第13話 無地のキャンバス
相変わらず、放課後の美術室を占領している。
立ち姿の未織をキャンバスに描いて、少しだけ練習の成果があるように感じた。
ここ一週間付き合ってくれた美術部員たちには感謝しなくちゃ。
「未織。ちょっと休憩しようか」
「さっきも、したよ?」
「うん、でも、こまめにね。疲れちゃうから」
「そっか」
「俺も、今、美術部でポーズモデルとかやるからさ。
あ、みんなで交代でやってるんだけど。
そしたら、身動き取らないのが辛いって分かって」
「彼方も、モデルやるんだね」
「うん」
「今まで、未織にすごいキツいことさせたかもって、ちょっと反省した」
「ううん、そんなこと。わたしは、全然、平気だよ」
「そうかなあ?」
「うん。平気だよ。わたし、疲れたりしてない。だから、早く、続けよう?」
「……未織?」
なんで、そんなに必死になるんだろう。
その言葉が、どういう意味か、分かってるのか。
「俺のこと、嫌い? 好きじゃないから、早く別れたい?」
「違う……」
目を見てくれない。
本当のことを言ってるのか、不安になる。
「だって、早くって、そういうことじゃん。
早く描けばそれだけ、別れが近づくのに」
「ごめんね、かなた」
「そういう約束だって、俺も納得したよ。でも、分からない。
嫌いじゃないなら、俺が好きなら、なんで、別れを前提にするんだ?」
未織は立ち尽くしたまま口を閉ざしている。
ああ、あんな困った顔をさせたくないのにな。
でも、胸の中でずっと、言葉が渦巻いている。
なんで、どうして、と問い詰めたい欲求を、いつだって抑え込んで来ていた。
弾みがついて出てきてしまったこれを、俺はもう抑えられない。
「俺、未織のこと好きだよ。未織も、同じ気持ちだって信じてる。
そしたら、何も、別れる必要なんかないのに」
「かなた、好きだよ。これは本当。でも、ごめんね。約束を、譲れないの」
「……分かった」
……分からない。
分かるわけない。
頭が重たくて、熱くて、
いろんな言葉や疑問がとぐろを巻いて脳みそを締め付ける。
「でもこの絵は没にする。もう一度、描き直すよ」
「うん……」
胸の中がグツグツしてる。
納得いかないことを、納得しようとしている。
何も進展していない。未織は約束を翻さない。
二人の先には別れがある。
それは変わらない。
好きだから、恋人になれて、嬉しかったのに。
どうしたら未織の気持ちが変わるんだろう。
新しいキャンバスが、真っ白で目に痛い。俺の頭も、真っ白になる。
「未織。服、脱いで」
「え……」
「今まで着衣だったけどさ。一度、ヌードで描いてみようか」
「……うん」
美術室は、まだ暖房が入っていない。
それでも未織は、服を脱いだ。
カーディガンを椅子にかける。
襟からリボンを解いて、ボタンを外していく。
季節はずれのキャミソール姿で、上履きと靴下を脱ぐ。裸足で、床を踏む。
椅子の上に衣類が重なっていく。
水色のキャミソールも。学校指定のスパッツも。
それから、控えめな大きさのブラと、揃いの下着。
「これで、いい?」
目に痛いほど、肌が白い。
それこそ無地のキャンバスみたいに。
初めて見る未織の裸に、腹の底が熱くなる。
子供っぽく見える顔と、大人びた体つきが、ちぐはぐな印象で妙に艶かしい。
「きれいだね」
「……」
「じゃあ、始めるよ」
「……かなた。寒いよ」
「暖房、今つける」
「うん……。ありがとう」
抵抗しない。
頼めば、どんなえっちなポーズだって取ってくれそうだ。
試してみようかな。なんて。
「後ろ、向いて」
未織が、体を反転させる。
小さなまるいお尻がこっちを向く。
背中の曲線も、すごくきれいだ。
「それで、ちょっと体を傾けて。顔は、横向き。
……そう。そんな感じ。髪を、前へ垂らしておいて」
どこかで見たグラビアのポーズを思い出して、ひとつひとつ指示をする。
「あ、もうちょっと肩上げて。……いいよ」
指示したとおりの格好を崩さない。相変わらず未織は優秀なモデルだ。
