鷹と妖かしの刀2

 マイレはそのとき、かつてない勝利感に酔いしれていた。

 ――レオ・ヤーティネン。彼女の天敵の名である。

 思えば、初めて会った6歳のころから彼に負け続けてきた。妹の風船が木に引っ掛かり、マイレがそれを取ろうと幹に足をかけた瞬間のことだ。彼はさっと彼女を横切りてっぺんまで登りきると、いかにも余裕の表情で風船を救助してみせたのである。

 それからは屈辱の記憶しかない。

 鬼ごっこをしても負ける。かくれんぼでも必ず見つかるし、見つけることができない。学校の課題をマイレが一つこなす頃には、彼は二つ終わらせている。剣術の真似事を始めても一撃さえ入れられない。

 なにより腹立たしいのは、マイレがどれほど対抗心を燃やして噛みついても、涼しい顔で流してしまうところだ。

 ――おお、神よ!

 マイレは何度も神に祈った。

 どうか雪辱を。

 奴のあの、腸が煮えくりかえるくらいに澄ました顔を、歪めさせてくださいと。

 そしてついに機会は巡ってきた。

 祭りにおいて『水掛け』と呼ばれる役目は、15歳の未婚の娘にのみ与えられる。どれほど15になるときを待っただろう。

 マイレは逸る気持ちを抑えながらレオの家へ向かった。

 もう酒が入っているのか、途中何人もの男たちがテンション高く彼女を迎えたが、こんなところで貴重な武器を使うわけにはいかない。

 目的の家の戸を叩いて、憎らしい天敵の名前を呼ぶ。

 本来なら、室内の人間には水を掛けてはいけない決まりだ。だが、だからこその勝機。奴は油断している。

 戸が開いて彼が見えた瞬間、マイレは抱えていた水桶を思いきりぶちまけた。

 ばたばたと落ちていく大量の雫。呆然としたレオ。すーっと爽快な風が胸を抜けていく。

「こんにちは、レオ。そんな間抜けな顔じゃ、水もしたたるいい男が台無しね」

 マイレはたっぷりの皮肉とともに笑顔をくれてやった。

 すると彼は見る見る立腹し、ぎろりとマイレを睨みつけて彼女の頭を掴む。

「マイレ……おまえなぁ!」

「痛いわね、離しなさいよ! 今日は祭りよ、怒られる筋合いなんてないわ!」

「もっともらしいことを言うな! 俺に水ぶっかけたかっただけだろ!」

「そうよ!」

 怯まず怒鳴り返すマイレ。

 周りの人々はまたかと苦笑し、あるいはいいぞとはやし立てる。おなじみどころか日常そのものになった彼女らのやり取りは、客観的に見れば見るほど単なる痴話ゲンカだが、おそらく本人たちに自覚はないだろう。

「ああすっとした! いい気味よ、何あの顔? 歴史に残る間抜け面だったわ。絵にして公園に飾りたいくらい!」

「この……!」

 レオが両手でマイレに掴みかかった、その刹那のことだった。

 銀光が走る。

 玄関口にいたレオよりも、周囲の男たちの方が早くそれに気づいた。危ない、逃げろ。そんな声がいくつも重なる。

 不思議そうに振り返ったマイレを、一筋の光が貫いた。レオの目の前に色鮮やかな布切れが舞う。

 それらが地に落ちると、色々と丈がロングからミニへ変わってしまったマイレがいた。

 一瞬の、空白。

「――きゃああああああ!?」

 おおおおぉお、と男たちから歓喜のどよめきが沸き起こる。

 マイレはパニックに陥りながらしゃがみ込んだ。一体何事かと混乱しつつ、おそらく頭上から注がれているであろうレオからの視線に泣きたくなる。

 また馬鹿にされる、と思った。彼は呆れているに違いない。せっかく一泡吹かせたというのに、なぜこんな醜態を、よりにもよって天敵の前で晒さねばならないのか――

 顔をりんごのように染めて唇を噛んでいると、頭に重みが加わった。ふわりと肩に触れる柔らかさ。毛布だ。それも相当大きい。小柄なマイレなど、爪先立ちしたところで全身が隠れてしまうだろう。

 そっとマイレが見上げると、彼女以上に困惑しきったレオが、真っ赤になってそっぽを向いていた。

「あ……ありがと……」

 彼は答えず、群がっていた男たちを一喝して散らせた。

 マイレは新しく込みあげてきた熱に耐えきれず、うつむいてしまう。

 ――彼女たちの関係が発展するのはそう遠くない未来になるのだが、それはまた別の話であろう。

 魔女が刀と追いかけっこをしているさなかのことだった。



 町は混乱の渦中にあった。

 突如出現した刀が自由自在に飛び回り、若い娘たちに襲いかかっては衣服だけを切り裂いて去っていく。しかも目で追えないほど動きが素早いのだ。

 前代未聞のセクハラ事件に、少女らはただ怯え戸惑い、ちょっと年をとった女性たちはあらゆる意味で怒り、男どもは手を叩いて大喜びした。なにしろ酒と水浴びで正常な判断ができなくなっている。誰が彼らを責められよう。

