第5話 新しき世界 -さよならストロベリーー 前編

 はやく死にたい。


『早まってはいけません。確かに地球の最後の日は決まりましたがまだ六十年の猶予があります』

 死にたい、きみのいない人生なんて意味がない。


『死を選ぶことは賢明ではありません。世界はこれから変わっていくのです。かつて実現しえなかった平等な社会です』


 全財産なげうってでも助けたかった。わたしの無能さをわたしは恨む。


『貨幣を廃止し、すべてのものを地球上に住む全員で平等に分けましょう。わたしたちはすでに理解したはずです。物質的な豊かさが幸福につながるわけではないということに』


 なにもいらない。きみさえいたなら……。


 強い照明を浴びながら何台ものカメラのまえで弁舌をふるう。全世界の首脳陣たちとの話し合いの結果を、しかも出席していたのは前任者という締まらない結果を。

 まったく知らない場所で知らないうちに決められたことを、あたかも自分の思いであるがごとく、ただ話す。

 言葉は空虚だ。情報を伝えるのなら肉声……肉体さえ必要がないだろう。


「ありがとうございましたー!」

 ディレクターの声にアシスタントがわたしに駆け寄りマイクを外す。いならぶカメラの後ろで待っていた建部たけべゆかり女史と緒虎オトラのところへ戻る。

「中川総理、お疲れ様でした。読み違えもなく、たいへんよいスピーチでした」

 建部が冷えたペットボトルのお茶を差し出す。うなじに当てて熱くなった頭を冷やした。

「きみの書いた原稿は完璧だ」

 女史は、謙遜などすることなく、うなずく。

「良かったです! これでまた富裕ブルジョア層から嫌われますね! 支持率低下まちがいなし」

 若いオトラが直立の姿勢で元気よく声をはりあげる。

「……ああ」

「オトラ、ネクタイが曲がってる」

 寸分の隙もなくタイトスカートのスーツを身に付けている女史の指摘に、オトラは慌ててネクタイを直そうとするが、ぎこちなくて目もあてられない。よく見ると、ワイシャツのボタンは掛け違えているし、靴下は左右で色が微妙に違う。

「どうにかならないのか」

「総理の希望にそえるのは、残念ながらオトラのみです」

 すげないセリフを吐き、長い髪をなびかせる建部女史を先頭に、テレビ局を後にする。エレベーターで地下に降りると、駐車場では磨かれた黒塗りのセダンが待っている。

 運転手が開けてくれたドアからわたしを挟むようにして右に女史、左にオトラが乗ると、ネオハイブリッドカーは音も静かにスロープを登り、夜の街に躍り出る。

 深夜にもかかわらず、高層ビルのほとんどには灯りがついている。街灯やネオン、イルミネーションはきらめき、昼のようだ。終電が過ぎても街には人があふれ、電光掲示板に映し出される最新のニュースを立ち止まってみている。ついさっき録画したわたしのスピーチだ。

 無尽蔵と思えるほどエネルギーを消費し、金があれば何でも手にはいる。人の心でさえも。

「腹がすいたな。コンビニに寄ってくれないか? 甘いものが食べたい」

「ご自身で行かれるつもりですか? 呆れた。オトラ、次のコンビニの前で下すわ。三つ先の信号を操作してそこでピックアップするから」

「イェッサー!」

 狭い空間で敬礼までする。うるさい。

「いつものヤツで、いいの?」

 うなずくと、オトラは車が路肩に寄せられると止まるか止まらないかのうちに、ドアを開けてするりと外へと降りて行った。

「こんなところは使えるヤツだと思う」

「そうですね。これをどうぞ」

 建部から大判のハンカチが渡された。気づくと顎にしずくが出来て襟が濡れていた。ああ、また涙が流れていたのか。

「すまない」

 悲しいわけじゃない。涙はかってに出るのだ。こんなふうに仕事を終えた時や、気が抜けた時に。

 信号をひとつふたつと数える。教会のまえで行列に並ぶ人が見えた。日付が変わろうとしているのに、杖をついた腰の曲がった老人や、小さな子どもの手を引いた女性もいる。炊き出しか何かの無料配布があるのだろう。

 華やかな通りの裏には闇がある。有り余る金をもてあます層の対極に今日の食事に事欠く者もいる。

 もう少し、もう少しだけ待っていてくれ。福祉から取りこぼされたあなたたちにこそ幸せになってほしい。住む場所、食べることに困らない、貧困の連鎖を断ち切る新しい世界が来るから、かならず実現させるから。

 それが実現したなら、わたしは……。

「みっつめ」

 建部女史がタブレットを操作して青信号をわずかに切りあげ黄色から赤信号へと変わらせる。歩道を見るとレジ袋をぶら下げたオトラが、まるでスキップでもしているかのような走り方で車と並走している。

 止まる前に窓をわずかに下ろす。オトラがチョコレートをその隙間から滑りこませた、その時。

「伏せて!」

 女史が体当たりしてきた。有無をいわさず背中に乗った女史は窓の開閉ボタンを素早く操作した。

「オトラ、アクション!」

 襟につけたワイヤレスマイクから指示を飛ばす。

「取り急ぎ官邸へ」

 はい、と運転手は答え車は加速する。

 女史がもとの姿勢に戻り、チョコレートを拾ってリアウインドウからオトラの姿を探すと、ふわりと空(くう)を舞った腕が、銃を押さえて暴漢を投げ飛ばしている場面だった。後方からパトカーの赤い回転灯が見えた。

 あまりに見事で、映画のロケのようだ。

「……ところでオトラはどうやって帰ってくるんだ」

「ご心配なく。警察車両に言づけました」

 何事もなかったかのように、建部女史は外部用キーボードを叩いた。

「それよりも」

 それよりも?

