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 遠く視線を吸いこむ彼方に――改札の向こう、一番奥の専用ホームで輝く白亜はくあ流線型りゅうせんけい


「見えたっ! もう少しだ、あと少しっ!」


 悲鳴と怒号が入りまじる中、ダンは人や馬をかきわけ全力で駅へと駆ける。災厄の元凶に追われながらも、弱々しく握りかえしてくる手を引いて。

 浄罪鉄道じょうざいてつどう、テルッツオ・フィレンツェ駅。普段なら人々と物資で賑わうレンガ造りの駅舎は今、混迷の渦中にあった。

 目指すは楽土へ続く約束の線路。その上に鎮座する純白の貴婦人、特急エンピレオ号。

 しかし、荘厳なまでに華美な列車は、手前のホームに滑り込む無骨な定期便に遮られて見えなくなった。


「さあ、リーチェさん! 行ってください! ……残念ですけど、お別れです」


 周囲の混乱に全く動じず、平常通りの業務を続ける。何度見ても浄罪鉄道の駅員は皆、ダンには別世界の住人に見えた。彼か彼女かもわからぬ無機質で中性的な表情は、精密に作られた人形のように見える。

 そんな人の姿をした改札機械の待ち受ける、運命の岐路きろへとたどりついて。未来へと、大いなる幸せへとダンは送りだそうとした。心から大切に思う女性、リーチェを。


「大丈夫です、僕なら心配いりませんから。そんな顔しないで、行ってください」


 返すべき言葉も声に出せず、ただ握る手を離そうとしないリーチェ。

 ダンのしたうリーチェは、憂いを帯びた儚げな表情をかげらせ、黙ってじっと見詰めてくる。


「お元気で……最後くらい、あなたとお話したかった。あなたの声が聞きたかったけど」


 ダンは白い手にもう一方の手を重ね、その温もりを忘れぬよう胸に刻む。互いの体温が何よりも饒舌じょうぜつに、別れを惜しむ気持ちを語っていた。


「リーチェさん、あの列車に乗ったら……ここでの事を忘れてください。そうすればきっと、幸せになれます。それじゃ!」


 小さく柔らかなリーチェの手……できればずっと、握っていたい。しかし未練を断ち切るダン。彼はジーンズのベルトに下がる拳銃を握り、それを引きぬき振りむいた。背中でリーチェを見送り、銃声で旅立ちを祝福する為に。

 ゆっくりと追っ手が近付き、迫る震動に駅全体が揺れる。逃げ惑う者達の何人かは、その場でへたりこんで祈りはじめた。この世界で最も恐ろしい《神》への畏怖いふに、構内の空気が凍りつく。

 浄罪鉄道を守る保安員を歯牙にもかけず蹴散らし、敵が姿を現した。銃の安全装置を解除し、震える両手でしっかり握って。ダンは横目で、遠ざかっている筈のリーチェを一度だけ肩越しに振り返る。


「――!」


 目に映ったのは、まだ改札のこちら側でためらいがちにうつむくリーチェの姿。寝巻き姿の彼女は、ダンが羽織はおらせたジャンパーを棚引かせ、胸の前にロザリオを固く握って動かない。ただ長い栗色の髪が、震える空気に呼応するように小さく揺れていた。


「何してるんです、ここは僕が! あなたはもう自由だ、早くあの列車に――」

「ダン君! 愛の逃避行はここまでです。大人しくリーチェを連れて戻りなさい」


 抑揚に欠く、静かで冷たい声が響いた。

 余裕のある天井の高さを確かめるように。屈んで駅舎に侵入した巨躯が立ちあがる。

 それは、

 規則正しいリズムでほのかに発光するシルエットは、人を模した人ならざる姿。四肢は太く逞しく、腰は驚く程にくびれて細い。操者の納まる胸部は厚い装甲に覆われ、猟犬の顔をかたどった禍々しい頭部には、大きな双眸そうぼうが妖しく光る。

