第8話 新しき世界 -さよならストロベリーー 後編 (2)
くれぐれも不審者に気を付けて欲しいとドライバーに伝えて車を降りた。
「佐和子ちゃん、怪我はない?」
建部女史がリビングの扉を開けると、夜食の準備をしている佐和子嬢がいた。いつものように、白のブラウスに紺のスカート。その上にレース付きのエプロンをして立ち働いていた。
敬礼している婦人警官と目があった。
「いったい何があったのか教えくれ。佐和子嬢もいったん手を休めて話を聞かせて欲しい」
はい、と佐和子嬢は箸を並べ終えると、わたしのそばへやってきた。
「夜食の材料が足りなかったので、近くのお店まで出かけたんです」
佐和子嬢はすまなそうにうつむくと、組み合わせた指に視線を落とした。
「それで買い物帰りに、突然背中を押されて転んだだけなんです。すみません、おお事になって総理のお仕事の邪魔に……」
彼女の手の甲と膝小僧にはバンソーコーが貼られてあった。
「だれが佐和子ちゃんにそんなことをしたの」
いきり立つ建部女史にベテランとみえる年齢層の女性警官が、背筋をぴんと伸ばしたまま答えた。
「もっか防犯カメラの映像を解析して犯人の足取りを追跡調査しています」
「ケガも大したことなかったんです、ご迷惑おかけしました」
佐和子嬢は青白い顔でわたしたちに詫びた。
「謝らなくていいから。総理、警備員を入り口門扉に二名配置して、よろしいですよね!?」
もちろんだ。
「……すまない、もっと配慮すべきだった。なんなら、しばらく仕事を休んでも構わないよ」
わたしが声をかけると、彼女は思い切り首を左右にふった。
「へいきです! 仕事を続けさせてください。私、戻るところが……それに、家族が」
最後は消え入りそうな声になった。わたしと女史は目配せしあった。
佐和子嬢は施設出身で、近隣の市の施設にはまだ小さい妹たちがる。いぜん、幼い年子の妹さんたちの写真を見せてもらったことがある。
当惑するわたしたちの横をオトラが行きすぎ、小さくなってうつむいたままの佐和子嬢の前に来た。
「佐和子ちゃん」
言うか言わないかのうちに、オトラはいきなり佐和子嬢を抱きしめた。
「ちょっ……オトラ!」
引きはなそうとする建部女史など無視して、オトラは佐和子嬢をがっしりと両の腕のなかに入れている。佐和子嬢本人は目をぱちくりさせたかと思うと、急激に赤くなった。
「離すんだ、セクハラだぞ、セクハラ!」
「ふるえてるんです、佐和子ちゃん。さっきからずっと。だから抱きしめてあげないと!」
いやいや、なにかが違うぞ、オトラ。
「怖かったんだね……大丈夫、もう大丈夫。必ずオレが守るよ」
そう言って、頭をだきよせ髪を撫でた。建部女史は爆発寸前だ。どっちを止めるべきか戸惑う。
と、真っ赤になっていた佐和子嬢の目から涙が流れ落ちた。
いちどあふれると、涙は止めどなく流れ続け小さくしゃくりあげた。
「……怖かったんだね、そうだよね。怪我の大小は関係ない、怖かったんだよね」
建部女史が佐和子嬢を背中から抱いて優しく声をかけた。
テーブルのうえには、わたしがリクエストした茸の炒め煮が小鉢に盛られ用意されていた。
これを作るために買い物に出かけたのか。わたしのわがままのせいで危険な目にあわせてしまった。
女性警官が目を丸くしているけれど、すまない。わたしたちは、小さな家族のようになっているようだ。
事件の翌日から、門扉には二名の警備員が二十四時間常駐することになった。
「ものものしいねえ」
朝のコーヒーを飲みながら新聞をめくる。おお、中川内閣の支持率、低空飛行だ。いつ墜落してもおかしくない。
「悪いね。きみまで不自由させて……来週の討論会が終わったら、妹さんたちに会いに行けるように手配するから」
「はい」
佐和子嬢は、オトラの前にプロテイン飲料のおかわりを置くと、頬を桜色に染めてキッチンへ早足で戻っていった。
そのようすを見送って、わたしと女史は無言で見つめあい会話する。
どうする? お嬢ちゃんはオトラを憎からず思っているようだぞ。
たしかに見てくれは悪くない。いきなり抱きしめられたら初うぶなお嬢ちゃんなど、イチコロだろう。もっとも、いつも少しばかり行きすぎた感じがするが。服装も髪型も性格も。
「ともかく、今日をのりこえましょう」
ざっくりまとめて建部女史が椅子から立つ。本日はパンツスーツ、髪は後ろにまとめてアップしてある。決まってますよ、姐さん。一息でプロテインを飲みほしたオトラのネクタイは濃緑のペイズリー柄だけれど。
三日の休みがほしい……きみを白い箱のなかから、病室から連れ出したい。
きみの好きな場所に行こう。二人でゆっくりすごそう。海辺の旅館がいい。
どうか、きみの時間いのちをわたしと分け合ってください。
「討論会が終わったら、建部くんも休みを取ったらいい。ずっと働き詰めだ」
「かんたんに休みが取れると思ってまして? そのお言葉をそっくりそのまま、総理にお返ししますわ」
言われてしまった。肩から力を抜いて座席に深く腰かける。シートにもたれて、リアウインドウから後ろに飛び去る空をみあげる。
「衝突の事実をわたしたちより何年も前に知らされた山田先生のご心労は、どれほどだったろう」
今朝は雲ひとつない秋晴れだ。あのずっと遠くに巨大な彗星があって、宇宙空間を地球目指して飛んでいる。まるで意地悪な誰かが地球めがけて投げつけたみたいじゃないか。
「建部くんは山田先生の次に、わたしのところで気が安まらないだろう、すまない」
