鷹と赤い獣3
「確か村人が一人犠牲になってるんだよな?」
クロのあとに続きながら、ユーインが相方に尋ねると、イルフェードは神妙な面持ちでうなずいた。
「ああ。モンスターが住みついたと知らずにここに入ったらしい。それで、帰ってこない彼を心配して何人かが確かめに行って発覚したって」
「一人で?」
振り返りもせずクロが問う。
「いえ、確か犬を1頭連れていったと」
自然と、3人の視線が横をばたばた歩く仔犬に向けられる。仔犬は偶然目が合ったイルフェードに近づくと足元にじゃれついた。
「犬……ね」
「クロさん、何だってわざわざ? こいつに火傷を負わせた奴を訪ねてきたって言ったけど、どういうことだ?」
「普通の焼け跡ではありませんでしたので。単なる興味です」
「普通じゃ、ない?」
聞き返したのはイルフェードである。仔犬を蹴飛ばさぬよう、慎重に足を進めている。
「普通に火を押し付けただけではああなりません。焼きごてにしては形がない。なのに必要な部分だけを正確に焼いています」
「……魔法か?」
「ただの魔法でも難しいでしょうね。――火自身が、意志をもって成そうとしない限りは」
縁のない会話に勇者はきょとんとしたが、魔法使いはすぐに理解したらしい。まさか、と顔色を変える。
そのとき、ぴくっと仔犬が鼻を上げた。まとわりついていたイルフェードから離れ、ユーインとクロを追い抜き、あっという間に奥へ。
「あっ」
「こら、危ないぞ!」
仔犬を追いかけたイルフェードが先に気ついた。
「……この人だね」
悲しげに鼻を鳴らし、うろつき回る仔犬のそばには、ひとりと1頭の遺体があった。粗末な身なりの男は火の消えた松明を握って絶命しており、少し離れたところでは、仔犬によく似た茶色い毛の犬が倒れている。
僧侶がいないため、ひとまずユーインが祈りを捧げた。
「おまえの親か? 可哀相になぁ」
「村の人に報告して弔ってもらおう。もうモンスターの気配はしないから、呼びに行ってくるよ」
言うなり、情に厚い勇者は踵を返した。青いマントをゆらめかせ走っていく。
クロは見送ることもせず、遺体の前に膝をついた。遺体の腕の先――消えた松明に手を伸ばす。仔犬が近寄ってきて腰を浮かしかけるが、耐えたようだ。
「……クロさん、犬連れてきて平気なの?」
「何か問題が?」
「いや、クロさんが。苦手なんだろ?」
「……嫌いなだけだと言ったはずです」
「――嫌いでも。そばに寄られるのも嫌なら置いてくれば良かったのに」
ユーインが抱き上げると、仔犬はじたばたと暴れて彼の指を噛んだ。
「証拠はあった方がいいでしょう。姿を現させるには」
「……って、なんの?」
ふわっと熱い風が起こった。クロの指先が線を引くと、松明に火が蘇り、熱風とともに人影が現れる。
炎で作られた肉体とドレス。すべてが猛々しい火でありながら、なめらかな曲線を描く輪郭は女性のものだ。
「〈真紅の貴婦人〉か!?」
熱さのあまりユーインはわずかに退いたが、クロは間近にいながらも微動だにしない。ただ静かな瞳で彼女を見上げた。
「――火が消えていたので無理かと思いましたが」
風で煽られた黒髪を払う。
「残っていて幸いです、火の精霊よ」
「……その仔は……その仔は、まだ、無事だったのね」
抑揚のない声。クロにも似ているが、それ以上に無機質だ。喜んでいるのか嘆いているのかすら判断がつかない。
「この仔犬の傷を焼いて塞いだのはあなたですね? 火の貴婦人」
「や、焼いて塞いだ?」
「火傷のほかに、噛み跡がありましたよ。その出血をおさえるために焼いたのでしょう」
無茶な、とユーインは顔を引きつらせた。
「無茶……ええ、でも、血が流れていたから。血を止めないと死んでしまうと思ったの」
