第4話 できそこないの世界でも 後編
荷物を受け取りにいった日、ぼくはえんじゅさんに最後の手紙を書いた。
「なんて書いたんだ」
「きみのお話はいつも楽しかった。一年間ありがとう、写真は返します。ぼくが送った写真は捨ててください」
「それでよかったのか?」
ぼくはうなずいて、ウナギの蒲焼きと夏野菜がのった皿を槇に手渡した。
河川清掃から一週間後の昼に、女子が主導のバーベキューが始まった。カンカン照りの空のした、河原には男子によるコンロが設営され、捕れたてのウナギは女子が捌いて手際よく次々焼かれている。
「ちなみに拓海はどんな写真を送ったんだ」
「家の縁側で撮ったやつ。ミケを抱っこして」
爺くさいと槇がくすっと笑った。その顔を見ていて、すまない気持ちになる。ほんとの半分も打ち明けていないから。
……ぼくは医者になる気はありません。これからの医師の役目は人々の看取りというか安楽死が中心になるでしょう。ぼくには耐えられそうもないです。えんじゅさんの足が少しでもよくなって、自由に踊れる日が来ることをお祈りします。
これでおしまい。えんじゅさんの存在が嘘でも本当でも、もとより住む世界が違う。だから、これでいいんだ。
日除けのテントの下にいるせいもあるかも知れないけど、槇の顔色は夏の盛りなのに、今日も白く見えた。折りたたみの椅子に座ったままで、誰かがすすめないと何も食べずに終わってしまいそうだ。
「マキ、たくさん食べてね。拓海もね」
コンロのそばで、調理しながら味見と称して箸を休めない女子どもは、今日は先日と打って変わってとても優しい。現金なものだよ。
「肉を持ってきたのは、なによりだったな拓海」
帰ってきた父さんが、思ったよりたくさんの肉のクーポンをもらってきたから、こっちにも持ってこられた。ふん、と鼻をならしてウナギにかぶりつく。革の部分がゼラチン質で肉厚でそのくせ身はふわっと口の中でとろける。女子が雑に作ったのに甘じょっばい味がなんともいえず、ご飯がほしくてたまらなくなる。
「昔は天然ウナギって、かなりな高級食材だったはずだよ」
槇の言葉に素直にうなずける美味さだ。なのに槇は料理に手を付けない。受け取った皿を両手で持って、ぼんやりと、河原ではしゃぐクラスメイトやお目付け役で呼ばれた担任の伊東とか、誰とはなしに見ている。
「槇、もしかして具合悪いのか。帰るんなら送ってくけど」
「……夏休みも終わりだし、みんなといたい。帰りたくないなあ」
なんだかようすがおかしい。心ここにあらず?
「飲み物、何か持ってこようか。麦茶と紫蘇ジュースがあったけど」
槇はゆっくりと首を巡らせぼくを見た。
「ん、麦茶がいいかな」
話す速度まで、どこか間延びしているように聞こえる。
「わかった、取ってくるから」
ぼくが麦茶を貰いに立ちあがったとき、土手の上から声がした。
「拓海! 手紙だよ」
見ると、自転車を押して森さんが河原へと下りてきた。
「珍しく、速達だぞ」
どきん、とした。もしかして、えんじゅさんからの怒りの返信だろうか。ズタズタに引き裂いたぼくの写真を送り付けてきたのかも。はらはらするぼくの前で例によって、もったいつけて森さんが鞄の底を探っている時に、背後で悲鳴が聞こえた。
「槇!」
驚き振り返ると、槇が椅子から体を投げ出すようにして川原に倒れていた。近くにいたクラスメイトがあわてて抱き起こそうとする。
「待て、うかつにゆするな」
駆けつけた先生が、倒れた槇の呼吸と心音を確かめる。
「マキ、マキ!」
耳元で叫ぶ先生の大声にも反応しない。
駆け寄って膝をつき、ぼくは槇の顔をのぞきこむ。まるで紙のように白くなって気を失ってた。心臓は爆発しそうなほど鼓動を打つ。真夏の日差しに焼かれてるように熱いはずなのに体から熱が引けていくいく。冷たい汗が後頭部に吹き出す。
「AED(自動体外式除細動器)は?」
森さんが尋ねると、先生は自分の自転車を指さした。素早く動いた森さんが荷台の箱から赤いバッグに入ったAEDを持って駆け戻り先生に手渡し、そのまま今度は自分の自転車へと戻っていった。
「拓海、さがって」
よろけるようにして、ぼくは先生に場所を譲った。
