだと思っていた。

卓は5年前、ひっそりとメディアから姿を消した。

それはまるで、気が付けばいつの間にかテレビで見かけなくなった芸能人のようだ。

3年前サラリと流れた訃報に一瞬周囲が騒がしくなったけれど、それもすぐに収まった。

もう誰の胸の中からも、卓の存在は消えただろうと思っていた。


「父さんが見てきた世界、村上先輩が見ようとしてんだな」


コーチは“父親の世界を見ろ”と、槙を陸上の世界に引き入れた。

でも、競技が違えば全く同じ世界を見ることは出来ない。

卓が村上の中で生き続けていることを嬉しく思うと同時に、息子である自分には見られない、卓と同じ世界に入っていく彼をうらやましく思った。

部屋はすでに真っ暗になっていた。

槙は障子をそっと開けた。

西の空に一番星が輝いている。

父さんは俺の星になった。

俺は、誰かの星になれるだろうか。

誰かを導く光になれるだろうか。

槙は写真の中で輝く卓の笑顔を見つめて、寂しそうに微笑んだ。

                

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