芙蓉の夜(二)
「たいへん。雨ですわ」
曹節は蝋燭の火を吹き消すと、木簡をしまい、靴をはかず裸足のまま宮殿へと走った。そして劉協のほうを振り返り、
「急ぎませんと濡れてしまいますわ」
劉協も早足で宮殿へと戻った。
二人が宮殿へ戻ると、雨は激しくなった。すさまじい豪雨となった。
「間に合いましたわ。一足遅ければ雨に巻き込まれるところでしたわ」
二人は安堵したが、どうしたわけか、曹節があっと低い声をあげて叫んだ。
「どうしましょう。靴を忘れてしまいましたわ」
すると劉協もあわてて、
「それは困った。誰かに探させるか」
「それには及びませぬ。あとで用意させれば済むことでございます」
「しかし、足に泥がついておる」
劉協は土に汚れた曹節の足を見た。
「いっそ、雨で洗いましょうか」
「そこで待て」
劉協は去った。しばらくして劉協がみずから水の入った桶と雑巾を持ってきたものだから、曹節は飛び上がらんばかりに驚いた。
「陛下!! そのような、恐れ多い……!!」
曹節が恐縮してその場に跪いて叩頭した。
「朕は生まれついての皇帝ではなかった」
劉協は溜め息をついた。
「かつては陳留王として帝をお守りする立場であった。それが時勢によって朕は帝位に就き、少帝は不幸にも崩御あそばされた。世の流れというのはわからぬものだ」
そう言って、劉協は雑巾を水に浸した。
曹節は帝みずからが雑巾を手渡したので、こめかみから冷汗が流れるような思いだった。劉協に促され、曹節は急いで足を拭いた。
足を拭くと、曹節は蝋燭に木簡、それに桶を担いだ。帝に仕える者として、帝みずからに桶を持たせるなどという肉体労働をさせるなど許されることではない。
「水は撒けておけ。重かろう」
曹節は外に水を撒けた。
劉協の部屋に着くと、兵士たちはまだ眠っていた。
二人は互いに顔を見合わせて笑った。
劉協が起こそうとすると、曹節が止めた。
「それには及びませぬ」
「では誰が朕を守るというのだ」
「私が守りますわ」
「卿(けい)がか?」
「はい」
曹節は近づいた。若い女の体臭が劉協の鼻腔をくすぐった。
「いや、それには及ばぬ」
「……陛下?」
劉協は兵士たちの肩をゆすった。
兵士たちが目をさますと、驚いた兵士たちはその場に這いつくばって己の非を詫びた。
劉協はそれを笑って許した。が、振り返ると曹節は恐ろしい形相をして兵士たちを睨んでいた。その眼差したるや、見る者の心臓が爪で引き裂かれるほどに恐ろしかった。
「ど、どうした?」
「……いえ、陛下。何でもありませぬ」
曹節はすでに何事もなかったような顔つきに戻っていた。なぜ曹節は怒っているのか? 兵士たちが職務を怠けて居眠りしていたからではあるまい。
「以後、気をつけるように」
曹節が言うと、兵士たちは地面を額に打ちつけて謝った。
「では、朕はもう眠るとする。卿もあまり夜更かしせぬよう」
そういって寝室に入った。
曹節は跪いて退出した。が、振り返って、
「帝は皇后に縛られておいでなのですわ」
ぎょっとして劉協は振り返った。
寝室を出て左右を振り返ったが、曹節の姿は煙のように消えていた。
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