渡されたAEDのケースを先生は手早く開け、準備を始めた。二枚のパッドを確かめ、槇のシャツをたくし上げた。
とたんに、周りにいたクラスメイトが息を飲んだ。
槇の胸と腹には大きな手術の痕があった。先生はパッドをそれぞれの位置に貼り、機械からのガイダンスを確かめた。
「はなれて!」
みんな反射的に数歩後ずさる。数拍おいて電流が流れた槇の体が一瞬持ちあがった。
「救急車、いま来ます。心臓と呼吸は」
森さんが無線のレシーバーを手にしていた。無線機が自転車に積んであったなんて知らなかった。
「戻りました」
先生が答えると、手をとりあって固まっていた女子が泣きだした。そのまわりを男子がオロオロと歩き回る。
「槇くん、槇光(まきひかり)くんですね? ご自宅へは局から電話して特別車両で迎えを出しますから」
森さんは自転車を置いたままで土手をかけあがった。
「槇、槇!!」
ぼくが叫ぶと、槇は少しだけ目を開けた。誰かから渡されたバスタオルを槇の体にかけた。そうしても、さっき目にした傷跡はぼくの脳裏に焼き付き消えなかった。
槇の唇がかすかに動き、誰かの名前を呼んだような気がした。反射的に握った槇の手は水に浸したように冷たかった。槇はぼくの指先を力なく握って、また目を閉じた。
森さんが道で帽子を大きく振り、救急車を誘導していた。
サイレンの音が山にこだました。
新学期は始まったけど、槇の姿はないままで十日間が過ぎた。
ぼくは区立病院まで行くバスに乗っている。
あれから、みんな口にはしないけど、たぶんいろいろ考えている。
ふだん半ば冗談気味に一日に一回は叫んでいた、『どうせ死ぬんだし』の言葉も耳にしない。みんな信じて疑わなかった。ぼくらは、六十五歳になる四十八年後に全員死ぬんだって。
でも違っていた。気づいたんだ。
死は、その日ではなく……その前、もしかして今日にも訪れるかも知れないことに。
バスが走る幹線ぞいは、家が多くて人の暮らしが感じられる。崩れた廃屋は目にしない。ただ、空き地に太陽光発電のパネルが設営されているのは、家のあたりとあまり違わない。
小さい子を時おり見かけるのは、小学校が区の中心にしかなくて、少ないなりに通う子がいるからだろう。
放課後、担任の伊東から伝えられたのは槇のことだった。
だいぶ良くなった、だから会いに来てほしい……槇からのお願いだった。
「明日は休んでいいから、顔を見てきてくれないか」
そういって、バスの乗車券をくれた。
区立病院までは駅からバスで一時間くらいかかる。
バス停で降りたのは、ぼくだけだった。昼過ぎの病院は静かだった。広い敷地に外来と入院用の白い病棟が東側に、反対の西側にはアースカラーの緩和ケア病棟。
中央のエントランスから建物に入ると消毒薬の匂いがして、吹き抜けの天上には青空が見えた。午後の診察までに間があるからだろうけれど、人影がまばらだ。受付で槇の病室を確かめてもらった。二階、二病棟。案内板に従って照明が消された薄暗く長い廊下を歩いた。
第一内科の前の椅子には、午後イチの患者さんだろうか。小さな子どもを膝に抱いた女性が座っていた。
病気なのかな……それは、どっちなんだろう。母親か、子どもか。
思わず見つめていると、肩を叩かれて心臓が縮みあがった。
「よっ」
あ、あとぼくは息を吐いた。パジャマを着た槇が、点滴のスタンドに手を添えて立っていた。
「ビ、ビビッたぁ」
まえより顔色がよくなった槇がそこにいた。もっとも、点滴を挿した手首は骨が浮き上がっているけど。
「わざわざ、ありがとう。この間はビックリさせてゴメン。貧血起こして」
貧血で心臓や呼吸は止まらないだろう、と言いたかったけど黙った。なにか話すと泣きそうだったから。奥歯をかみしめて明るく笑う槇から目をそらした。
槇は無言で立ち尽くす、ぼくの手首を掴んで中庭のベンチに案内してくれた。今日も槇の手は冷たかった。
中庭は大きな木が数本植えられていて、その下にはベンチが置かれていた。繁った葉がそよ風に揺らいでいる。日差しさえ避ければ、じゅうぶんに涼しくて快適な季節に変わってきた。ぼくらはベンチに並んで腰かけた。
「もうだいぶいいんだ。一月くらいしたら、退院するから心配いらない」
「心配いらないって……!」