「発表以来、自殺者が急増しています。ことに鉄道での自死が問題です。正常な運行がままならず、処理にあたる職員の心労はすでに限界」

「気の早い連中がいるものだな。こちらで押さえている清掃ロボットを貸与できないか?」

「各社に五体……少ないですね、マックス八体手配。騒乱が収まることがなによりなのですが」

 鉄道自殺は遠慮したい。確実に死ねるかも知れないが周囲へ手間をかける。

「いわゆる『名所』での件数も増えています。それから海や山での行方不明者の捜索に警察や消防から人手が取られて日常業務に支障が」

 みんな気楽に死んでくれるものだ。

「いっそ、回収も捜索もしなければいいんじゃないか? 今はある意味、非常時だ。死ぬのは勝手だが後始末はしないと宣言したらどうだろう? 未回収の死体の上に飛び降りたかったらご自由に、とか」

 建部が眉間にしわを寄せてにらんできた。はい、不採用。けれど、いずれは作る必要が生じるだろう。

「それから」

 チョコレートの銀紙をむくと苺の香りがした。

「ネットに総理の殺害予告の書き込みが」

 それは、それは。願ったりかなったり。板チョコの一列を歯で折る。

「で、何件目かな」

「……六件目ですね。さっきオトラが捕縛したのでマイナス一件でしょうか。現在、所轄の警察で取り調べ中」

 口の中で融けていくチョコレートの甘味が身体中にしみわたる。

「既得権を手放すのは、それほどまでにイヤか」

 殺害予告には、嘘もあるだろうが金持ち連中が誰ぞ雇って、わたしを消したいと思っているのも事実だ。いまのところ成功してはいなが。いつになったら、成功してくれるんだろうか。

 苺の粒を舌先で確かめて噛むと、さらに苺らしい香りが鼻腔を抜けていく。


 ーーカカオ豆の農場には、チョコレートを食べたことがないっていう子どもたちが働ているそうよ。原料を作っていても、それが何になるのか知らないの。ましてや食べたこともない。わたしたちは、こんなにも簡単に手に入るのにね。。

 世界が平等になったなら、その子たちにもチョコレートを食べさせてあげられるのかしら……。


「明日は、各省庁との調整があります」生まれ変わるために、いまは全力を尽くす時だ。

「拭いてください」

 ああ、また涙が流れていたのか。

 車は官邸に到着した。


 今さら思うのだが、別にわたしでなくともよかったはずだ。

 前山田総理大臣が激務から健康を害され、お鉢が回ってきたけれど、適任者は他にもいた。

 総理の椅子に座りたい奴などいくらでもいる。

 ただし、今のような状況でなければの話だ。


「ただいま戻りました!」

 官邸のリビングで夜食をとるわたしと建部のまえに、オトラは颯爽と……本人はそのつもりなのだろう、右手を高くあげてあらわれた。

「スーツの肩……血が!」

 住み込みで働いている、佐和子嬢がオトラを見て両手で口を押さえた。

「あ、オレはケガしてないっす」

 ということは相手の血か。

「と、とりあえず上着をお預かりしますから」

「上から下までクリーニングにまわして。替えはまだ何着か支給されているから」

 建部女史が言い終わらないうちにオトラが服を脱ぎ出す。上着はおろかワイシャツを脱いでベルトに手をかけると、佐和子嬢があわてて後ろを向いてしまった。

「ここで脱がない!」

 半裸のオトラから視線を外さずに、建部女史が一喝する。

「え?」

「部屋で着替えなさい」

 ああ、と今さら理解したような声をあげてオトラがあてがわれている部屋へ退出した。

「ほんとうに、どうにかならんか?」

「あれで良いとおっしゃったのは総理ですよ」

 味噌焼きおにぎりの残りを口に放り込んでお茶を飲む。

「自分の警護は必要最小限、腕のたつものが一人いればいい、とおっしゃって周囲の反対を押しきったのはどなたですか。一国の総理なのに。あげく今は三人で官邸に合宿状態! 学生の部活か!!」

 連日のハードスケジュールに建部が吠えた。

「美人が台無しになるよ」

「明日のスピーチ原稿書きますから」

 建部女史はわたしを射殺さんばかりの視線でひとにらみして出ていった。

 オトラを選んだのも総理を引き受けたのも自己責任、文句は寝ていいやがれ、と。

 今夜のお茶はことのほか苦い。

「若い娘さんになのに、毎晩遅くまですまないね、わたしも休むよ」

 眠そうに目をしょぼつかせる、佐和子嬢のお休みなさいませに送られて寝室へ下がる。

 足元を見た拍子に滴が大理石の床に落ちた。


 自宅へは帰りたくない。

 きみがいないことを思い知らされるだけだから。

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