第12話 スランプ
「スランプ?」
「そう」
「抜け方?」
「そう」
「……スランプ?」
「だから、そう言ってるだろ」
テスト期間が明けて、部活が解禁になった初日。
伊藤に打ち明け話をしたことを、俺は即座に後悔した。
「あたしはなぁ。スランプって、なったことないからなぁ。笹野、わかる?」
「え、えぇっ?」
「いきなり振るなよ。でも、この際笹野でもいい。
スランプってどうやって抜け出るんだ?」
「え、部長、スランプなんですか?」
「って言うのか分からないんだけどさ、なんか、今までみたいに描けないんだ」
「スランプ、いつからなんですか?」
「まあ、ここ、一週間くらい。紙に向って、描きたいもの思い浮かべても、だめ。
もう全然、手が言うこと聞かないって言うか。
思うように動かないんだ。ちぐはぐな感じでさ」
真面目な聞き取りを笹野へ一任したつもりか、伊藤は学外で買ってきたカフェチェーン店のカップを正面に置いて、それをダラダラとスケッチしては、ロゴマークを魔改造して遊んでいる。
「でも、それってさ。成長痛みたいなもんじゃないの?」
描きながら、話半分には聞いていたらしい。
伊藤の言葉がもっともらしく聞こえる。
「そうなんですか? へぇ」
「いや、わかんないけど。だから、あたしはなったことないんだって」
「説得力感じて損しました。クロッキーに戻ります」
笹野が呆れて背を向けた。
伊藤のせいで相談先を一つ失ってしまったではないか。
「結局、誰もわからないのか」
ここはほんとに美術部の活動場所なのか。
まあ、あまりアテにはしてなかったけど。
どうせ個人の問題だ。
「良いじゃん、描きたいとき描けば。描けないときは、描かなければ。
プロみたいに、描くことに追われてるわけじゃないでしょ?」
伊藤の言葉にぎくりとした。
確かに言うとおりだ。
何かに追われて絵を描くなんて、初めての経験だった。
「未織をスケッチしたら?
気が晴れるよ、きっと。じっくり見る大義名分にもなるし」
「それは……」
「うはは。照れちゃうか?」
未織の絵を描いていることは、伊藤にも打ち明けていない。
描きあがるまでは、誰にも言わないつもりだ。
「あ、じゃあ、その前に伊藤がモデルになれよ」
「えっ。あたし?」
「今できて丁度良いじゃん。美術部なんだから、生モデルでやらなきゃ。
人物デッサンなんて部活でしてないだろ」
思いつきだが、それは非常に良いアイディアに思える。
「予定変更。今日はモデル交代しながら人物描こう」
「それって部長の職権乱用じゃん!」
「誰にも迷惑かけてないと思うけど。みんなも人物描く力、つけたいだろ?」
「確かに、良い機会かも」
笹野が賛同を示すと、他の一年生も控え目に頷いた。
「いや、だめっ、あたし、ダメなんだって。
三十秒以上じっとしてられないんだってっ!
あとっ、静かになると笑っちゃうし。
あ、あとほら、見られると身体かゆくなっちゃう!」
「大丈夫、交代で全員モデルになる。嫌なことは最初に終わらせたほうが良いだろ」
「いやだー、はなせー、弁護士をよべー」
教室の中央に空間を作って、伊藤を座らせる。
考えてみれば、未織以外の人物デッサンははじめてか。
未織のことで人物は結構描き慣れたと思ってたけど、モデルが変わると勝手が全然違う。
未織には未織の、伊藤には伊藤の特徴がある。
なんて、当たり前だけど、いま実感できた。
「伊藤、表情筋がじっとしてない」
「不随意筋だよ、勘弁してよ」
「嘘をつけ」
「う~。ねえねえ、十五分って長くない? てか、ちゃんと時計で計ってる?
もう、絶対十五分経ったと思うんだけど」
「残念、まだ六分だ」
「半分も……」
「首を落とすな。背筋伸ばして。おい、さっきとポーズ違うぞ」
「鬼コーチだよ、あんた……」
「まさか本当に三十秒しかもたないとはな」
*
四回目のモデル変更で、俺にモデルの番が回ってきた。
「あれれー、香村部長? さっきと首の角度違いませんかぁ?」
「くそ、お前。根に持つ奴だな」
「ポーズ作ったときと表情がちがいますけどー」
「こんなに粘っこいやつだったとは」
そういえば、ポーズモデルをするのも初めてだ。
ただ動かないでいるだけのことがこんなに難しいとは。
未織はすごい。
こんなことを、あんなに長時間続けられるんだ。
今まで、一時間とか、平気で続けさせていた。
俺、あんまり、未織のこと考えてなかったんだな。
それに、未織も真剣だったんだ。
今、やっと分かった、かも。
「あ、十五分経ちましたよ」
「ちぇっ」
伊藤が露骨に悔しそうだ。伊藤め。
「もう、今日は時間ないですね。終わりですか?」
「うん。そうしよう。みんな、急に言ったのに付き合ってくれてありがとう。
もしよかったら、今月は人物中心にやらない?」
「いいですよー、面白かったし」
「人物、あんまり描く機会なかったし。
松尾先生、植物とかばっかりじゃないですか」
「人物は描きたいけどさぁ。もう、モデルは嫌だぁ」
「よかった。ありがとう」
これで、何かつかめそうだ。
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