第一章

曹家の三姉妹(一)

 建安17年。

 魏の家臣、侍中の王粲が拝謁を賜りたいという報せを聞いた劉協は、背中に蛞蝓(なめくじ)が這い回るような薄気味の悪さをおぼえた。

(また曹操が良からぬことを考えている……)

 劉協は、曹操からいい報せというものを生まれて一度も聞いたことがなかった。

 王粲がやってきた。王粲は小走りで劉協の前に進み出ると挨拶を述べた。

 王粲、字は仲宣。風采は上がらないが、すぐれた記憶力を持ち、碁盤の石が散らばっても全て元通りに戻すことができる。また文才も優れており、筆を取ればすぐに文章をつくり手直しすることはない。

 かつては劉表の配下であったが、用いられることは少なかった。その後曹操に仕えると、才能を愛する曹操は王粲を重用した。

「魏公には娘がおられます」

 王粲は言った。

 魏公とは曹操のことである。宮廷への功績が多大ということで魏公の位についたばかりである。しかし、曹操のような男には子女が山ほどいて、娘がいることなど言うまでもないことであった。

「長女である清河長公主さまは夏侯楙さまに嫁ぎました。また次女の安陽公主さまは荀惲さまに嫁ぎました。曹憲さま、曹節さま、曹華さまはいずれも妙齢ですがまだ独身。魏公はこの御三名を帝に献上したいとお考えです」

3

 これを聞いた劉協は冷汗が流れるのをおぼえた。

「魏公の娘を、朕にか?」

「左様でございます」

「しかし、三人も……」

「これも魏公の陛下への忠誠のあらわれでございます」

 王粲の言葉を真に受けるほど、劉協も純粋ではなかった。宮廷でありとあらゆる権謀術数をみてきた劉協である。

「否、とはいえぬのか」

「これも魏公のたっての願いでございます」

 劉協は、目を閉じた。

 しばらく考えてから結論を出すと劉協は言った。王粲は退出した。

 間を置かずして伏皇后が会いにきた。

 宮廷はいたるところに耳目がある。曹操の娘の輿入れを聞いてやってきたに違いなかった。

「陛下。曹操が娘を陛下に嫁がせようとしているのはまことでございますか」

「うむ」

 劉協は憮然として答えた。

「お断りなさいませ」

「それはできぬ」

 宮廷において曹操の思い通りにならぬことは一つもない。それはこの宮廷で暮らす者なら誰でも知っていることであった。断るのなら力づくでもその気にさせるまで。

「もしも断れば曹操はどのような嫌がらせをするか。曹操がいかに残忍であるか皇后も知っておろう?」

「あの国賊が帝と姻戚になるなど許されることではありませぬ」

「声が高い。曹操に聞かれたらどうする?」

 劉協は周囲を見回した。万が一、曹操の息のかかった者が告げ口したら、皇后の命さえあぶない。

「曹操は魏公の位に上がり、その際に九錫を賜ったとか」

 九錫とは、皇帝が臣下にあたえる最高の恩賞で、天子にのみ使用を許される9つのものを臣下に特別に許すことである。

「陛下は他にも九錫を賜った臣下をご存知ですか。王莽でございます」

 その名を聞いた劉協は震え上がった。

 王莽といえば、かつて漢王朝から帝位を簒奪した極悪人のなかの極悪人である。

「王莽は外戚でもありました。このたび曹操が三人の娘を嫁がせようとするのは帝から帝位を奪うための布石にございます」

「皇后。滅多なことを言うな」

「いいえ。止めませぬ。漢王朝が滅びるのを黙って見てられましょうか。あの国賊は野心の牙を剥き出しにして漢を喰らい尽くそうというのでございます」

「魏公はつねづね自らを周の文王になぞらえておる。文王は生涯帝位にはつかず臣下でありつづけた。これは魏公が簒奪の心を持たぬ証拠」

「しかし、文王の子の武王は殷を滅ぼしました。これは曹操が自らの子を帝位につけようという企み」

「まさか」

「いいえ、間違いございませぬ。ここままいけば私の命も、そして陛下も……」

「皇后。それ以上言うな」

 噂をすれば曹操が、とは宮廷の誰もが知っている言葉である。

 曹操ほど間者の扱いに長けている者はいない。みずから『孫子』に注釈をつけるほどである。宮中の侍女たちの誰が曹操に篭絡されているかわかったものではない。

 劉協たちはいわば蜘蛛の巣にかかった虫のようなものであった。

 それは菫卓によって帝位に就いたときから同じであった。菫卓の死後、その配下である李確たちの手に落ちたときも、その李確の死後も、劉協はずっと四肢が蜘蛛の糸にからまれたまま生きているようなものであった。

 しかし、伏皇后はなおも憎悪の炎を燃やし続ける。曹操とその一族への呪詛を止めようとはしない。

「帝はどうあっても曹家の三姉妹を迎え入れるおつもりか」

「だから断れぬと言っているであろう」

「あの小男の娘ですから、きっと醜いに違いありませぬ」

 皇后の言葉には、女の嫉妬が込められていた。

「陛下、約束してくださいませ」

「何をだ」

「曹家の女どもには指一本触れてくださいますな」

「子を作るなと申すか」

「いいや、子供を作るなどはもってのほか。文字通り指一本触れてくださいますな」

 伏皇后は詰め寄った。

「たとえ私が死んだ後でも」

「皇后、慎め。無礼であろう」

「いいえ。こればかりは約束してもらわなければ納得がいきませぬ。きっと、あの賊どもはわたくしを殺して、三人のうち誰かを皇后にする腹づもりなのです。そして帝位を奪ったのちは陛下のお命を奪うつもりなのです」

「妄言はそのくらいにしておけ」

「いいえ、止めませぬ」

 埒があかないとみた劉協は立ち去ろうとした。しかし、伏皇后は服の袖をつかんで離さない。

「陛下、約束してくださいませ。陛下、陛下……」

 伏皇后はまるで幽鬼に憑かれたかのようである。

 いくら振りほどこうとしても、伏皇后は手を離さぬ。

 女とはおもえぬ力であった。

 騒ぎを聞きつけた宦官や侍女たちが集まってきた。

 それをみた伏皇后は睨みつけ、

「見世物ではないぞ!! 去らぬか!!」

 怒鳴りつけるものだから、周りの者どもも震え上がる。

 劉協はなおも逃げようとすると、そのまま押し倒されてしまった。

 伏皇后はうつぶせに倒れた劉協の背に馬乗りに乗った。

「陛下。約束してくださいませ」

 劉協は、ひい、と悲鳴をあげた。

「助けてくれ、頼むから助けてくれ」

「いいえ、なりませぬ。陛下、さあ、仰いませ。汚らしい女どもには手を出さぬと」

 劉協は我を忘れて宦官たちに助けを求めるも、彼らは目を背けて立ち尽くすばかり。

「さあ、陛下。言うまで止めませぬ」

 そう言って拳で劉協の背を叩く。

 叩きつづけるうちに感情が昂ぶって、涙がこぼれてきた。

「そちたちも黙っておらず、何とかせい」

 劉協が悲鳴にも似た声で助けを求める。

 その無様な有り様はとても漢の皇帝とはおもえなかった。

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