第4章

鷹と妖かしの刀1

「……わしの刀がいなくなったのだ」

 依頼人は、さんざん躊躇したあとでそう切り出した。

 さんざん待たされていた魔女は、溜め息を呑み込んで短く聞き返す。

「刀が?」

「そうだ」

 四角い無骨な輪郭に、いかめしい無精ヒゲ。その上ひどく深刻そうな顔をしているものだから、下手な受け答えをすれば切腹でもされるのではと思ってしまう。

 この辺りでは珍しい東方からの旅人は、汚い身なりにもかかわらず、ぴんと背筋を伸ばし、目の前の湯飲みにひたすら視線を注いでいた。

「足でも生えて?」

「馬鹿にしているのか、魔女」

「とんでもない」

 魔女は涼しげに茶をすする。

「あれは妖刀だ。己の意思を持っておる。普段はこの鞘で抑えておるが、わし以外の者がおいそれと抜けば、たちまち手を離れ暴れ回ってしまう。刀ゆえ疲れもない。放っておけば際限なく暴走するだろう」

「なるほど」

 武士は黒々とした目で魔女をひと睨みし、再びテーブルに視線を落とした。出された茶が気になっているというよりは、向かいに座る彼女と目を合わせたくないのだろう。

 ――こうるさい金髪の魔法使いが訪れないと安堵していたら、これはまた扱いの面倒そうな依頼人が来たものだ。

 魔女は眉一つ動かさずに話を続けた。

「暴走した経緯は?」

「……わしの不覚であった」

 ひどい恥でもさらすように、彼は膝に置いた拳をきつく握りしめて呻く。

「襲いかかってきた魔物を斬ったのだが、思わぬ返り血を浴びてしまった。その血をすすぐために、ほんの一時刀を手元から離したのだ。鞘に入っていれば何ら問題はなかろうと思っていたのだが、不届き者に奪われてな。すぐに追ったが、すでに盗人が刀を鞘から出して品定めしようとした後だった」

「なるほど、それで飛んでいったと」

「うむ」

 魔女は細い指を顎に当てて考え込んだ。ふと思いついた様子で尋ねる。

「なぜ妖刀に変じたのです?」

「なんだと?」

「人でも斬りすぎましたか?」

 彼は恐ろしい形相で立ち上がった。

 耳をふさぐ準備をする魔女。

 だが、幸いうまく言葉にならなかったらしい。彼は大きく口を開けたものの、すぐに結んでしまった。

「……軽口は控えてもらおう、魔女。わしは気の長い方ではない」

「そのようですね」

「むろん人道に外れた者ならば斬る。だが無闇に命を奪うことはせぬ。――刀が妖かしのものとなった理由など、関係あるまい!」

 フードの奥からちらりと武士に目をやった魔女は、興味なさそうに息をついた。

「……まあ、別に構いませんが」

「……………」

 武士は仏頂面のまま椅子に座り直す。腕を組み、足を開いた姿勢は不機嫌そのものだ。しかしそれでも魔女の家から出て行こうとはしない。

「これはわしの不始末。本来ならばわし一人で解決しなければならぬこと。ましてや魔女などという人外の者に頼むのは本意ではない」

「本意ではないなら帰ってくださって結構ですよ。信じぬ者に貸す手はありません」

 再び武士は怒りに身を震わせたが、軽はずみな行動はしなかった。歯を食いしばり、深く息を吐きだす。

「……だが、わしではもはや刀を追えぬ。恥をしのんでお頼み申す。あの妖刀は決して放置していてはならぬものだ。〈鷹の目の魔女〉よ、すべてを見通すその千里眼にて、刀を捕まえてくれ」

 魔女は部屋の隅に置かれた野菜カゴをのんびりと確認した。依頼人に見られぬよう、指先をちょいちょいと動かして在庫を数え、ようやくうなずく。

「――では、ほうれん草を3束」



 町はその日、1年でもっとも熱気と活気に溢れていた。

 これまで質素に地味に堅実に生活していた人々も、この日ばかりは浴びるように酒を飲み、豪華な食事をふるまい、陽気に騒ぐ。そして若い娘たちは色とりどりの鮮やかな衣装に身を包み、桶を持って男たちに水をかけて回るのだ。

