誰が為に
世界が夜を忘れてから、人は森の暗がりに明かりを灯して住むようになった。森だけが常明の天より、人を守ってくれる。島へ根を張り、花を咲かせて
どこか現実感のない身体を引きずり、ミウトは
しかし、酒を出されるのは初めてだった。
「おっし、じゃあミウトの昇進と、全員の無事を祝って……乾杯っ!」
キョウヤが
一口飲んでみれば、苦味を舌に残す喉ごしは悪くはない。
「しっかし、あのミウトが殿下の近衛だって? しかも、あのヒツガヤ中尉と!?」
「う、うん……理由はどうあれ、僕は
一気にビールを飲み干すと、口元の泡を拭ってジョシュアが愉快そうに脚を踏み鳴らした。ミウトの異例の大出世を、まるで自分のことのようにはしゃいで祝ってくれる。その横では、肉の実を串からばらして取り分けながら、いつもの調子でサヤコが場を仕切っていた。
キョウヤはただ、
「でもよ、ミウト。お姫さんの近衛ってことは、ずっと地上勤務になるんじゃないか?」
「それは……いいかもね、ミウトには。ほら、お肉もちゃんと食べて! 騎兵は体が資本なんだから。だいたいこの頃、ちょっと食生活がだらしなさ過ぎるのよ」
サヤコが取り皿に、湯気を上げる肉の実を入れてよこす。香ばしい匂いが立ち上り、ソースがバチバチと跳ねて踊る。ミウトは食欲がなかったが、さらに炒めた菜の緑まで添えられると、ありがたく箸をつけるしかない。
サヤコはミウトがもそもそと食べ始めると、安心したように微笑み、
「殿下はな、ジョシュア。
「? まあでも、僕も見ました。キョウヤさん、殿下のあれは
鳥か、天使か……いずれにせよ、おとぎばなしの一
「殿下は特殊な生まれでな。タクトから聞いてないか?」
「いえ、兄は何も」
そこで何故、兄の名がでてくるのかとミウトは首を傾げた。テキパキと給仕に注文を告げるサヤコも、その横顔を頬杖ついて眺めるジョシュアも、次の一言がキョウヤの口を突いて出るや、
「殿下は
「それって怪力ってことスか? へーっ、お姫さんは綺麗な顔しておっそろしいなあ」
「ちょっとジョシュア君? 不敬よ、ふ・け・い!」
ミウトの脳裏を、
ついついミウトは、背の空鞘に手をやり感触を確かめる。
「ジェラルドの奴が前から言ってたんだ……殿下の力なら、羽撃くだけでも飛べるってな。だから
「それが、あの格好、ですか」
新しいジョッキを受け取り、黙ってキョウヤは頷いた。
ミウトの頭の中で、今日会ったシズルの姿が翼を帯びる。同時に着衣が薄れて消えるイメージが
不能の姫君が裸同然で、
「で? ジェラルドは元気だったか? 研究に専念とか言って、あいつも翼を捨てちまったが」
「なんか、あまり軍との折り合いが良くないみたいでしたけど。あ、でも殿下に重宝されてるみたいでした。研究の方は、僕は、その、前進翼で飛ぶ自信はちょっと、まだ」
「ツルガの
「ジェラルドさんは元々、
まるで自分のことのように、自分のこと以上のようにサヤコが語気を強めた。
キョウヤは深く溜息を吐いて、三人の少年少女を、順に目で撫でてゆく。そしてその眼差しは、ミウトのところへ戻って静止した。
「怖くなっちまったよ。あの蒼穹の
「それでコックですかー!? タクトさんの
「ばっか、お前なぁ……物を作るってのはいいぞぉ? 毎日、葉と実に囲まれて、汗ダクんなって調理場で大立回りよ。ありゃー、どんな荒れた海よりきちぃ仕事だな」
でも、と
キョウヤはミウトにとって、今も何も変わってはいなかった……それは、今日久々に再会したジェラルドも同じ。翼を捨てても、生きる誇りは捨てられない。根付く
見詰める視線に気付いたのか、サヤコにいい男を探せとセクハラ一歩手前の言葉を投げていたキョウヤが、ジョシュアの
「ミウト、
「くっ、訓練は一通り……そりゃ、
「ああ、その件な……悪ぃ、俺が手を回したんだわ。ヒツガヤ中尉とちょっと取引をな」
ミウトは、カナデの手首を飾る
「そっ、そんな!
