誰が為に

 世界が夜を忘れてから、人は森の暗がりに明かりを灯して住むようになった。森だけが常明の天より、人を守ってくれる。島へ根を張り、花を咲かせて狭流力フィングを満たし、果実を実らせて人をうるおす。街は今、木々を飾る狭流灯フィグライトも静かに明度を下げて、夕刻に賑わっていた。

 どこか現実感のない身体を引きずり、ミウトは馴染なじみの酒場へ顔を出した。正確には、兄が馴染みだった酒場へ。最も、一人きりになってしまったミウトは朝昼晩を外食で済ますことが多く、もはや常連と言っても過言かごんではないが。

 しかし、酒を出されるのは初めてだった。


「おっし、じゃあミウトの昇進と、全員の無事を祝って……乾杯っ!」


 キョウヤが音頭おんどを取るや、浮かれ気分のジョシュアがジョッキをぶつけてくる。豊穣ほうじょうなるはくの泡立ちに気圧けおされつつも、続けてキョウヤやサヤコとも、ミウトはささやかに乾杯を交わした。

 一口飲んでみれば、苦味を舌に残す喉ごしは悪くはない。


「しっかし、あのミウトが殿下の近衛だって? しかも、あのヒツガヤ中尉と!?」

「う、うん……理由はどうあれ、僕は破剣騎兵ファイターになれた。新しい翼で」


 一気にビールを飲み干すと、口元の泡を拭ってジョシュアが愉快そうに脚を踏み鳴らした。ミウトの異例の大出世を、まるで自分のことのようにはしゃいで祝ってくれる。その横では、肉の実を串からばらして取り分けながら、いつもの調子でサヤコが場を仕切っていた。

 キョウヤはただ、感慨深かんがいぶかげに杯をあおるだけだった。


「でもよ、ミウト。お姫さんの近衛ってことは、ずっと地上勤務になるんじゃないか?」

「それは……いいかもね、ミウトには。ほら、お肉もちゃんと食べて! 騎兵は体が資本なんだから。だいたいこの頃、ちょっと食生活がだらしなさ過ぎるのよ」


 サヤコが取り皿に、湯気を上げる肉の実を入れてよこす。香ばしい匂いが立ち上り、ソースがバチバチと跳ねて踊る。ミウトは食欲がなかったが、さらに炒めた菜の緑まで添えられると、ありがたく箸をつけるしかない。

 サヤコはミウトがもそもそと食べ始めると、安心したように微笑み、強請ねだる隣のジョシュアにも料理を分け始めた。嫌いなものまで入れられたらしく、親友の嬉しい悲鳴が上がる。


「殿下はな、ジョシュア。狭流力フィングを持たずに生まれたが、飛ぶんだぜ? でなけりゃ、島の表になんか……まあ、王族だからといえばそうなんだが」

「? まあでも、僕も見ました。キョウヤさん、殿下のあれは狭流導線甲冑ワイヤードアーマーなんですか? あれはまるで――」


 鳥か、天使か……いずれにせよ、おとぎばなしの一ページのよう。


「殿下は特殊な生まれでな。タクトから聞いてないか?」

「いえ、兄は何も」


 そこで何故、兄の名がでてくるのかとミウトは首を傾げた。テキパキと給仕に注文を告げるサヤコも、その横顔を頬杖ついて眺めるジョシュアも、次の一言がキョウヤの口を突いて出るや、ひたいを寄せ合うように聞き入る。


「殿下は狭流力フィングがない代りに、驚異的な胆力たんりょく膂力りょりょくを生まれながらにお持ちだ」

「それって怪力ってことスか? へーっ、お姫さんは綺麗な顔しておっそろしいなあ」

「ちょっとジョシュア君? 不敬よ、ふ・け・い!」


 ミウトの脳裏を、飄々ひょうひょうと涼しげな笑みで佇むシズルの姿が過ぎった。その身に背負われた、巨大な剣状の鉄塊……確かにあれは、どんな破剣トゥピードよりも、創剣カノンよりも重そうに切っ先で床を引掻いていた。

