1-2

 故郷が次第に遠ざかり、どんどん小さくなってゆく。

 デッキの窓に額を寄せて、ダンは初めて外から見る、自分の生まれ育った街――テルッツオ・フィレンツェを見詰めていた。その脳裏に浮かぶ、過ぎさりし日々。

 父も母も知らず育った教会の孤児院。似た物同士が集まり、日々を支えあって生きた路地裏。そして、多くの仲間達がそうだったように、街のギャングに憧れ、罪を深めると知りながらも、ファミリーの構成員になった。


「あんなに小さい街だったんだ」


 ダンは今、十六年間暮らしてきたふるさとに別れを告げた。今までの半分を生きてきた、未だ多くの仲間達が生きるファミリーにも。

 辛苦で塗り潰された闇夜のような青春に、僅かばかり点在して光るのは、小さく些細な思い出。それは正しく、星の輝き。仲間との友情や、組織内の信頼。それは確かに存在していた。そして――


「ほら、見てくださいよ。もうあんなに小さく。ああ、見えなくなっていく」


 ダンはとらわれの太陽に出会い、手を伸べあたたかさに触れた。そしてまわしい縛鎖ばくさをときはなち、連れ出し逃げてしまった。

 後悔は無い。こうしてリーチェと肩を並べていられるから。例え寂しい別れを先延ばしにしただけでも、ダンは嬉しかった。想い慕った大切な人を、苦しみから救いだすことができたから。


「さ、さてっ! リーチェさん、客車の中に入りましょう」


 不意に気恥ずかしさが込み上げ、慌てて身を離すダン。すぐ間近、吐息が感じられる距離にリーチェの顔があった。濡れた長い睫毛まつげの、つやめいた潤いまで感じるような距離。

 彼女にとって……リーチェにとってあの街は、どんな場所だったのだろうか? 今も切なげな表情でじっと、線路が流れ去る先を振りかえる瞳。その胸中をよぎる思いとは?

 恐らく自分が考えている以上に、過酷で残酷な日々だと思うから。ダンは察して聞かずに黙る。


「発車直前に転がり込んだから、乗車手続きもまだですし――リーチェさん?」


 ダンの声に振り向く、リーチェの憂いを帯びた表情。

 切なげにうるんだ瞳で、リーチェはダンへと声なき声を投げ掛けてくる。何かを求め切望するかのような、信頼を寄せる眼差し。


「なっ、何か僕、まずいことしました? 機嫌を損ねてしまったぞ、ええと……そうだ、先に食堂車に? お腹、減ってるのかな。寝起きを連れ出しちゃったもんな」


 目を閉じ静かに、眼前の麗人れいじんは首を横に振った。思えばリーチェと、こんなにも長い時間いるのは初めての事で。ダンは改めて、己の手の内に咲く可憐な花に戸惑った。


「こ、困らせないでくださいよ、何でもしますから。ええと、どうしよう」

初心うぶだな、少年。純情も度が過ぎれば、無粋だと知りたまえ」


 不意に背後で、空気の漏れるような音。ダンとリーチェは同時に、声の主を振り返った。

 そこには、閉る扉を背に立つ一人の少女。無彩色モノクロームの修道服に身を包んだ姿に、二人は銀鎧ぎんりょうの天使を重ねた。真紅の瞳が細められ、若い男女のやり取りに微笑を零すアナエル。


「アナエルさん! どうしてここに!?」

「私はなんじの守護天使……旅は道連れ、同行させて貰う。今か? 何、普通に飛んできた」


 天使だからね、とアナエルは、さも当然のように言い放つ。


「そ、そうですか。あ――あのっ! 先程はありがとうございました。リーチェさんを助けて貰ったばかりか、僕の命まで」


 小柄な少女を前にかしこまって、ダンは緊張しながら感謝の言葉を紡ぐ。リーチェも小さな手を取り自らの手を重ねて、頭を垂れて謝意を表した。


「気にするな、少年。私も主よりたまわった使命の為、汝を必要としていたのだ。それより」

「そ、そうですね、立ち話もなんですし。話は中で、リーチェさんも……ええと」


 リーチェの、何かをねだるような目。その視線に思わず、ダンは身を仰け反らせる。


「あ、あの……何か、僕は、やらかしたのかな……なんて」

「少年、特別に教えてやろう。胸に手を当て、よく思い出してみたまえ」


 愉快そうに喉を鳴らして、アナエルが込み上げる笑みに口元を緩めた。彼女は手に持つ小さなトランクを床に置くと、腕組みダンを見上げる。

 言われるままに、本当に胸に手を当て記憶の糸をたぐるダン。


「汝はこの淑女レディを、命を懸けて救ったのだよ? その行為、正に愛……まだ、我が身に宿りくすぶっている。ふふ、煉罪人れんざいにんと言えども、まだまだ捨てたものではないな」


 愛。その一言に思わず、ダンはうろたえアレコレと喚き出す。隣でリーチェは、頬を赤く染めて俯いた。そんな二人を交互に見詰めて、目を細めるアナエル。


「しかし汝はこの淑女に、リーチェに対して少し他人行儀に過ぎるのではないか?」

「えっ、つまり、ええと」

「もっと親しみを込めて呼んで欲しい……あの時叫んだように。そうだな、リーチェ?」


 アナエルの言葉に、ちらりと上目遣いでダンを見て。リーチェは小さく頷いた。


「そういう訳だ。私の事もアナエルと呼び捨てて構わない。なにしろ少年、汝は我が契約者、私は汝の守護天使なのだからな」

「は、はあ……じゃ、じゃあ、ん、ゴホン! ……行きましょうか、リーチェ、アナエル」

「うむ、よろしい。が、待て少年」

「は、はいぃ! ま、まだ何か……」

「汝は本当に気が利かないな。婦人の荷物くらい、率先して持ちたまえよ」


 僅かに身を反らして、自分の手荷物を指差すアナエル。慌ててダンは、小さなトランクを持ちあげた。その意外な重さに驚きよろける。そんな彼を振り返りながらも、リーチェはアナエルに促されて客車へと一歩を踏み入れた。

 ノブも無く勝手に開く、不思議なドアの向こう側……長身の機械が一行を出迎えた。

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