第4話

インターハイを目前に控えた7月下旬、いよいよ練習も大詰めに入った。

部全体が殺気立った空気に支配されている。

みんな、ハードな練習内容をこなしながらも、疲れを翌日まで持ち越さないよう

体調を徹底管理することに必死だ。

その日も何度目かのタイム計測に入っていた克也は、向こう隣のコースで走っている槙をチラッと見た。

陸上が大嫌いだ、と聞いてからひと月余り経つ。

その間それらしい発言を再び聞くことは無かった。

そして選抜メンバー発表の5月以来、槙は更に実力をつけて克也のタイムに追いつき、追い越すまでに成長した。

本当に陸上が嫌いなら、ここまで出来るものだろうか。

あの時の切ない表情は、その後しばらく克也の心をざわめかせた。

自分の知らない槙が、確かにいる。

知り合ってまだ1年と少しなのだから、知っている顔よりも知らない顔の方が多いのは当たり前なのかもしれない。

だけど、いつも馬鹿正直で自分を隠さない克也にとっては、その知らない部分がとてつもなく遠い存在のように感じられたのだった。


「猪瀬っ、気を抜くんじゃないっ!」


コーチの鋭い叱咤が飛んだ。

ハッとして克也は小さく頭を振った。

振り向いた槙と目が合う。

拳をグッと握りしめて“ガンバレ”と口パクしてきた槙に、克也も拳を握って応える。そうだな、どんな槙がいたって、俺の前ではあの槙なんだ。

雑念を払ってスタートラインに立つ。

槙に追い越されているタイムを、奪い返さなくてはならない。

隣には、同じく選抜メンバーの山本が位置についている。

用意、のホイッスルが鳴り、続けてスタートのホイッスルが響く。

ふたりは一斉に走り出した。

夏の熱を抱え込んだ大気を全速力で突き破る。

空気抵抗を掻き分けて生まれた風が、どんどん後方に流れていく。

身体半分、山本の方が先方を走っている。

もう少し、もう少し……。

あと10mほどというところで、左足首に痛烈な痛みが走った。

急速に克也は失速し、そのまま地面にうずくまる。



「猪瀬?!」


驚いたコーチが真っ先に駆けつける。

走りきった山本も、急いで駆けつけてきた。


「どうしたっ、どこか痛めたか?!」

「分かりません、急に左の足首が痛くなって……」


槙も心配そうにこっちを見ている。

すぐに病院に行こう、とりあえずここを動くんだ、とコーチが肩を貸してくれる。左足を着かないように注意しながら、克也はグラウンドから離れた。

検査の結果、左足首疲労骨折、練習はドクターストップがかかった。

もちろん十日後に控えたインターハイには出場することは出来ない。

診察室で診断を聞いた克也は、ガックリうなだれて涙した。

隣でコーチが、とりあえずは何も考えずにゆっくり休め、と肩をポンと叩いて励ます。

今まで頑張ってきた分、素直に頷けない克也は、顔を上げることが出来ないまま背中を震わせた。

そのまま病院から直接帰宅し、克也はすぐに自室にひきこもって布団をかぶった。

何も考えずになんて無理だ。

悔しすぎて、何度も枕に顔を押し付けて声を殺して泣いた。

どれだけそうしていたのだろう。

いつの間にかすっかり日も落ちて、部屋の中は真っ暗になっていた。

ようやく気持ちも少し落ち着いてぼんやり窓の外を眺めていると、玄関のインターホンが鳴った。

廊下をスリッパで歩く母親の足音が近づいてきて、部屋のドアが遠慮がちに開けられる。


「克也、須藤君が来てくれたけど、上がってもらう?」

「槙が?ああ、上がってもらって」


母親は小さく頷くと、部屋の電気をつけていった。

蛍光灯の眩しさに一瞬目がくらむ。

今度はフローリングの床が微かに軋む音が近づいてきて、ドアの向こうからそっと槙が顔を覗かせた。


「克也……」


上半身を起こして、克也は“入れよ”と手招きする。


「起きて大丈夫なのか?」

「ああ、足首以外は至って元気なんだ。フテ寝だからさ」


克也は努めて明るく振る舞った。

しかし槙の表情は硬い。

おそらくあの後、克也の状況説明と繰り上がりメンバーの選出があったのだろう。それにしてもこんなに遅い時間にわざわざ訪ねてきてくれるなんて。


「俺、克也の代わりに出ることになったんだ」


デスクチェアに座った槙が、申し訳なさそうにつぶやいた。

そうか、槙になったんだ。

自分が出られなくなったのは悔しいけれど、代わりが槙なら納得できると思った。その他の、ましてやあの3年の先輩だったら、きっとおかしくなったに違いない。克也はホゥッとため息をついた。


「克也、俺が前に言ったこと憶えてる?」

「え?」

「陸上なんか、大嫌いだって言ったこと」


……今日まさにそのことを思い出していたぜ?