「ほんと、たいしたことない。来月の適性試験も受けるし年末には旅行する」
静かに話す槇に、おもわず咬みつく。
「何いってんだよ! そんな体で、仕事も旅行も……」
目に焼き付いている、槇の体の傷は病気が決して軽いものではないと教えていた。
「無理だって? 病人は大人しく寝ていろって? オレはまだ緩和ケアは受けたくないよ」
槇はまっすぐな瞳でぼくを見た。
「オレは死ぬために生きない。生きるために、生きる」
……我々は平等になったのだ。彗星衝突により地球が終わる運命の日を知って。富める者も貧しき者も、健やかな者も、その日にはすべてが終わる。
私は皆さんが望むとおりに、命を閉じるための施設を作ろう、安らかに終わらせるための薬を開発しよう……けれど……。
「『生きてほしい』」
ぼくの独り言に、槇が目を見開いた。
「あのとき、首相が言っていた。小さかったから、難しいことは分からなかったけど。それだけは分かった」
死ぬな、と首相は語った。まるで隣に座る友人に語りかけるように。若白髪の、ナカガワ首相の半泣きになった顔。スピーチの後半は嗚咽をこらえながらのものになった。
「オレが電車を好きなのは、首相が急増した電車への飛び込み自殺を諌めるためにしたスピーチを聞いたからなんだ。『電車に乗る人には果たすべき約束や予定があって、ほんの少し先の未来へいくために乗るのです。終わらせるために乗ってるんじゃない。その方たちの邪魔をしてはいけない』」
ほんの少し先の未来へ行くために、槇は電車に乗りたいんだろうか。うんと未来じゃない、ほんの少しだけ先に。
「ここには、病気を治したいって患者と、それを支えたいって医療スタッフがいる」
みんながみんな、諦めているわけじゃない。槇も、廊下で待っていた親子も。
「まだ、終わってなんかいないよ」
そして槇はいつもの笑顔でぼくをバス停まで見送ってくれた。
バスは駅前のロータリーに止まって、そこからは自転車で家に帰る。
四時をまわって、山の端に太陽が近づいている。そのうちに西の空が茜色に染まり、東から星をまとった藍色のベールが引かれて来るだろう。
自転車をこぐ気になれず、のろのろと引いて歩いた。足元に長い影が伸びていく。ヒグラシの声に虫の音がかすかに混じる。
川にかかる橋を渡るとき声をかけられた。
「拓海」
目の前に、同じように自転車を引く森さんがいた。
「ワルい、ワルい。こないだの手紙、まだ渡してなかった」
「森さん……」
急に涙があふれた。槇の前でだって泣かないように我慢できたのに、なぜだか涙が流れて止められなかった。
「……びっくりしたんだよな」
森さんは自転車を止めると、うなだれて泣き続けるぼくの頭に手をのせた。
「ま、まきの、お、おみまいに」
しゃくりあげてばかりで、うまく話せないけど森さんには伝わったみたいだった。
「行って来たか。喜んでいたろう」
橋の欄干につかまって、気持ちを落ち着けようとした。森さんとふたりで流れていく川面を、ただ見ていた。
「いろいろ驚いたろうな。おれは仕事がら、倒れた人を見ることも、救急車を呼ぶこともにも慣れてるけど」
「仕事って、手紙の配達、でしょう」
そうだ、森さんの自転車には無線が積んであった。それに、慌てることなく手順をわきまえていた。あのとき、森さんがいなかったら、槇はたいへんなことになっていたと思う。
「仕事柄、個人のお宅をまわるだろ? 安否確認も任されている。だから、何かあった時にすぐ知らせられるように無線を持ってるんだ」
「そう、なんだ」
気楽に配達をしているだけじゃなかったんだ。
「人が減って、家族や親戚がいない人が多くなってきているから、な。政府の心遣いってやつだ」
もう人が増えることはない。終わる世界に子どもを産む人はよほど勇気のある人たちだろう。
「ずっと一緒に歳をとるんだと思ってた」
森さんはうなずいた。
「でも、たぶん槇はぼくよりも先に……」
思っていたことを言葉にすると、止まった涙がまたあふれてきた。森さんがぼくの背中をそっと叩いた。黄金色の川瀬にぼくら二人の影がうつる。
命の長さは、一人一人違う。そんな単純なことに気づかないでいた。四十八年後のことばかり考えていた。
「ひどいこと槇に言ったんだ。『はやく終わればいい』なんて」