 見上げる威容は正に神、それも醜悪な邪神――見る者に、圧倒的な恐怖を刻み込む。

 異形の神は胸の奥から、今度はリーチェに優しい声色で呼びかけた。


「ボスは酷く嘆き悲しんでいます。あのお方の側にはリーチェ、美しいあなたが必要なのですよ。さあ、一緒に帰りましょう」


 ダンとリーチェは同時に、同じ人間を想起する。しかしその反応は真逆――ダンは怒りも露に銃口を振りあげ、リーチェは忌まわしい夜の記憶に震えながら、華奢きゃしゃな己の肩を抱く。


「リーチェさん、市長の言葉に耳を貸さないで! くそっ、《エリール》まで持ちだして無関係な人を巻きこむ。これがファミリーの、あの男の仁義じんぎかっ!」


 《エリール》――それが罪を糧に破壊をもたらす邪神像ロボットの名。この世界の形ある《神》。


「ここは私とボスが支配する街ですよ? 浄鉄じょうてつの運行を止めてでも、とボスに相談されたもので。この私、市長が自ら《エリール》で追ってきた訳です。それより、ダン君」


 一歩、また一歩。我が物顔で歩く漆黒の《エリール》――この街の支配者が放った猟犬に、誰もが道を開けて頭を垂れる。恐ろしさを知る故に。


「あなたはまだ、《エリール》の恐ろしさが解っていない。そんなオモチャ一つで、私を止めるつもりですか? これだから無知は恐ろしい。栄えあるフィレンツェ市民にあるまじき愚かしさだ」

「僕の命を賭けて! リーチェさんの未来は僕が守ってみせる、市長!」

「おやおや、一度ならず二度までも。いけませんね、ダン君」


 金属がこすれあうような駆動音が徐々に近付き、いよいよ覚悟を決めるダン。彼の人差し指がトリガーに掛かった瞬間、目の前の巨人は一瞬身を屈めて。次の瞬間には弾かれたように跳んでいた。

 唸りをあげる巨体に燐光りんこうをまとって、一瞬でダンの目の前まで跳躍する《エリール》。重量感を全く感じさせない、軽やかな身のこなし。その動作とは対照的に、着地の激震に駅舎は揺れた。立ち尽くすリーチェを咄嗟に庇うダン。

 《エリール》は五本の指を備えた大きな手を広げて、いとも簡単にダンの肉体をつかまえた。そのまま軽く握り締めて高々とかかげる。無音の悲鳴を上げて、リーチェがわななき立ち尽くした。


「駄目でしょう? 私が市長だと、善良な納税者の皆さんに知られてしまうじゃないですか。ファミリーと市政の繋がりは秘密なのですよ。公然の、ね」

「クソッ! でも、この距離なら!」


 身を捩って抗うと、ダンは狙いもそこそこに発砲した。彼の手の中で、拳銃から光のつぶてが迸る。しかしそれは、己を束縛する《エリール》の表面で虚しく弾かれた。


「無駄ですよ、ダン君。《エリール》を倒すには、より強い《エリール》による肉弾戦でなければ。いかに君が罪深く、特別な銃が撃てても……傷一つ付けられないのです」

「それでも時間稼ぎくらいは。今のうちに、行って! リーチェさんっ!」


 異様な光景が広がっていた。浄罪鉄道の駅員達は無駄と知りながらも、各々火器を手に巨大な侵入者を取り囲む。機械達の外側で人々は皆、怒りが鎮まるよう祈りながら、慈悲を願い伏していた。諦めの滲む静寂の中、ダンの銃声だけが虚しく響く。

 これが罪人達を閉じ込めた管理世界、惑星プルガトリオの実体。罪をつぐなう囚人達の監獄は内部に、罪深い者ほど強い歪な社会を形成していた。その頂点に君臨するのが、《エリール》と呼ばれる神……それを駆る者。


