鷹の余白3
アルベルク・バーレンドットは孤児だった。
陽の当たらぬ路地裏で育ち、小汚いボロをまとい、恵まれた人々の残飯を漁りながら命をつないでいた。ゴミが彼の寝床であった。
理由のない暴力にさらされることは日常茶飯事で、罵詈雑言と無縁の日はない。苦労して得た食糧は油断をすれば奪われ、他人の手に食べ物があれば、いかに隙を突くかを考える。
友好的な笑顔や、哀れな涙を信用してはいけなかった。飢餓の中、ようやく手に入れたカビまみれのパンを、そうやって近づいてきた自分よりも幼い子供に
人を蹴落とし、人に蹴落とされ、陽光を遠くに見ながら底辺をうごめく――そんな虫のような生活をしていた。
――否、彼はまさに虫だった。
裕福な人間達に気まぐれで踏みつぶされる、ただの虫けらである。
虫に施しを与えようなどと考える人間がいるはずもなく、すがりついた手は虫の手足をもぎ取るがごとく振り払われ、ただただうっとうしげな一瞥が返る。
遠いきらびやかな人々は、両手で抱えきれぬほどの多くを持っているというのに、彼には己のものと言える何かなど一つとしてなかった。
己の身、命でさえも。
何も持たない彼は常に飢えていた。
その空腹の環境は、彼に満足を教えなかった。
――だが、彼はまた天才でもあった。
とある魔法使いに拾われた彼は、師が嫉妬するほどの才を見せ、わずか1年で存在を疎まれるまでに成長した。
そして彼は師を殺し、同時に師の名を利用して王宮へと入る。
その後目覚ましい功績をあげ、あっという間に莫大な富と名誉を得た。
社交性にも優れていた彼は、周囲の信頼もたやすく勝ち取り、特に王からはいたく寵愛された。多くの女性達と関わりを持ちはじめたのもこの頃である。
だが、それでもなお彼は、己の手に何も見出せなかった。
どこまでも高みを目指し、またその能力もあったため、満たされたと感じることがなかった。
空腹は続いていたのだ。
――そして、ついに。
人の身では到達できぬと絶望した彼は、禁忌の儀式を用いて人間たることを捨てた。
誇りと未来を代償に、人では決して届かぬ魔力を得て。
――魔術師アルベルク・バーレンドット。
それが、彼に関して〈鷹の目〉が視たすべてであった。
「……だからあなたは、人間のままでいるべきだったと言ったんですよ」
クロは素早く視線を走らせた。人型の背後……池の、向こう岸へ。
「こんなことでまだ動揺できるなんてね」
――ズン!
炎の人型が
ちょうど腹のあたりに何かが突き出ている。眩い蒼の宝石。クロが持っていた杖である。
彼はゆっくりと後ろを振り返る。
そこにいたのは使い魔の犬だった。主人が落とした杖をひそかに拾って、背後へ回り、そして投げて貫いたのだ。
《私は……まだ》
宝石が鋭く輝く。はち切れんばかりに。
「残り7割の補完ですよ。あなたのために蓄積させた100年分の魔力です。お釣りはいりませんのでご心配なく」
引き抜こうと動く炎の腕。
しかし、遅い。
クロはやわらかな笑みを浮かべ、解放の呪を舌に乗せた。
「これでもう乾きを恐れることもありませんね。――
激しい光が彼の内部で爆裂した。
光は人型を吹き飛ばし、逃げようとうごめいた火の池の表面を走り抜ける。
さざなみが起こったかと思うと、次の瞬間、水面は床板が剥がれるようにして引きちぎられ、無数の飛沫を上げながら蒸発しはじめた。
抵抗した炎が再び人の形を作ったが、その右腕が瞬く間に崩れて溶ける。
残る片腕が何かを求めるように伸び、塵一つ掴むことなく分解した。
頭部が消える。肩が消える。胴体が消える。足が消える。花びらとなって散っていく。
飛散したかけらはことごとく空気に食われていき――そして。
ひらりと目の前を過ぎた最後の火の粉が、音もなく消滅した。
杖が乾いた音を立てて落ちる。先端にはまっていた宝石は粉々に砕け、そこにぽっかりと穴が開いていた。
クロは池だった窪みにおり、杖を拾いあげる。
「ご苦労様」
ウメに声を掛けると、使い魔の犬はぴんと耳を立てて尾を回した。何がそんなに嬉しいのか。
「……さて」
クロはいつものように杖を回転させようとして、ひりつくような右腕の痛みを思い出す。焼けただれた痕に顔をしかめた。
だが、とりあえず無視をして、左手に持ち替える。
「契約は果たした。――どこに行くかな」
北か、南か、西か、それとも東か。どこにせよ退屈はしのげるだろう。
その時、ウメが訴えるように吠えた。
クロは眉をひそめて黙殺する。
穴のあいた杖でこつりと地面を打つと、考え込むように首をかしげた。
しばらく経ってから、何か思いついた様子で瞬きをする。
「……ふむ」
クロは己の使い魔を手招きした。呪文を唱えはじめる。
足元に浮かび上がった魔法陣が輝き、ぱっと弾けたあと、魔女達の姿はどこにもなくなっていた。
馴染んだはずのそこは、まるで見知らぬ部屋だった。
開け放たれたきりの戸も。
からっぽの野菜籠も。
先月のまま捨て置かれたカレンダーも。
隙間のない本棚も、湯飲みが置かれぬテーブルも。
なにより、誰も座っていない椅子が。
