魔王と姫の教育係

定命ていめいの者よ、か弱くはかない者達よ……ん? 何だセレス君でしたか」


 重々しい扉の開く音に、立ち上がり掛けたラドラブライト。彼はしかし、相手が自分への挑戦者で無い事を知ると、再び深々と玉座へ身を投げ出した。


「すみません、伯爵。今日は暇そうですね」

「うん、ハンク達が頑張ってるみたいですから。シトリ姫も散歩に出掛けてしまいました」


 退屈そうに足を組み替え、ラドラブライトは溜息を一つ。


「では先程までは、シトリ姫はこちらにおいでだったのですね」


 セレスと呼ばれたホムンクルスの青年は、顎に手を当て思案をめぐらすと。ふむ、と小さく唸って記憶の糸を辿り、捜し人の行きそうな場所を思い起す。そのまま挨拶もそこそこに立ち去ろうとする彼を、ラドラブライトは退屈しのぎに呼び止めた。


「姫がまた何か、悪戯いたずらでもしましたか?」

「いいえ。今日の習い事がまだ、全部済んでいないのです」

「あんまり詰め込む必要はありませんよ。読み書きと数勘定が出来れば、特に困りはしま……」

「とんでもないです、伯爵。姫には一国の王女として、身に付ける作法やたしなみが山積みですよ」


 いつ勇者に助け出されて、元の暮らしに戻ってもいいように。

 ラドラブライトがセレスに教育係を命じてから、どれ程の月日が流れただろう。この広い城内で、唯一名を持つホムンクルスは、実に勤勉で誠実に、シトリ姫を一流の淑女レディに育て上げるべく奮闘していた。


「早いものですね。姫がこの城に来て、セレス君が世話をするようになって……もう十年以上」

「正確には十二年と百六十五日です、伯爵。姫がこの城にさらわれて来てから。では失礼します」


 追憶を懐かしむラドラブライトに、付き合う素振りを微塵も見せず、セレスは一礼すると踵を返した。この城の主を前にしても、全く物怖じせぬその態度。

 それもその筈、彼の主は実質、ラドラブライトでは無かったから。ラドラブライト自身、それを望んで許していたから。


「そんなに経ちますか……成程、似てくる訳です。そうですか、もうそんな昔の話になってしまいましたか……」


 永遠の時を生きる魔王にとって、それはまばたきする瞬間にも等しい時間。しかし今、ラドラブライトには重ねた年月に埋もれた過去が、酷く遠く懐かしく感じていた。

 訪れる冒険者も無く、戦いの喧騒も遥か下層に遠い午後。ラドラブライトは肘掛にもたれて瞳を閉じると、思い出にそっと触れてみる。それは、今も膿んだ心の傷となり、絶え間ない出血に未だ濡れていた。

 うとうとまどろむ魔王の思惟が、思い出と呼ぶには痛々しい過去へ沈んでゆく。


                  ※


「御疲れ様です伯爵、早速で恐縮ですが、少しお時間をいただけますか? まだ試作段階ながら、遂に完成しました」


 元より血の気の無い白面を、さらに青白く強張らせたラドラブライト。彼は玉座の間に戻るなり、抑揚に欠く少年の声に呼び止められた。振り返ればそこには、つい先日この城へ強引に押し掛けて来た錬金術師アルケミストの姿。


「筋力も魔力もこれは人間並ですが、次はもっと質の高いホムンクルスを作れましょう」


 ただ呆然と立ち尽くすラドラブライトにも構わず、少年は自分の作品を連れ、小難しい錬金学の専門用語を呟き出した。

 さる大国より異端児扱いされて放逐された、禁忌の錬金術師バイロン。

 ラドラブライトがその名前を、ぼんやりと思い出した頃、少年はやっと喋るのを止める。


「見た目はインパクトを重視しまして……おや? 伯爵……それ、どうされたのですか?」


 バイロンに指摘されて始めて、ラドラブライトは気付いた。自ら両手で胸に、赤子を抱えている事を。その顔を恐る恐る覗き込むと、不思議そうにじっと見詰める大きな瞳が、あどけない笑みでまたたいた。