「これが主の仰った――なるほど、この振るまいは許せないね」


 必死にもがくダンの耳に、突如響く少女の声。澄んで良く通るそれは、緊張感にみなぎる場の空気を引き裂いた。にわかに周囲が慌しくなり、誰もが声の主を注視する。

 改札口に一人の修道女シスターが立っていた。酷く小柄な、年の頃は十三、四位、自分とそう変わらないようにダンには見えた。しかし、無彩色の修道服に包まれた全身の、唯一露出した歳相応の顔には、幼い少女とは思えぬ鋭い眼光を湛えた大きな瞳。その真紅の輝きは、真っ直ぐに《エリール》を――神を気取るものを見詰める。


偶像ぐうぞうを駆る者よ、なんじに警告する」


 少女は小さなトランクを静かに床に置くと、改札の駅員に切符を渡して歩き出した。震えるリーチェの横を通りすぎ、どんどん《エリール》へと進んでゆく。


「今すぐ悔い改め、偶像より己を解放したまえ」


 少女は険しい眼差しの矢を射る。発する言葉には自信が満ちてよどみが無い。

 突如現れた不思議な修道女にしかし、《エリール》の中で市長はいささかも動揺しなかった。返事を返す代わりに無言で、巨大な右足を振りあげ――そのまま踏み潰す。


「ふう。あいにくと私は、私達エリール乗りは総じて信仰心に疎いもので。さて、妙な邪魔が入りましたが。ダン君。お仕置きを再開しましょ――」

「汝は今、過ちを犯し続けている。今すぐ罪にまみれたその手を、私に差しだすべきだ」


 突発的なイレギュラーの処理を終え、本題に戻ろうとする市長。彼はしかし、殺した筈の少女の声を聞く。慌てず《エリール》の首を巡らせれば、右足のつま先に腰掛け見上げる修道服姿。

 即座に市長は、少女の小柄な身体を蹴り上げた。しかし、《エリール》の右足は虚しく空を斬る。瞬時に下肢のバランスを取りながら、まるで生き物のように躍動する《エリール》。

 発光する巨体を、姿に似合わぬ俊敏さで一歩下がらせると。市長は眼前の少女を危険な存在だと認識し始めていた。それはファミリーとの癒着関係を力で築いてきた、エリール乗りの本能が発する警告。


「とにかくっ、今だっ! リーチェさん、逃げて!」


 身を声にして叫ぶダン。。

 状況は飲み込めず、何が起こったのかも解らない。だが、彼が望むこと、それだけは明白。ダンは力を限りに、《エリール》の手の中で叫んだ。

 その声に少女は、初めて気付いた。悪しき偶像の手に掴まった少年の存在に。ほう、と目を細めて見上げると、改めて静かに問う。


「汝は? 少年! そんな所で何をしているんだい?」

「あっ、遊んでるように見えますかっ! 君こそ危ないから下がるんだっ!」

「心配は無用だ、少年。それよりも。汝の言うリーチェとは、そこの淑女レディのことだね?」

「あ、ええ。リーチェさんはもう罪を全て償ったから。あ、あの列車に、乗って」

「そう言えば、そんな制度を人間がやっていると聞いたな。ふむふむ」

「それより、君! リーチェさんも! 早く逃げるん――グアッ!」


 ダンの搾り出す言葉が悲鳴に変わった。骨の砕ける鈍い音が入り混じる。

 強く握った拳を、より高く掲げて。市長は、《エリール》に哀れな裏切り者を手放すよう念じた。ダンの身体は静かに、重力に掴まり落下する。


「さて……邪魔をするなら貴女も、このような目にあってもらいますよ」

「むごい事を。汝はまた一つ、罪を犯した。ゆるしを乞わぬならば――断罪もやむなし」


 固い床へと落下して何度か弾み、そのまま動かなくなるダン。リーチェは取り乱して駆けよった。市長は裏切り者の完全な始末を後回しに、ボスの情婦を連れ帰るべく《エリール》を二人の前にひざまずかせる。