克也は訝しげに槙を見ながら、次の言葉を待つ。

天井をフッと仰ぎ見て、槙はゆっくりと話しはじめた。


「須藤卓(たく)。俺の父さんだ。父さんはずっと陸上の長距離選手でね、インターハイでも優勝したんだよ。大学も特待生でさ、就職もその関係でね」


槙の父さんが陸上選手だなんて初めて知った。

しかしその名前、どこかで聞いたような……。


「母さんとは学生結婚で、俺は父さんが二十二歳のときに生まれたんだ。実業団で父さんは広告塔みたいな活躍を期待されててさ、実際テレビCMにも出てたんだよ」


……あっ、もしかして。

小学生の時に見たことがあるCM、確か須藤卓って言ってた。

当時有名な人だったと思うけど、いつの間にか全然見なくなったよな。

あの頃は陸上に興味がなかったから、すっかり忘れていた。

あの人が槙のお父さんなんだ。


「だけどね、俺が小学校6年生の時に怪我しちゃったんだよ。陸上は続けられなくなってね。企業はそれでも実業団に必要としてくれたんだけどね、自分から会社ごと辞めちゃったんだ。父さんには陸上しかなかったからね」

「…………」

「それからはずっと家に籠ってね、俺が中学2年の時に自分でいなくなっちゃったんだ」

「槙、それってまさか」

「うん、克也の考えてる通りだよ。ゴメンな、克也が落ち込んでる時にこんな話」


克也は思いっきり頭を振った。

俺は槙のことが知りたい。

続けてくれ、と頼む。


「俺さ、すごく腹が立っていたんだ。陸上が出来なくなったって、いくらだって他に生きる道があったのに、どうして父さんはあんな風になっちゃったんだろうって。父さんを壊した陸上が、俺はたまらなく憎くってさ」

「それが今どうして……」

「俺、実は小っちゃい頃からずっと合気道をやってたんだ。足が速かったから父さんは陸上を勧めていたけど、母さんは俺に武道をやらせたいって言ってね。父さんがいなくなってからは、それも辞めちゃってボンヤリ過ごしていたんだけど」

「なんだ、運動系やってたんだ。通りで身体の基礎は出来てたよな」

「うん、まあね」


 黙っててゴメン、と槙は小さくつぶやく。


「それでさ、コーチが俺を桜ヶ丘高校の陸上部に誘ってきたんだ」

「えっ、コーチ最初からオマエのこと知ってたんだ?」

「コーチは大学時代の父さんの同期なんだよ。俺のこと、赤ちゃんの時から知ってるよ。父さんが亡くなった時も、ずっと気にかけてくれていたんだ」


そうだったんだ。

きっと部員の誰も知らないに違いない。

コーチも槙も、部の中にはプライベートを持ち込まないよう徹底したのだろう。


「コーチはね、俺が陸上を大嫌いで憎んでることも知ってるよ。だけど、父さんが見てきた世界を一度は見てみるといいって言ってくれてね。最初はスッゲー嫌だったんだけど、何度も家に足を運んでくれてさ。熱意に負けたって感じだよ」


目を伏せた槙の口元に笑みが浮かぶ。

しかしその表情はやっぱり寂しげだ。


「実際始めてみてさ、どんどんのめり込んでいく自分を感じたよ。でもスタートラインに立つと、どうしても父さんの最期の顔を思い出してしまってね。いつもそれを振り切ろうって、ゴールを睨み付けてしまうんだ」


あ、あの目。

そんな想いがあったのか。

タイムを狙っていたわけじゃなかったんだ。


「3年に呼び出されて怒鳴った時、同じ目してたぞ、オマエ」

「そうだったかな。まあ、感情的になってたかもしれないね。なんとしても克也を巻き込みたくなかったんだよ。オマエ正義感強いし、絶対ケンカになっただろうから。万が一にも怪我なんかさせたくなかったし」


それに、あんな下らないことでケチがついて、克也がメンバーから外されたりでもしたらって思ってね。

思い出したくもないというように槙は小さく頭を振った。


「俺さ、今でも陸上は嫌いだけど、実は少しずつ気持ちが変わってきたんだよ。克也のおかげで」

「え?俺の?」

「克也って、すごく楽しそうに走るんだよな。ひたむきでまっすぐで。そんなオマエにいろんなこと教えてもらって、一緒に走ってさ。なんかいいな、こういうのって思ったんだ」

「…………」

「インターハイ、克也の代わりに精一杯走るから。……いや、違うな。克也も一緒に俺と走るんだ。だって、今の俺があるのは克也がいたからだし。なっ、優勝しようぜ?」


槙はまっすぐ克也に向かい合う。

ひとつ何かを乗り越えたような、凛とした笑顔だ。

今まで知らなかった槙がそこにいる。

やっと会えた、そんな気がした。


「なんてカッコいいこと言っちゃってるよね、俺」


頭をポリポリと掻いて照れた様子は、のんびりとしたいつもの槙だ。

克也は槙を眩しげに見つめた。


「優勝しろよ?約束な」


ニヤリと笑って拳を突き出す。

槙もそれに応えて拳を返す。

ふたりは確かめあうように拳を押し合い、挑戦的な笑顔で頷きあった。


   

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