終章
鷹の余白1
家はもぬけの殻だった。
魔法使いの青年は拍子抜けして、開け放たれたままの戸口から室内を覗きこむ。
正面のテーブルには、いつも無表情に出迎えてくれる魔女の姿はなく、奥の台所からも物音一つしない。彼女のお気に入りの本も湯飲みも棚におさめられた状態で、ひっそりと冷やかな空気にさらされていた。
彼は荒い呼吸を整えるために深く息を吐き、乱暴に前髪をかきあげる。
「……帰ってるんだと、思ったのにな」
心配そうに揺れる碧眼が、未練がましく家の中を見つめた。
姿はなく、声もなく、音もなく、気配もない。
辺りを見回し、最後に空を振り仰ぐと、ようやく明るくなりはじめたというのに薄雲が広がろうとしていた。
また、雨が降るかもしれない。
「クロさん大丈夫かな。一体どこに……」
口に出せば不安が膨らんで、彼はぬかるんだ足元に目を落とした。
振り返ってみても、地面には一人分の靴跡がぽつんとついているだけだ。魔女は足跡を残さない。追うべき方向さえ定められなかった。
彼は戸に当てていた手を握りこみ、焦燥のにじんだ目でもう一度姿を捜す。
壁際のソファを、戸棚を、テーブルを、本棚を――順々に過ぎていったところで、ぎょっとして視線を戻した。
テーブルの上に、白い塊。
猫だ。一体いつの間に現れたのか、当然のような顔をして座っている。
「鷹は戻らないよ」
聞き覚えがあった。穏やかで低い、男の声。
「……あんた、昨日の」
魔法使いは不快そうに眉をひそめた。
「戻らないって、どういうことだ」
「あの子は約定を果たしに行った。もうここへは戻らない」
ゆったりと告げられた言葉に、魔法使いの青年は絶句した。心臓が凍りつきでもしたように、体を硬直させる。
「……約定って、山に住む代わりに災いを防ぐってやつだろ。どこへ、何をしに、行ったんだ。戻らないって――」
「ああ、心配しなくていい。命の危険があるわけではないよ。油断さえしなければね。ただ、あの子自身に戻る意思がないだけだ」
青年の顔から表情が落ちた。能面のように色が消える。吸い込みかけた空気は、喉の手前で止まっているようだった。
白猫はそんな彼の様子を興味深そうに眺め、少しだけ首をかしげた。
「なるほど、君は確かに変わり者のようだ」
「は? あんたにそんなこと言われる筋合いは――」
刺々しく返した言葉は、しかしゆるやかに流される。
「昔話を聞くかね、〈魔女殺し〉の青年。なに、すぐ終わるさ」
こつり、こつり、とブーツの底が地面を打っていた。
単調で規則的なそれは、特段急いでいるわけでもなく、かといって物見遊山ほどのんびりもしていない。ただ淡々と、乱れることなく続いていた。
それでもふいに岩を叩く音が変化するのは、単にでこぼこが多い足場であるためだろう。慎重に歩を進めなければ、足を取られかねない。
魔女は熱を帯びる岩壁に手をそえながら、下へ下へとくだっていた。
ウメが軽快な足音を響かせて前を行き、時おり立ち止まっては主を振り返る。暑さのためか、舌を出して息をついていた。
「あまり先へ行っては駄目ですよ」
そっけなく注意すると、仔犬はぱたぱたと尾を振ってクロを見上げ、素直に数歩だけ先を歩くようになった。
くるんと丸まった尻尾が揺れている。改めてその後姿を観察すれば、体つきだけはすっかり成犬のものになっていた。
「……………」
不思議そうに使い魔を見つめるクロ。
しばらくして、ふと視線を背後へ流した。薄暗い闇。その向こう側にある、置き忘れてきた何かを思い出したように。
しかし視線はいくらもしないうちに引き戻されて、暑さの増す道の先を淡白に見据えるのだった。
「200年前、この国で大きな事件が起きたのを知っているかね。一人の魔術師が王都を襲ったのだよ」
「〈バーレンドットの火〉か?」
ユーインは即座に返した。
その通り、と白猫が目を細める。
「アルベルク・バーレンドット。彼は元々天才と評された魔法使いで、王の覚えもめでたい傑物だった。次々と新しい魔法を開発し、行き詰まっていた研究を進め、右にモンスターの気配があれば赴き、左に災害があれば救いに行った――いわゆる英雄だ」
「……………」
