第5章
鷹と赤い獣1
「んじゃ、俺はそろそろ帰るかな」
中天にあった太陽がかたむき始めた頃、ようやく金髪の魔法使いは席を立った。彼は残っていた茶を飲み干し、しかめっ面になる。
口に合わないのなら無理をして飲まなくてもいいのに、と毎回魔女は思うのだが、律儀な青年は出されたものを絶対に残さない。実はほんの少しずつ辛味を足すというイタズラをしているのだが、彼はいつ気づくだろう。
「ご苦労様です」
鉄壁の無表情で心中を覆い隠し、魔女が答えを返すと、魔法使いの青年は外套をはおりながら一度振り返った。
「帰ってくれてありがたいとか思ってそうだけどな」
「読心術?」
「棒読みでもいいからせめて否定するふりをしてください」
ごちそうさま、と力なく呟いた彼の背中へ、魔女は短い言葉を投げた。
棒読みで。
「またのお越しを」
「……………」
魔法使いの青年はなんとも微妙な顔をした。が、すぐに開き直って強気な笑みを浮かべる。
「そこまで言うなら、また来るよ」
「来なくていいです」
「またまた素直じゃないんだからー」
ささやかな溜め息が、茶の湯気と混じって空気に溶けた。
魔法使いは完全に知らんぷりすることに決めたようで、軽く手を振って戸口をくぐる。
その足がふいに止まった。
「……ん? なんだおまえ」
魔女は誰か来たのかと瞬きをするが、視界にあるのは金髪の青年ひとり。
彼はしゃがみこんで手を差しだしていた。おそらく動物だろう。
特別に呼びでもしない限り、ここへは動物とて近寄ろうとはしない。珍しいこともあるものだ、と魔女は何気なく近づいていった。
青年の後ろからひょいと覗きこみ、――凍りついたように硬直する。
招かれざる客は、仔犬だった。
やわらかい茶色の毛並み、くるんと丸まった尻尾、やんちゃそうなアーモンド型の目。首輪の代わりに包帯がゆるく巻かれているが、怪我をしているわけではないのか、それとももう痛みはないのか、ころころした体躯をユーインの手に絡めて元気よく暴れていた。
「いてっ、こら噛むな噛むな。どこから来たんだ? 迷い込んだのかな? ――なあクロさ……」
ユーインが振り向いたとき、なぜか黒髪の魔女は部屋の奥まで後退していた。
つい一瞬前までは確かに背後に気配があったのに、と首をかしげると、仔犬が足元の隙間から無理やり顔を出し、家の中を覗く。
ぴく、とクロの表情が動いた。彼女は身を守るようにローブを胸の前に寄せる。
「……………」
「……………」
妙な緊張感が漂いはじめたのを察し、ユーインはまさかと思いつつも恐る恐る尋ねた。
「……クロさん、もしかして――犬、苦手?」
「いいえ」
不自然なほど早い返答。
「苦手じゃありません。嫌いなんです」
「……似たようなもんだと思うけど」
仔犬を持ち上げ、無造作にクロの方へ向けると、彼女は少し顎をのけぞらせた。フードの奥から恨みがましい視線が飛ぶ。
「近寄らせないでください」
「まだ仔犬だけど……怖いの?」
「だから嫌いなのだと言っているでしょう」
腕を伸ばしてさらに仔犬を近づければ、魔女はそのぶん距離を確保しようと壁際で身を縮める。こうまであからさまな態度をとっておいて、嫌いなだけはないだろう。
「……なに笑ってるんです」
「ごめん、案外可愛い一面もあるんだなぁと」
「ふっ飛ばしますよ」
低音の声に本気を感じ取り、ユーインは慌てて笑いを引っ込めた。
持ち上げられた仔犬が不服そうに吠える。クロはますます渋い顔をした。
「可愛いと思うけどな。なんで嫌いなの?」
「その、媚びれば助けてくれると思っているような根性が気に入りません」
「……………」
なんとも理不尽な理由である。
「まあ、赤ん坊なんて親がいなけりゃ生きていけないからなぁ。だから庇護欲をかきたてるような可愛さがあるって言うし」
「なにが可愛いものですか。そのくりくりした目とか、触り心地が良さそうな耳とか、くるくる回す尻尾とか、何なんです、皆が皆可愛がってくれるとでも思ってるんですか?」
「……あのさ。クロさん、実はものすごく好きなんじゃないの?」
「嫌いです」
彼女はかたくなに言い張る。
まあいいかと諦めて、ユーインは外に仔犬を放し、立ち上がった。
「近くに親もいないみたいだし、迷子かな。俺は犬なんて連れ歩くわけにはいかないし――」
ちらりとクロを見やると、彼女は不愉快げに眉根を寄せた。
「私は飼いませんよ」
「……まあ可哀相だけど、仕方ねえか。運が良ければここでも生きていけるだろ」
「ここで?」
クロは冗談じゃないとばかりに仔犬を睨みつける。
「どこかへやってください。うろつかれては迷惑です。第一、家に入ってきたらどうするんですか」
「追い出せばいいじゃないか」
「……………」
鋭い黒眼にどこか可愛げを感じて、ユーインは心の中で苦笑する。以前、しゃべらないだけ犬猫の方がマシだと言ったのは誰だったか。
「俺これから仕事だし。エサをもらえないと分かればどっか行くさ。――でも、そんなに怖いなら適当なところに連れてくけど」
「誰が怖いと言いました」