「リ、リーチェさん、逃げて……」

「さあ、リーチェ。ボスがお待ちです。早く帰りましょう」


 息も絶え絶えのダンを抱き上げ、泣きじゃくるリーチェ。彼女を市長は、細心の注意を払って《エリール》に掴ませた。リーチェの両手を離れたダンが、無様に冷たい床へと身を投げ出す


「手間を取らせてくれましたね、リーチェ。では帰りましょうか? 大丈夫、ボスには、私達には浄鉄でさえも逆らえないのですから。あなたはボスの傍らに咲く、一輪の花であればいいのです。あとは――」


 念には念を入れる、それが市長の流儀。

 裏切り者にケジメをつけて、逆らう者にも死を。この街を治める神の一人として。


「ダン君、トドメをさしてあげましょう。裏切り者には死を、それがファミリーの掟ですから。さようなら、勇敢で無謀なナイト君」

「く、くそっ! リーチェさん……誰か、リーチェさんを……助け、て! 誰かっ!」


 見下ろす猟犬の双眸そうぼうが光る。ダンは見上げる先に、手を伸べ泣きながら少年の命を哀願あいがんする、リーチェの姿を見て絶叫した。潰れた内臓の痛みに血を吐きながら。

 精魂尽きて大の字に横たわり、血に溺れながらも救いを求めるダン。気付けば彼を、先程の少女が見下ろしていた。


「よろしい、少年。私が望みをかなえよう……さあ、契約を」

「あ、あなたが? あなたは、いったい……」

「私か? 名はアナエル、使


 今が好機――二人まとめて葬るべく市長は、《エリール》の左手を握って振りあげる。大地を割る鉄拳が唸りをあげた。

 激震。しかし手応えの異変に気付いて、爆心地の中心で《エリール》を振り向かせる市長。その視線の先に、ダンを両手でかかえた少女が立っていた。


「い、痛みが……消えた? 傷が治っ――天使? 天使だって!?」

「いかにも。今より私は汝の守護天使しゅごてんしとなった。汝の愛をもって、私は偶像を破壊する」


 市長は《エリール》の中で、思わず身を乗り出した。周囲でひたすらに祈っていた者達も、口々に驚きの声をあげる。駅員達は皆、遠い過去の記憶にお互い頷きあった。


「偶像を、破壊する? ま、まさか《エリール》を?」

「もちろんだ。主は私に仰った……煉獄れんごくで今、偶像が悪をなしていると」

「でっ、でもどうやって!?」

「この私が直接、叩いて砕く。汝の愛で」

「あっ、愛!?」

「そうだ。少年……私に愛を、汝の強き愛を注いで欲しい」


 ダンを静かに床へ立たせると、少女の身体が眩く光り輝く。着衣が消えると同時に、急激に伸びる四肢。瞬時に大人の女性になった、彼女の変化は止まらず――その姿は多くの者達が見守る中、まばゆい光の巨人へと変身した。


「天使アナエル、断罪形態アウゴエイデス――フェイム・アップ」


 眩い姿は正に、白銀の鎧をまとう翼なき天使。全身をくまなく覆う装甲は、女性らしい身体のライン、その起伏の豊かさを全く阻害していない。ただ、頭部だけは人間そのまま……棚引く金髪を振り乱す、端整な顔立ちに灯る怒りの表情。真紅の瞳が炎と燃えて、天使アナエルは身構えた。


