第7章

鷹と魔力の道1

「わん!」

 ――と、魔女の使い魔が訴え始めたのは、もうすぐ昼になろうかという時刻だった。

 まだまだ成長過程にある仔犬は、有り余る活力をすべて注ぐように尾をぐるぐると回しつつ、行儀よくお座りして主を見上げていた。その目はいまにも飛びつかんばかりの勢いに溢れていたが、仔犬なりに心得たもので、決して一定以上は自ら近づこうとしない。

 主人である魔女は本を閉じて立ち上がり、台所へ向かった。

 棚の引き戸を開けて袋を取り出し、中身をざらざらと小皿へ流していく。それを持って部屋に戻ると、仔犬は飛び跳ねて狂喜した。

「どうぞ」

 魔女は自分の椅子から少し離れた位置に小皿を置き、逃げるように身を退く。

 主人が席に戻るのを待ってから、仔犬は小皿の餌を頬張った。

 本当に美味しいのだろうかと毎回魔女は首をひねるのだが、喜んでいるのだから好みの味なのだろう。

 以前、よかれと思ってとうがらし入りの野菜炒めを出したところ、魔法使いの青年に怒られてしまったため、それ以来ドッグフードというものを与えるようになっていた。犬にはそちらの方がいいらしい。

「……………」

 魔女は再び本を開き、文字を追いはじめた。

 開けっぱなしの戸口から、時折風が流れ込んでくる。若干熱をふくんだ風は顔全体を撫で過ぎた。そのことに違和感を覚え、彼女は眉根を寄せる。

 どうにもすーすーする気がした。室内がいつもより広く感じられる。視界を遮るがないのだ。

 つまり向かいの席が空っぽであるせいだと理解した直後、彼女は苦虫を噛みつぶしたような顔になる。

「……んー」

 ほんの少し不機嫌そうに目を細めると、魔女は腰を上げて杖を召喚した。食事に夢中な使い魔を一度見やってから、杖を回してその場から消える。

 やわらかな風がするりと通り抜けていった。



 水晶玉を見つめて、溜め息をつく。

 テーブルに置いたその透明な宝石に、不吉な黒い影がゆらりと揺れていた。時間経過とともに濃く、大きくなっていっている。

「大丈夫かしら……」

 不安げな独り言を落として、クレアはそわそわと室内を歩き回った。

 幼さを残した面差しには、少女に似合わぬ重々しい心痛の色が乗せられている。眉は弱気に垂れさがり、青い瞳は心細そうにかげっていた。

 彼女はまた深く嘆息して、再度水晶玉へと視線を向ける。

 その時、慌ただしい足音が近づいてくるのに気づいて、はっと顔を上げた。

「クレア!」

 ノックもせず飛び込んできた人物に、彼女は表情を輝かせる。さらに彼の後ろから金髪の青年がやってきたのを見ると、安堵の息を吐いた。

「ユーイン、イルフェード様! 良かった、来てくださったんですね」

「大変なことになってるみたいだね」

 イルフェードが窓の外を見る。普段は人で溢れかえる大通り。今はまったく人気のない、がらんとした模型のような町並みに変貌していた。風の音だけが寂しげに窓を叩いている。

