2-1
夢を、見ている。つい先日の過去が、色のない世界に浮かび上がる。
ダンは今、忘れて久しい感触にまどろんでいた。豊かで平和な夕食の後、温かで安全な寝床での一晩。それすら今までの彼にとっては、望んで得られるものではなかったから。
(そうだ、確かあの朝僕は――)
夢からは目を背けることもできず、その瞳を閉じることも許されない。
広い敷地内へと足を踏み入れ、巨大な邸宅の豪奢なドアを叩く自分。現れたメイドに通され、居心地も悪そうにあたりを見回す。どこまでも鮮明な記憶の再現。
(リーチェが日課の教会に……あの日は、僕が護衛だから迎えに)
既にもう、ボスは屋敷を出た後。寝室に呼びかけても、返事の声がないのはわかっている。しかし、身支度する反応すら聞こえない。
甘い誘惑に思わず、ダンは寝室のドアノブに手を掛けた。鍵は掛かっていなかった。
思えばあの時、罪を犯したのだとダンは思う。額が焼けるように熱かったのは、恐らく刑期が書き換えられていたから。
ベットの上にリーチェはいた。否、ただ抜け殻のような裸体があった。打ち捨てられたように。その瞳は虚ろに、ただ天井の一点を見詰めていた。
いつも微笑をたたえ、ダン達のような下っ端にも優しいリーチェ。労いの言葉などなくとも、誰もが彼女に癒され、
ダンは瞬時に、入り混じる二つの感情に支配され、ベッドに駆け寄り膝を立てる。ギシリと
はっきりと覚えている、それは憧れた女性の真実に対する怒りと――身の奥より込み上げる若い劣情。
(僕はあの時、罪を犯しかけたんだ。いや、もう犯したのか?)
無抵抗のリーチェに覆い被さったダンはしかし、象牙細工のように白い乳房の、その谷間に見た。
真紅に光るゼロの文字を。
セピア色の記憶の、そこだけが鮮やかに浮かび上がる。誰もが身体のどこかに刻まれた、己の罪の数字。
覚醒。ダンは鮮血のように赤いゼロへと、吸い込まれるような錯覚と共に目覚めた。
「夢、だよな……あの日の、夢だ。でも、本当に起こった……あれは夢じゃ、ない」
びっしょりと寝汗に濡れた、上体を起こして胸に手を当てる。鼓動は早鐘のように脈打ち、徐々に落着きを取り戻していった。薄暗い部屋には今、浅く小刻みなダンの呼吸音と、レールの継ぎ目が奏でる規則的なリズム。
「あの時、僕は初めて見た。罪を償い終えた人を……そして思い出したんだ」
寿命を遥かに超える刑期を課せられし、魂に
「特急エンピレオ号……この列車でリーチェは、きっと。これが僕の、あの人への
ダンはベットから抜け出ると、部屋のカーテンを開け放つ。そこには、相変わらずの闇が広がっていた。汗が体温を奪いながら渇けば、下着一枚の身が僅かに肌寒い。
厚いガラスの窓に映る自分。その額に写る数字を、改めてダンは見詰めた。
「僕も、いつかゼロになるだろうか……リーチェみたいに」
今まで意識した事も無かった……自分の煉罪の重さを。それが刑期と解っていても、実感が湧かなかった。何の罪かも知らされず、罪の自覚さえも全く無かったから。それはこの世界の誰もがそう。
「あの車掌さんは言ってたな。善い行いをすれば減るって……なるほど、いっこうに減らないわけだ」
身の内より湧き上がる衝動に突きうごかされて、リーチェを連れ出した瞬間までは。
「四桁を切ったのは初めて見るな。リーチェを助けたから? それともアナエルと契約して、《エリール》の……偶像の破壊に手を貸したから? これはもしかしたら――」
淡い期待を闇へと置き去りにするように。エンピレオ号は長いトンネルを抜けた。
曇天の朝に、雪が舞っていた。
「雪が、こんなに」
一面の銀世界を、エンピレオ号は駆け抜ける。甲高い汽笛を一度、吹き鳴らして。
眼前に広がる光景に、世界の広さを感じながら。窓の厚いガラスを透過して感じる冷気に、ダンは再びベッドへもぐりこもうとして。部屋のドアをノックする音に、返事を返しながら散らかった衣服をかき集めた。
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