「エリール? では、ないな……しかし。天使? アナエル? ふむ」


 市長は冷静だった。自分を律する努力を惜しまなかった。我が手に捕らえたリーチェを庇いながらも、目の前に現れた謎の巨人に――アナエルに油断無く対峙する。


「にわかには信じがたいですが……どうやらこの私と、私の《エリール》と戦う積もりのようですね」

「まずは手の中の淑女を放すがいい。これ以上、罪を重ねることはない」

「おやおや、天使様はわかっていないようですね。罪を重ねれば重ねるほど、《エリール》の力は増大するのですよ」

「――そのようだな」


 一際甲高い駆動音を響かせ、《エリール》が素早く踏み込む。足元を気にしながらアナエルは、繰り出された前蹴りを両腕を交差して受け止めた。同時に声を大に叫ぶ。


「プルガトリオの民よ! 偶像に恐れを抱いて祈るなかれ! 立ち上がれ、生きよ!」


 アナエルと《エリール》の足元には、未だ恐怖に震えてひたすらに祈る者達がいた。その者達はアナエルを見上げながらも、駅員達によって徐々に避難し始める。

 今やテルッツオ・フィレンツェ駅の構内は巨人達の武闘場と化した。天使と邪神が激しくぶつかり合う。

 己の《エリール》の片手が塞がっている、そのハンデを全く感じさせない市長。

 獰猛な獣のごとき猛攻がアナエルを襲った。


「どうしました? 天使様ともあろうお方が、この程度で……おお、よもや自慢の羽根を天国にお忘れかっ!」


 足元を逃げ惑う人々を蹴散らし踏み潰しながら。巧みに左右に構えを切り替えつつ、連続蹴りを繰り出す《エリール》。

 シィン! シィン! 風を切って迫るそれは、打撃というよりは斬撃に近い。破壊の弧を描く漆黒の脚。

 アナエルは防戦に徹しつつ、隙を見て反撃を試みるが。カウンターの肘や蹴りを繰り出そうとする都度、身を守るように突き出される黒い右拳。そこには未だ、リーチェが囚われていた。


「クソッ、どうすれば。市長! リーチェを放せ!」


 二体の巨人の足元を逃げ惑いながら、ダンは己の無力に唇を噛む。その言葉に彼の守護天使が答えた。


「任せたまえ、少年。今、汝が試される時」


 絶え間なく押し寄せる波のように、角度を変え距離を変え放たれる《エリール》の蹴り。機械とは思えぬ柔軟機敏な動きに翻弄されながらも。大きく上体を屈めて上段を避け、アナエルがふところへと肉薄する。血の通う右拳が固く握られ、腰まで引き絞られた瞬間、迷わず右手のリーチェを盾に後ずさる《エリール》。


「天使様、打てますか! 打てないでしょう! 打てばこの娘は――」

「さあ少年、我が契約者たる資格を――その愛を、示せっ!」


 福音ふくいんの拳が放たれた。それは一直線に《エリール》の胴へと吸い込まれる。細い腰へ穿うがたれる、鉄拳の聖なる刻印。

 大きくバランスを崩す《エリール》。その右腕を即座に引っつかむと、リーチェが握り潰されるより速く、肘の逆関節を膝蹴りでブチ抜くアナエル。ありえない方向に折れ曲がった右手から、リーチェの身体が宙に舞った。


「ばっ、馬鹿なっ! いけません、リーチェに何かあったら、私がボスに――」

「うおおおっ! リィィィチェェェッ!」


 周囲が口々に悲鳴を上げた瞬間、ダンが全力で地を蹴った。細かな部品や破片が舞う天井を仰いで、視界の中心にリーチェの細い身体を見すえて走ると。落下地点へとスライディングで滑り込む。

