魔王と黒衣の勇者

「ふう……さ、姫。もう終わりましたよ」


 惜しくも勇者になり損ねた冒険者達を、部屋から追い出しながら。ラドラブライトは奥の間に控えるシトリを振り返る。その手に、今しがた巻き上げた金貨の革袋がズシリと重い。

 今日もまた、ラドラブライトは死に損ねた。この玉座の間に訪れるのはいつも、危険な迷宮を踏破せし屈強な冒険者達だが。まだまだ彼を打ち倒すには力及ばない。充分手加減しているにも関わらず。

 いつになれば、己を苦しみから解放してくれる勇者は現れるのだろうか? 魔王は今日も苦悩を胸に秘め、玉座の影から顔を出すシトリに、曖昧あいまいな笑みを返すだけだった。

 こんな時、伝説の黒衣こくいの勇者が現れてくれれば。唯一にして絶対、最早もはや神話となった大昔の仇敵きゅうてき――異界より現れし、黒衣の勇者。懐かしくも忌々いまいましい面影を、今は切望してしまう。馬鹿馬鹿しいと失笑に喉を鳴らしながら。

 いっそ自らの手で己を……そう思う事もまれにあるが。その都度記憶の底から、あの日の過ちに消えた面影が、寂しそうに微笑ほほえむのだった。


「おじ様、御疲れ様でし……あら? あ、あの……」

「ん? どうかしましたか? シトリ姫」


 嬉しそうに駆け寄ってくるシトリの、その歩調が次第に失速した。そのまま立ち止まると彼女は、不思議そうに首を傾げるラドラブライトを、ゆっくりと指差す。

 正確にはその背後に、いつの間にか現れた人影を。

 肩越しに首を巡らし振り返って、ラドラブライトは瞬時に魔王の仮面を被り直した。そのままマントをひるがえすと、シトリの視界をさえぎって振り返る。

 その男は扉にもたれて寄り掛かり、泰然たいぜんと腕組み佇んでいた。

 ラドラブライトの冷たい視線を受けて尚、毅然きぜんと真っ直ぐ見詰め返してくる。

 自信に満ちた瞳に、鋭い光を輝かせて。何より眼を引くのは、黒一色に染め上げられた着衣。まるで伝説にある、黒衣の勇者を髣髴ほうふつとさせる漆黒の剣士。彼はラドラブライトを前に恐れる素振りも見せず、何の気負いも感じさせず。静かに、しかし確かな足取りで近付いてくる。


「黒衣の勇者気取りとは面白い……では来い。定命ていめいの者よ、か弱く、はかな、い……?」


 久々に期待出来そうな相手を前にして、ラドラブライトはシトリをかばうように両手を広げて立ち塞がる。いつもの前口上が口を突いて出たが、眼前に迫る男はその言葉を、手を伸べて制した。

 今までに無い突然の行動に、ラドラブライトは内心動揺した。決して面には現さなかったが。

 普段の冒険者達ならば、お決まりの定型句を言い終わらぬ内に、襲い掛かってくるのが定石だったから。自分を前に、こんなにも落ち着き払った人間を、ラドラブライトは久方ぶりに見る。

 一種異様な雰囲気を持つ、この男はもしや?

 ラドラブライトの胸中を淡い期待が過ぎる。盛んに自分に並ぼうと前に出る、シトリに無言で奥へ戻るよう促しながら。黒衣の勇者の再来――そんな言葉が一瞬、脳裏で閃いた。

 それを裏付ける言葉を、眼前の剣士は朗々と謳い上げた。


「俺の名はカルドニーセ……またの名を、黒衣を継ぎし者」


 静かに腰の剣を抜きながら。男は名乗ると同時に奇妙で奇抜な構えをとる。

 黒衣を継ぎし者。カルドニーセと名乗った男は、確かにラドラブライトにそう告げた。その身を覆う黒衣が、今は伝説となった偉大な英雄の物であるとでも言いたげに。

 黒衣の勇者……ゆいくにとよばれるこの大陸を、嘗て邪悪な魔王達から救った伝説の英雄。その素性や生い立ち、その後の経歴は多くが謎に包まれているが。もし眼前の男が、伝説の勇者の末裔であるのならば。ラドラブライトの願いは、今日こそ成就するかもしれない。


「フッ……フフ、フハハハハ! 嬉しいぞ、こんなに嬉しいことはない。さあ! 全力で挑んで来い!」


 ラドラブライトは狂喜した。

 身を震わせて心から笑った。

 条件は整った……完璧過ぎる位に。今日、伝説の勇者の末裔まつえいによって、魔王は倒され姫は救出される。ラドラブライトは、後悔するだけの辛酸しんさんたる日々を終えるのだ。


「魔王ラドラブライト、貴様の悪行もここまでだ。正義の剣を、とくと見よ!」


 その剣技は、長年に渡り人間と戦ってきたラドラブライトが、始めて見る流派だった。カルドニーセは珍妙な構えをさらに変化させ、ゆっくりと剣を両手で握る。そのまま頭上に高々と剣を掲げ、彼はラドラブライトをにらんだまま静止した。

 ラドラブライトは待った。恐らく一子相伝いっしそうでんであろう、黒衣の勇者が振るう無敵の剣を。それは伝説に恥じぬ鋭さで、確実に自分の命を奪うだろう。その瞬間を焦れながら待つ彼は、愛しい者の名を心で呟いた。