 ついついミウトは、背の空鞘に手をやり感触を確かめる。創剣カノンのない鞘はいつも軽いが、そこに込められた想いは、未だミウトに重くかっていた。


「ジェラルドの奴が前から言ってたんだ……殿下の力なら、羽撃くだけでも飛べるってな。だから狭流力フィングがなくても、脚力を翼に伝導するシステムで」

「それが、あの格好、ですか」


 新しいジョッキを受け取り、黙ってキョウヤは頷いた。

 ミウトの頭の中で、今日会ったシズルの姿が翼を帯びる。同時に着衣が薄れて消えるイメージが芽生めばえて、ほろ酔いの頬が火照った。あの、細かな刺繍ししゅうで彩られたタイツは、それを吊るして羽根を背にもつコルセットと一対の……シズルだけの狭流導線甲冑ワイヤードアーマーだったのだ。

 不能の姫君が裸同然で、剛剣ごうけんを片手に海を飛ぶ。その存在感は、想像するだけでミウトの思惟を圧倒し、浮かぶ光景はどこか優美ゆうびだがおぞましかった。


「で? ジェラルドは元気だったか? 研究に専念とか言って、あいつも翼を捨てちまったが」

「なんか、あまり軍との折り合いが良くないみたいでしたけど。あ、でも殿下に重宝されてるみたいでした。研究の方は、僕は、その、前進翼で飛ぶ自信はちょっと、まだ」

「ツルガの三傑さんけつも今や昔の話かぁ。タクトさんを中心に、そりゃー格好良かったッスよ。キョウヤさんも現役だったし、ジェラルドさんは、俺みたいな二世にゃ憧れの的ッス」

「ジェラルドさんは元々、深州エウロパの科学者だったんですよね。キョウヤさんは、どうしてもう飛ばないんですか? ……タクトさんのかたき、討って欲しかったです。私は」


 まるで自分のことのように、自分のこと以上のようにサヤコが語気を強めた。

 キョウヤは深く溜息を吐いて、三人の少年少女を、順に目で撫でてゆく。そしてその眼差しは、ミウトのところへ戻って静止した。


「怖くなっちまったよ。あの蒼穹の翔騎士シュヴァリアーでさえ、解剣エクシードした翔騎士シュヴァリアーのタクトでさえ……死を覚悟して飛ぶ日が来る。そう思ったらな。死にたくねぇし、死ねねぇ理由もある。お前さん達みたいな聞かん坊の面倒も、しっかり見てやらないといけないしな!」


 破顔一笑はがんいっしょう、キョウヤは不意に満面の笑みで全てを覆い、ぐいとジョッキを煽る。


「それでコックですかー!? タクトさんの右翼うよくを固めた破剣騎兵ファイターがコック、かぁ」

「ばっか、お前なぁ……物を作るってのはいいぞぉ? 毎日、葉と実に囲まれて、汗ダクんなって調理場で大立回りよ。ありゃー、どんな荒れた海よりきちぃ仕事だな」


 でも、とよどむサヤコの言葉を、口から出る前にキョウヤは摘んでゆく。そうしてジョシュアとゲラゲラ笑いあいながら、彼は無闇やたらと杯を重ねた。陽気に赤ら顔で冗談を飛ばす姿に、ミウトの心は安らいだ。

 キョウヤはミウトにとって、今も何も変わってはいなかった……それは、今日久々に再会したジェラルドも同じ。翼を捨てても、生きる誇りは捨てられない。根付くおかがある限り。救われたその命がある限り。

 見詰める視線に気付いたのか、サヤコにいい男を探せとセクハラ一歩手前の言葉を投げていたキョウヤが、ジョシュアの頓狂とんきょうな声と入れ違いにミウトに向き直る。


「ミウト、破剣騎兵ファイターは飛ぶだけじゃ駄目なんだぜ。お前に斬れるか? 敵が、人が」

「くっ、訓練は一通り……そりゃ、破弓科ボマーに回されましたけど、適正がなかったって訳じゃ」


 破剣トゥピードに狭流の力を通わせて、敵を撃墜する――それが破剣騎兵ファイター。今まで破弓騎兵ボマーとして、誰一人殺すことができなかったミウトに、それが務まるのかとキョウヤの眼が問うてきた。