「避難はもう終わったのか?」

 ユーインの問いに、クレアは小さくうなずいた。

 水晶玉を持って廊下に出た彼女を、二人が追う。

「みんな西区に避難したわ。他の冒険者たちには、もう町の外で待機してもらってる」

「あとどれくらいで来るか分かる?」

「たぶん1時間もありません」

「数は?」

「多分2、300。もっと増えるかも」

 げ、とユーインが呻いた。

「イノシシだろ? あいつらタフなんだよなぁ。魔法使いは何人いる?」

「7人。あんたを含めて8人ね」

「少なすぎる。こりゃきっついぜ」

 大股で歩きながら、クレアは厳しく彼を一瞥する。

「きつくても何とかして。幸い上位資格者が他に3人いるわ。ユーインは彼らと協力して広範囲魔法で先手を。領主様の許可はとってあるから」

「相変わらず簡単に言うよな……」

「先にどれだけ数を減らせるかでだいぶ変わるね。ユーイン、頼んだよ」

「まあ、やれるだけやるさ」

 いまいち覇気のない返事に、クレアは苛々した様子で怒鳴りつけた。

「もっと気合を入れてよ! あんた短縮詠唱できるんでしょ、人の2倍は働きなさいよね! その分イルフェード様の負担が減るんだから」

「言っとくが、あれは疲れも2倍なんだぞ」

「知らないわよそんなこと。女の子を口説くより言葉が少なくて済むから楽でしょ」

「……………」

 ぴしゃりと言い返されて黙り込むユーイン。

 苦笑する相方と目を合わせ、敗者の溜め息をつく。

「しかしイノシシねえ……あいつら、人里を襲うほど好戦的じゃないはずなんだけどな」

「何よ、私の占いが間違ってるとでも言うの?」

「おまえの腕は信頼してるよ」

 クレアは虚を突かれて言葉を失った。うろたえるようにさまよった視線がイルフェードのものとかち合い、慌てて前を向く。

 それを気にしたそぶりもなく、イルフェードは話を続けた。

「飢餓状態のときはわりと凶暴だったと思うけど」

「ああ、魔力のな。だけど魔法力なんて空気と同じように満ちてるもんなんだから、故意にそうしない限りは飢餓状態になんてならねえだろ」

「うーん」

「ともかく、大変だとは思うけどお願いします。一応門は閉じて結界を張ってもらっているけど、結構な範囲だから薄くなってしまうんです。あの数で向かって来られたら、あまりちません」

 イルフェードは力強くうなずいた。真摯な眼差しを彼女に返す。

「大丈夫、絶対に町の中へは入れない」

「は、はい」

「……俺のときとえらく態度違うじゃねえか」

 ユーインがぼそりと突っ込むと、クレアはわざとらしくそっぽを向いて、彼の苦情を黙殺した。



「こんにちは、耳の良いウサギさん」

 クロはにこりと笑ってその店に入った。

 さして広くもない室内に、無愛想なカウンターが一つ。壁際には使われた形跡のない薄汚れたテーブル。唯一の小窓から差し込む光は少なく、昼間だというのにやたら薄暗い。

 魔女は気おくれもせず、まっすぐにカウンターへ向かった。ろくに掃除もしていないのか、細かな埃があとをついていく。

「おう、あんたか。久しぶりじゃねえか」

 カウンターの男が気さくに片手を上げた。

「まいったぜ。毎日毎日、陰気な野郎どものツラばっかりでよ。あんたが女神に見える」

「それは随分とお疲れですね」

 男はカウンターに置かれた彼女の手をさりげなく握った。

「あんたなら毎日でも大歓迎なんだがなぁ」

「そのセリフ、神のいる教会でもう一度聞かせていただけます?」

 余裕の笑みでそう告げられたとたん、男は肩をすくめて手をひっこめた。

「つれねえな、相変わらず」

「それで、ウサギの耳に何か面白い足音は届いていますか?」

「んん……面白い、ねえ。カレッツの祭りはこの間終わっちまったし」

 かりかりと頭を掻きつつ、彼は宙を見る。しばらく考え込んだあと視線を戻した。

「そういやカレッツの西の――コーデルだな、あそこで冒険者を募集してたみたいだぜ。なんでも、占い師の娘がモンスターの襲撃を予言したとかで。今20人くらい集まってるんじゃないか?」

「カレッツの西……ああ、なるほど」

 面白そうに目を見開いたクロは、すぐに合点がいった様子で指先を口元に当てた。ローブの下から取り出した硬貨をいくつかカウンターへ滑らせ、そっけなく身をひるがえす。

「どうも。また気が向いたときに」

「気が向いたときにな。――しかしあんたも物好きだね。その気になりゃ、お隣ジェトエール国王の愛人の数まで視えるだろうに。わざわざ金払ってまでこんなとこに来てさ」

 クロは肩越しに振り返り、何を今更とばかりにまばたきした。

「ウサギと戯れる方が暇つぶしにはなるでしょう?」

「そのウサギは、こんな冷たいコインより人肌の方が好きなんだがね。特に、あんたみたいな美人の」

「それは存じ上げませんでした」

 ふわりと紺色のローブが波打った。

 男のもとへ引き返した魔女は、彼に顔を近づけると、その黒眼に蟲惑的な光を灯す。

 そしてとろけそうなほど甘い声音で、ささやいた。

「構いませんよ? 私から離れれば凍え死ぬくらい、うんと温めてもいいと言うのなら」

「……そりゃあ、天国みてえな、地獄だな」

 頬を引きつらせて後ずさりし、男は両手を上げた。

「冗談だよ。いくらなんだって、魔女を相手にしようとは思わねえさ。まだ命は惜しいしな」

「ウサギさんは人肌を渡り歩くのがお好きでしょう。火傷を望むものではありませんよ」

 クロは淡白な表情に戻り、さっさと踵を返した。

 その背に負け惜しみのような一言が投げられる。

「だけど、最近じゃ火傷をしたがる奴が現れたって聞いたぜ?」

 ぴく、と。

 ドアノブに伸ばしたクロの手が、ほんの一瞬だけ揺れた。

 それに気づかなかったらしい男は、試すような視線を彼女に注ぐ。

「肝の据わったウサギもいたもんだ。なあ?」

「――食傷気味ですよ」

 艶やかに微笑み返すと、彼女はことさらゆっくりとノブを回した。

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