言うはずがない。ユーインはゆるみそうになる頬を必死に抑えながら、軽い足取りで戸口から離れた。
「モンスター退治が終わったらまた寄るよー」
「来なくて結構です!」
こらえた笑いが口の端から漏れる。ユーインは本当に吹き飛ばされる前にその場から退散した。
――わんっ。
「……………」
渦を巻いた尾が左右に揺れている。何かを期待するような目は真っ直ぐにこちらを見つめ、小さな耳はぴくぴくと動いていた。
丸っこい前肢が軽やかに踏みだされた瞬間、クロは召喚した杖を床に打ちつける。仔犬がその姿勢のまま彫像のようにかたまった。
「近づくな。1歩でも中に入ったら容赦しません」
うなずくようにまた吠える。持ち上がったお尻の先で、尻尾がばたばたと跳ねた。
「……………」
わんっ。
「……うるさい。エサなんてありませんよ。よそへ行きなさい」
わうっ。
「遊びもしません」
睨みすえても仔犬はまったく怯まなかった。それでも先程の脅しを理解しているのか、家の中へは入ろうとしない。
――魔法使いの青年が言った通り、放っておけばそのうちいなくなるだろうか。
天井を見上げて思案していたクロは、ふと視界の端に何かが映り込み、顔を戻した。
口を歪めつつ、かしかしと後肢で首元を掻いている仔犬。ただでさえ外れそうな包帯がゆるみ、先端を地面に垂らしていた。
「……おまえ、それは」
クロが近づいていくと、仔犬は構ってくれるものと思ったらしく、すぐさま鼻を鳴らして尾を振った。
クロは反射的に踵を返しかけるが、どうにかこらえる。しかしそれ以上は近づかず、杖を伸ばして仔犬の包帯をかき分けた。
眉がはね上がる。
「これは――」
クロは開け放たれた戸口から遠くを見た。肉体はその場に置きながらも、視線だけが家を抜けて、木々を抜けて、一気にふもと近くまで。
新たな侵入者がいた。もちろんさっき別れたばかりの魔法使いではないし、近くに住む村人でもない。さらに言えば困りきった依頼人のようにも見えない。
クロは小首をかしげ、慣れた仕草でくるりと杖を回すと、その場から消えた。
男が二人。
「おいっ、早くしろよ。遅ぇぞ!」
前を歩く男はずいぶん大柄で、簡素なシャツとズボンがはち切れそうになっていた。あらわになった腕や肩は傭兵と名乗っても通じそうなくらいたくましいが、暦の上では春とはいえ、まだ肌寒いこの時期にシャツ1枚は阿呆の極みである。それでも寒がるそぶりもなく、力強く斜面をのぼっていく。
「ま、ま、待ってくれ。やっぱり、ひ、引き返そう。この山、不気味だ」
あとに続く片割れは、息も絶え絶えに訴えている。こちらは相当の痩身で、絵画の表面を薄く剥がして膨らませたけど所詮もとは紙です、と紹介しても差し支えないほどひょろりとしていた。長袖の上着に厚手の外套と、常識的な服装をしている。
「何言ってんだ! 魔女がいるなんて噂に決まってんだろ! とっとと捜して山を降りればいいだけの話だ!」
「だ、だけどさ、これだけ広くちゃ、もうどこに行ったかなんて分からないし、あ、諦めた方がいいんじゃないかな……魔女には関わるべからず、神もおっしゃってるよ……」
痩身の男は首からさげた聖印を握り締めて祈った。身にまとった敬虔な魔法力といい、どうやら僧侶らしい。
「弱気なことを言うんじゃねえ! 諦めたらそこでゲームセットなんだよ! とにかく捜すんだ!」
山賊のような見た目に反し、大柄な方はわりと熱かった。
ずっと眺めていても面白そうだったが、むやみに領域を侵されるのは愉快でない。
クロは高い木に腰掛けたまま、フードを髪とともに背へ払った。
「とっ捕まえて、ちっと大きい町で売れば――」
「――何か、お捜しですか?」
口を挟むと同時に、風を操作して木々の葉をこすらせる。男二人は一斉に息を呑み、クロの姿を発見するなり蒼白になった。
「山菜採りなら他へどうぞ。ここでは収穫など期待できませんよ。鷹がすべて食べてしまうから」
唇だけで微笑むと、二人組は分かりやすく狼狽した。痩身の男は一心に祈りを捧げ、大柄な方はただおろおろと辺りを見回しはじめる。
「だ、だから、だから、言ったのに。ああ神よ、神よ、ど、どうかご加護を……! 神よ……!」
「祈ってねえで何とかしろよ! ど、どうすんだよ! ちくしょうこんなとこで魔女に食われて死ぬなんて――こんなことならラスベトでケチらずに遊んどきゃ良かった――」
頼まれても食べるか、とクロは思ったが、わざわざ口に出して安心させてやる義理もない。片手で杖を回したあと、威嚇するように左手へ持ち替えた。
「じゃ、煮て食べたあとは骨をラスベトに埋めてあげますね」
「い、嫌だあああああ! 許してくれぇええ!」
「ま、ま、待ってください! 待ってください、わ、私たちはただ、ただ――」
パニックに陥った相方の代わりに、僧侶風の男が前へ出て膝をついた。
「ただ、犬を捜しに来ただけなんですっ!」
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