鷹の余白2
「――お久しぶりですね」
呟いて、クロは一度瞬きをしてからそれを見つめた。
火の池である。
長く縛られたために本来の姿を忘れ、マグマのように形を崩した炎。岩と混ざってどろりと溶けた身はもはや純粋な火ではなく、かといってマグマと呼ぶにはいささか儚い。
指先で弾いた1枚のタロットカードが、ひらりとその中へ吸い込まれていった。
「アルベルク・バーレンドット」
ぼこり、と池の表面で泡が弾けた。そこから噴出したいくつもの火の帯が、アーチを描いて沈んでいく。何度も何度も。真紅の蛇が己の尾を食らっているようだった。徐々に水面が波立っていく。
やがて何者かが水中から現れ出た。
――いや、火そのものが人型を作っているのだ。
輪郭は男性。しかし、粗く削りだされた彫像のように、誰であるかを明言するには精密さに欠けている。
「精霊と意識を融合させてまで
クロは軽く腕を振り、使い魔の犬をさがらせた。
《……鷹……》
ひび割れた音が響く。幾重にも反響して砕けたような。
クロは皮肉げに笑った。
「まだしゃべれたんですか?」
《私はまだ、……足りぬ》
「破壊したりない? ――自業自得ですよ。あなたは膝をついた。負けた魔術師は死ぬだけです」
慄くように水面が震えた。人型がゆがむ。
《私は、まだ……死んではおらぬ》
「いいえ。肉体も魂も、あなたのものなどもうこの世には残っていない」
《私は、まだ、燃やしつくしてはおらぬ》
クロは黙って微笑んだ。
亀裂の入った声が音を重ねる。
《私はまだ、壊しつくしてはおらぬ》
《私はまだ、溶かしつくしてはおらぬ》
《私は、まだ》
《焦がしつくしてはおらぬ》
《私は》
《まだ、奪いつくしてはおらぬ》
《私はまだ》
《まだ、なにも手に入れてはおらぬ》
《私は、まだ――》
呪言のように飛び回る声。
ウメが興奮して吠えついた。
《乾きが癒えぬ》
そしてその一語を最後にぴたりと止んだ。残響もなく、切断されたような唐突な静寂が取って代わる。
静まり返った空間は徐々に熱を上げ、訪れつつある秋の気配を反転させようと領域を広げていく。猛々しい破壊の力が強くなる。
それを温度のない声が鋭く切った。
「あなたにはその力がなかった」
冷気すら感じさせぬ淡白な言いようは、この上なく冷たい。
戸惑った炎が小さく揺らめいた。
《なぜ、邪魔を? 鷹……》
「私は約定に従うまでですよ」
クロは杖を呼び出し、いつものようにくるりと回転させる。
ぼこぼこと火の池が沸騰しはじめた。
「――単なる暇つぶし。あなたと同じです」
《魔女が、……なぜ邪魔を。人間の味方を?……》
「もういいでしょう? バーレンドット」
にこりと笑って魔女は会話を打ち切った。
「お互い勝手にしようじゃないですか。魔術師らしくね」
ほぼ同時に放たれた火と水は、両者を隔てるようにその間で衝突した。せめぎ合う事もなく、接触した瞬間に弾けて消える。蒸発して拡散する熱気が肌を通りすぎた。
《なぜ邪魔を? 鷹……》
乾いた声が岩壁に跳ねかえる。
《私は燃やすだけ》
《邪魔をするのか?》
《なぜ?》
《なぜ、邪魔を?》
繰り返される問いかけ。
執拗なわりに、憎悪も悲嘆もそこにはない。幼児が覚えたての言葉を意味も分からず連呼しているだけといった印象があった。
おそらくすでにまともな思考能力はなくなっているのだろう。幼子よりもタチが悪い。
クロは杖を地面に打ちつけた。その一点から左右へ走った水が、檻のごとく人型を絡めとっていく。締め付け、拘束し、削り取って消し去る。
だが、しぼみ始めた炎はすぐに内側から膨れ上がり、水の網を引きちぎった。
その勢いのまま伸びてくる火の腕。クロはそれを杖で弾き返すと、ウメに視線を送ってさらに自身から離した。
《私は、まだ、壊しつくしてはおらぬ》
火が荒々しく襲いかかった。