柔らかい鉛筆で、キャンバスに下書きをする。
服のしわを描くのとは全然違う。
人体の柔らかなラインを写し取る。緩やかな曲線が難しい。
……なんでだろう。
好きな人が、目の前で裸でいるのに、いやに冷静に絵を描いている。
もしかして、俺ってちょっとおかしいのかな。
今、おかしくなってるのかも。
だって、変だ、この状況……。
「……未織?」
未織が泣いてる。
歯を食いしばって、それでも、指示したポーズのまま、立っている。
途端に胸がぎゅっと締め付けられて、呼吸が詰まって咽そうになった。
何てひどいことしたんだろう。
「ごめん、もういいよ。もうやめるよ。ごめん」
罪悪感と焦りが、後悔が、俺を絞め殺そうと背中にへばりつく。
「未織、ごめん。俺、最低なことした。服、着て。
裸になんてさせて、ごめん。なんか、俺、変になってた」
慌てて彼女の肩へカーディガンをかける。
未織は床にへたりこんで、へたくそに涙を拭った。
「ううん、ごめんね、わたしのほうこそ……。かなたに、酷いことしてる」
酷いことしたのは俺のほうだ。
手のひらで顔を覆う未織に、なにも言えない。
彼女の背中が震えている。寒いから、だけじゃないんだ、きっと。
「未織、これ、服。着替え、手伝う」
下心とか、やましい気持ちなんか、沸かない。
ただ、後悔が止まない。恥ずかしくてしょうがない。
なんてことしたんだろう。
なんで、好きな人を傷つけてるんだろう。
「ごめんね、かなた。好きだよ。でも、ごめんね。
絵、描いてくれる? わたし、裸になってもいいよ。
それだって、生きてる証だから」
しゃくりあげ嗚咽する合間の、途切れ途切れの言葉だった。
痛ましくて、悲しくて、ただ頷くしかできない。
「描くよ、未織。約束だから。描かせてよ」
「うん。でも、描き直すのは、今度で最後。ね、きりがなくなっちゃうから……」
「……うん。わかった」
コマを進めてしまったんだ、俺。
もう後戻りできない。
進むことしかできない。
その先に待っているのが、別れでも。
そうじゃなきゃ、今が最低の別れになる。
「ごめんね、未織」
「ううん。ありがとう、かなた」
顔を上げて、未織は微笑む。
頬はまだ涙で濡れて、髪の毛が少しひっついている。
どうして未織は笑えるんだろう。酷いことされたのに。
どうしてお礼が言えるんだろう。感謝しなくちゃいけないのは、俺なのに。
許してくれて、ありがとう、って。そう言わなくちゃいけないのに。
でも、喉が詰まったみたいで、言葉が出ない。
「帰る準備する」
ようやくそれだけ言うと、喉が酷く痛んだ。
「うん」
「風邪、ひかせちゃったら、ごめん」
「じゃあ、かなたにうつして、治す」
「いいよ、引き受ける」
「そしたら看病してあげる」
「うん」
着替えを終えて、片付けを手伝ってもらう。
絵の具を箱に詰めて、キャンバスを準備室にしまう。
無言のまま……
でも、教室を出るとき、自然と手を繋いでいた。
またそうできたことに、俺は心の底から安堵した。
*
「すっかり、本腰の入った冬空だ」
「うん。星、きれい」
手を、繋いでいる。
まだ、手を繋いでくれている。よかった。
「俺のこと、嫌いにならないの?」
「うん。好きだよ」
「なんか、すごい、男として最低なこと、したけど」
「でも、わたしが怒れることじゃないから」
「そう、なの?」
「うん……。お互い様だと、思う」
「そっか……」
「恥ずかしかった、けどね」
未織が苦笑する。
一時間も経たないのに、もう過去の失敗みたいに笑ってくれる。
だから俺も、未織のその強さに甘えた。
「すごく、綺麗だったなぁ。また見たい」
「もう。今度は、怒るよ」
「わかった、ごめんって。でも、本当。綺麗だった。可愛かった」
「うぅ……」
「あ痛っ。つねるなよなー」
「うぅうー」
よろけながら歩いていく。
不器用だけど、これが二人の歩き方なのかもしれない。
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