ミウトが珍しく激情を露にしたので、ジョシュアのサヤコを
「せめてもう、身内にゃあ死んで欲しくねぇと思った。俺自身、死ねないとも、な……タクトに憧れる気持ちもわかる。でも、だからこそ、タクトの意も汲んで欲しかったのよ」
まあでも、あのジェラルドの御指名ならしょうがない、とキョウヤが諦めに頬を緩めた。屈託のないその顔には、二重に
「その……僕、知らなかったです。怒ってますよ、でも……ありがとうございます」
「悪かったな、ミウト。だがもう、お前は
「はい。殿下をお守りして、ヒツガヤ中尉の足を引っ張らないよう頑張ります」
「あと、俺に……俺等に約束しろ。必ず生きて帰る、と。危なくなったら逃げろ、いいな?」
最後の言葉に心の中で首を横に振りつつ、ミウトは見詰める仲間達に力強く頷いた。
兄の想いが、キョウヤの
何より場を設けたキョウヤ自身が、会計を済ませるなり酔い潰れてしまった。
「ミウト、ミウトミウト! なー、ちょっち頼まれてくれよー!」
店を出るなり、
「キョウヤさん、送ってってくんねぇか? 俺はさぁ、この後サヤコを送りたいんだよ」
「はぁ!? お前、キョウヤさんをこのまんまにして――」
「おう、いけー! ジョシュア、男だろぉ! タマぁついてんのかー、しっかりしろー」
キョウヤが寝言を叫んだ。
「
「ばぁーか! いいかぁ、ミウトォ! それはそれ、これはこれ! ヒツガヤ中尉は憧れのマドンナ、俺の心の女神だ……
「なんか、その、凄いな。こんどサインでも貰ってきてやろうか?」
「もう持ってる! 俺が知らないのは、あとは中尉のプライベートだけ! まあ、それは置いといて。側にいて欲しい、守ってやりたいのは……やっぱり俺、サヤコなんだよ」
ジョシュアの真剣な表情に、ミウトも額を寄せて真面目に向き合う。
「あと、最後の確認だけどよ……ミウト。サヤコは――」
「
「っしゃ! ジョシュア=レイズル=ヤマノベ軍曹、
両手を広げて翼を模すと、
「サヤコ、僕がキョウヤさんを送ってくよ」
「じゃあ私も。ジョシュア君は、今日は帰ったほうがいい。
「いや、僕が一人で送る。え、ええと……そう、うん、さっきの話、もう少し問い詰めたいし」
「そ、そう。キョウヤさん、悪気はなかったと思うから。わかってるんでしょうね、ミウト?」
腰に手を当て、サヤコがずずいと身を乗り出してくる。思わずそのラインに沿って仰け反るミウトは、心の中で親友にグッドラックを呟いた。
「じゃ、じゃあ、サヤコは俺が送るぜっ! 家の方向もほら、一緒だしさ! な? な?」
「逆じゃない? 道もそうだけど、私がジョシュア君を送らないと……こうなっちゃいそう」
サヤコが視線を落す先で、キョウヤがふがふがと焼き物を撫でている。
「ま、いいわ。ミウト、あんたしっかりしなさいよ? 近衛なんて、大出世なんだからね」
「わかってるよ。そうだ……ほらジョッシュ、これ。やるよ、使って」
「サンクス、ブルーフレンド! っしゃ、それじゃー愛しの
ミウトはポケットに探し当てたライターを、出すなりジョシュアに放り投げた。ゆるい放物線でそれは、親友の手に何とか納まる。受け取るなり満面の笑みでサヤコの手に手を伸べたジョシュアは……逆に袖をつままれ、そのまま引っ張られて薄闇の街へ消えていった。
また一つ、兄の思い出が人へと受け継がれてゆく。
どこかまだ、そうして親しい者達の間で、兄が生きているような気がミウトにはした。
そんなミウトの背を、ずるりと撫でる声。
「行ったか……やれやれ、上手くやれよジョシュア。ライバルは思い出だが、なぁに、いつかは心の傷も
すくり、とキョウヤが突然立ち上がった。その足取りはいささかも危なげがなく、顔は赤いものの言葉には普段のふてぶてしさがあった。してやったり、という子供のような
「……酔ったフリ、ですか。大人げないですよ、キョウヤさん」
「子供心を忘れないと言ってくれ。年長者として、少年少女の健全な交際をだな」
「はぁ、まあ、癒えるといいですよね……癒えるんですよね」
自分に言い聞かせるように、ミウトの祈りが口を突いて出た。
「癒してやる人間が必要な時もある。まあ、後はあれだ。若いうちは恋をしろ! 恋をっ!」
「やっぱり酔っ払ってません?」
「ジョシュア! くっつけ! 抱いちまえ! んで、子供バンッバン生ませて……オヤシマに、このツルガに根付いちまえ! 存在を示して