「ああ、その件な……悪ぃ、俺が手を回したんだわ。ヒツガヤ中尉とちょっと取引をな」


 ミウトは、カナデの手首を飾る狭流環フィグリングの一つを思い出した。兄の形見を、彼女は大事そうに、愛しげに撫でていた。二人の戦友にと、分かち合ったその片方を。


「そっ、そんな! ひどいじゃないですか! 僕だって、相手が軍人なら戦えますっ!」


 ミウトが珍しく激情を露にしたので、ジョシュアのサヤコをさそう言葉が途切れてしまった。サヤコもくわえたタバコをポロリと落す。キョウヤだけがただ、静かに黙って頭を垂れた。


「せめてもう、身内にゃあ死んで欲しくねぇと思った。俺自身、死ねないとも、な……タクトに憧れる気持ちもわかる。でも、だからこそ、タクトの意も汲んで欲しかったのよ」


 まあでも、あのジェラルドの御指名ならしょうがない、とキョウヤが諦めに頬を緩めた。屈託のないその顔には、二重にびる気持ちが見て取れた。その片方がミウトの身体を貫通して、背中の鞘へと注がれる。


「その……僕、知らなかったです。怒ってますよ、でも……ありがとうございます」

「悪かったな、ミウト。だがもう、お前は破剣騎兵ファイターだ。しっかり飛べよ……おきは荒れてるぜ?」

「はい。殿下をお守りして、ヒツガヤ中尉の足を引っ張らないよう頑張ります」

「あと、俺に……俺等に約束しろ。必ず生きて帰る、と。危なくなったら逃げろ、いいな?」


 最後の言葉に心の中で首を横に振りつつ、ミウトは見詰める仲間達に力強く頷いた。






 兄の想いが、キョウヤの気遣きづかいがミウトを酔いへと誘った。それでもサヤコがうるさいので、自然とペースを抑えることができたが……どうやら初めてではないらしく、ジョシュアがしたたかに酔っ払ったところでうたげはお開きとなった。

 何より場を設けたキョウヤ自身が、会計を済ませるなり酔い潰れてしまった。


「ミウト、ミウトミウト! なー、ちょっち頼まれてくれよー!」


 店を出るなり、タヌキとか言う動物の焼き物に抱き付き、キョウヤは眠ってしまった。その背を優しく揺するサヤコを見ながら、今日起こった様々な事を反芻はんすうしていると……ミウトは突然、ジョシュアに肩を抱かれる。頬を撫でる息が酒臭い。


「キョウヤさん、送ってってくんねぇか? 俺はさぁ、この後サヤコを送りたいんだよ」

「はぁ!? お前、キョウヤさんをこのまんまにして――」

「おう、いけー! ジョシュア、男だろぉ! タマぁついてんのかー、しっかりしろー」


 キョウヤが寝言を叫んだ。


あきれた、昨日はヒツガヤ中尉にデレデレだった癖に……だいたい、サヤコのどこがいいんだ」

「ばぁーか! いいかぁ、ミウトォ! それはそれ、これはこれ! ヒツガヤ中尉は憧れのマドンナ、俺の心の女神だ……他領遠征たりょうえんせい十七回、アルメリアが要請した派兵は数知れず、演習での模擬戦無敗もぎせんむはい。実戦じゃ撃墜数二百八十七! その上先日、とうとう翔騎士シュヴァリアーまで」

「なんか、その、凄いな。こんどサインでも貰ってきてやろうか?」

「もう持ってる! 俺が知らないのは、あとは中尉のプライベートだけ! まあ、それは置いといて。側にいて欲しい、守ってやりたいのは……やっぱり俺、サヤコなんだよ」


 ジョシュアの真剣な表情に、ミウトも額を寄せて真面目に向き合う。


「あと、最後の確認だけどよ……ミウト。サヤコは――」

姉貴面あねきづらする口うるさい、世話焼きの幼馴染だよ。素っ裸にリボンかけて差し出されたって、僕はゴメンだね。小さい頃から一緒で、いるのが当たり前過ぎるからさ。女の子に見えないよ」