 あちこちで上がる絶叫、怒号、そして歓声。ただどこにも血の色だけは見当たらないので緊迫感は皆無だ。

 ――もう放っておこうかな。

 クロは大通りの上空を走り抜けながら思った。しかし一応依頼は依頼である。

 刀の動きを〈鷹の目〉で捉えつつ、魔法の網を展開していく。道の間に。屋根と屋根の間に。娘たちが多い場所の周囲に。

 しかしさすがは妖刀というべきか、そんな魔力の波動はしっかりと感知できるらしい。巧みにくぐり抜け、どんどん犠牲者を増やしていく。

 だがそれこそが魔女の狙いだった。網は単なる誘導用、せまい路地裏に追い込むのが目的である。

 目論見通り、とうとう刀は路地の行き止まりに至った。あらかじめ網をドーム状に張り巡らせており、上からも逃げられぬよう施してある。

「鬼ごっこはおしまいです」

 念のため、クロは自分の背後にも魔法の網を編んだ。

 刀がぐるりと反転し、鋭利な刃先をクロに向ける。――瞬間、バネのように跳んだ。

 とっさに突き出した杖と刃が噛みあう。頭に触れる寸前で、ぎちぎちと刀が震えていた。

 ――速い。

 目では追えても体が反応しきれない。

 妖刀が再び離れ、威嚇するように周囲を飛び回った。

 長い詠唱をする暇はないだろう。クロは短く呪文を唱えた。杖の宝石から稲妻のような光が迸る。

 だが、刀はそれよりも速く動いて逃れると、再度攻撃へ転じた。

 反射的に編んだ結界と刀が衝突し、一瞬激しい火花を散らす。弾かれた刀はすぐさま体勢を立て直し、二撃目を放った。

 追撃には耐えられないと判断して、クロは即座に結界を放棄し、杖で迎え撃つ。

〈鷹の目〉が1秒先の刀の軌跡を捉えた。

 飛び込んできた刃が杖をこすると同時に、杖をかたむけて力を逃がす。それによって跳ね上がった下端で一撃。

 刀はふらりとよろめいたが、それ以上の攻撃は許さず、また彼女と距離をとった。

「……………」

 騒然とした町が遠ざかる。体温をさらっていく冬の風。ぴいんと張った息詰まる糸。睨み合いはしばらく続いた。

 やがて刀が飽きたように振動すると、クロははっと息を止めた。――来る。

 電光石火。

 ぎりぎりで手のひらほどの結界を作るのが精一杯であった。真正面からの鋭い衝撃に、腕が痺れを訴える。

 キン、と結界が揺らいだのを見て、クロの背筋を氷が這いのぼった。

「…………っ」

 結界を越えた刀がかまいたちとともに過ぎる。さらに背後の網までもを切断。そしてあっという間に姿を消した。

「……………」

 ぱさりと足元に落ちた、ローブの断片。その下に着ていたワンピースもろとも。文字通り瞬き一つの間にずたずたに引き裂かれ、白い肌がさらされていた。

「ま、ま、魔女よ……だから、わ、わしも連れてゆけと――」

 今頃になって追いついた武士が、ぎょっとして姿勢を正した。さきほどまでまったく露出のなかった魔女のあられのない姿と、彼女が発する異様な気のためだろう。

 クロは極力感情をおさえた声音で言った。

「……すみませんが」

「な、なんだ」

「捕獲ではなく破壊しても構いませんか」

「な、なんだと? それは困る! あれはわしが長年使ってきた愛用の――」

 淡白なはずの黒眼になぜか気圧されて、彼は口をつぐんだ。

「本当の戦士なら武器など選ばぬはず。それとも惜しくなりましたか? どのような方向であれ、魔力を帯びた武器はとても珍重されますから」

「わ、わしを愚弄するか! 武士は力に溺れたりはせぬ!」

「なら破壊しても構いませんね?」

「だが、あ、あれは我が友が打ったものなのだ! いわば永久に変わらぬ友情の証! だからこそ今までずっと手離さずにいたのだ!」

 クロはものすごく面倒そうな顔をした。

「では事故で壊してしまっても許してください」

「……………」

 実質、問答無用である。彼は長いこと渋っていたが、結局押されるような形で了承したのだった。

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