喉仏
洞貝 渉
喉仏
グラスにびっしりとついた水を指ですくい、平らな喉にくるくると撫で付ける。お酒で火照った身体に、それはひんやりと気持ちよかった。満足した私はそのまま指を下へすべらせて小粒のネックレスをいじる。正直、ちょっと退屈していた。
正面の席には友人の恋人、その隣には友人が座っていて、さっきから二人はすごく楽しそうにしゃべっている。いや、実際すごく楽しいのだろう。退屈している私になど見向きもしない。
目の前の男のひょっこりつき出た喉仏をぼんやりと眺めながら、やっぱり断ればよかったなぁ、なんて考える。相談したいことがあるのと友人に思い詰めた声で呼び出され、身構えて来てみたらこれだ。そこでばったり彼氏と会っちゃって。相談はまた今度でいいからさ、せっかくだしみんなで飲もうよ。なんて無邪気に言われてしまっては呆れるしかない。
さすがに友人と友人の彼氏と私の三人で一緒に、というのはかなり気まずいので断ったのに、どうゆうつもりなのか友人はしつこく食い下がる。結局、断り切れずに今にいたるわけだ。
見るともなしに見ていた横向きの喉仏がこちらを向いた。ちらりと、友人の彼氏と目が合う。退屈している私を気にしたのかと思ったけれど、どうもそうではないようだ。友人の彼氏は友人との会話の合間に何度も何度も意味深な視線を向けてくる。
友人の方はというと、そんな彼氏の様子には反応せず、ろれつの回らない舌で意味不明な言葉を次々に吐き出していた。時折のぞく、奥歯の金の詰め物。
そうとう酔っているみたいだけど、決して酒に弱くない友人がここまでの状態になるには、まだはやすぎるような気がする……。
何度目かはわからないけれど、また友人の彼氏と目が合った。ニヤリと、不快な笑みを向けられる。どう反応すればいいのかわからずにグラスの側面を撫でてみた。
ふと気が付くとなぜか友人も私のことを見ている。しかもその目は酔っぱらいの目ではなく、どこまでも冷静で、何の感情もこもらない、じっと観察するような目つきだった。
二種類の視線にさらされて、私はすっかりほろ酔い気分が冷めてしまう。
あわててうつむき、とけた氷で薄まったお酒に口をつけた。それから恐る恐る顔を上げると、二人は何事もなかったかのように楽しげに会話をしている。
私は再び目の前の喉仏に目を向ける。どうして男の人には喉仏なんてものがあるのだろうか。あのでっぱりの中には一体何が入っているのだろう……。
つらつらと考えていたら、友人の彼氏の不快な笑みも、友人の観察する目も、全部私の思い違いで、単に二人の仲が良いのを見せつけられているだけなんだという結論に達した。いつのまに喉仏から頭が離れてしまったのかはわからないけれど、とりあえずそう結論付いたのだから、まったくもって思い悩むことはない、と自分に言い聞かせる。
店を出るころには、友人はぐでんぐでんになっていて、友人の彼氏の支えなしでは歩けなくなっていた。二人はもつれ合うように歩き、とても自然に人気のない公園へ入っていく。私は二人に一声掛け、さっさと帰ろうとした。なのに酔っぱらいの友人は、ついてこいとわめいてきかない。ちらりと見える奥歯の金の詰め物。友人の彼氏がなぜかニヤニヤと笑っている。
園内のベンチに友人が寝かされた。私はなにをするでもなく、その様子をぼんやりと眺める。
友人の彼氏は水でも買いにいこうかと言う。では私は彼女とここで待ってます、と返答した。なのに、いいからいいからと手首を捕まれ引っ張られる。なにがどういいのかわからない私は、あの酔っぱらいを一人にするわけにはいかないと抗議してみたけれど、無視された。
友人はベンチに横たわったまま、離れていく私と友人の彼氏をじっと見ている。やっぱり、あれは酔っぱらいの目ではない、と思った。 ベンチからそう遠くないけれど、薄暗く、またベンチからは死角になっている所まで引っ張られる。コンビニは公園の外だし、こっちの方に自動販売機があるわけでもなかった。
友人の彼氏はなぜか、私のことを凝視してくる。目が潤んでいるのはたぶんアルコールのせいだと思いたい。
どうしていいのかわからず、私も友人の彼氏の喉仏を凝視してみる。一体、この部分には何が入っているのだろうか……。
いきなり友人の彼氏が乱暴に肩をつかんできたので、それでは私も、と目の前にある喉仏に爪をくいこませてみた。存外簡単にくいこんでしまい、拍子抜けだ。そのままがぱりと開いてみると、中にぐにゃりと赤いモノが入っている。どきどきしながらつまみ出したそれは、小さい蛸だった。
ふいに友人の彼氏が、どさりと倒れてしまう。なにかまずいことでもしただろうかと、私は少しあせった。
手の中にはうねうねと動く小さい蛸。これを元通りに男の喉仏へ戻せば起き上がるのだろうか。でも、起き上がってしまうとそれはそれで困るような……。
呆然としている私から、友人は蛸を取り上げる。いつの間に隣にいたんだろう。倒れた彼氏には目もくれず蠢く蛸を口に放り込んだ。そして、友人は蛸をぷちぷちと音を立てて咀嚼する。
「まずい」
思い切り顔をしかめ、倒れている彼氏に向かってぐしゃぐしゃの赤い残骸を吐き出す友人。酔っ払っている様子はなかった。
まだ飲み足りない、奢るからつきあってよ、と屈託なく言われて、特に断る理由もない私は首を縦に振る。それから相談したいこととは何だったのかと尋ねると、もう大丈夫、解決したからと返事がくる。垣間見えた奥歯の詰め物は、蛸のすみのせいか真っ黒になっていた。
私も友人も、足下に転がっているものについては触れず、そろって公園を後にする。
喉仏 洞貝 渉 @horagai
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