「っしゃ! ジョシュア=レイズル=ヤマノベ軍曹、突貫とっかんしますっ!」


 両手を広げて翼を模すと、千鳥足ちどりあしでジョシュアがサヤコへ駆けてゆく。やれやれと肩を竦めて、ミウトもその後を追った。ジョシュアの撃破目標げきはもくひょうは今、手助けを命ずるいつもの瞳で、じっとミウトを見詰めていた。


「サヤコ、僕がキョウヤさんを送ってくよ」

「じゃあ私も。ジョシュア君は、今日は帰ったほうがいい。随分ずいぶん酔っ払ってるもの」

「いや、僕が一人で送る。え、ええと……そう、うん、さっきの話、もう少し問い詰めたいし」

「そ、そう。キョウヤさん、悪気はなかったと思うから。わかってるんでしょうね、ミウト?」


 腰に手を当て、サヤコがずずいと身を乗り出してくる。思わずそのラインに沿って仰け反るミウトは、心の中で親友にグッドラックを呟いた。


「じゃ、じゃあ、サヤコは俺が送るぜっ! 家の方向もほら、一緒だしさ! な? な?」

「逆じゃない? 道もそうだけど、私がジョシュア君を送らないと……こうなっちゃいそう」


 サヤコが視線を落す先で、キョウヤがふがふがと焼き物を撫でている。


「ま、いいわ。ミウト、あんたしっかりしなさいよ? 近衛なんて、大出世なんだからね」

「わかってるよ。そうだ……ほらジョッシュ、これ。やるよ、使って」

「サンクス、ブルーフレンド! っしゃ、それじゃー愛しの我家わがやに帰ろうじゃないの~」


 ミウトはポケットに探し当てたライターを、出すなりジョシュアに放り投げた。ゆるい放物線でそれは、親友の手に何とか納まる。受け取るなり満面の笑みでサヤコの手に手を伸べたジョシュアは……逆に袖をつままれ、そのまま引っ張られて薄闇の街へ消えていった。

 また一つ、兄の思い出が人へと受け継がれてゆく。

 どこかまだ、そうして親しい者達の間で、兄が生きているような気がミウトにはした。

 そんなミウトの背を、ずるりと撫でる声。


「行ったか……やれやれ、上手くやれよジョシュア。ライバルは思い出だが、なぁに、いつかは心の傷もえるさ。なあ、ミウト?」


 すくり、とキョウヤが突然立ち上がった。その足取りはいささかも危なげがなく、顔は赤いものの言葉には普段のふてぶてしさがあった。してやったり、という子供のような悪戯心いたずらごころが入り混じるのを、ミウトは感じて呆れてしまう。


「……酔ったフリ、ですか。大人げないですよ、キョウヤさん」

「子供心を忘れないと言ってくれ。年長者として、少年少女の健全な交際をだな」

「はぁ、まあ、癒えるといいですよね……癒えるんですよね」


 自分に言い聞かせるように、ミウトの祈りが口を突いて出た。


「癒してやる人間が必要な時もある。まあ、後はあれだ。若いうちは恋をしろ! 恋をっ!」

「やっぱり酔っ払ってません?」

「ジョシュア! くっつけ! 抱いちまえ! んで、子供バンッバン生ませて……オヤシマに、このツルガに根付いちまえ! 存在を示して狭流力フィングを注げ、ジョシュアーッ! ……なんてな」

「酔ってませんね、じゃあ大丈夫そうだし。僕は一人で帰りますよ」

「一人の部屋にか? ミウト。いいから約束通り、俺を送ってけよ。話の続き、あんだろ?」


 キョウヤがふらりと、しかし確かな足取りで歩き出す。見慣れた背中に、今は並ぶ二人が見られない。その寂しさが不意に襲って、ミウトは気付けば後をくっ付いて歩いていた。

 最終便を告げる路面電車トラムのベルが、チリリンと鳴って二人をせかした。






 王宮を中心に広がる、ツルガの都心部……それを内包ないほうする森を抜けると、見上げる海は雲が低くう。常明の天を覆う雷雲らいうん今宵こよい、かつて自然のことわりにあった夜のように暗く、闇に稲光いなびかりを時折閃かせていた。

