余談
おまけ。小鳥とニコの出会い
「……母さま」
彼女は控えめに呼びかける。火を灯すように。
だが雑踏という嵐の前では、その声はあまりにも儚い。そこが人の視線さえ向かぬ路地だったとしても、すぐそばで響く地鳴りのような足音と、爆音にも思える人の声は恐ろしく大きかった。
「母さま……」
2度目の呼びかけは不安げに。
きょろきょろと辺りを捜してみても、優しく色を変える美しい翼は見当たらず、ただただ薄汚れて暗い道が続くだけ。
「母さま」
声に焦りがにじむ。
まだ幼い羽根をばたつかせたが、体は信じられないほど重くなっており、浮かぶこともままならなかった。
――人の気配が絡みつく。身を締めつける。
恐ろしくなって何度も声を上げた。
けれど、あまり大声を出すと人間に気づかれるかも知れない。それもまた恐怖だった。
ほんの数メートル先で。
この細い道を抜けた向こう側で。
大勢の人間達が行きかい、音の津波を起こし、暴風を起こし、ささやかで微かな声を飲みこんでいく。
息苦しくなって、とうとう身を縮めた。
時折抜けていく風は冷気を含み、季節の分かれ目を示している。
秋が終わろうとしていた。
秋の精霊鳥である彼女は、冬の中では存在できない。母はきっと心配しているだろう――早く、仲間達とともに秋を追わなければ。
「……母さま……」
「――どうしたの?」
突然の声に、彼女はびくりと体を震わせた。
恐る恐る枯葉色の目を持ち上げると、そこにいたのは一人の人間だった。
――人間には決して見つからないように。
母から、仲間から、繰り返し聞かされた教え。
目の前が真っ暗になる。
慌てて逃げ出そうとして、満足に飛べぬことを思い出した。わずかに跳ねただけで無様に地に落ちる。
「あ! 大丈夫?」
「……………」
彼女はもはや恐怖に凍りついており、その人間が駆け寄って、目の前で膝をついても、何もできずに呆然としていた。
「どうしたの? 迷子?」
「……………」
「怖がらないで。僕は何もしないよ。――君の翼は目立つから、とりあえず、僕の家に行こう?」
「……わたしを、売るの」
ようやくそれだけを絞り出すと、彼は目を見開いた。
「人の言葉が分かるの?」
「……分かっていて話しかけたんじゃないの?」
「あ、えっと……癖というか」
彼は頬を掻き、うろうろと視線をさまよわせる。
――人間は恐ろしいのよ。
母たちの言葉が蘇る。
――見つかれば、捕まって、閉じ込められて、翼をすべて奪われてしまうわ。
「君は精霊鳥だよね? 人語を解するって聞いたことあったけど、まさか本当にしゃべれるなんて思わなかったなぁ」
無邪気に語りかけてくるこの人間とは、イメージが合わなかった。
「薄紅の瞳は春、夏は緑、秋は枯葉色、冬は薄青。君は秋の精霊鳥?」
「……うん」
「初めて見た。きれいなんだね」
穏やかそうな目が細められる。口の端が少し持ちあがり、白い歯が見えた。
人間の表情は、彼女にはよく分からない。けれどこれが笑い顔なのだろうと思った。
その時に広がった気持ちを、知らない。
まるで新鮮な風を吸い込んだような。生まれ落ちたばかりに太陽の光を浴びたような。
「あ、そうだ」
その人間はもう一度、風にも光にも似た笑顔を浮かべて告げた。
「僕はニコ。――精霊鳥には、名前ってないのかな?」
ただ円環の中を飛び続ける精霊鳥にとって、その輝きはきっと眩しすぎたのだろう。
自身が白く塗りつぶされてしまうほどに。
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