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「お金、ですか? んぐっ!?」


 アナエルの唐突な一言に、ダンは思わずパンを喉に詰まらせた。慌てて胸を叩き、リーチェの差し出すグラスから水を飲む。

 何とかパンを飲み込み、一息ついて。ダンは溜息を吐きながらふと、自分へと集まる視線を感じて周囲を見渡した。朝の食堂車は、乗客達でそれなりに賑わっている。誰もが皆、煉罪れんざいつぐない終えた者達。


「うむ。少年、期待はしていないが。無一文という事はないだろうね?」


 妙な愛想笑いを浮かべて、ダンはこころもち身を小さくして椅子にかけなおす。己の刑期を隠したバンダナを気にしながら。そんな彼に、アナエルは淡々と言葉を続けた。


「次の駅で買い物をしたいからね」

「ええと、ちょっと待って下さい」


 ダンはジーンズのポケットというポケットを引っくり返した。無論、結果は承知の上で。集められた硬貨は、お世辞にも多いとは思えない。それをジャラリと眼前に置かれて、アナエルはワイングラスへ伸ばす手を止めた。


「ええと、何せ急いでたもので。手持ちはこれしか。ざっと五、六百ギル位……」


 ふむ、と唸ってアナエルは豊穣なるワインの香りを楽しむと。すぐ側で控えている古い戦友に、銘柄を尋ねるついでに聞いてみる。


「ギリウス、この星の通貨は統一単位だそうだね。少年の手持ちで、服は買えるかい?」


 機械の車掌は顔色一つ変えずに、給仕にボトルを持ってくるよう伝えると。テーブルに散らばる貨幣を目で数え、静かに首を横に振った。


「アナエル様、残念ながら。地域によっては、一着くらいは買えるかもしれませんが」

「リーチェを連れ出す時に、いくらかボスのお金も持ち出すべきだったな」

「いやいい、少年。悪しき者より盗んでも、それは窃盗の罪さ。それを善い方向に使っても、償いにはならないよ……なんじの刑期を長めるだけだね」

「そ、そうなんですか」

「そうだ。詳しくはドフトエフスキーの罪と罰を読みたまえ」


 つつましい全財産を、すごすごとポケットに収めるダン。


「だいたい、どうしてお金が必要になったんです? 服だって――あ、ああそうか」

「女性はね、少年。汝のように同じ下着を連日はく訳にもいかないのだよ。ましてこれから、エンピレオ号は大氷原を横断する。汝はリーチェを、いつまでも寝巻き一枚にしておくつもりかい?」


 軽く詰問するような視線を、真紅の瞳が投じてくる。思わずたじろいだダンは、傍らのリーチェを改めて見やった。

 リーチェは昨日と同様、いまだに寝巻き姿だった。今はスープを口元へ運ぶ、その手を止めて。心配そうにダンの事を見詰めている。


「あっ、いや、そうですよね。すみません、気が回らなくて。あっ! そうだ」

「少年、それは無理な相談だな」


 名案を思いついたダンに先んじて、聞く前から異を唱えるアナエル。


「汝は私の着替えをあてにしているのだろう? 無理だよ、私とリーチェではサイズが違いすぎる。現に今、かなりきついだろう?」


 恥ずかしそうにリーチェは、アナエルの後半の言葉に頷いた。


「そんな訳で、次のドリッテ・フランクフルトで――」

「正確にはドリッテ・フランクフルト・アム・マインです、アナエル様」

「うん、その街でリーチェの衣服やら何やらの買い物をしたい訳だ」


 トン、と新しいボトルが眼前に置かれるや、再度グラスにワインを注ぐアナエル。彼女は頼りにならない契約者に代わって、戦友への助力を求めた。


浄鉄じょうてつでは何か、こういった乗客への配慮は無いのかい?」

「わたくし共の方では、一日三食とお部屋は提供できるのですが。こういったケースのお客様は今まで皆無でしたので。お部屋には備え付けの――」

「うん、あったね。寝巻きが。私達はしかし、寝巻き以外の服が欲しいのだよ」


 ギリウスは考え込む素振りを見せてくれた。形良い顎に手を当て、思案に沈む銀髪の機械人形。しかし彼は、よい打開策を提示することができずに。短く「申し訳ありません、アナエル様」と言葉を紡ぐだけだった。


「お金か、お金……」


 腕組み周囲を見渡し、ダンは溜息を一つ。

 他の乗客達は皆、それなりに身なりの良い格好をしていた。当然だろう――これから楽園へと向う、晴れの旅路なのだから。

 リーチェもその一員だから、寝巻き一枚ではいさせない。リーチェには恥ずかしい思いをさせたくない。そう思うダンのジャンバーを、クイと隣のリーチェが引っ張った。


「あ、ああ大丈夫。リーチェは心配しなくても……リーチェ?」


 リーチェは長い髪をかきわけ後に両手を回して。細い首から金のロザリオを外すと、それをそっとダンの手に握らせた。


「これは――駄目です、リーチェ! これはあなたの大事な物じゃないですか」


 毎日教会での祈りを欠かさなかったリーチェ。そんな彼女にとって、それは唯一持ち出した財産。恐らくファミリーのボスが買い与えたであろうそれは、持ち主の敬虔な信仰心とは不釣合いな程に華美な装飾が施されていた。


「大丈夫です、服は僕が何とかしますから。これは大事に取っておいて――」

「賢明だな、リーチェは。少年、それを換金して買い物を済ませよう」

「アナエル! だってこれは」


 朝から優雅にお酒を嗜んでいたアナエルは、身を乗り出すダンの手からロザリオを取り上げた。あわてて手を伸べるダンをひらりとかわし、酔った素振りも見せずにまじまじと品定めするアナエル。


「心配ないさ、リーチェ。主への祈りは、このような物が無くとも届くよ。それに汝は、己をみだりに着飾りたくてこれを手放す訳ではないのだろう? 少々の着替えが欲しいだけ。自分の分と――」


 アナエルの手から何とかロザリオを奪い返し、それをリーチェに返そうとしたダン。彼は予想外の言葉を聞く。


「少年の分と。そうだろう?」


 恥ずかしそうに小さく、しかし確かに頷いて。リーチェはロザリオをダンに握らせ微笑んだ。


「ぼ、僕の分……いや、僕の事なんでどうでもいいですよ! 僕はあくまで、おまけ……」

「少年、好意を素直に受けるのもまた、好意と知りたまえ」


 そう言って強引に話を纏めおえると、アナエルは己の瞳にも似た紅い雫をグラスの中に揺らして。そのままクイと、一気に飲み干した。

 特急エンピレオ号は徐々に減速し、ドリッテ・フランクフルト・アム・マイン駅へと滑り込もうとしていた。

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