 路面電車トラムは広がる田畑の間を、縫うように終着駅へと走った。晩秋ばんしゅうを過ぎて収穫祭しゅうかくさいも終わり、景色はどこか冬を前に寒々さむざむしい。デッキの手すりに身を預けて、強く吹き始めた風にミウトは顔を背ける。その頬へ雨粒あまつぶがスローテンポでリズムを刻み始めた。


「こりゃ本降ほんぶりになるな。家までチョイ走るぜ?」


 停車を告げるベルと共に、路面電車トラムは静かに停留所へと滑り込む。手首の狭流環フィグリングへ指を走らせ、キョウヤは手早く二人分の乗車賃を払うや、湿り始めた大地へ飛び降りた。既にもう酔いは冷めたのか、軽快に駆け足で足踏みをしながらミウトを振り返る。


「キョウヤさん、こんな僻地へきちに住んでるんですか? 破剣騎兵ファイターなら街ん中に官舎かんしゃが」

「元破剣騎兵ファイター、な。ちょいと訳アリでね、こんな端っこにしかマイホームが持てな――おろ?」


 発車の合図と共に、路面電車トラムが通り過ぎると、向かいのホームに人影があった。ぼんやりと狭流の力を灯す雨傘をさし、ショールを羽織はおった身重みおもの女性が二人の声に振り返る。

 <抱>の象句ソネットが、柔らかな光で雨粒を弾いていた。


「おかえりなさい、あなた」


 柔和にゅうわな笑みがこぼれると同時に、キョウヤは線路を一足飛びにまたいで駆け寄った。次第に重さを増す雨の雫が、やがて音を立てて地面を叩き出す。


「お前っ、駄目だろぉ!? こんな夜中まで。しかもこんな天気に。伝話でんわしたじゃないか」

「だって、急に降りだすんですもの。それよりあなた、お客様?」


 ミウトは初めて、キョウヤの細君さいくんに対面した。

 妻帯者さいたいしゃだとは本人からも、嫌と言う程のろけられて知っていたし……何より、兄がその愛妻あいさいっぷりを良く語っていた。だからこそ、キョウヤを生かして戦場に散ったのだと。そう思えば、自然とミウトは向けられる微笑みに表情が強張る。


「まあ、もしかしてタクトさんの?」

「そうさ、弟のミウトだ。よく話してたろ?」

「はっ、はじめまして」


 思わず身を硬くして、ミウトはブンと頭を下げる。


「いいから行くぜ、ミウト。ほら、お前も。何だよ、遅くなるから先に休んでろって」

「でも、この子が寝かせてくれなくて。中から蹴るのよ、『パパを迎えにいって』って」


 顔を上げればそこには、暖かな家族の肖像しょうぞうがあった。その中でキョウヤが、思い出したようにミウトを振り返り、妻の手から自分の傘を受け取り手招きする。


「いやっ、悪ぃ悪ぃ! とりあえず行こうぜ。ほら、すぐそこだからよ」


 キョウヤはミウトに傘を放るなり、妻の肩を抱いて歩き出した。互いに寄り添い、一つの傘の下で進める歩の先に……雷光が一瞬だけ、遠くにナンバ邸を浮かび上がらせる。それはどこか、屋敷というよりは倉庫を髣髴ほうふつとさせるシルエットだった。

