第10章

鷹と最強の矛1

「ありがとうございました、〈鷹の魔女〉様」

 棒読みの謝辞を告げて、終始真っ青だった依頼人はそそくさと席を立った。ドアをくぐろうとしてつまずき、転びそうになる。そして引きつった笑顔で振り返り、会釈すると、慌てた様子で去っていった。

「……感じ悪いなぁ」

 後ろでやり取りを傍観していた魔法使いが、茶をすすりながら口をとがらせる。

 魔女は振り向かぬまま湯飲みを手に持った。

「あれが普通の態度だと思いますけど」

「大切な物を見つけてくれた相手に対して?」

「魔女に対して」

 彼は納得していない様子で魔女のそばを通りすぎ、今まで依頼人が腰掛けていた椅子を占拠する。

「お茶も口つけてないし。失礼だよ」

「魔女が出したものに素直に口をつけるのはあなたくらいですよ」

「もしかして俺バカにされてる?」

「心底呆れてはいます」

 最後まで茶を飲みきってから、魔女は本を呼びだして体ごと横を向いた。いつものように本を膝に置き、ページを繰りはじめる。

「……クロさん」

「なんです」

 青年の呼びかけに、魔女は視線すら上げず答えた。

「俺は本に嫉妬してしまいそうです」

「相手が欲しいならウメでも探してください。外で遊んでいるはずです」

「クロさんがいいんだけど」

「ようやく手に入った本なので黙っててくれます?」

「……………」

 これみよがしな溜め息。魔女は無視をした。

 だが、頬のあたりに風が触れるのを感じ、ちらりと見やる。青年が彼女の黒髪を一房いじくっていた。

「……なにしてるんです」

「触りたくなったので」

「変質者ですかあなたは」

 容赦なく彼の手を叩き落とし、魔女は再び本に目を落とす。

 しかし、いくらもしないうちに再び髪が揺らされた。

 青年の指先が、軽く黒髪を引く。絡める。くるくると巻きつかせ、するりとほどく。かと思えば梳くように撫でていく。

 かたくなに放置していた魔女だったが、いい加減我慢できなくなって彼を睨みつけた。

「うるさい」

「何も言ってないのに!?」

「気配がうるさいんです」

「つれねえ……」

 魔法使いはがっくりとうなだれた。未練がましく黒髪を見つめるが、魔女に一睨みされて断念する。

 開けはなたれた戸口から、熱を残す風が流れ込んだ。湿り気を帯びてほんの少しひやりとする。

「雨が降るかな」

 ――目が疼いた。

 しかし魔女は表情も変えずに瞬きして、文字を追うことに集中する。

 外を見ていた青年は、その様子に気づかなかったらしい。顔を魔女に戻して、つまらなそうに湯飲みを指で弾いた。

「……降りますよ」

「へ?」

「雨。降るので早く帰ることをお勧めします」

「ひどくなるの? このあと仕事があるんだけどなぁ」

 かすかに魔女のまぶたが動いた。

「断った方がいいですよ」

「なんで?」

 ぺらりと本のページがめくられる。

「正体が分からないのでしょう?」

「……俺言ったっけ? 確かに、不気味な鳴き声が聞こえるってだけで、相手が何かはよく分かってねえけど。でも、もう前金もらっちまったしな」

 魔法使いは頭を掻くと腰を上げた。

「雨が降るなら早めに行っとくか。一応逃げる権利ってのもあるからさ。危ないと思ったらすぐ逃げることにするよ。心配してくれてありがとう」

「していません」

「そう?」

 一転して上機嫌になった彼は、笑顔のままマントを羽織った。

 しばらくその場に佇んでいたのは、魔女の意識が本から自分に移るのを待っていたのかもしれない。

 だが結局、本の引力には敵わないと悟り、苦笑して背を向けた。

「じゃあ帰るよ。またね、クロさん」

「――また」

 戸口をくぐる青年。

 その碧眼が一度振り返ったが、つれない横顔を再び拝んだだけであった。

 彼の姿が離れ、森の中に消えて、完全に気配が失せてしまってから、ようやく魔女は一瞬だけ視線を流した。



「……………」

 ぱたぱたと屋根を叩く音に気がついて、クロは静かに本を閉じる。

 視線を上げ、戸口の方を見ると、雨雲が空を覆い尽くしたのか、外は薄暗かった。いくつもの粒が透明な線を引いて大地に沈んでいく。強い水の匂いがした。

 周囲を巡ったクロの視線が、本棚の近くで寝る仔犬を発見する。いつの間にか戻ってきていたらしい。

 クロは立ち上がり、ドアノブに手を掛けた。

 と――

「ひどくなりそうだね」

 その声は背後から聞こえた。クロは吐き出しかけた息を止める。あえて即座には反応せず、殊更ゆっくりとドアを閉め、緩慢に体を反転させていった。

 テーブルに、白猫が鎮座していた。

「……お師匠」

「久しぶりだね、クロレンス」

「この前会ったばかりです」

「そうだったかね。まあ、この前も200年前も変わりあるまいよ」

 クロは嘆息してこめかみをおさえた。

「まだこの辺りにいらっしゃったんですか。猫が集まってくるのでどこかに行ってくださいよ」

「大丈夫だよ。今は隠れているから」

「……………」

「ここはとても暖かいね。もう夏も終わりだというのに、暑いくらいだ」

 猫は顎を持ち上げ、辺りを見回した。長い尾が優雅にテーブルの上を滑る。