――もう戻らない。
その一言だけが、耳鳴りのようにユーインの頭の中を引っかいていた。
「魔女や魔術師にとって、あらゆる事象は退屈しのぎでしかない」
呆然とする彼を、白猫は穏やかに諭した。辛抱強くと言ってもいいかもしれない。
「特にあの子にはね。――なぜあの子が面倒な依頼など受けると思う? そうやって己に義務でも課さなければ、この世はつまらなすぎるのだよ。過去も現在も、いずれ来る未来さえ、あの子には確定した出来事として視えるのだから」
彼女は失踪した勇者の青年を捜した。魔女の呪いを解き、人ならぬものの頼みを聞き、覚えのない罪をも涼しげに流して、時には気まぐれに力を貸す。
意味もなく、ノートの端に書きなぐる落書きのように。
「同じ場所に落書きをしていては、余白もなくなるだろう?」
ユーインは身を強張らせた。
冷えていく体に細い雨が絡みつく。
真っ白な頭には何も浮かんではこなかった。明確な意志も感情もない。信じられないほど、彼の中は空虚だった。
ただ、抑えがたい衝動に突き動かされ、口走る。
「……クロさんはどこだ」
「聞いて、どうする?」
子供のわがままでも聞くような、温和な問いかけ。
ひどく神経に障った。
「人の身では行けない。行けたところで君に成せることなど何もない。――鷹と約定でも結ぶかね? 200年前の王のように? 君は何を差し出せる? 落書きするに足るだけの余白を、君はあの子に与えられるというのかね?」
「クロさんはどこだ!」
ユーインは激昂して戸を殴りつけた。
白猫がまた目を細め――いたずらっぽく、笑った気がした。
「君の、うしろ」
「……は?」
瞬間、雨の匂いに混じる花の香。
「――何を騒いでいるんです?」
ユーインは弾かれたように振り返る。
いつものローブを羽織って、いつものようにフードを深くかぶり、いつもと同じ淡白な表情で、彼女はその場に佇んでいた。
「え……」
視線を少し下にずらせば、元気に尾を振る使い魔の姿もある。
ユーインは混乱した。言葉も発せず、魔女と見つめ合う。
しばらくして、ようやく出てきたのは間抜けな質問。
「な、なんで、いるの?」
「……なんでもなにも、ここは私の家なんですが」
「だって、この猫が……!」
しかし白猫はいなかった。
テーブルの上にも、椅子にも、ソファにも。家の中にその姿は見当たらない。
「猫? お師匠がいたんですか?」
クロがユーインの肩越しに室内を覗いた。
「何を言われました?」
「……クロさんは、もう戻らないって」
彼女は困ったように首をかしげた。眉間に指を当てて嘆息する。
「あまりお師匠の言動を真に受けないでください。私以上の嘘つきですよ」
「……嘘?」
「いつからここに突っ立っていたんです? 中に入っていれば良いものを。濡れて――」
伸ばされた左手を、ユーインは思わず掴んでいた。
黒い瞳がきょとんとして彼を見つめる。
「じゃあ……クロさん、どこかに行ったりしないの?」
「帰ってきたばかりですよ。というか中に入りませんか」
「ここに飽きて、いなくなったりしない?」
一拍、返事に間があった。
「――『また』って、言ったでしょう?」
「へ?」
「昨日。あなたは『またね』と言って、私も同じように答えた。また、ここで。そういう意味だと思っていましたが、違いました?」
「違、わない……けど。でもそれは、いつも言ってる挨拶で――」
「契約の一種には違いないと思ったのですが。違うのならいいです」
「違いません」
ユーインは断言した。
そうですか、と微笑むクロ。
ユーインは急に脱力すると、彼女の腕を持ったままずるずるとしゃがみ込んだ。
掴んだ手はひやりとして冷たい。だが本物だ。ユーインは突然心臓が動き出したような錯覚を覚え、震える息を吐き出した。
「……血の気が失せた……」
「……あなたは相当の変人ですね」
「もう変人でも変態でも変わり者でもいいよ」
「つまり今まではまともだと思っていたんですか?」
変わらぬその口調が、凍りついていた体をゆっくりと温めていく。
ユーインは笑みがこぼれそうになり、うつむいた。クロの手を強く握りしめる。
魔女は自身の手にある彼の指を、不思議そうに見つめた。
「また、明日も来るから」
「お好きに」
「そしたら、明日も『また』って言うから」
「はあ」
「その次も。その次も、クロさんに会うたび同じことを言うよ」
「……………」
魔女は呆れたらしい。
くすりと笑う声が聴こえた。
「……お好きにどうぞ。あなたが飽きるまでは付き合いますよ。暇ですから」
雨まじりの涼しげな風が吹く。
ふとユーインが見上げると、クロはなぜか、苦手なチョコレートを食べた時のような顔をしていた。
反抗的な黒眼が睨むように風を追い、やがてぷいと横を向く。
どうしたのかと問うと、魔女はやたらきっぱりと言った。
余白に書く価値さえないことです、と。
――良い
穏やかな声が、秋の風に乗って過ぎ去っていった。
「鷹の余白」了
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