 こんな天気でなければ訪れぬ宵闇よいやみに、ミウトは傘をさしてキョウヤ達の後を追った。






「ミウトさん、主人の物ですけど。良かったら着替え、使ってくださいね」

「後は俺がやっとくからよ。ささ、休んだ休んだ」

「あらそう? じゃあ後は、男の子同士で仲良くやって頂戴ね。それと」

「わーってる! 馬鹿みてぇに飲んだり騒いだりしねぇよ。もう俺も、男の子って歳じゃねぇ」

「ふふ、どうかしら。では、お言葉に甘えて。飲み過ぎないでね、パパ」

 浴室の硝子ガラス越しに、甘ったるい声が行き交う。熱いシャワーを浴びたミウトは、会話が終るのを待ってから、二階に消える夫人の気配と入れ違いに浴室を出る。ふかふかのバスタオルも、用意されたサイズの大きい寝巻きも、それを日々洗う者の温もりが香った。


「ミウト、こっちだ! ははっ、以外に狭くて驚いたろ? こっちが場所食ってんだわ」


 キョウヤが笑い飛ばす通り、自慢のマイホームは少し手狭てぜまな印象をミウトに与える。外観が外観だけにしかし、玄関をくぐった時からある程度予想はしていたが。ナンバ邸は、倉庫を思わせる無骨な建物の脇に、ひっそりと隣接りんせつするささやかな二階建て。


穀物庫こくもつこか何かですか? これは確かに、街中じゃちょっと――!?」


 招かれるままミウトは、居住スペースと壁一枚隔てた、天井の高い広大な場所へと歩を進める。瞬間、薄暗い中にキョウヤが狭流灯フィグライトをつけ……視界を占領する異形の物体にミウトは絶句ぜっくした。濡れた髪を拭くタオルを、思わずその場に取り落とす。

 鈍色にびいろに輝くそれは、巨大な狭流導線甲冑ワイヤードアーマーのようであり、太古の世に飛んでいた鳥のようでもある。鋭角的えいかくてきに削り出された全体は、それ自体が一つの翼のようだった。


「なっ、何ですか……これ」

「へへっ、俺達三人のちょっとした趣味ってとこかな。まあ、俺ぁ場所貸してただけでよ」


 酒瓶とグラスを片手に、既にもうキョウヤは再び飲み始めていた。整然と片付いた倉庫の雰囲気は、最近慣れ始めた騎兵母艦の格納庫に似ている。携行される破剣トゥピード破弓アスロック砕矢ヘジホッグが行き来し、狭流導線甲冑ワイヤードアーマーを着込んだ騎兵達が、誘導兵に従い翼を展開する……そんな張り詰めた空気。

 だが、今この場所は静寂せいじゃくに満たされ、中央に鎮座する巨大な翼があるだけ。キョウヤは片隅に置かれたテーブルにグラスを用意して、ミウトを手招きする。


「どうだ? ビックリしただろ。タクトとジェラルドが熱心でよ」

「兄さんが……でもこれ、何なんです? 船、じゃないですよね」

「んー、まあ船っちゃー船なのか? こいつは飛行機つってな」

「飛行機、って……あの、昔話に出てくるアレですか!?」


 改めてミウトは、展示物が一つだけの博物館はくぶつかんに自分がいるのだと知った。


「正確には、戦闘機か。大昔はどこの国も、あれで戦争してた訳さ。大地がほどかれてからもよ」


 ミウトも若輩じゃくはいながら軍人の端くれ、この狭界の戦史せんし位は習ったことがある。遥か太古の昔、大地が紐解ひもとかれたその後も……人の世に争いは絶えず、狭界の海を漂う島同士は戦い続けた。


「でも確か、飛行機は」

「そう、この手のいわゆる兵器は廃れた……何故かわかるかね? タカナシ准尉」


 不意に口調を正して、半分ふざけたようにキョウヤが笑う。兵学校へいがっこうの教官を気取っているらしいが、彼は答えを待つ間に何度も、杯を口に運んではしゃくりあげた。


「兵器による戦争は、それを行使する島の民全体の存在を軽くしてしまった、と習いました」

「そうだ、コイツはとんでもない殺戮さつりく兵器なんだぜ? ま、動けばなんだけどよ」


 沈黙する銀翼へとあごをしゃくって、キョウヤは空のグラスに酒を注ぐ。


「戦闘機なんかまだいい、もっと昔はよ……ボタン一つで何千人って殺せる兵器もあった」

「でも、そうやって簡単に殺し過ぎた島は、急激に狭度が浅くなったって」

「人の命を軽んじるやり方じゃ、駄目だって気付いたんだろうな。でも、命を奪うのだけはやめねぇ。次第に直接やりあうようになってよ、そいで今じゃ原始的な肉弾戦に先祖帰りだ」