「何の御用ですか」

「用がなければ、可愛い弟子の顔を見に来てはいけないかね」

「ではお茶をお出ししましょうか?」

「いいや、やめておくよ。君が出すものは、私には刺激的すぎる」

 ゆったりした口調。

 ゆったりと動く尾。

 クロは早々に限界に達した。――が、彼女の怒声を、落ち着いた声が制する。

「クロニカ、君はまだ約定を守るつもりかね?」

 明らかに狙ったタイミング。

 クロはいささかむっとしたが、息とともに苛立ちを吐きだし、答えた。

「……それが約束です」

「不干渉の約束は破られたようだが」

「あの程度、別に目くじらを立てることでもないです。王が謝罪をよこしましたよ」

「魔女の守護など要らぬと、血気盛んに反発していた坊やがね」

「老いたのでしょう」

 雨粒が窓を打ちつける。室内に響く音は知らぬ間に重く激しくなっていた。

 クロは目尻を押さえて憂鬱そうな溜め息をこぼす。

「雨の日は目の調子が悪いようだね」

「いつものことです」

 不愉快げに眉をひそめ、クロはそっぽを向いた。その視線が何かを捜すようにあらぬ方向へ飛ぶ。

 白猫は目を細めると、軽やかにテーブルから飛び降りた。本心の視えぬ蒼い瞳が穏やかにクロを見上げる。

「今日は出掛けるのをやめたらどうだね」

「元々そんな予定などありません」

「そうかね。では君らしい気まぐれだろう」

「……………」

 無言で睨みつけると、白猫はやはり静かな表情で見返した。

「私はそろそろ退散することにしよう。あまり無理をしてはいけないよ、クロスティア」

「余計なお世話です」

 閉め切られた室内で、猫の白い毛並みがなびく。四方から風を受けるように乱れると、すうっと輪郭から溶けて消えた。毛の1本も残さずに。

 ――結局何をしにきたんだ。

 舌打ちしたい衝動をこらえて、クロは杖を召喚した。



 低く重い、底に響くような咆哮が腹を打った。降りだした雨音も突き抜けて、重低音がゆっくりと空気に染みていく。

 遺跡の奥から聞こえてきた声に、二人は一瞬だけ動きを止めた。あくまで一瞬だけだ。すぐに気を取り直して探索を進める。

「……不気味な鳴き声っていうか」

 相方である勇者の後ろを歩きながら、ユーインは天井から落ちてきた細かな破片を片手で払った。

「明らかに竜だろ」

「竜だね」

 イルフェードがうなずく。

 すすけた壁に手を添え、倒壊している柱を乗り越えた。

「声からすると10メートルくらいはありそうだな」

「少し厳しいかも知れないね。僧侶がいない」

「教会から一人くらい拉致ってくれば良かったか。どうする?」

「……………」

 考え込むイルフェード。

 そのまま歩き続けていたため、彼は転がっていた石に足を取られてを踏んだ。しかし何事もなかったかのように顔を上げて振り返る。

「とりあえず行くだけ行ってみよう。無理だと思ったら即撤退で」

「了解。考えてる時でも足元くらいは見ような」

「見てたんだけどな……」

「頭に入ってないのは見ていないのと同じなんだよ」

 二度目の唸りが耳を震わせた。さきほどよりも近い。

 二人は気を引き締めた。天井の穴から漏れてくる雨を避け、剥がれた床をまたぎ、遺跡の通路を進む。

 だんだんと濃くなっていく、圧迫感と獣の臭気。

 ――なぜかユーインは嫌な予感に襲われた。

 冷えた風が雨まじりの空気を運んでくる。頬をかすめて後方へ。廃墟特有のよどみやカビ臭さが少しずつ拭われていく。

 やがて一切が外の匂いに上塗りされると、視界が広がった。

 元は講堂のようなところだったのだろう。かなりの空間がとられていた。いくつも並んだ柱は崩れかけ、あるいは完全に形を失い、風雨にさらされている。天井の半分が崩壊しているのだ。暗い空と、天井の残骸を激しく叩く雨粒が確認できる。

「体長約10メートル、体高約3メートル」

 呟きながら、ユーインは横倒しになった柱の前にしゃがんだ。柱に背をぴたりとつけて、同じように身を沈めた相方を見やる。

「どうだ?」

「体高は同じく。でも体長は9メートルだと思うな」

「何を賭ける」

「今日の夕飯。銀狼亭の『看板娘の気まぐれセット』で」

「言ったな? 最近やたらとたっけえぞ」

 ユーインは柱の陰から向こう側を窺った。

 ほぼ真正面。まず太く長い尾が目に入る。そのまま視線を上げていけば、頑強そうな鱗に覆われた巨躯と、鋭角的な翼。さらに上には重たげに少し落とされた首が伸び、そこから大きく口の裂けた頭部へと続く。

 時おり重量感のある尾を揺らし、警戒するように頭をもたげるさまは、眺めているだけで息が詰まった。

 嫌な予感が強くなる。

 ユーインがそのことを伝えようとした刹那、相方は場にそぐわぬほど緊張感なく、不思議そうな表情をさらした。

「イル?」

「……なんか、変だなぁ。あの竜」

「変? なにが?」

「なんかこう……どことなく、親近感が」

 ぞわりと肌が泡立つ。

 直感したのと、視界の端に映った竜がこちらを捉えたのは同時だった。

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