「酔ってませんね、じゃあ大丈夫そうだし。僕は一人で帰りますよ」
「一人の部屋にか? ミウト。いいから約束通り、俺を送ってけよ。話の続き、あんだろ?」
キョウヤがふらりと、しかし確かな足取りで歩き出す。見慣れた背中に、今は並ぶ二人が見られない。その寂しさが不意に襲って、ミウトは気付けば後をくっ付いて歩いていた。
最終便を告げる
王宮を中心に広がる、ツルガの都心部……それを
「こりゃ
停車を告げるベルと共に、
「キョウヤさん、こんな
「元
発車の合図と共に、
<抱>の
「おかえりなさい、あなた」
「お前っ、駄目だろぉ!? こんな夜中まで。しかもこんな天気に。
「だって、急に降りだすんですもの。それよりあなた、お客様?」
ミウトは初めて、キョウヤの
「まあ、もしかしてタクトさんの?」
「そうさ、弟のミウトだ。よく話してたろ?」
「はっ、はじめまして」
思わず身を硬くして、ミウトはブンと頭を下げる。
「いいから行くぜ、ミウト。ほら、お前も。何だよ、遅くなるから先に休んでろって」
「でも、この子が寝かせてくれなくて。中から蹴るのよ、『パパを迎えにいって』って」
顔を上げればそこには、暖かな家族の
「いやっ、悪ぃ悪ぃ! とりあえず行こうぜ。ほら、すぐそこだからよ」
キョウヤはミウトに傘を放るなり、妻の肩を抱いて歩き出した。互いに寄り添い、一つの傘の下で進める歩の先に……雷光が一瞬だけ、遠くにナンバ邸を浮かび上がらせる。それはどこか、屋敷というよりは倉庫を
こんな天気でなければ訪れぬ
「ミウトさん、主人の物ですけど。良かったら着替え、使ってくださいね」
「後は俺がやっとくからよ。ささ、休んだ休んだ」
「あらそう? じゃあ後は、男の子同士で仲良くやって頂戴ね。それと」
「わーってる! 馬鹿みてぇに飲んだり騒いだりしねぇよ。もう俺も、男の子って歳じゃねぇ」
「ふふ、どうかしら。では、お言葉に甘えて。飲み過ぎないでね、パパ」
浴室の
「ミウト、こっちだ! ははっ、以外に狭くて驚いたろ? こっちが場所食ってんだわ」
キョウヤが笑い飛ばす通り、自慢のマイホームは少し
「
招かれるままミウトは、居住スペースと壁一枚隔てた、天井の高い広大な場所へと歩を進める。瞬間、薄暗い中にキョウヤが
「なっ、何ですか……これ」
「へへっ、俺達三人のちょっとした趣味ってとこかな。まあ、俺ぁ場所貸してただけでよ」
酒瓶とグラスを片手に、既にもうキョウヤは再び飲み始めていた。整然と片付いた倉庫の雰囲気は、最近慣れ始めた騎兵母艦の格納庫に似ている。携行される
だが、今この場所は
「どうだ? ビックリしただろ。タクトとジェラルドが熱心でよ」
「兄さんが……でもこれ、何なんです? 船、じゃないですよね」
「んー、まあ船っちゃー船なのか? こいつは飛行機つってな」
「飛行機、って……あの、昔話に出てくるアレですか!?」
改めてミウトは、展示物が一つだけの
「正確には、戦闘機か。大昔はどこの国も、あれで戦争してた訳さ。大地が
ミウトも
「でも確か、飛行機は」
「そう、この手のいわゆる兵器は廃れた……何故かわかるかね? タカナシ准尉」
不意に口調を正して、半分ふざけたようにキョウヤが笑う。
「兵器による戦争は、それを行使する島の民全体の存在を軽くしてしまった、と習いました」
「そうだ、コイツはとんでもない
沈黙する銀翼へと
「戦闘機なんかまだいい、もっと昔はよ……ボタン一つで何千人って殺せる兵器もあった」
「でも、そうやって簡単に殺し過ぎた島は、急激に狭度が浅くなったって」
「人の命を軽んじるやり方じゃ、駄目だって気付いたんだろうな。でも、命を奪うのだけはやめねぇ。次第に直接やりあうようになってよ、そいで今じゃ原始的な肉弾戦に先祖帰りだ」
嘗ては島同士が、
狭界の無慈悲な理は、極めてシンプルな生命の力で成り立っていた。
「つまりこの世界は、己の手を汚す武器しか認めちゃくれねぇ。騎兵による戦争の始まりだ」
「キョウヤさん達はじゃあ、どうしてこれを? ただ飾ってる訳じゃないですよね」
「ああ、ジェラルドは
「兄は……どうして」
思えばミウトは、失って初めて気付く。兄タクトのことを、意外な程に知らな過ぎると。唯一の肉親で、優しくて強くて。何よりツルガの英雄として、憧れの存在で。しかし、その実像を全く知らなかったのだという思いが、ミウトを打ちのめした。