 嘗ては島同士が、狭流力フィングの限りを尽くした兵器で直接撃ち合った時代もあるという。島同士の衝突を回避するため、そうして相手を文字通り消滅させた島もあり……勝者もまた、狭度が極端に浅くなり天へ飲み込まれた。

 狭界の無慈悲な理は、極めてシンプルな生命の力で成り立っていた。


「つまりこの世界は、己の手を汚す武器しか認めちゃくれねぇ。騎兵による戦争の始まりだ」

「キョウヤさん達はじゃあ、どうしてこれを? ただ飾ってる訳じゃないですよね」

「ああ、ジェラルドは深州エウロパからの研究がどうのこうの言ってたな。俺ぁ殆ど見てただけよ」

「兄は……どうして」


 思えばミウトは、失って初めて気付く。兄タクトのことを、意外な程に知らな過ぎると。唯一の肉親で、優しくて強くて。何よりツルガの英雄として、憧れの存在で。しかし、その実像を全く知らなかったのだという思いが、ミウトを打ちのめした。


「こいつはよ、狭流力フィングで飛ぶんだが……何か、ジェラルドが難しい事アレコレ言ってたな」


 キョウヤは一人、太古の兵器に歩み寄る。そうして、強烈に伸びる流線型りゅうせんけいの機首を撫でながら、振り向きミウトを手招きした。先程からグラスに酒を遊ばせていたミウトは、呼ばれるままに近付き触れてみた。

 冷たい金属の塊は、間違いなく自分達の持つ翼……狭流導線甲冑ワイヤードアーマーと同じ質感だった。


「こいつはよ、大昔は狭界の海を無数に飛び交ってた訳だが。まあ、その、二人乗りなのよ」

「じゃあ、兄は」

「一緒に飛びたい人がいる……そう言ってたな。俺にゃぁ、ちょっと理解出来ないけどよ」


 コツン、とキョウヤは拳で軽く、自分の顔が映り込む装甲板そうこうばんを叩いた。


「俺なら、惚れた女にゃ陸に居て欲しいね。ずっとよ。海になんざ、連れていきたかねぇよ」

「……僕も、わからないです。兄さんのことが。こんな物に夢中だったことも、全然」

「そっか、あいつは話してなかったか。まぁ、らしいっちゃー、らしいぜ。へへっ」


 キョウヤの目元に懐かしさが湿るのを、ミウトは見てしまった。それを隠すように杯をあおると、ふらふらキョウヤは元のテーブルへと歩き出す。自分が兄を失ったように、彼もまた戦友を失った。もうタクト=タカナシはいない……この狭界のどこにも。


「ミウト、兄貴のことが……タクトのことが、もっと知りたいか?」


 不意にキョウヤが真剣な声でミウトを射抜いた。黙って頷けば、やれやれとキョウヤが首を振る。


「僕は兄さんが知りたい。ただ、タクト=タカナシの弟で終らないためにも。一人の……一人前の破剣騎兵ファイターに、翔騎士シュヴァリアーになるためにも。もう、子供扱いはゴメンですよ、キョウヤさん」