 背が燃える様に熱い。しかし今、ダンは痛みを忘れていた。意識は宙のリーチェに集中。

 それを気付けば、市長は眼で追っていた。祈るような気持ちで――そう、彼はこの時初めて祈った。しかし二人の男女を注視していた《エリール》に、不意に走る衝撃。

 アナエルの細くしなやかな右足が、鞭のようにしなった。それは《エリール》の側頭部へと、まるで巻きつくように吸いこまれてゆく。

 グラリと巨体が揺らげば、そのまま軸足を据えるアナエル。地に根の張った大樹のような安定感で、彼女は矢継ぎ早に蹴りを叩き込む。

 負けじと市長も、損傷した右腕に構わず《エリール》の身を屈めて。捨て身で体を浴びせてアナエルを押し倒した。なりふり構わず馬乗りになると、力の限り拳を振り下ろす。


「困った天使様だ――ハァ、ハァ、リーチェに何かあったら、私がボスに……何て恐ろしい事をしてくれたんですか!」

「――それでこそ、我が契約者。見よ」


 アナエルの声に《エリール》を振り向かせる市長。


「いちち……もう大丈夫です、リーチェさん。怪我は? ありませんね?」


 ダンは身を挺して、リーチェをしっかりと受け止めていた。恐怖で強張った顔を涙で崩して、ダンに泣いて抱き付くリーチェ。ダンは震える背を優しくさすってなだめた。


「よ、良くやりました! ダン君、今はリーチェを大事に抱いてなさい。この天使様を片付けたら、次はあなたの番ですから――!?」


 市長の安堵の溜息と共に繰り出された左拳。それを顔面に受けたアナエルは鼻血を滲ませながら。再度翻る左腕をしっかりと両手で掴んだ。


「なっ、何!? 何だこのパワーはっ」

「世は主の愛で満ち満ちたり。少年、その愛――確かに受け取った!」


 アナエルの瞳が見開かれ、一際強い輝きが宿る。同時に彼女の手の中で、《エリール》の左腕が音を立ててヘシ折れた。

 市長が驚きの声をあげる、その隙も与えずに。動きの止まった《エリール》目掛けて、アナエルは上体を起こすと同時に頭突きを食らわし吹き飛ばした。猟犬をあしらった頭部が大きくひしゃげる。

 《エリール》が壁へと激突して埋まり、駅舎が大きく揺れる。パラパラとはがれた建材が舞う中、ゆらりと立ち上がるアナエル。


「おおお!」


 アナエルは雄々しく叫ぶと右手を開いて翳した。同時に背に、天井まで届く巨大な光の翼が屹立する。羽ばたく姿は正しく、神の祝福を受けし天使。


「主の御名において――その偶像を、破壊する!」


 翳した右手を固く握り、その拳を引き絞って突進するアナエル。彼女は光をまとい、光そのものとなった。必殺の一撃が放たれ、《エリール》の胸部をアナエルの右腕が深々とえぐり、打ち貫く。


「――アーメン」


 ドス黒い液体に濡れた右腕を抜くと同時に、翼を翻して振り返るアナエル。《エリール》は物言わぬ残骸となって崩れ落ちた。市長の魂は天へ召されることなく、煉罪を償う閉じたの中へと還ってゆく。


「や、やった? 嘘、信じられない。エリールを……でも、でもっ!」


 歓声がわきたった。見守り息をひそめていた誰もが、信じられぬ光景に声をあげる

 その瞬間、発車の時間を告げるベルの音が響いた。贖罪を終えた者を運ぶ、楽園への特別列車――特急エンピレオ号。けがれを知らぬ白い車体は今、次なる駅へと向けて走り出そうとしていた。

 ダンは本来の目的を思い出し、慌てて腕の中のリーチェから身を離す。


「しまった! さあリーチェ、立っ……お願いです、行ってください。ああ、もうっ」

「そのまま抱いて行きたまえ、少年」


 ふと、振り向き見上げれば。アナエルが腕組み頷いていた。彼女の足元では駅員達が忙しそうに駆け回り、人々は誰もが救世主を取り巻く。

 意を決して頷くと、両腕でリーチェを抱きあげるダン。リーチェもしっかりと、ダンの首に両手を回した。

 鳴り止まないベルを聞きながら、二人は見送るアナエルに一礼すると、改札を飛び越え走った。まるで二人を招くように、さえぎる列車達が次々と発車する中……最奥さいおうに待つ特急エンピオレ号へ。

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