「これは……この子は、あの人の娘です。トリヒルの姫……さらって来て、しまい、ました」

「これはこれは……素晴らしいっ! 流石は伯爵、魔王ラドラブライト! こいつは素敵です、面白くなって来ました!」


 自分で口にして初めて、己のした事の重大さに驚くラドラブライト。

 今の今まで彼は、自分の犯した大罪に慄き、腕の中の小さな命を――トリヒルの王女、シトリ姫の存在を忘れていた。

 そんなラドラブライトに構わず、バイロンは足踏みしてはしゃぎ回ると。一人大声で笑いながら、眼前の魔王を崇め讃えた。傍らに控える、研究の成果物も忘れて。


「伯爵、直ぐにホムンクルスを量産します。嗚呼、楽しみですね……この城の迷宮化も急がねば。とびきりのダンジョンを構築しましょう!」

「その、待ってください……博士、バイロン博士。その、僕は……」

「騎士や剣士、神官に魔導士……大勢来るでしょう。その子を奪い返しに……クククッ」

「そ、そうですよね……僕はこの子をさらったばかりか、あの人を……あっ、博士」


 歓声を上げて子供の様に、バイロンは喜々として玉座の間を出てゆく。恐らくは、自分で勝手に陣取り、研究室に改造してしまったフロアに戻るのだろう。

 自分とは真逆の高揚感に盛り上がる彼を、ラドラブライトはただ、呆然と見送る他無かった。


「これは困りました、どうしましょう。僕はどうしたら」


 途方に暮れてうなだれれば、その悲観が手の内に浸透してゆく。ラドラブライトの腕の中で、シトリの笑みは次第に翳り、表情が強張っていった。遂に彼女の不安は爆発し、火が付いたように激しく泣き出してしまった。


「嗚呼、ど、どうすれば……おお、よしよし。参りましたね……泣きたいのはこっちの方なんですけど――ん? 君は?」


 いつも憧れの眼差しで見詰めていた、あの人の様に見よう見真似で。不器用にシトリをあやすラドラブライトは、先程から無言でたたずむ人影に気付いた。

 目立つ銀髪に薄紫色の肌。先程バイロンに連れて来られたホムンクルスは、創造主に忘れられたまま、ずっとその場に立ち尽くしている。


「私は父の、バイロン博士の作ったホムンクルスです」

「あ、ああ、そうでしたね……うん。名前は?」

「名前はありません。私は試作品ですので。多分、量産されても皆、名前は付けられないと思います。必要がないので」

「それは……少し不便ですね。っと、ああ、よしよし、いい子だから泣き止んでください。お願いですから」


 会話が続かず、玉座の間にシトリの泣き声だけが響く。いかに超常の魔力を身にまとう、恐怖の魔王ラドラブライトと言えども……泣く子に対しては、ただただ無力だった。

 その首をねるとか心臓をえぐる以外に、泣き止ます方法が思いつかない。

 そしてそれが選べぬ選択だと、彼の深い悲しみが告げていた。


「――ホムンクルスというのは、子守はできるのでしょうか?」

「はあ、やってみない事には……」

「ではお願いできますか? どうやら僕では無理みたいです……こう見えても僕は、本来なら子供を泣かせる立場なので」

「そのようですね、伯爵。では姫をお預かりします。必要な物は全て、博士に都合して貰いますのでご安心を」


 ラドラブライトの手の内から、危なげなくシトリを受け取ると。とりあえず精製時に叩き込まれた知識を総動員して、ホムンクルスの青年は子守に従事する事となった。

 無論、彼にも自信はないだろうが……が、剣や魔法で戦うよりも、試作型の脆弱な個体には、向いてるとも思える。


「では頼みます、セレス君。僕は少し、一人で泣きますから」

「は? あ、あの、伯爵……今、何と仰いました?」

「君の名前です、セレス君。今日からシトリ姫に仕えて、良く面倒を見てあげて下さい」

「いえ、その……はい、おおせのままに」


 恐怖の魔王は今、すすけた背中を向けて玉座に、倒れこむように顔を伏せた。


                  ※


 戦えないホムンクルスに名を与え、逃げるようにシトリを押し付けて。二人を玉座の間から締め出し、一人で流した涙を今でも覚えている。残虐非道の魔王が、まさか泣けるとは自分でも思ってもみなかった。

 思い出す今はしかし、零れる涙も枯れ果てて……ただ死を願い、勇者を待ち受ける日々。


「おじ様! こちらにはもう、セレスが来ました?」


 物思いにふけっていたラドラブライトは、不意にいつもの明るい声で現実に戻された。目を開ければそこには、肩で呼吸するシトリの姿。溌溂はつらつとした笑顔で、足取りも軽く玉座へと駆けて来る。


「先程来ましたよ……姫を探していたみたいですが。今日は絵画ですか? それともテーブルマナー?」

「楽器を習った方がいい、って……でもわたくし、歌の方が好きですわ。ハンクに教えて貰いましたの」


 そう言うとシトリは、玉座の肘掛に飛び乗り腰掛けると、楽しそうに魔物達の歌を歌い出した。その歌詞の内容の、半分も理解せずに。恐らくセレスが聞いたら、余りに粗野で下品なその言葉に、卒倒してしまうだろう。

 調子外れの、しかし良く弾む歌声。それは、聞き付けたセレスがすっ飛んで来るまでの間、傷心のラドラブライトを優しく慰め苛んだ。顔立ちだけでなくその声までもが、忘れられぬ喪失感を呼び起こすから。

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