「それはそれは恵まれた暮らしをしていたようだね。彼の豪邸は私も見たことがある。庭も含めれば、一通り見学するのに2日はかかると思ったよ。いや、試してみてはいないがね。まさに天才でありエリートだ。やることなすこと国の利益、魔法に関する素質はもちろん、政治や武芸などあらゆる方面に秀で、人望も厚かった。一声かければ多くの人間が動いただろう。おそらく手に入らぬものなどなかったのではないかな。――ほとんどね」
白猫はいったん沈黙をはさんだ。
ほとんど。意味ありげな発言である。
だが彼はそれには触れず、話を続けた。
「間違いなく栄光の道を歩んでいたバーレンドットだが――何を思ったか、突如として強大な火の精霊を城下に放ち、破壊をはじめた。人と言わず物と言わず、触れるすべてをね。バーレンドットはすぐに捕らえられたが、強力な術でゆがんだ精霊は狂い、魔力の支配が消えても止まらなかった」
それはまさに火の海だったという。
壮麗な王都の街並みが、業火に没する。建物も植物も動物も人々も、一切合切区別なく、次々に形を失い、黒ずみ、あるいは溶け、消滅していった。
ラグミア史上に残る惨劇の三日間。
「だけど、当時の王が抑えて、封じたんだろ?」
そこまではユーインも知っている。
「どこへ封じたかは?」
「確か、辺境の山に――」
ユーインは口をつぐんだ。
山。
「そう、ここだよ」
僧侶のように厳かな声が肯定する。
「魔力路が交差する霊山。封じるなら、ここ以上に相応しい場所などない。精霊だからね、そのうち自然に分解されて大地へ溶け込むと考えたのだろう。もちろん間違ってはいない――それが、普通の精霊であったなら」
深みのある語り口。吸い込むように見据えてくる蒼い瞳。なるほど彼女の師匠だ、とユーインは唐突に悟った。相手を引き込むすべを心得ている。
「ところが、ある魔女が予言をした。……あの精霊にはすでに強い自我が芽生えている。200年の後、封印を破って再び暴れ出すだろう。近隣の村々を溶岩で襲い、自らを封じた王の血筋を捜しだし、必ず猛火の手を振るう。そうなれば辺境だけではない。国そのものが危うくなるとね」
「それが、クロさん……?」
白猫は答えず、のんびりと長い尾を揺らした。どうだろうね――そんな曖昧な声が聞こえてくるようだ。
「そこで時の王は魔女に契約をもちかけた。あなたにあの山を貸しだそう。あなたが積極的に他者を害さない限り、王の名において彼の地へは誰の手出しもさせない。あなたに対するあらゆる干渉を許さない。その代わり、火の精霊を監視し、もし目覚めるようなことがあれば、災いを成す前に鎮めてくれ――」
そこで、白猫は充分な間をとった。さきほどよりも長い静寂。話が脳のすみずみにまで浸透するのを待つように。
じれったく思ったユーインが視線で促してから、ようやく口を開く。
「――というのが、私の予想なわけだが」
「予想止まり!?」
くああ、と呑気な欠伸。
「その場にいたわけではないのでね。だがまあ、4割は当たっていると思うよ」
「しかも何だよその半端な割合!」
「嘘というのは、1割真実を混ぜれば効果的だというのを聞いたことはあるかね」
「どっちだよ! 1割なのか4割なのか! ――ああもう! クロさんはどこだ!」
ユーインは拳を戸に打ちつけた。飛びかからんばかりの勢いで睨む。しかし白猫は涼しげな表情を崩さない。
家の外と、内とで――正反対の雰囲気をまとった二者は、向かい合ったまま微動だにしなかった。
生温かい風が通り抜けていく。
灰色の空から額へと落ちてきた一粒が、全身に冷たい震えを起こした。
ユーインの意識がそちらへ移った瞬間、狙ったように低い声が思考を引きずり戻す。
「言ったろう? あの子は約定を果たしに行った。〈バーレンドットの火〉を鎮めにね」
「…………っ」
思わず怒鳴りそうになるが、白猫は間を与えなかった。
「退屈嫌いなあの子にしては、我慢したよ」
「……どういう」
「200年間、あの子がこの地にとどまっていたのは、約定があったからに過ぎない。元々ひとところに居られないタチなのだよ。飽きっぽいからね。――あの子にはもう、ここにとどまる理由がないということさ。
だから戻らない。
はっきりと突きつけられ、ユーインは言葉もなく立ち尽くす。
霧のような雨が降りはじめていた。
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