それはほんの軽口だった。でも、口にするべきことじゃなかった。冗談でも。
「つぐなう機会はあるさ。槇くんのそばにいてあげな」
うん、うんとぼくはうなずいた。
「同じ船に乗り合わせたはずなのに、先に下りる奴もいる。……『わたしたちは黄昏をゆく葦の小舟で肩をよせ合い……』か」
最後は歌うように森さんは話した。ぼくが変な顔をしたからだろう。森さんは教えてくれた。
「拓海は知らないか。十年くらい前に流行った歌だよ」
終わりゆく地球の命運によせる歌が当時流行ったのだという。
「降りるのは、みんなとサヨナラするときだ」
森さんは眉を寄せて、笑って見せた。それから鞄から手紙を出した。
「ほら、いつものお待ちかねの」
鼻をすすりあげて手紙を受け取ると、構わずそのまま封を切って中を確かめた。写真が一枚入っていた。
「これ、えんじゅさん?」
前回の写真を森さんも見ている。だから今度の写真の人物が同じ人のようには見えなかったから、ふたりで首を傾げた。
ぴんぴんに跳ねた短い髪に低めの鼻のまわりに散らばるそばかす。活発そうにみえるノースリーブのシャツにショートパンツ。でも、足には装具をはめているし、杖を手にまっすぐな眉毛のした大きな瞳が緊張気味にこちらを見ている。
美人というより、愛嬌のある顔だ。
短い手紙が入っていた。
いつか、会えたなら。
着飾っていない、お化粧していない、ほんとうの「えんじゅさん」。
「やっぱり、かわいいな」
思わずうなずくと、森さんはぼくに笑いかけた。
「槇くんの力になりたいんだったら医専に行けよ。お父さんお母さんのことはおれに任せろ」
森さんは胸をひとつ叩いた。だって、と言いかけたぼくを遮るように森さんは首を横に振った。
「ほかの人には絶対に秘密だぞ」
そう言うと、ぼくのそばへぐっと顔を寄せてささやいた。
「おれ、アンドロイドなんだ。だから病気の心配はないし歳もとらない」
「え? アンドロイド、って」
「彗星破壊に失敗した宇宙開発技術力の結晶」
ぼくはニヤリと笑う森さんをまじまじとみた。大きな街にはいるらしいけど、こんな田舎にいるはずは。
夕日をあびてオレンジ色に染まる顔はどこにも不自然に感じられるものはなかった。
「信じてないな? 拓海が引っ越してきたのは何年前だ? かれこれ十年以上前から拓海の家に配達しているだろ」
森さんの眼は底光りしているように見えた。そういえば、森さんっていくつなんだろうか。二十代か三十代? なんだかよく分からない。背中がすうっと冷えていたのは、秋を感じる風のせいじゃなさそうだ。
「なんてね。拓海は騙されやすな」
森さんは歯を見せて、いたずらっ子のように笑った。
「さて、そろそろ帰るか。おれには世界の終わりを見届ける役目があるからな」
森さんはおどけるように、手をヒラヒラさせて自転車にまたがると、じゃあなと言って去っていった。
小さくなっていく森さんを見送ってぼくも自転車に乗った。
ぼくには、何が出来るだろう。
槇は、「生きる」といった。
えんじゅさんは、「いつか」と書いた。
ふたりとも前に進む。
なんて……勇気があるんだろう。
いつも、いつも何もできない自分がもどかしかった。何もできないまま時間に押し流されて、星が落ちてくる日に怯えていた。
だけど。
できることは、ある。きっと。
サドルから立ち上がって力強くペダルを踏む。自転車のライトの不安定な光りが行く先を照らした。
灯りがともる家に着くと、縁側からミケの声がした。
おじいちゃんが期待していた未来から逆走するみたいな不便な今は、できそこないの世界としか思えなかったんだろう。
でも、ここにはぼくの大切な人たちがいる。大切にしたい想いがある。
だから、できそこないだとしても愛しいんだ。
自転車を片付けると、足もとでミケがいつものようにぼくを見あげた。抱きあげた柔らかなミケからはお日さまのにおいがした。
手つかずの未来が、まだぼくにあるのなら。
ふるえる足でも一歩まえに踏み出そう。
「ただいま!」
赤いドアの向こうで、父さんと母さんの笑い声がした。
fin
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