 雪も降りかねないこの寒い時期に水をかけるなど、正気の沙汰ではないが、元気な若い娘が邪気を祓うという意味があるらしい。

 太陽が真上に輝く頃、水をまき終えた人々は温かい食事と飲み物を堪能しながら、好き勝手に踊り、歌いはじめる。

 ――のちに〈トゥルタの悪夢〉と呼ばれる出来事は、そんな祭りのさなかに起こった。



「……なんということだ!」

 武士は絶望的な声を上げた。

「よりによって祭りの最中とは――魔女よ、わしの刀は確かにここにいるのか?」

「います」

 冷たい風が吹き抜ける中、クロはローブをはためかせ、町並みを眼下に見る。

 大通りは多くの人々でごった返していた。笑い合い、はしゃぎ、季節が裏返ったような暑さに満ちる町。特定のものを探すのは案外骨が折れる。

「いかん……まずいことになる。これだけ人がいては……最悪の事態が……!」

 蒼白な顔でぶつぶつと呟く武士には目もくれず、クロは注意深く観察を続けた。

 通りすぎる風。流れてゆるゆると消えていく白い息。

 騒がしい町中とは対照的に、屋根から上はひどく静かだった。

 凍結した水面のような空気が、ふいに揺れる。

「――動いた!」

 言うなりクロは召喚した杖に飛び乗った。

 武士が慌てて叫ぶ。

「ま、待て! わしも往くぞ!」

「これは一人乗りです」

 足音高く寄ってきた武士から逃れ、クロは急発進した。耳を凍らせるような空気を切って飛んでいく。そういえばあそこは町で一番高い教会の屋根だったとそのあと気づいたが、今更戻るのは面倒なので放っておくことにする。

 ――刀がいたのは、幸い町外れの公園だった。

 クロは音もなく降り立つと、獣を牽制するように強くそれを睨みつける。

 凄みのある見事な刀身。くろがね色の鈍い輝き。鋭利な曲線はぞっとするほどの艶を帯び、さらに歪んだ妖かしの魔力が目を奪う。まさしく抜き身の刀の殺気をまとい、切っ先をクロの方へ向けて、ちょうど頭の高さで優雅に浮いていた。

 人間では決して持ちえない無機質な殺意。透き通った意志と相対するだけで、ぴたりと心臓に刃を当てられているような心地になる。

 怖じるそぶりをわずかでも見せれば、その時点でクロに勝ち目はなくなるだろう。

「……………」

 クロは慎重に杖を構えた。

 耳で、目で、肌で、刀の変化をうかがいながら、呪文を唱えはじめる。

 刀はまだ動かない。引き絞られた弓のように待機していた。

 ――その時。

 背後から騒々しい笑い声が近づいてくる。着飾った少女が数人。クロの意識が一瞬そちらに逸れた。

 ぴくりと刀が震える。己の迂闊さに舌打ちするクロ。

 刀は瞬く間にクロのそばをすり抜けて、彼女たちに襲いかかった。

「逃げなさい!」

 警告ももはや遅い。

 硬直する少女たち。一陣の風のごとく通過した刃。

 事態の理解さえできていない無垢な姿が、一枚絵のように切り取られ――

 華やかな衣装が散った。

 ――衣装だけが。

 少女たちの瑞々しい肌にはかすり傷一つつけず、スカートの裾がざっくりと腿まで切り落とされ、肩や背中、おへそまでがあらわに。下着が見えそうで見えない微妙さが逆に卑猥だ。

 恥ずかしさのあまり彼女たちが悲鳴を上げると、刀はまるで笑うように上下に揺れ、ものすごいスピードで大通りの方へ消えていく。

 それだけだった。

「……………」

 しばらくして、ぜいぜいと息を切らせ武士が走ってくる。クロの予想よりも若干早い。

「ま、魔女よ、刀、は……」

「被害者が出ました」

「なに……!」

 身を寄せ合って泣いている少女たちを示すと、武士はざーっと表情を消した。

「――まるでエロ親父」

「ぶ、侮辱するか……!」

「大抵は、血や怨念を浴びすぎて妖刀へ変じるものですが……」

 武士は口をへの字に曲げて黙したが、遠くで立て続けに上がっていく叫びに観念したようだった。苦渋の表情で語りだす。

「……わしは、武士だ」

「見れば分かります」

「武士道に、剣の道にそれ以外など不要。わしは常に自身を戒めてまいった。娯楽や甘えや――ましてや女人など、若い女子おなごなど、修行の身には邪魔なだけだと!」

「……分かりました、もう結構です」

 なんとなく察したクロはうんざりと遮ったが、彼は熱をこめて続けた。

「どれだけ女人に誘惑されても、淫らな町に行ってもだ! わしは剣を追求する者として、常に己を律し、耐え、ただひたすらに腕を磨いてきた!」

「だからもういいですってば」

「だが、やはりわしは未熟であった……完全に捨てきれぬ邪念が、刀へと蓄積されていってしまったのだ! あの刀は一度わしの手を離れると、水を得た魚のように次々と女人を襲っては、ふ、不埒にもその着物を――」

「もういいです、黙ってください」

 クロが武士の口に杖を当てると、ぴたりと言葉が途切れた。ぱくぱくと口だけが動くが、声にはならない。

 大通りでは、祭りの賑やかさとは別の騒ぎが広がりつつあった。

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