 同じく唯一つの命を失ってさえ、二人は同じ場所へはいけないと、ラドラブライトには解っていたから。魔王が天国に行ける筈も無く、その存在すら信じていない。

 そっと眼をつぶる。まぶたの裏に、愛しいあの人を探す。だが、ぼんやりと浮かぶ懐かしい面影は、次第に鮮明に姿を変えてゆく。まだあどけなさを残す、無邪気で可憐な――

 馬鹿な、と呟いた瞬間、ラドラブライトははっきりとその者の声を聞いた。


「おじ様っ! 危ない!」


 不意に、かっと見開かれた視界に、気勢を叫んで飛翔するカルドニーセが飛び込んでくる。

 その時ラドラブライトの身体は、主の願いに反して躍動した。宙より襲い来るカルドニーセに対して、空気を押し退け右手をかざす。膨大な魔力の顕現けんげんが肉眼でハッキリと見える位、強力な障壁バリアが立ち塞がった。

 捨て身で飛び込んできたカルドニーセは、突如現れた障壁に弾かれ、入口の扉までスッ飛んでいった。その衝撃音に耳を塞ぐシトリを、ラドラブライトは呆然とした表情で振り返った。

 あの人の死を悔いて今、その罪を死であがなおうとした刹那。追憶に重なるシトリの声が、彼を生へと引き止めた。


「クッ、クソ……やるな、ラドラブライト! 俺の最大奥義を退けるとは!」


 カルドニーセは弱々しく立ち上がり、剣を構えようとして膝を付いた。しかしラドラブライトの眼には、その無様な姿は映っていない。

 ラドラブライトは半ば、正気を失っていた。待望の瞬間を、思いがけぬ自らの反撃でいっしたから。それでも平静を装って、カルドニーセに歩み寄りながら。絶望に塗り潰された心に、僅かに生じた……否、確かに気付いた感情を反芻はんすうする。

 そんな筈は無いと否定しながら。


「フッ……どうやらあの技を使うしかないようだな。流石と言っておこう、ラドラブライト」


 カルドニーセは苦しげに立ち上がると、再びゆらゆらと剣を構える。その膝は笑い、切っ先は震えていた。

 戸惑うラドラブライトはしかし、今は勇者との戦闘に意識を集中することにした。

 ここに至りようやく、大いなる疑念を抱くラドラブライト。眼前のカルドニーセなる、黒衣を継ぎし者を自称する男。彼は果たして、本当に伝説の英雄の末裔なのだろうか? と。現に今、咄嗟とっさ故に手加減出来なかったとは言え、一撃でもう立つのがやっと。


「あ、あの……おじ様、ひょっとしてあの方、実は……」


 シトリにもどうやら、ラドラブライトと同じ印象を抱かせるらしい。それでも念の為、シトリに再度下がるよう、今度は言葉ではっきり伝えると、ラドラブライトはカルドニーセに相対する。


「言っておくが、コイツを喰らって無事だった奴は居ないぜ……」


 もしや……いや、しかし……


「はぁぁぁぁぁ! 受けよっ! 我が剣、最大にして最強の奥義!」


 そう、もしかして……


「さらば魔王ラドラブライト! 冥府の死神にでも、己を倒した者の名を誇るがいい!」


 カルドニーセが再び地を蹴ろうと身を屈めた瞬間。ラドラブライトとシトリの疑念を確信へと変える者が、勢い良く扉を開け放った。


「カル~、おまたせっ! はぐれちゃってね、みちにまよっちゃったんだよ~! あれ? カル?」


 突如、冒険者の少女が飛び出して来た。舌足らずな口調の彼女は、目の前にラドラブライトが居るにも関わらず、呑気に周囲を見渡し相棒を探す。が、カルドニーセの姿は無い。それもその筈、黒衣を継ぎし者は今、彼女が開け放った扉によって、そのまま壁に叩き付けられていたから。


「……クリン! 手前ぇ、何しやがる! ここからが俺様の見せ場だってのによ!」

「あ、そんなトコにいたんだカル~! さがしたんだよ、ひとりでさみしかったんだから~」


 壁と扉の狭間はざまから這い出すと、カルドニーセは最後の力を振り絞って怒鳴った。そのまま、クリンと呼んだ少女に縋りつくように倒れ込む。

 最早誰の目にも、真実は明らかだった。否、真実がどうであるかは問題では無い。

 それが現実というもの。


「ごめんね、カル。でもだいじょうぶ、カルはいつでもかっこいいよ~」

「ゴホン! お嬢さん、彼は……もう戦闘不能で良いかね?」


 疲れた表情で、右手を伸べるラドラブライト。きょとんとした目でその手を見詰めるクリンは、思い出したように財布を取り出し……素直にその半分を差し出した。

 結局、カルドニーセが何者なのかは、遂に解らなかったが。少なくとも、伝説の黒衣の勇者のように、魔王を打ち倒す力がないことは伝わった。無邪気に手を振るクリンに背負われ、部屋を出て行く彼を、ラドラブライトは溜息で見送った。


「ビックリしましたわ。まるで本物の、物語に出てくる勇者かと思いましたもの……最初は」


 傍らのシトリは、半ばあきれつつも……いつも通り撃退されてゆく冒険者達を笑顔で見守っていた。

 彼が……カルドニーセが、真の勇者であったなら。自分とシトリ、両者に幸福が訪れたのではと、ラドラブライトは内心思う。自分は生と言う名の縛鎖を解かれ、シトリは生まれた場所へ帰れるのだから。

 そう思えばこそ、心から残念に思う反面……先程芽吹いた感情が、小さな小さなしこりとなってラドラブライトを苛んだ。

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