3.異世界ファンタジー①
まずは異世界を舞台にしたものについてはなしていこう。
一番初めに手に取ったファンタジーは、言わずと知れた名作、C.Sルイス「ナルニア国ものがたり」シリーズだ。箪笥の中を進むと見知らぬ世界が現れ、少女は一人のフォーンと出会う――何気ない日常から偶然迷い込んだ異世界に思いをはせ、祖父の家にあったウォークインクローゼットの中に何度かもぐりこんでみたのは、いい思い出である。全7作あるシリーズだが、特に好きなのは「馬と少年」という作品だ。この中で唯一
続いては、これまたファンタジーの古典。ミヒャエル・エンデ「はてしない物語」だ。この本は装丁が素晴らしく、作中に出てきた本がそのまま復元されている。なめらかな
こうやってどっぷり異世界ファンタジーの世界にはまっていった私は、むさぼるようにいろいろなものを読んだ。ラルフ・イーザウ「ネシャン・サーガ」シリーズ、J・R・R・トールキン「ホビットの冒険」「指輪物語」、ル・グウィン「ゲド戦記」シリーズなど。ほかにも覚えていないが、とにかくファンタジーとつくものは片っ端から市立図書館へかりに行き、読んだように思う。
もっとも、「指輪物語」と「ゲド戦記」は小学生の私には少し難しすぎ、途中で挫折した。最後まで読めたのは、高校生になってからだった。
しかし、よくよくストーリーを見てみると、なんと半分ほどが異世界トリップものである。Web小説は異世界トリップものがはやりだなあ……などと思っていたが、案外昔からある手法のようだ。
これを言うと、Web小説を書く作者さんの多くを敵に回してしまうかもしれない。だが、あえてここで言おう。私は最近はやりの「ゲーム」を基調とした「異世界トリップもの」が大の苦手だ。その理由は今まで漠然としたものでしかなく、よくわからないまま嫌っていた。今ここにきてようやく理由がわかった気がしたので、書いていってみようと思う。
現代の「異世界」とは、主に「ゲーム」に代表される世界である。よくある図式は魔王と女神に召喚された勇者であったり……あれ? おかしいぞ。ここで本当は〇〇だったり、××だったり……と続けたかったのだが、なんと全然思いつかない。
必死で絞り出してみて、ようやくもう少し見つかった。ギルドからクエストを受け、ダンジョンにパーティで潜る冒険者。ステータスがチートすぎる主人公が次々に敵をなぎ倒していく話。武器やモンスターはガチャから出てきて、魔法はMPもしくはマナを消費。あとハーレム。それから異世界の皮をかぶった学園もの。
カクヨムのファンタジーランキング100を見てみて、上にあげたゲーム用語が入っている作品を探してみると、80弱だった。思ったより少ないな……というのは、完全に私の偏見である。
ちなみにWeb小説とは10年以上の付き合いであるが、昔はここまでゲームファンタジーが多くなかったように思う。実は一度Web小説の世界を離れ、数年前に戻ってきたのだが、世界が違いすぎて浦島太郎になった気分だった。剣と魔法と英雄の世界を舞台にしたものは多かったが、ここまで「共通用語」にあふれた世界ではなかった。
ここまで書くとものすごく私がゲーム嫌いの人間のように思われるかもしれない。が、私はゲームが大好きである。ポケモンとファイナルファンタジーから始まり、テイルズシリーズにはまり、いまだにファイアーエムブレムシリーズをプレイしている。ゲームの世界へ行ってみたいと思ったことも、一度や二度ではない。
そんな人間がゲームを舞台にした「異世界」を認められないのはどうしてか、考えてみた。ここで、エッセイの冒頭に述べた「何のために本を読むか?」というところへとつながる。
私は本を通して「未知の世界」を知り、そこに生きる人々や生物の息遣いを感じたいのだ。魔王は悪、勇者は善というような、ただ役割を演じるだけの世界を見たいわけではない。村人A、B、Cにもすべて人生は存在するし、魔王にも魔王なりの正義がある。
予定調和の、ただ敵をなぎ倒していくだけの物語ではなく、その世界に生きる人々の思考をなぞり、時間を共有したい。そういう思いがあるからこそ、きっと「ゲーム」を根底とした異世界に違和感を抱き、忌避してしまうのだろう。
もちろん、私は何かを下敷きにして物語を作ることを否定してはいない。
先ほどあげた「ナルニア国ものがたり」と「ネシャン・サーガ」も、作者自身が熱心なキリスト教信者であった。そのためキリスト教の観念が色濃く織り込まれ、世界が形作られている。今と昔と、下敷きにするものが違うだけだ。
最終的には、「ファンタジー」とは何たるや、という認識の違いになる。私の思うファンタジーはゲームの世界とは違うところにあり、今まで読んできた本の作者たちが作り上げた世界を理想としている。それだって、実際は宗教や神話を下敷きにしたものにすぎない。
結局のところ、共通認識だと思っている部分のずれ、それが違和感の正体なのだろう。平安時代の人間が話す言葉も、現代の人が話す言葉も同じ「日本語」だが、ふたつの「日本語」には大きなずれがある。そのずれを修正しないまま「こっちの日本語が正しい!!」といわれるだけじゃ、当然相手は気分悪いよね。だから私はゲームファンタジーは否定しない。みんな違ってみんないい、が私のポリシーだ。
あとはまあ、牛丼が売りの店にA5ランクのステーキを求めても仕方ないよね、という話もある。霜降りで肉汁たっぷりなステーキが好きな人もいれば、お手軽な牛丼が好きな人、しゃぶしゃぶでさっといただきたい人もいるだろう。
日によっても気分は変わるだろうし、得意
つい熱く語ってしまい長くなってきたので、最後に私が大好きなシリーズに触れ、異世界ファンタジー出会い編は終わりにしようと思う。
今まで上げてきたのはどれも外国人作家ばかりだが、次の二人は私が尊敬してやまない日本人の作家さんの作品だ。それは、上橋菜穂子「守り人」シリーズと、小野不由美「十二国記」シリーズである。(この2作については次話で詳しく話す)
どちらも細部まで世界観が作りこまれており、物語のそこかしこに必死で生きる人々の息遣いであふれている。必ずしもハッピーエンドは約束されておらず、予定調和は一切ない。誰かのハッピーエンドは、ほかの誰かのバッドエンドにつながるかもしれない――私が好きなのは、そんな物語なのである。
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