クロの杖がそれを遮り、杖から放出された水の魔力は炎によって蒸発する。
殺し合いというにはあまりにも真剣味に欠け、戯れで済ますには容赦がない。相手への敬意も敵意もないまま交わされる応酬は、まさしく魔女や魔術師らしい退屈しのぎに他ならなかった。
《私は、まだ、奪い足りぬ》
突き出した杖が、苛烈な炎を押しとどめる。
《私はまだ、死んではおらぬ》
唇を冷え冷えとゆがませて、クロは思いきり魔力を叩きつけた。
炎が揺らぎ、かき消え、瞬時に再生する。
「……………」
さきほどから同様の繰り返しである。負けはしないが、制圧するのも難しい。
クロは杖を一回転させ、先端の宝石でぽんと手のひらを叩いた。そうして思案するように動きを止めれば、相手もぴたりと攻撃を休める。
――埒があかない。
クロが使い魔の位置を確認した瞬間、炎の人型は天井を仰いだ。
《私は、まだ……》
破壊の意志がそちらに向く。
しかし猛る炎が天を貫く前に、クロの放った雷撃が人型を打った。
炎が割れる。そのまま一度火の池へ埋没し、苦痛を訴えるように水面をかき混ぜた。
――雨。
それはほんのついで。
岩の天井を越え、さらに上へと駆けのぼった〈鷹の目〉が、薄雲から染みだす雨を捉えた。
クロは憂鬱な気分に陥る。だが、さすがに音までは届いてこない。
息をつき、視線を戻そうとした――その時。
目の端に予想外の人影が映った。
そこは、これまで彼女が住んでいた家。
立ち尽くしていたのは、金の髪と青い目を持つ青年。
「―――――」
別に驚いたわけではなく。
もちろん歓喜したわけでもなく、そしてもはや呆れもしない。
ただ、すっかり見慣れてしまった訪問者の姿に、刹那だけ気を取られたのは事実だった。
池から飛び出した炎の手が、素早くクロの右腕を掴む。皮膚の焼ける音。焦げた肉の臭い。杖が滑り落ち、転がっていった。
ずぶり、と再び人型が現れる。
《私はまだ、なにも手に入れてはおらぬ》
火は刺すように腕に食いこみ、たちまち全身を熱くした。振りほどこうとした力は抑え込まれ、逆に炎へ引きずられていく。
《衰えたな、鷹》
《衰えた》
《おまえは衰えた……》
「――まあ、全盛の3割くらいですね」
腕が焼ける。ブーツのつま先が池のふちに触れた。炎の熱さに汗がにじみ、それを逃がすように長く息を吐きだす。
《私の手には何も無い》
抑揚のない悲哀が響き渡る。
《私の手は》
《私は手に入れるはずだった》
「……何を? 死人の手に残るものなどなにもありません、バーレンドット」
クロは微笑みを崩すことなく言った。
人型の輪郭がちらりと揺らぐ。わずかに力が弱まった。が、強引に引きはがせるほど緩みはしない。
《私は、死んではおらぬ》
「それほど未練があるのなら、人間のままでいるべきだった。――あなたはこちらの世界に向いていませんよ」
静かに語りかけるクロ。
深い同情心に満ちた言葉には、隠す気もない嘲笑が含まれていた。
「可哀相な天才児。なまじ簡単に叶うものだから、まだ足りないと求め続けて、結局あなたは何も手に入れられなかった」
《私は、まだ》
《私はまだ、死んではいない……》
炎がひしゃげる。縮むかと思えば勢いを取り戻し、そしてまた弱々しくしぼんでいく。
不安定な、人の形を模しただけのもの。在るのは魂などではなく、意志ですらない。ただの
「この世のすべてはしょせん暇つぶし。いくらこだわって執着しても、いずれは流れて過ぎるだけ。どれほどの価値があります? どうせ魔術師の手には何一つ残らない。……滑稽ですね。選んだのはあなたでしょうに」
《違う》
否定の声が爆ぜた。
《私は違う》
《私は、まだ》
《乾きが癒えぬ》
《私はまだ》
《まだ――》
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