鷹と妖かしの刀3
彼はご機嫌だった。
久しぶりに戒めから解放され、欲望のままに力を振るうことができる。窮屈な支配はなく、意志を抑圧されることもなく、自由に斬り裂ける。
人間であれば鼻唄まじりにスキップでもしていただろう。
とはいえ彼には不自由な足などなく、風のようにただ宙を滑る。
目標を見つければ一気に降下し、優雅に通りすぎるだけでいい。とろくさい人間など、戦うための道具として生み出された彼が本気を出せば、捉えることさえできないのだから。
――そして彼はまたターゲットを捕捉した。
それがさきほど振り切った黒い娘であることには、すぐに気づく。人の顔など見分けはつかないが、独特の魔力の波動は間違えようがない。
あの布をもっと裂いてやろう、と彼は当然のごとく思った。妙な魔力の糸が行く手を阻んでいたが、そんなものは容易に断てる。
彼は先刻のやりとりで学習していた。黒い娘は、彼を傷つける手段を持っている。だが、どれほど強力な魔法も武器も、当たらなければ無意味だ。
全力で走り抜ければ、どんな攻撃をされても命中しない。
彼にはその自信があった。
そしてそれはおそらく事実であった。
ゆえに今度は手加減なしで。
目視も許さぬほどのスピードで。
魔力の網など薙ぎ払い、風をはらんで膨らんだ娘のローブを――
……ふと。
長年人の手に在り、使われ続けてきた彼は、その一瞬疑問という高度な思考を持った。
この娘の服は、さっき見るも無残なほど破壊してやったのではなかったか。
瞬間、彼が感じたのは予感だとか胸騒ぎだとか、人間でいえばそういったものに近かったかもしれない。
「……偽物ですよ」
澄んだ声が降った。
それと同時に、貫いた娘の服が溶ける。いや、彼女そのものも。ずるりと形が崩れ、粘性のある液体となって彼に覆いかぶさった。彼はそのまま成すすべなく大地に接着される。ねっとりした液体はどれだけ暴れても剥がれず、裂くこともできなかった。
――いつの間にか霧が出ていた。身に吸いつくようなそれは、強い魔力の粒子であった。
彼は見る。
黒い魔女が微笑みを浮かべ、空に佇む姿を。
歌うような旋律とともに、彼女の手の中で闇が膨張していく。鋭く長く伸びていく。
それは剣だった。
シンプルゆえに凶暴で、だが凛とした優美さの漂う、冴え冴えとした強靭な刃。美しく、妖しく、圧倒的なまでに強大だった。
彼以上に。
そう本能が察したとき、彼は妖刀たる意味を失った。
「――お仕置きです」
すさまじい闇色の雷が落ちた。
武士がそこに到着したとき、石畳にはささやかな穴と黒ずんだ跡だけがあった。かたわらには黒髪の魔女が背を向けて立っている。足元に散ったかけらはおそらく石畳のもので、刀らしき物体は見当たらない。
もしや破片も残さず消し炭にされたのか、と彼はおののいた。心の中で友に謝罪する。自分が未熟だったために大切な刀を失ってしまったと。
「片付きました」
さっきまでの異様な威圧感などすっかり消し去り、意外にもけろりとした様子で魔女は振り返った。彼に一振りの刀を差し出す。
「ぬ? こ、これは――」
見間違えるはずもない。それは彼の刀だった。手に持ってあちこちを確認するが、炭どころか欠けてさえいない。のみならず、あれほどの妖気が消え失せ、打ったばかりのような清澄な気配をまとわせていた。
「おそらく完全に魔力は消えたでしょう。もう普通の刀ですよ」
「な、なんと。妖刀を祓うには高位の僧侶でなければ無理だと聞いたが――」
「ええ、私は祓ったわけではありません」
「どういうことだ」
丹念に状態を調べてから、彼は心底ほっとして刀を鞘に収めた。当たり前のように魔女へ目をやったとたん、あらわになった肌が視界に映り、急いで横を向く。
「随分と思考が人間に近いようでしたので、暗示をかけたんですよ。自分よりも立派な武器に真っ二つにされる――そんな幻を見せてね」
破壊するのは難儀しそうだったので、と彼女は付け加える。
「自分が死んだと錯覚して、勝手に消滅してくれました」
「そ、そのようなことが……」
「思いこみというのはなかなか侮れないものです。押し当てられたものが火であると信じこめば、たとえ実際にはただの木の棒であっても、火傷の症状を起こすこともあります」
ふー、と魔女のついた溜め息があまりにも白かったので、武士ははっとして体を震わせた。風はゆるやかだが、空気は頬を引っかくように冷たい。彼女は今、腕も足も剥きだしである。
「魔女よ、その格好で寒くはないのか」
「お構いなく。魔女ですから」
なるほど魔女とは寒さを感じないものなのか、と彼が納得すると、彼女はブーツの音を響かせて身をひるがえした。仕事が終わったので早々に帰るつもりらしい。
彼は慌ててあとを追う。
「感謝する。魔女など信用できぬと思っていたが、詫びよう」
「対価の分働いただけです。魔女など信用しない方が身のためですよ」
こつり、と一度足を止めて、魔女は冷たい視線を返した。
「これに懲りて、自制できない欲望は発散することですね」
「ぐ、ぬ……」
「興味がないと思いこむのは勝手ですが、心通わせた武器をごまかしきれぬようでは無駄です」
「……………」
ぐうの音も出ず思い悩みはじめた武士を置いて、彼女はさっさとその場を離れた。姿を消す前に大事な一言を残していく。
「報酬のほうれん草を忘れずに。もうストック分がないんです」
――くしゅんっ。
ん? と武士は顔を上げた。そこにはもう魔女はおらず、周りを見ても自分ひとりがぽつんと立つだけだ。不思議に思って首をかしげる。
はて、今のくしゃみは誰のものだろう?
「……風邪?」
魔法使いの青年は、そう問い返すと眉根を寄せた。
ええ、とうなずいてすぐ、魔女は大きなくしゃみをする。
「いつも戸を開けっぱなしにしてるからじゃないの?」
「関係ないです。ここは比較的暖かい」
「じゃあなんでまた」
すっかり定位置となった場所を陣取って、彼は出された茶を口に流し込む。顔をしかめたところを見ると、いまだに辛さに慣れないらしい。
「少々薄着で走り回ったので」
「……俺がいない間に何やってんの」
「不可抗力です」
彼は眉を顰めたが、魔女にそれ以上答えるつもりはないようだった。ローブの上から羽織ったストールを胸元に引き寄せ、小さく鼻をすする。
「薬は飲んだの?」
「嫌いです」
「クロさん、俺は飲んだかどうかを聞いたんであってね?」
「嫌いです」
魔法使いは眉間に指を当てて沈黙した。
「そんなわけですので、今日はあなたの相手をする気力がありません」
「俺は犬猫ですか」
「まさか」
この上なく不機嫌そうな、極上の笑み。
「犬猫の方がしゃべらないだけマシです」
「……………」
風邪をひいてもまったくまろやかにならない辛口に、魔法使いは閉口した。だが、再び彼女が口元を押さえ、息を吸いこんだのを見ると、小さく苦笑する。
ふぁ……
――くしゅんっ。
二度目のくしゃみがこだました。
「鷹と妖かしの刀」了
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