「ここに住みついたモンスターに?」
「ええ」
〈真紅の貴婦人〉はゆっくりとクロに向き直る。
「けれど、やはりこのままでは死んでしまう」
「……………」
「治療はされたみたいだぜ? 治ってきてるけど」
ユーインが傷を確かめる。誰かに回復魔法でもかけてもらったのか、自然に治癒する程度には傷は塞がりつつある。
「怪我は、治るわ」
「クリムゾンファングの魔力は毒に近い性質があるんですよ」
「……初耳だぞ?」
「人間には特に害は出ませんからね。耐性が強いんです。でも小動物や幼獣だと、唾液に含まれた魔力が傷口から入って、体内を蝕むんですよ。イヌ科のモンスターは大抵そうですね」
そもそも小動物や幼獣ならば、まず間違いなく失血死する方が早いだろうが。
「入りこんだ魔力は内臓部分に溜まるので、胡散臭い薬の材料として取引される場合もあるようです」
「それって効果あるの?」
「いいえ。愚か者の気休めです」
効能が確かなら、そういったモンスターはとうに狩り尽くされている。
「幼い獣は、侵入した魔力に耐えきれないわ。持て余してしまうの。成長しきる前に死んでしまう」
クロは苦虫を噛み潰したような顔をした。仔犬に同情したというよりは、不快の色の方が濃い。
その理由はすぐに判明した。
「――名のある魔女とお見受けするわ」
「……気のせいじゃないですか」
「その仔を助けてほしいの」
勘弁してくれとばかりに額をおさえるクロ。
「あなたがこの仔と主従の契約を結んでくれれば、本来この仔が負うはずの魔力はすべてあなたに流れる。……助けてほしいの」
「……………」
ちらりとクロの半眼がユーインに向けられた。意味を即座に察したユーインは、片手を上げてかぶりを振る。
「冒険者が仔犬なんて連れ歩けねえよ」
「私だって連れ歩けません。まっぴらごめんです」
「犬怖いし?」
「――その舌、ちょっと休ませましょうか」
「すみません調子に乗りました」
珍しく呪い殺しそうなほどの剣幕で睨んできたクロに、ユーインは可笑しいような恐ろしいような、複雑な気分になった。だがここで苦笑いなどしようものなら、たちまち火あぶりにでもされかねない。冷や汗を流しながら無表情を貫く。
魔女はすみやかに冷静さを取り戻すと、眉間のしわはそのままで、火の精霊に問いかけた。
「……なぜそこまでして、こんな仔犬1匹を助けたいのです?」
「――特に、意味があるわけでは」
〈真紅の貴婦人〉はわずかに困ったような気配を見せる。
「ただ、わたくしは見ていたの。その仔の親犬は、主とその仔を護るために、果敢にもモンスターに立ち向かっていったわ。わたくしはずっと松明で見ていたの。松明の火が消えても、こうして思念として残った。――何か、わたくしの行動には意味があるのかしら?」
「……それは私には分かりかねます」
そっと息を吐いてクロは答えた。
「あなたが何を思って行動したかなど、あなたにしか分かりませんよ。それが意志というものでしょう」
「そう、なの……」
――わんっ。
ユーインの腕の中で仔犬が訴えた。いい加減飽きてきたらしい。
クロは一度出口の方を見やると視線を戻した。
「……時間切れですね。村の人間が向かってきています」
「クロさん――」
「……………」
彼女は苦渋に満ちた表情で仔犬に体を向けた。いったんまぶたを伏せて深呼吸し、目を開けた瞬間思いきり視線をそらす。細い指先が仔犬に伸びたが、いまだ迷いがありありと感じ取れた。触れる直前でぴたりと止まってしまう。
不思議そうに瞬くユーインを、黒眼が凄むように見上げた。
「動かしたら、あなたを動けなくしますよ」
「――はいはい」
苦笑を漏らすユーイン。
