続・夕暮れ滴<明日への扉>

第1話

8月も最終週に入った。

十日間のささやかな夏休みが終わり、グラウンドには再びホイッスルの音や元気のいい掛け声が響き渡り始めた。

真夏の日差しは衰えることなく、グラウンドを走る連中の頭上には未だ、うだるような熱が降り注いでいる。

それでもインターハイまでのあの殺気立つほどの情熱は、まるで遠い昔のことのようだ。


「須藤、ちょっといいか?」


練習前のストレッチをしている槙に、3年の村上拓が声をかけてきた。

克也と向かい合って右太ももの筋肉を伸ばしていた槙は、めずらしい相手に声をかけられたなと思いながら、ゆっくり頷いた。


「何ですか?」


足を左に代えて再び筋肉を伸ばしながら、槙は返事をする。

村上はチラッと克也を見た。


「猪瀬、ちょっと須藤借りていくな」


ここでは話せないことなのか?

益々もってめずらしい。

スプリンターの槙と長距離ランナーの村上は、同じ部内に在りながらもほとんど接点がない。

練習場所が違うこともあり、普段顔を合わせるのは全員が集まって行うミーティングの時くらいだ。

村上は大体、2年の長距離ランナー鈴木凱斗と一緒にいることが多かった。

克也も不思議そうに村上を見ている。

「ちょっと行ってくる」と、槙は村上の後についていった。

体育館の裏まで来て二人きりになったのを見計らって、村上はようやく槙を振り返った。


「悪かったな、こんなところまで呼び出して」

「いえ、どうしたんですか?めずらしいですね、村上先輩が俺に用があるなんて」

「ちょっと聞きたいことがあって」


わざわざ人気(ひとけ)を気にするような内容なのか。

一体何だろう。

槙には思い当たる節がまったくなかった。


「須藤卓って、須藤のお父さんなんだって?」

「え?」

「インターハイの時にスタッフが話しているのが聞こえたんだ。俺、全然知らなかったよ」

「すみません、隠していたわけじゃないんですが」


突然父親の話が出て、槙は少々面食らった。

隠してはいないと言いつつも、敢えて話さなかったのだからそう思われても仕方がない。

しかし、それがどうしたというのだろう。


「そうか、やっぱりそうなんだな」

「どうしたんですか、突然」


村上は言い出しにくそうに視線を泳がせる。

槙は無表情のまま、村上をじっと見つめた。


「あ……っと、お父さん……、その……、残念だったよな」


所々で詰まりながら、村上は必死に言葉を選んでいる様子だ。


「悪いな、こんな話。須藤も思い出したくないよな」

「話の内容がよくわかりません。ハッキリ言ってくださって結構ですよ」


槙は村上の言いたいことを胸の内で探った。

怪我の事だろうか。

それとも、父親の死に関することだろうか。

もし後者だとすれば、なぜそのことを知っているのだろう。

当時マスコミは何故か須藤卓にずいぶん好意的だった。

だからなのか、訃報の際に死因の報道を自主的に控えてくれたのだ。


「俺、タクって名前だろ?お父さんとは漢字が違うけどさ。父が須藤卓の大ファンで、同じ名前をつけたんだ」

「そうだったんですか」

「父も陸上やってたから、須藤卓は雲の上の人みたいな存在だったんだ。俺にとっても憧れの人でさ。それが、あの怪我だろ」

「…………」

「父も本当に悔しがってさ。当時俺中一だったから、その様子よく憶えてるんだ」

「先輩……」


一呼吸おいて、村上は辛そうに言葉を続ける。


「お父さんが亡くなったことも知ってる。どうして亡くなったのか……、父がネットでたまたまゴシップ記事のようなものを見つけてさ……」


どんなに好かれる人間でも、必ずアンチの存在がある。

どんな記事だったのか知りたくもないが、村上の様子からして随分面白おかしく書かれていたのだろう。

槙は小さく舌打ちした。


「須藤卓に俺のひとつ下の息子がいるのは知ってたよ。俺、幼稚園の時から陸上やっててさ、ずっとどこかの大会で会えるかなって思っていたんだ。息子なら絶対に小さい時から陸上やってるって思い込んでたんだよな。まさか去年からのパッと出のオマエがそうだなんて、思いもしなかったよ」

「父は陸上をやらせたかったみたいですけど、母が別の道を歩ませたいと思ったらしくて。父が亡くなったのをきっかけに俺、陸上を始めたんです」


槙は伏し目がちになりながら、前髪を掻き上げた。

その寂しそうな雰囲気に、村上は少し焦る。


「いや……、須藤ゴメンな」

「大丈夫ですよ。どうぞ話続けてください」


顔を上げて答える槙の目が、心なしか少し潤んでいるように見えた。

気丈な様子が痛々しい。


「何が言いたかったかって言うとさ、お父さんに会いに行きたいんだ、俺」


村上は困ったような笑顔で、噛みしめるように声を出した。


「俺の父も2年前に亡くなったんだ。亡くなるまで、須藤卓に会いたかったって言っててさ。あの世で会えるかな、なんて話してたんだぜ」

「いいですよ、いつ来ますか?俺のほうは、いつでも大丈夫ですから」


槙はグラウンドの方向に目を遣る。

もう練習は始まっているはずだ。

戻ってこない槙を、克也がきっと心配しているだろう。


「じゃあ、今日の部活が終わったら家に寄っていい?」

「今日ですか?分かりました。それじゃ」


約束が決まれば話は終わりだと言わんばかりに、槙は素早く背を向けた。


「あ、須藤、ちょっと待って」

「何でしょう?」


フイッと振り向いた槙は、確かに須藤卓に似ている。

柔らかい輪郭と真直ぐ通った鼻筋は母親譲りだろうか。


「凱斗も一緒に行っていい?」

「一人でお願いします。難しければ、また日を改めてください」


躊躇のない即答に、村上は一瞬たじろいだ。

あまり話す機会も無くてよく知らなかったが、コイツはずいぶんハッキリ物を言う奴のようだ。

のんびりとしたイメージだったけれど、案外気が強いのかもしれない。

まあそうでなければ、インターハイの表彰台には上がれないだろう。


「分かった、一人で行くよ。引き留めて悪かったな。行っていいぞ」

「はい、ではまた後で」


潔いほどあっさりした態度だ。

切れ長の目がチラッと村上を見遣る。

その一瞬の視線にドキッとする。

そういえばインターハイの選抜メンバーが発表された後、選出されなかった3年がコソコソと話しているのを小耳にはさんだことがある。

槙のことをひどく裏表のある奴だと言っていた。

その時は何を言っているのだろうと思っていたが、今の対応を見ると何となく分かる気がした。

槙に遅れてグランドに戻った村上に、凱斗がすぐに駆け寄ってきた。


「先輩、どこ行ってたんですか。コーチが探していましたよ」

「ああ、すぐ行く」


村上はさりげなく槙を目で探した。

短距離のコースの近くで、スプリンターの連中と話をしているのが見えた。

克也と山本大樹が何かふざけてみせたのか、無邪気な顔で笑っている。

あいつらの前では、あんな顔してんだよな。

あの屈託のない笑顔を自分に向かせるためには、どうしたらいいんだろうか。

無意識のうちにそんなことを考えている自分に気が付いた村上は、苦笑いをしながらコーチの元へと走っていった。

                 

 

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