「仕事ですから。すでにこれが日常です」
わたしなど、山田前総理が必死の思いでつくった道筋をなぞっているだけで。あの禿げ頭の小柄な『二枚舌の狸おやじ』と呼ばれた山田先生の苦労に比べたら、なんでもない。
世界は終わる。
その事実はまだ何年かは隠すことができただろう。でもそうしなかった。
「中途半端な猶予期間モラトリアムとか言われてるんだろうな」
「すでにネットの掲示板は炎上しています。我が国は大国のいいなりだと」
「言わせておこう。いずれネットも使えなくなる」
暴挙と思われるだろう。ごく一部の運用を残し、すでに日常生活に深く根ざしたネットが廃止になるのだから。
「ゆるやかに繋がってみよう、というこちらの意図は伝わらないかな」
何もかも、忙しくすぎる日々からの解放は第一義なのだ。
終わったら、旅に出よう。各駅停車で……流れる風景をゆっくりながめて。
あの日のように電車に乗ろうよ、きみ。
ハウリングの音が耳をつんざいた。
「国はどんな責任を取ってくれるんですか」
それで目が覚めた。なんてことだこんな大切な場面で寝ていた……いや、ちがうようだ。さっきまであんなに寒かったのに、今は背中を汗が落ちていくのを感じる。なぜだ。
討議の場になった会場は、外観こそ古めかしい赤れんがだが内部は改築されていて最新の空調設備が入れられているはずだ。
「個人の財産を国が取りあげて、我々に苦労を強いるんですか」
学生だろうか。起立したチェックのシャツの青年がマイクを握り強い口調で質問していた。
わたしが動かず座ったままだから、奇妙な間が生まれる。となりに座る財務省の事務官がわたしを不安げに見つめている。
あ、あ。マイクを掴まないと。なぜか視界が歪んで伸ばした手が水差しを倒してしまう。
白いテーブルクロスが眩しく感じて目を押さえた。手も痺れている。
「どうしたんですか、真っ青ですよ」
小声でささやき、タオルを持って腰を屈めた建部女史がわたしのもとへきて濡れたスーツを手早く拭いた。わからない、汗が出るんだ。吐き気はないが、体を圧迫されているような具合の悪さがあるんだ。ポケットからハンカチを取り出すと、小さなメモがぽとりと落ちた。拾い上げて書かれた文字を目にして息を飲む。
「官邸へ連絡を、佐和子嬢を保護しろ」
渡したメモに目を通して建部女史が固まった。
「そんな、まず病院へ、いえ、ちがう。何から……」
数行のメモには、いくつものやるべきことが書かれてあった。なんてことだ。
「オトラに、オトラを動かせ」
建部はきっぱりとうなずくと、舞台袖へ駆け戻った。
「あんたがた、政治家の年寄りたちは終わりの日までにくたばっているから関係ないだろうが、今の子どもたちは、俺たちみたな歳の奴はどうすればいいんだ。ただ死ぬのをまてというのか」
わたしが答えないことに業を煮やした青年が叫んだ。わたしは歯を食いしばって立ちあがった。足がふるえる。力の入り具合が分からない。でも、答えなければ。演台までの移動が恐ろしく遠く感じる。
『ごめんなさい』
佐和子嬢のメモにはそう書かれてあった。
『妹たちを殺すとおどされました』
いつもわたしは思慮が足りない。
『総理の食事に毒を入れろと』
だからか。いまごろ効いてくるとは遅効性のものを用意したんだな、敵は。舞台の裏側が騒がしくなってきた。建部が連絡をしているのだ。大丈夫、彼女は優秀だ。
演台までくると、下のブースにオトラがいた。目を見開き口をひき結び、パソコンのモニターを見ている。
ソートしろ、この中に佐和子ちゃんを襲った奴がいる。爆弾を持って。
演台のステップへと体を持ちあげ、マイクの前に立つ。ひどい顔になっていないだろうか。すでに視界は狭くなっている。
「その日まで生きている自信があるとは、立派なものです……」
マイクをもった青年が鼻白み、場内がざわついた。
「たしかに、わたしがその日まで生きている確率はあなたより、かなり低い」
演台のふちを強くつかまないと、体がまえに倒れそうだ。さっきまでの汗が引いて体が冷えてきた。
「わたしは、思いました。我々は平等になったのだ。彗星衝突により地球が終わる運命の日を知って。富める者も貧しき者も、健やかな者も、その日にはすべてが終わるのだと。それは決して幸運なことではないでしょう。不幸な巡り会わせとしかいいようがない」
だれだって、手折るように命を刈られたくはない。けれど、そんな出来事はごく身近にもあるのだ。まだ君が知らないだけで……。
不意に大切な人を連れ去られることもあるのだ。
汗が演台に落ちた。いや、また涙がわたしの感情を無視して流れ出したのだ。
「わたしはは皆さんが望むとおりに、命を閉じるための施設を作ろう、安らかに終わらせるための薬を開発しよう……この先のことを考えれば、より絶望は色濃くなるだけだろう。けれど……死ぬために生きて欲しくはない。生きてほしい、あなたの人生を」
声に張りがないのが自分でもわかる。けれど、もう少しだけだ。
オトラが顔をあげて会場をぐるりと見渡し、体をぴたりと止め一点を見据えたかと思うと、ブースの椅子の背を蹴って高く飛んだ。
「みなさん、伏せて!!」
力の限り叫んだら、演台から体が横倒しに落ちた。オトラが会場中央付近で線の細い男につかみかかり、何かを奪った。体に抱え込んでオトラが叫んだ。
「逃げろ、伏せろ!!」
一呼吸後に爆発が会場を揺らした。
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