そしてようやく、クロの指が仔犬の額に到達した。
「……私のしもべ、おまえに名を与えましょう」
一拍、間が空く。
「……えぇと」
「まさか『犬』なんて名前にはしないよな?」
「……、ではおまえの名はウメです。おまえがこれから負うすべての痛みは私が引き受けましょう。――代わりに
ありふれた契約の言葉。
なぜかユーインは、ぞくりと全身の毛を逆さに撫でられたような錯覚に襲われた。近かったために魔法の余波を受けたのかも知れない。
「……とうがらし梅茶?」
唾を呑み込んで何とかそれだけ尋ねると、クロは不本意そうに眉根を寄せる。
「名前だけでも愛着が沸くかも知れません」
とてもそうは思えない口調であった。
クロがこれでいいだろうと言うように一瞥すると、〈真紅の貴婦人〉は初めてふわりと微笑んだ。
「感謝するわ……」
「あなたへの敬意を表したまでです、火の精霊。二度はありません」
「奇妙な言葉だわ。わたくしの身はとうに朽ちている。あなたの魔法が消えれば、二度と現れることはないもの」
「……………」
温かな風が吹き、火の精霊の輪郭がかすれていく。その溶ける姿を終わりまで見届けることなく、クロはまるで拗ねるように背を向けた。
「――クロさん、俺は重大な事実に気づいてしまった」
「なんです」
振り返りもしないクロに切り出すと、彼女はそのままさっさと歩きだした。ユーインが抱く仔犬を直視したくないらしい。
「クロさんって、俺の名前一度も呼んだことないよな」
「そうでしたか?」
「そうです」
ふうん、と興味のなさそうな声。ユーインはめげずに言いつのった。
「ちょっと呼んでみてくれない?」
「なぜ無意味に……呼ばなくても通じているのだからいいでしょう」
「でもイルじゃねえけど、名前って重要だろ。こいつに名前をつけて使い魔にしたみたいにさ。名前を呼ぶってことは相手を認めるってことだ」
「私は魔女ですから」
面倒そうに彼女は応対する。
「私が迂闊に名を呼べば、あなたは支配されてしまいますよ」
「じゃあ周到に呼んでくれ」
「……………」
魔女は一瞬だけ呆れの眼差しを送った。小さな溜め息が漏れる。
しかし結局、陽光が降り注ぐ出口まで来ても彼女は返答しなかった。どうやら要望は却下されたようである。
ユーインが諦めた刹那。
おもむろにクロは振り返った。
長い黒髪がゆっくりと肩から背中へ落ちていく。黒水晶の瞳が明確にユーインを映した。
吸い込まれるような眩暈。
「――ユーイン」
聞きなれた単語の、だが間違いなく初めて聞く声の響きに、ユーインはさきほどの総毛立つ感覚を再び味わった。一気に体温が上がる。
「……ほらね」
クロはゆるりと視線をそらした。
「支配されたじゃないですか」
「いや、ち、違――い、いまのってそうなの?
「ああ、村の人間が着くようですね。私はこれで失礼しますよ。……ウメ、不本意ですがいらっしゃい」
呼ばれて、仔犬は無様にユーインの腕から落ちた。下は痛そうな岩だったが、特に衝突音もなく、ころんと転がった仔犬は元気に主のもとへ駆けていく。
「ちょ、ちょっと待った! 今のって魔女の呪なのか? そ、それだけ? それだけなの? クロさ――」
召喚した杖をくるりと回すと、魔女は答えの代わりに移動の呪文を唱えた。そしてユーインが止める間もなく姿を消してしまう。
「……………」
ひんやりした空気。曖昧なまま残された熱。行き場のない問いを風が連れ去っていく。
――きっとこれは八つ当たりだ。
自分の名を呼ぶ相方の声を遠くで聞きながら、ユーインは後悔した。
「鷹と赤い獣」了
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