 グラスの酒を一気に、ミウトは喉の奥へと流し込んだ。しびれるような熱さに喉がげて、思わず咳き込み咽る。しかし、口元を拭うとミウトは真っ直ぐキョウヤを見詰めた。


「覚悟はあんのか、ミウト。俺等がお前を戦から遠ざけたのにだって、訳があんだぜ」

「知る覚悟はあります。知ればきっと、戦う覚悟も……決まります」


 もう、蚊帳かやの外で守られている、そんな自分がミウトは嫌だった。そんな思いが、厚意から今まで、自分を守ってくれた人を睨ませる。


「背中の鞘より重いぜ? 真実って奴はよ……背負えるか、ミウト」


 黙って頷く。それでは足りずに、決意が不器用な言葉となる。口を突いて勝手に出る。


「それでも、僕は――」

「今のお前さんは、その鞘と一緒さ。中身がねぇんだ。詰め込んで溜め込んだお前の覚悟は、その源はもう」

「僕は認めない! 兄さんの残してくれた、みんなが生きてるから」

「わーった、わーった……ったく、頑固さは兄貴譲りか。それが強さとなるか、と」


 降参だと言わんばかりに、キョウヤが両手をヒラヒラと上げた。

 それから最後の一杯を飲み干し、千鳥足でつつましい我家へと向かう。今度は演技ではないらしく、慌ててミウトは駆け寄り支えた。


「へへ、俺ぁ駄目だね。もうビビッちまった。海なんざ出たくねぇ」

「キョウヤさん」

「タクトに拾われたこの命、惜しいね。翼を捨ててでも、生きててぇ。そりゃもう、コックでも何でもやるさ。かみさんのためにも、これから生まれてくるガキのためにもよ」

「それは、当たり前ですっ! キョウヤさんはもう、一人じゃないんですから……当然です」


 見上げるミウトは頭をクシャクシャと撫でられながら、雑多ざったな感情の入り混じるキョウヤの笑みに晒される。


「へへ、言うようになったじゃねぇか。ミウト、お前さん、好きな女はいるか?」

「いえ、別に」

「即答すんな、ちょっと考える位はしろや。そんなんじゃ生き残れねぇぞ」


 不意に二人の少女が脳裏に舞った。

 それはしかし、手の届く人間ではないと思い、色恋沙汰いろこいざたにうつつを抜かす時でもないと心に結ぶ。


「今の僕は、まずは一人前の破剣騎兵ファイターになることで精一杯ですよ。突然だけど、チャンスだし」


 太古の兵器を振り返ることなく、ミウトはキョウヤに代って狭流灯フィグライトを落す。天井に等間隔とうかんかくで灯っていた、<照>の象句ソネットが順々に消えていった。

 リビングのソファに、暖かな毛布が用意されていた。赤い花の鉢植えが、ストーブに<暖>の象句ソネットで暖かな狭流力フィングを通わせている。ミウトから離れて階段を上るキョウヤは、最後に一つだけと前置きして、熱気のこもる言葉を投げかけてくる。


「死ぬなよ、ミウト。そのためにも死んだ人間じゃなく、生きてる人間をどころにせにゃ」

「兄は、死んでません。僕のこの背に、この胸に……今も、生きてるんです」

「それでも、だ。触れて抱けるもんをよ、こう、上手く言えねぇけどあれだ。恋しろ、恋」

「元破剣騎兵ファイターの大先輩の戦訓せんくんとして、ありがたく受け取っておきますよ。……ん?」


 もう泥酔状態で、とろんとした眼のキョウヤが階段を上がっていく。背中の鞘を下ろしたミウトは、それを立てかける場所を探して、ついキョウヤを呼び止めた。

 リビングの壁に、一本の破剣トゥピードが飾られていた。それが装飾品そうしょくひんでないことは、実装じっそうを示す数々のリボンが無言で語っている。安全ピンのついた、それは紛れもなく実戦用の一振りだった。


「ああ? あー、それな……記念に一本、な。ジェラルドが作ったんだぜ? いい剣だ」

「……もう、使わないんですか?」

「そりゃな、俺ぁもうコックだしよ。ふあぁう、ふう。じゃ、また明日な、ミウト」

「あ、はい……お休みなさい、キョウヤさん。今日はありがとうございました」

 キョウヤが二階に姿を消すと、ミウトは毛布に包まりソファに身を投げ出した。結局、兄の形見は抱いたままで。じっとただ、飾られた破剣トゥピードを見詰める。既に主が海を捨てた今……その一振りは、永遠に抜剣されることなく、この暖かな家庭を見守っていくのだ。

 そう思えば、不思議とミウトはたかぶる気持ちが安らいでいくのを感じ、静かな眠りへと滑り落ちていった。

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