「こいつはよ、
キョウヤは一人、太古の兵器に歩み寄る。そうして、強烈に伸びる
冷たい金属の塊は、間違いなく自分達の持つ翼……
「こいつはよ、大昔は狭界の海を無数に飛び交ってた訳だが。まあ、その、二人乗りなのよ」
「じゃあ、兄は」
「一緒に飛びたい人がいる……そう言ってたな。俺にゃぁ、ちょっと理解出来ないけどよ」
コツン、とキョウヤは拳で軽く、自分の顔が映り込む
「俺なら、惚れた女にゃ陸に居て欲しいね。ずっとよ。海になんざ、連れていきたかねぇよ」
「……僕も、わからないです。兄さんのことが。こんな物に夢中だったことも、全然」
「そっか、あいつは話してなかったか。まぁ、らしいっちゃー、らしいぜ。へへっ」
キョウヤの目元に懐かしさが湿るのを、ミウトは見てしまった。それを隠すように杯をあおると、ふらふらキョウヤは元のテーブルへと歩き出す。自分が兄を失ったように、彼もまた戦友を失った。もうタクト=タカナシはいない……この狭界のどこにも。
「ミウト、兄貴のことが……タクトのことが、もっと知りたいか?」
不意にキョウヤが真剣な声でミウトを射抜いた。黙って頷けば、やれやれとキョウヤが首を振る。
「僕は兄さんが知りたい。ただ、タクト=タカナシの弟で終らないためにも。一人の……一人前の
グラスの酒を一気に、ミウトは喉の奥へと流し込んだ。
「覚悟はあんのか、ミウト。俺等がお前を戦から遠ざけたのにだって、訳があんだぜ」
「知る覚悟はあります。知ればきっと、戦う覚悟も……決まります」
もう、
「背中の鞘より重いぜ? 真実って奴はよ……背負えるか、ミウト」
黙って頷く。それでは足りずに、決意が不器用な言葉となる。口を突いて勝手に出る。
「それでも、僕は――」
「今のお前さんは、その鞘と一緒さ。中身がねぇんだ。詰め込んで溜め込んだお前の覚悟は、その源はもう」
「僕は認めない! 兄さんの残してくれた、みんなが生きてるから」
「わーった、わーった……ったく、頑固さは兄貴譲りか。それが強さとなるか、と」
降参だと言わんばかりに、キョウヤが両手をヒラヒラと上げた。
それから最後の一杯を飲み干し、千鳥足でつつましい我家へと向かう。今度は演技ではないらしく、慌ててミウトは駆け寄り支えた。
「へへ、俺ぁ駄目だね。もうビビッちまった。海なんざ出たくねぇ」
「キョウヤさん」
「タクトに拾われたこの命、惜しいね。翼を捨ててでも、生きててぇ。そりゃもう、コックでも何でもやるさ。かみさんのためにも、これから生まれてくるガキのためにもよ」
「それは、当たり前ですっ! キョウヤさんはもう、一人じゃないんですから……当然です」
見上げるミウトは頭をクシャクシャと撫でられながら、
「へへ、言うようになったじゃねぇか。ミウト、お前さん、好きな女はいるか?」
「いえ、別に」
「即答すんな、ちょっと考える位はしろや。そんなんじゃ生き残れねぇぞ」
不意に二人の少女が脳裏に舞った。
それはしかし、手の届く人間ではないと思い、
「今の僕は、まずは一人前の
太古の兵器を振り返ることなく、ミウトはキョウヤに代って
リビングのソファに、暖かな毛布が用意されていた。赤い花の鉢植えが、ストーブに<暖>の
「死ぬなよ、ミウト。そのためにも死んだ人間じゃなく、生きてる人間を
「兄は、死んでません。僕のこの背に、この胸に……今も、生きてるんです」
「それでも、だ。触れて抱けるもんをよ、こう、上手く言えねぇけどあれだ。恋しろ、恋」
「元
もう泥酔状態で、とろんとした眼のキョウヤが階段を上がっていく。背中の鞘を下ろしたミウトは、それを立てかける場所を探して、ついキョウヤを呼び止めた。
リビングの壁に、一本の
「ああ? あー、それな……記念に一本、な。ジェラルドが作ったんだぜ? いい剣だ」
「……もう、使わないんですか?」
「そりゃな、俺ぁもうコックだしよ。ふあぁう、ふう。じゃ、また明日な、ミウト」
「あ、はい……お休みなさい、キョウヤさん。今日はありがとうございました」
キョウヤが二階に姿を消すと、ミウトは毛布に包まりソファに身を投げ出した。結局、兄の形見は抱いたままで。じっとただ、飾られた
そう思えば、不思議とミウトは
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